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第十三話 竜殺し、人殺し

 その頃、見えないものを見る力を持つ人間は今ほどには少なくなかった。

 だから彼も、彼の主も、それを目にすることができた。

 それはまさしく船のように巨大な存在だった。

 角の生えた蜥蜴のような、固い鱗を持つ蛇のような異形の姿。

 船を漕ぎ進める櫂のように連なる幾枚もの翼は、少し蝙蝠に似ている。

 空の青の中でその翼がゆっくりと羽ばたく度、奇妙に心を揺らす音が鳴った。

 風の強い日に湖面がさざめく時の音だと、彼は思った。水が流れ、飛沫を上げ、さざなみとなって打ち寄せる音だと。

 長くうねる胴や尾は、均整のとれた体躯とは言い難い。けれどもその存在は、確かに美しかった。

 ただ美しく、空に舞っていた。

 迎えが来たわ、と姉が言う。とうとう海のかなたへ行く時が来たのだと。

 ──さようなら、ギイ。さようなら、ヴィル。どうかあの子をお願いね……。

 そうして姉は地上を去り、美しき竜の船に乗り込む。姉を背に迎えた竜は、その翼を優雅に羽ばたかせて西の空へと頭を向けた。

 待ってくれ、と彼の主が伸ばした手も届かない。

 これが定めなのだと、彼は肩を落としながらも顔を上げて姉を見送る。

 竜の船が去っていく。ざあ……と鳴る音が遠ざかっていく。

 大陸の西の果てには海があり、海のかなたには死者の国があるという。ならば、この音はきっと、そこで鳴り響く波の音なのだろう。

 生きた身には遙か遠い、海のかなたの波の音なのだろう──。

 


 ──目覚めた時、志穂は今自分がどこに立っているのか一瞬分からなかった。

 必要もない瞬きを数度し、きょろきょろと辺りを見回し、寝台や机や椅子のある小さなその部屋がどこであるかをようやく思い出す。

 しかし、部屋に黒髪の青年の姿は見当たらない。小窓から差し込む陽の光の明るさを見ると、もうリステスの元に呼ばれている時刻なのだろう。随分寝坊をしてしまったようだ。

 軽く目を瞑り、壁をすり抜けて部屋の外に出ながら、志穂は目覚める前に確かに見ていたものが何だったか思い出そうとした。

 死霊が真っ当に夢を見ることはないという。なら、自分は何を見ていたのか。

 とても美しいものを見ていた気もするし、悲しい別れを目の当たりにしていたような気もする。

 あるいはまた誰かの記憶を垣間見たのかもしれない。

 だがどうしても、何を見ていたのかはっきりとは思い出せなかった。

 内心首を捻りながら進む通路の隅には、相変わらず影がうごめいている。それらを見ないように視線を逸らした先、角のところに見覚えのある後ろ姿がちらりと見えた。剣や兜や盾で武装したその姿は見間違えようがない。だが、彼は声をかける間もなく角の向こうに消えてしまった。 

 リステスの部屋へ行くと、机の前に座って本を眺めている金髪の王子と、その傍に控えるラダを見つけることができた。黒髪の青年は薄汚れた旅装束や作業服ではなく、城の従者のお仕着せを着ている。仕立ては良さそうだが、あまり似合っていない。

 まったくの無表情で立っている彼に対し、リステスはこんなことを訊ねていた。 

「君は聖ユオルの伝承について、どれだけのことを知ってる?」

 その問いに対し、ラダはほんのわずかに眉を動かしたようだった。

「教会の司祭の説教や、旅の詩人が歌う程度の話なら」

「どんな内容?」

「……金の髪の若き英雄が、青き瞳の姫と恋に落ちた。だが邪悪なる竜によって二人は引き裂かれた。攫われた姫を取り戻すため、英雄は試練に耐えてついに神に力を授かり、竜を討ち滅ぼした。かくして二人は再会し、英雄は王となって、アーフェルの礎を築いた……と」 

 ラダは情感に欠けた口調で淡々と語った。

「ふうん。まあ、そんな感じだよね」

 それを聞く方も極めて無感動な様子で頬杖をつき、もう片方の手で机の上に広げた本の頁をぱらぱらとめくっている。その革張りの装丁の豪華さは、ブレニー子爵の屋敷の書斎にあった、財産の一つに数えられるほど貴重だという書物と比べても遜色がない。

 壁をすり抜けて出たところがちょうど死角だったので、二人はまだ志穂が部屋に入ってきたことに気付いていないようだ。志穂はしばらくそのまま二人の話に耳を傾けることにした。

「それが僕のご先祖様、建国の英雄、初代国王ギイ・ユオルとその妃リラなんだってさ。知ってるよね?」

「はい」

 無造作にめくられるやや黄みがかった頁の表面には、鮮やかな彩色を施した挿絵が頻繁に登場するようだ。角の生えた怪物や、馬に乗った若い騎士たち、美しい姫に精悍な戦士、そんな挿絵がどのような物語のために描かれたものなのかは志穂でも分かる。

「じゃあこれも知ってる? 聖ユオルが今の王都リラの地で竜を討ち滅ぼすより前に、彼は一度、竜に挑んで失敗したことがあるって」

「……神の試練に挑む直前の下りですか。五百人の戦士と共に挑んでも歯が立たず、姫の兄弟も為す術なく命を落とす激戦の末、かろうじて生き延びた王は人の無力を痛感したという」

「そうそう。その時、人が竜に与えられた痛手はほんのわずか、王が手にしたのは姫ではなく竜の鱗が一枚分だけだった。彼が列聖された後、その鱗も聖遺物とされるようになって、色んな教会を転々とした末に、この礼拝堂の地下に保管されることになった……」

 金の髪と青い瞳の少年は、そこでふと本を閉じてラダを見上げた。

「どうしてここなんだと思う?」

「……聖ユオル騎士団の拠点だからでは?」

「それもあるけどね。一番の理由は、ここが聖ユオルと竜の一度目の戦いの舞台だったからだよ」

 ラダは、少なくとも驚いた顔はしなかった。貼り付けたような無表情のまま、けれどもしっかりとリステスの話に耳を澄ましているように見える。竜を探す彼にとって、竜退治の英雄の末裔とされる王子の話は興味深いものなのかもしれない。

「何故か世間じゃ、聖ユオルに仕えた騎士の居城だったところで、彼の名を冠した城だってことは言われても、一度目の戦いの舞台だったことはほとんど語られないけどね」

 明朗な声で話しながら、リステスもまた青年の反応を観察するように目を細めた。

「よっぽど格好悪い戦いだったのかな? どう思う?」

「……古の真実は、その時代に生きた人々の記憶の中にのみ存在すると思います」

 ラダは回りくどい言い方でリステスの質問をかわした。

(その時代に生きた人々……) 

 竜を見たことがある、と言っていた男性のことをふと思い出す。

 彼はアーフェルの建国期に生きた人物だという。なら、彼が見た竜とは、その聖ユオルが戦った竜なのだろうか。あるいは、聖ユオルと竜との一度目の戦いとやらに参加した一人なのかもしれない。その戦いの最中で彼が命を落としたのなら、彼が死んだ後にも一度竜を見た、という言葉にも矛盾しない。

「あはは、そうだね。でも──」 

 その時、部屋の外から入室の許可を求める声が聞こえた。

 リステスが言いかけていた言葉を打ち切ってそれに応じると、侍従の男が入ってきた。彼は一瞬ちらりとラダに視線を向けてから、恭しい態度で王子に近付き、小声で何事か伝えた。

 最初のうちは穏やかに話を聞いていたリステスは、やがて不思議そうに眉をひそめた。

「王都から? 珍しいね」

「は。使者のグレアム卿は明後日にもご到着の予定だとのことで」

「じゃ、適当に出迎えの用意をしておいて」

 至極どうでもよさそうに言うと、彼は話題を変えた。

「それよりダグラスの部隊はいつ帰ってくるんだっけ?」

 聞いたことのない名前だが、先日盗賊退治を命じられていた傷跡だらけの顔の男のことかもしれない。

「……本日の昼過ぎ、遅くとも夕刻には帰還するそうです」

「ああ、そうだった。報告によれば任務は大成功だったらしいし、ちゃんと出迎えてあげないとね」

 にこにこと笑う王子を前に、侍従の男は無言で一礼した。


 

 結局、志穂はラダたちに気付かれないうちにそっと部屋を去った。もし霊の見えない第三者がいる前でいつものようにリステスに話しかけられたら、下手をするとラダにまで気まずい思いをさせる可能性がある。

 部屋から移動する途中、やはりあの侍女の姿を見ることはなかった。毎日志穂の様子を見に来ていた時が嘘のように、彼女は行方をくらましてしまっている。

 あれから見かけないのはバーサだけではなく、ロイも同じだった。

 こちらは、志穂をリステスを殺す手駒としては使えないと見切ったのかもしれない。彼のよくいた中庭を通りかかっても、赤茶けた髪の青年は姿を現さなかったし、話しかけてもこなかった。

 だからこの城で志穂と話せる死霊は、もうあの騎士だけだ。

 まだ名前も聞いていない騎士の死霊は、どうやら志穂と違って、この城内ならどこでも出没できるらしい。だがあの礼拝堂は彼の好みの場所らしく、通りがかりに中を覗き込むと、半々くらいの確率で壁画を見上げる騎士の姿を発見することができた。

 倒れ伏す竜、ひれ伏す民衆たち、そして見つめ合う若い男女。入り口から差し込む光に照らされたその絵の表面をよく見れば、大分薄汚れている上、ところどころ塗料が掠れたり剥げたりしている。それでも騎士は飽きることなく壁画を見つけ続けているようだった。まるで、過ぎ去った時代を追憶するように。

 ぼんやりと壁画を見上げていた騎士は、近寄ってくる少女に気付いた途端、表情を引き締めた。

「また来たのか、娘。地下には行かぬ方が良いぞ」

「祭壇には近付きません。……貰った鍵が本物かどうか、地下室の入り口の鉄格子だけでも開けて確かめた方がいいかもしれないと思ったんですけど、それでも駄目ですか?」

 ふと思いついてそう訊ねると、騎士はしばらく考える素振りを見せた。そして、

「見た方が早かろうな」

 と呟くと、踵を返して奥の祭壇の方へ向かい、その陰にある隠し扉のところで志穂を促すように見た。一緒に地下室に行ってくれるということだろう。騎士の示した親切に感謝して、志穂は彼の後についていった。

 地下室へ続く隠し階段に足を踏み入れた途端、志穂は違和感を覚えた。

 明かりのない、暗く狭い石段が地下へと続いている。それはいい。死霊が階段から足を踏み外しても問題はないし、その気になって目をこらせば明かりのない夜の闇に沈むものをはっきりと捉えることもできるのだと、志穂は薄々気付いている。

 だが、闇の向こう──階段を下りきったその先にわだかまるものは、きっとただの闇ではない。

 騎士は無言で階段を下りていき、志穂はそのすぐ後に続く。前方の騎士の兜や鎖帷子がいくら動き、金属と金属が触れ合っているように見えても、決して耳障りな音が鳴ることはなかった。

 そうして辿り着いた階段の終点に鉄格子の扉がある。

 騎士はその手前で立ち止まり、志穂に道を譲った。

 リステスにもらった鍵が半分錆び付いていたように、扉の鍵穴も錆色がかっていた。だが、そこへ差し込んだ鍵は何の問題もなく回り、軋む音と共に扉が開いた。リステスは嘘をついていなかったようだ。

 地下室は狭い。扉を潜って少し歩けば、すぐに部屋の中央に行き当たるはずだった。円形状の祭壇と、その上に安置された石の箱のあるところに。その中には志穂の依代であり、ラダの母の形見である竜の牙の杖があるはずだ。

 しかしいくら地下室の内部に目をこらしても、祭壇や箱どころか、地下室の三方を囲む石壁すら視認できなかった。夜の闇とは異質な、濃い闇の色をした霧のようなものが地下室いっぱいに漂い、それらを覆い隠していたのだ。

 もはや形すら判別できないほど広がり横たわる霧。

 しかしそれはあの時見た蛇と同じものだと、志穂は直感した。

 だから彼女は、鉄格子の境界の向こうへ一歩を踏み出すことができなかった。

「そなたが今の在りようのままでいたいのならば、それ以上先には進まぬことだ」

 重苦しく言って、騎士は兜を被った頭を動かし、鋭い目つきで地下室の闇を一瞥した。

「……近頃のこの城はおかしい。怨念の影は色濃く、数を増し、至るところででうごめいておる。ましてやその巣穴たるあの祭壇、この地下室に巣くう蛇の瘴気の濃さは、見ての通りだ」

「どうして、こんな……?」

「分からぬ。だが、あの祭壇に……封印された古井戸に収まりきれぬほど、ここに集う怨念が増大していることは確かだ」

 形のない霧のような闇は、時折、息づくように身じろぎをした。城内を彷徨うあの影たちが何かを求めて手を伸ばすように、濃い霧が鉄格子の傍まで不意に押し寄せてくる。

 志穂はぎくりとして後ずさり、鉄格子の傍から身を離した。

「ここも安全とは言えぬ。さあ、分かったら戻るのだ」

 騎士の冷静な声に促され、地下室に背を向ける。

 一度だけちらりと振り返ってみたが、濃い闇の霧は消えずにそこにある。名残惜しさを封じ込め、志穂は来た道を戻りはじめた。

 階段を登りはじめていくらもしないうちに、 

 

 ──同じなくせに。

 

 不意に聞こえた声に驚き、志穂は思わず足を止めた。

 

 ──澄まし顔して、気に入らねえよな。

 

 見回しても騎士以外の人影はない。だが騎士が何か言ったわけでもないようだった。そもそも、嘲笑うようなこの声は騎士の声色とはまるで違う。むしろ──。

「どうした」

 立ち止まってしまった少女を怪訝に思ってか、先を行く騎士がこちらを振り返る。そして、その青い目がはっとしたように見開かれた。

「娘! 離れ──」

 背中から何かが覆い被さってきた──と思った瞬間、少女の意識は断絶した。

 

       *


 灰色のヴィルフォート城では、今日も怨念の影が彷徨っている。

 その曖昧な影たちの色が、以前よりも濃いように見えるのは決して気のせいではなく、ましてやどんよりと曇った今日の天気のせいではないと、青年は気付いている。気付いていながら、彼にはどうすることもできない。

 自分の無力を噛みしめながら、日に日にひどくなる吐き気や目眩を堪えながら、ただこうして金髪の王子の傍に黙って控えていることしかできなかった。

「王宮に?」

 その王子が不思議そうに呟いた声が、客人を迎える広間に響いた。

 彼の視線の先にいるのは、かなり太った中年男だった。ゆったりした絹の服も突き出た腹をごまかせてはいない。無論、それなりの地位を持つ者なら相応に肥え太っていてもおかしなことではないが、彫像のように完璧な容姿を持ち、引き締まった体躯の少年とこうして相対しているところを見ると、男の不格好さが否応なく周囲に強調されてしまう。

 グレアム卿というらしいその貴族の男について、リステスはこう形容していた──曰く、父上の腰巾着で、王宮でのあだ名は豚。少年の声に悪意はなかったが、彼がこの男について微塵の好意も関心も持っていないこともまた確かだった。

「珍しいね。そっちから戻れって言ってくるなんて」

 わざわざ王都から使者としてやってきたこの男の用件とは、王子リステスに対し、騎士団の業務から一時離れて王宮に戻るよう通達する国王の命令を伝えるものだった。

 書状やただの伝令ではなく、王の腰巾着と呼ばれるような貴族の男を使者に立てるあたり、王都の方では確実に王子を呼び戻すべき重大な理由があるらしい。あるいは、このグレアム卿が、使い走りをさせる程度の役にしか立たない男だと見られているのかもしれないが。

「は。これは内密の話なのですが、実は陛下のご容態が芳しくないとのことで」

 男はいかにも沈痛そうな表情を作って肥えた顔に浮かべている。 しかし低められた声の端々には、その内密の話を知り、こうして王子に知らせるという役目まで仰せつかっている自分自身に対する自尊心が滲み出ていた。

「ああ、そうなんだ」

 だが当のリステスは、父の病の知らせをその一言で片付けた。

「分かった。ちょうど王宮へ戻ろうと思ってたところだから」

「では──」

「うん。処刑が終わったらさっそく出立の準備をさせるよ」

 唐突に物騒な言葉が出てきたので、グレアムは困惑したように目を瞬かせた。つぶらな、と表現できなくもない小さな目がきょろりと動く様は、彼の太った体も合わせて、確かに子豚に似ているかもしれなかった。

「この間、部下に盗賊退治をさせてね。一昨日捕虜を連れて帰ってきたんだけど、すぐに全部喋っちゃってもう聞き出すこともないみたいだから、さっさと処刑する予定なんだ」

「は、はあ……それは結構なことで……」

「そうだ、せっかくだから立ち会うといいよ。今日の午後、中庭で執行するから。僕はよく分からないけど、こういうのってみんな好きなんだろう?」

 この辺りではそうでもないが、公開処刑が娯楽の一つに数えられる地域はアーフェル国内でも未だあちこちに見られる。しかし当のグレアムには嬉々として人の死を眺める慣習はなく、かといって王子を前にして断る勇気もないようだ。

「はい、よ、喜んで……」

 と彼は額に脂汗を滲ませながら、引きつった笑みを浮かべた。

 わざとやっているのなら、リステスは相当の強者だ。わざとでなくても、ある意味強者だが。

 王子の傍に黙って控えているだけが仕事のラダに、彼らの話に口を挟むことはできないし、元よりその気も必要もない。

 無表情で突っ立ったまま、ラダは別のことを考えていた。

 盗賊退治に出かけていた騎士団の一隊が帰ってきたのが一昨日のこと。つまり志穂がラダの前に姿を見せなくなってから、今日で三日目になるのだという事実について。 

 一日目、つまり一昨日の朝。

 ラダは志穂よりも早く起き、おそらくはまだ眠っているのであろう彼女を置いて部屋を出た。

 おそらくというのは、死霊が『眠って』いる間、その存在は極めて薄くなり、ラダのような死霊術士の目をもってしても極めて認識しがたくなるからだ。

 しかしその日から、ラダは黒髪の少女の姿を見ていない。 

 とうとう信用をなくして見捨てられたか、という自虐的な考えも過ぎった。しかし彼女が自力で依代の杖を取り戻さない限り、この城から出ることはできないはずだ。なら彼女はどこへ行ったのか。 

 そもそも、時と鼓動を刻む肉体を失って長くこの世に留まる死霊たちは、必ずしも生者と同じ時間の感覚を保ち続けられるわけではない。ラダが以前出会った者の中には、自覚なく何十年と眠り続けていた者もいた。

 志穂は死霊となってまだ日が浅い少女だとはいえ、生者と同じように一日の朝に目覚め、夜に眠る必要性はどこにもないのだから、数日ばかり眠り続けていたとしてもおかしなことではない。そして、一日の終わりの夜に必ずラダの元へ帰ってくる必要性もどこにもないのだ。

 あまり心配せずとも、そのうち、ひょっこりとラダの前に顔を出してくれるかもしれない。

 ──だが、何か不測の事態が彼女の身に起こったという可能性も考えられるのだ。

 それでもラダには周囲の目を盗んで彼女を捜しに行くことは難しく、杖のない今、力を使うことも叶わない。

 グレアムとの会談が終わると、リステスはラダを伴って広間を出た。

 床のあたりにうごめく影を容赦なく踏み潰し、通路を迷いのない足取りで進みながら、彼はふと呟いた。

「バーサがいないと思ったら、シホも最近見なくてつまらないなあ。ねえ、ラダ、君が隠してるんじゃないよね?」

「……いいえ」

 否定の声に少しばかり力が入ったのは、内心の葛藤の表れかもしれなかった。


       *

       

 気付くと、志穂は暗闇の中にいた。

 暗闇、としか言いようがない。目を凝らしても何の光も見えず、足元も覚束ない空間だ。そのくせ少女自身の手足や黒いセーラー服は、暗闇に紛れることなく輪郭まではっきりと見えた。

 何度か瞬きをしたり、きょろきょろと辺りを見回しているうちに、段々記憶が蘇ってきた。礼拝堂の地下に続く階段を登っていた途中、後ろから覆い被さってきた何かに引きずり込まれたのだ。

「娘。気付いたか」

 低い声のした方を振り仰ぐと、兜を被った騎士が立っているのがやはりはっきりと見えた。顎髭をたくわえた口元は厳しげに引き結ばれ、青い目が少女を見下ろしている。

「ここは……」

「怨念の影の中。蛇の体内。……あるいは、実体と霊体、地下と地上の境に生まれた異空間かもしれぬ。少なくとも……彼奴らの領域ではあるだろう」

 曖昧な言葉の意味は理解しがたかったが、志穂は半ばぽかんとして騎士を見上げた。

 怨念の影に近付くな、危険だとはこの騎士が言ったことである。迂闊に近寄れば喰われ、そして奴らの一部と成り果てるだろう、と。それにラダにも強い言葉で警告を受けた。だが、今のところ志穂は五体満足──というのもおかしいが、少なくとも自身に何か異常が起きたようには感じられない。

「でも、私、無事で……」

「牙にかかることなく、一息に呑み込まれたことが幸いしたのだろう」

 怪物に呑まれながら生還した昔話のいくつかが脳裏に浮かんで消える。そういうものなのかと納得しかけて、ぞっとした。つまり一つ間違えれば、牙に引き裂かれて細々にされていたかもしれないのだ。

「しかし、このままここに留まっていれば、いずれは何もかも溶かされるだろうな。そうなる前に、出口を見つけ出した方がよかろう。ここと外とに流れる時間が同一とも限らぬ」

 いつもの突き放したような口調で騎士は言った。今回は彼も呑まれた側であるというのに、他人事のような口ぶりで。志穂は少し眉をひそめたが何も言わなかった。

 とりあえず彼の言葉に従い、志穂は手探りで先へ進もうとした。

 目印もなく方向の判別も付きにくい闇の中、適当な方へ足を向けようとする。

(……あれ) 

 だがその意思に反し、手足はほとんど動こうとしなかった。まるで全身が泥沼に浸かってでもいるかのように強い抵抗があり、のろのろとしか前へ進まないのだ。

「この──」

 あらん限りの力と意思を込めると、前進を妨げる抵抗が少し弱まった。

 それでも水中でもがく時のようなもどかしさは変わらない。必死に前へ足を運んでいると、不意に、その足に何かが当たった感触がした。眉をひそめて視線を落とし、志穂ははっと息を呑んだ。

「……ああ、そうか……」

 志穂の背後で騎士の呟いた言葉が暗闇に響いた。

「ここは、井戸の底なのだな……」 

 何故今の今まで見えなかったのだろう。

 少女の足元には、おびただしい数の白い骨が散らばっていた。

 背骨や腰骨、手足の骨。鎖骨や肋骨、肩胛骨。ありとあらゆる種類の骨の間に、大小様々な頭蓋骨がいくつも転がっていて、この骨の主が獣ではなく紛れもない人間であり、なおかつその数は十人や二十人どころではないことを物語っていた。

 深く色濃い暗闇の中、散らばり積み上げられた白い人骨はまるで海のよう。

 ──土に還ることなく死んだ者たちの海だ。 

「う……」

 それ以上進むこともできずに立ち尽くした志穂の視界がぐらりと揺れた。

 暗闇ではなく白い骨の海でもない光景が、カレンやロイの記憶を読み取った時と同じように眼前に浮かんでは消えていく。

 

 それらもまた、死者の記憶だった。

 一つ一つは短く、断片的な記憶。そのほとんどすべてが、血と悲鳴に彩られた惨劇だった。

 数え切れないほど多くの人間が無惨に殺されていった。誰一人として死を望む者はいなかったのに、誰一人として救いの手を与えられる者はなかった。

 彼らは殺された。

 殺されて、打ち捨てられて、弔われることすらなかったのだ。

 その恨みが彼らを捕らえ、やがて彼ら自身をも溶かしていった。

 長い長い時を経て、彼らは人であった頃の自分をなくした。親も兄弟も恋人も伴侶も子のことも忘れた。思い出などとうの昔に擦り切れて砕けてしまった。彼らを殺したその張本人、憎悪の対象たるべきその人物が誰であったかすら、もう思い出せない。 

 それでも彼らは恨んでいる。憎んでいる。嘆いている。

 ──この世のすべてを、呪っている。

 

「怨念の……」

 視界に浮かんでは消え、ちらついては離れない光景を無理矢理振り払うように、志穂は声を絞り出した。

「影の……蛇の、その元は何なんでしょうか」

 問いかけた先には、空間の抵抗を物ともしない様子で進み来た騎士がいる。騎士という言葉に相応しい精悍な顔で、厳格な表情を浮かべて志穂の傍に佇みながら、白い骨の海を見つめている。 

「昔、この土地で大勢殺されたって、聞きました。……殺された人たちは井戸に投げ込まれて埋められた、って」

「……それは真実だ。この骨が何よりの証」

「じゃあ、どうしてそんなことに……?」

 仮にもここは城だ。何か──志穂には想像も付かない激しい戦いでもあったのだろうか。

 騎士は首を振って否定した。

「ならば彼らはあれほどの恨みを残すことはなかっただろう。戦場に身を置く者は常に死を傍に感じているのだから。彼らはただ殺されたのだ。無為に」

 青い目の奥に、これまで見たことのない光が灯る。

「村人もいれば罪人もいた。だがおよそ死という罰を受けるには程遠い五百人を、王は殺したのだ。──竜を誘き寄せるそのためだけに」

 静かな騎士の声に潜む、かすかな、しかし紛れもない憤り。

 その鮮烈な感情が再び少女の目を眩ませる。


 ──何故です、王よ!

 誰かが叫んでいる。全身全霊をかけて、必死に何かを訴えかけているような声だ。

 ──姉は、彼女はそのような愚行を望んではいない。それが何故、分からぬのですか……!

 ずるずると鎖で引きずられる音。

 鞭の音。

 悲鳴も聞こえる。怨嗟の声だ。

 理不尽に死に行くその身を、恨み呪う声の群れ。

 ──これも殺せ、とまた違う誰かが言った。

 

 はっと気付いたとき、志穂は騎士の腕の中にいた。

 ざらついた帷子の感触に、一瞬よろけたところを騎士の片腕で受け止められたのだと気付く。

 志穂が体勢を整えるのを待って、騎士は声の一つもかけずに少女から離れた。ラダとはまた違う愛想に欠けるその堅苦しい顎髭の顔を、志穂は視線で追いかける。

 今見たものは、もしかして、彼の記憶の一部だったのだろうか。 

「……その……王の名前は?」

 薄々答えの分かっている問いかけを、あえて志穂は口にした。──騎士の記憶の中、冷たい声で命令を下していた男は、まるで輝く月の光のような見事な金髪をしていた。

 青い目の騎士は静かに答えた。

「ギイ・ユオル。……かつて我が剣を捧げし王」

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