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第十一話 うごめく影

 志穂がリステスがいると思われる彼の部屋へ行くと、一体何の用かとばかりに、侍女の死霊バーサがじろりと彼女を見下ろしてきた。

 冷ややかで暖かみの欠片もない視線にたじろぎながらも、志穂はなんとか口を開いた。

「……王子と話がしたいんです」

「殿下と、ですか」

 バーサは怪訝そうに眉をひそめた。志穂は今までリステスに近付くことを避けていたのだから、怪しむのも無理はない。

「先日も言いましたが、殿下のご迷惑になるような真似はなりません。殿下が許しても私は見過ごしませんよ」

「し、しません。話すだけです」

 話し合いが不調に終わった場合は別の選択肢を取ることも考えられるが、志穂としてもあまり乱暴な手段を取るのは気が進まない。

 彼女はしばらくじっと志穂を見つめた後で、小さく息を吐いた。

「……リステス殿下は騎士団の業務について打ち合わせ中です。また後でお出でなさい」

 と、バーサが言ったちょうどそのとき、部屋の扉が開き、中から男が出てきた。

 鎧に身を固めた、年嵩の男だ。おそらくは彼も本来の騎士ではなく、傭兵なのだろう。彼の横顔には無数の傷跡が見えた。

 部屋の中に向かって存外丁寧に礼をしながら去ろうとする男に向かい、 

「あ、そうそう。尋問用に一人だけ生かして、あとはいつも通り皆殺しでいいからね」

 と、部屋の中からリステスが朗らかにそう言った。あの無邪気で美しい笑顔のままで。

「はっ。畏まりました」

 男が短く応え、今度こそ去っていく。

 志穂はしばらく立ち尽くしていたが、やがて意を決して部屋に踏み込み、リステスに近付いた。バーサは引き止めてこなかった。

 リステスの方も志穂に気付き、

「やあ、シホ。会いに来てくれたの?」

 と、椅子に座ったまま嬉しそうに言った。相変わらず見た目だけは綺麗なその顔を見下ろし、

「……また……」

 また、どこかの村を焼き討ちに行くのか。そう問おうとして、それ以上声が出なかった。

 一瞬黙り込んでしまった志穂をどう解釈したのか、リステスは首を振った。

「ああ、大丈夫。僕はここにいるよ。今回はね、ある道の途中に出るっていう盗賊を退治するだけだから。僕がわざわざ出向かなくても、一部隊を派遣すれば十分みたいなんだ」

 今までで一番騎士団長らしい言葉を聞いた気がする。この間リステスを暗殺しようとした男の村のように、大した罪もなさそうな人々が殺されるわけではないらしいと知って、志穂は少し安堵した。

 とはいえ、また騎士団の手によって死ぬ人間が増えるらしいことに代わりはない。

 いくらアーフェルが現代日本とはまったく違う国だとは言っても、裁判所くらいあるだろうし、尋問用に一人だけ生かすことが可能なら、他の盗賊たちをその場で皆殺しにする必要はどこにあるのだろう、とも思う。

 だが、そんなことを言って声高にリステスを非難することの無意味さも分かる。

「……ここの人たちが、本物の騎士じゃない、傭兵だって、本当?」

 代わりに志穂は、ロイに聞いた話を口にした。

「うん、そうだよ。でもみんな、とっても強いから安心して」

 盗賊なんて相手にもならないからね、とリステスは少しずれたことを言う。

「強いのはともかく……それじゃあ騎士団じゃなくて、傭兵隊じゃないの?」

「聖ユオル騎士団は、神と聖者を信じ、王に忠誠を誓い、国を守るために戦わなきゃいけない集団だからね。今、僕の下で働いてくれてる彼らには、その仕事をこなすだけの力があって、きちんと命令にも従ってくれる。騎士の称号は持たなくても、みんな立派な騎士団の一員だよ」

 志穂はリステスをまじまじと見つめた。

 罪もない人々を殺し村を焼き払うような騎士団のどこが立派なのかといった点を度外視すれば、今の少年の言葉は、部下の身分を気にせず実力をきちんと評価して信頼する、極めて真っ当な上司の言葉のようだったからだ。

「……国を守るため……」

「街道を荒らす盗賊を退治したり、不平分子を討伐して反乱の芽を潰したり、結構忙しいんだよ。一度国境にも出動したことがあるけど、その時は何もなかったなあ」

 志穂はリステスという少年のことがますます分からなくなった。幼い少年のように無邪気で、残酷な言葉を平然と吐いたかと思えば、真面目ぶった言葉をこうして口にしたりする。

 考えれば、リステスは二年も騎士団長の座にいるのだ。その間一度も更迭されたりしていないのなら、民に忌み嫌われる騎士団の行動は、少なくともアーフェルという国の偉い人たちにとっては問題にならないこと──あるいは一定の評価を受けていることなのかもしれない。

 リステス本人も言っていたではないか。〈山の民〉の里を襲ったのは、王の命令だったと。

 では何故、王は、辺境の山に長年隠れ住んでいたという彼らを今になって滅ぼすように命じたのだろう。

 今更のように、志穂はそんな疑問を覚えた。 

「ところで、シホ。僕に何か話があるんじゃないの?」 

 リステスの方からそう話を振ってきた。

 どんな言葉を選ぶべきか、少し迷った末、志穂は直球で訊ねることにした。

「……あの礼拝堂の地下のことなんだけど」

 と、例の祭壇と箱のことに触れると、 

「なんだ、もう見つけちゃったんだ」

 王子はごまかすこともせずに残念そうに言った。

「うん、あの杖はあそこの箱に隠したよ。箱と地下室の鍵も僕が持ってる」

「じゃあ──」

「別に、鍵くらい渡してもいいけどね。シホが危ないと思うよ」

 騎士に言われたのと似たような言葉に志穂は眉をひそめた。リステスなら、そこら中にいる怨念の影が見えていても──そしてそれらを気に留めることなく過ごせたとしてもおかしくはないが、あの祭壇で見た影の蛇のことも彼は知っているのだろうか。

 生身の人間であるリステスは、実体のない怨念の影など問題にもならないのかもしれない。けれどもあれが死者にとって危険な存在だと知った上で、あの箱を杖の収納場所に選んだのだとしたら、随分意地の悪い話である。

「もうずっと昔、この城の建物や城壁や堀ができるよりも前にね。この土地で大勢殺されたんだって。死体の多くはあの祭壇の下の古井戸に放り込まれて、埋め立てられたって」

 ぞっとするような話を、リステスは明るい口調で言った。

「それ以来あそこは『彼ら』の一番の住み処なんだ。その上に祭壇を作って竜の鱗なんて置いたから、尚更さ」

 何が尚更なのかよく分からない。

「……でも、私は……」

「そんなに杖を取り戻したいの?」

 当たり前だという気持ちを込めて、志穂は首を縦に振った。 

 するとリステスは少し考える素振りを見せてから、思いついたようにぽんと手を叩いた。

「じゃあ、しばらく君の話を聞かせてよ。いつも僕ばかり喋って、君のことはあんまり聞かせてくれないもんね」

 どうせまた笑顔で約束を破られるに決まっているとは思ったが、志穂は断らなかった。

 リステスは結構な気分屋でもあるようだ。彼を説得するにせよ、もう少し乱暴な手段に訴えるにせよ、機嫌を取るのに越したことはない、と打算的に考えることにする。

「ねえ。君の故郷はどんなところ?」

「……ごく普通の、平和な田舎の町だったよ」

「みんな君みたいに黒髪で黒い目なの?」

「染めたりする人もいるけど、基本的にはみんな黒髪」

「それじゃあ、見分けが付かなくなりそうだね」

「分かるよ。顔とか髪型とか、人によって違うでしょう」

 ぽつりぽつりと答えながら、慣れとは不思議なものだ、と志穂は思った。

 最初はリステスの顔を見るだけで恐慌に陥りそうだったのに、今はどうにか平静を保つことができる。もちろん今でも恐ろしいことは恐ろしい。だが顔をあまり注視せず、あの時の恐怖を努めて思い出さないようにすれば、こうして曲がりなりにも会話を成立させられる。

 思えばラダは、志穂の生前についてほとんど訊ねてこなかった。『まれびと』の世界での死後の観念について話したことはあるが、せいぜいその程度だ。

「君は故郷でどんなことをしていたの?」

「学校に行ってた」

「学校? 刺繍を習ったり詩を習ったりするの?」

「違うよ。裁縫や音楽も少しは習うけど……読み書きや計算、国の歴史や社会についてとか、地理とか……あと、ええと、とにかく色々やらなくちゃいけないんだから」

「女の子が?」

「……私の国では、男の子も女の子もみんな学校に行かなくちゃいけないものなの」

「ふうん、変なの。勉強する女の子なんて、姉上とその周りにしかいないと思ってたよ。シホは随分遠い国から来たんだね」

「……うん、まあ、すごく遠いと思うよ」

「ねえ、なら、シホは海を見たことはある?」

「あるよ。私の国は海に囲まれてたから」

「へえ。海って青くて、透き通ってて、広くて、塩辛くて、魚がいっぱいいるんだよね?」

「広いし、塩辛いし、魚もいるよ。青くて透き通ってるかどうかは、……場所による、と思うけど」

 彼の絶え間ない質問に対し、どうにか当たり障りのない答えを返そうとしているうちに、志穂はふと、自分の中の故郷にまつわる記憶の一部が奇妙に曖昧模糊としていることに気が付いた。

 日本。地球。志穂が生まれ育った世界。そこから遠ざかってもう何日が経ったのか。

 だが、もう何ヶ月も何年も経ったというわけではないはずなのに。

 親はもちろん、小学校からの付き合いの友達のことはまだよく覚えている。

 中学の今のクラスメイト、学校の担任や隣近所の住人、毎日のように顔を合わせていた人々のこともまだ思い出せる。けれども、年に何度か会うだけの親戚たち、さして親しくもない別のクラスの同級生、委員会の先輩後輩、彼らの顔がよく思い出せない。

 結構好きだったアイドルの顔や歌声はどんなだったろう。

 こちらに来る前までやってきた人気ドラマの主演は誰だったか。

 誕生日にはいつもケーキを買ってもらっていたことは覚えていても、行きつけのケーキ店の名前は少しも浮かばない。

 無論、記憶は薄れるものだ。何日も日本とは違う世界にいれば、日本での記憶が少しばかり薄れたって仕方のないことだとも思う。だが──なんだか、ひどく怖かった。

(元の世界で生きていた時のこと、すべて忘れてしまったら、私はどうなるんだろう……)

 自分が生きていた頃の記憶。元の世界の記憶。それは帰りたいという執着心の源のはずだ。

 それをすべて失ったとき、志穂は、岸辺志穂という少女の形すら、死霊という今の在り方すら保てなくなるのでないだろうか。

「ねえ、シホはちっとも僕を名前で呼んでくれないね」

 ふとリステスが上げた不満げな声で、志穂は我に返った。

 ちらりと見上げた少年は端整な顔でわざとらしく口を尖らせている。

「……名前なら、いくらでもあのバーサさんに呼んでもらえるでしょう?」

「駄目だよ。僕は君にリステスって呼んでほしいんだ。──それに、バーサの言うリステスはね、本当は僕じゃないんだよ」

「え?」

 虚を突かれて、志穂は首を傾げた。

「百年くらい前の聖ユオル騎士団の長は、僕と同じ、リステスっていう名前の王子だったんだ。隣国との戦争で活躍した英雄なんだけどね。バーサはその人と僕が同じ人間だと思ってるんだ」

 リステスは何でもないことのように、淡々と言った。

 志穂は返す言葉が思いつかず、ただ小さく息を呑む。バーサは志穂に対して冷ややかだったが、それでも理性的な自意識を保っている女性のように見えたのだが。

 死霊は見たいものを見、聞きたいものを聞くものだ──いつかラダに聞いた言葉が頭を掠めた。

「不思議だね。若い頃の肖像画を王宮で見たことがあるけど、僕とは多少似てるってだけなのに」

 少し──ほんの少しばかりではあるが、リステスの整った横顔に寂しげな表情が浮かんで消える。 

 リステスは確かに十六歳の少年なのだと、志穂はこの時に初めて実感した気がした。

 ……自分の理解できない存在を、頭がおかしい、狂人だと決めつけておしまいにすることは簡単だ。

 けれど、死者にも心があるように、どんな人間にも心はあるのだ。

 例え、自分とはまるで価値観が違うとしても。

 

 ──そのとき、不意に、志穂は気が付いた。

 気が付いてしまった。

 リステスの背後、かなり頑丈そうな鎧戸のついた棚が、まるで地震の時のように小刻みに震えている。そして、ゆっくりと倒れかかってこようとしているのだ。

 椅子に座って志穂の方にばかり意識を向けている、リステスの頭部めがけて。

「……危ない!」

 とっさに志穂は叫んだ。

 リステスの反応は素早かった。振り返らずに椅子を蹴り倒して立ち上がり、その場から飛び退く。

 傾いた棚は空っぽの椅子の足だけを押し潰し、かなり派手な音を響かせながら、彼の足元すれすれのところへ倒れた。リステスの反応がもう少し遅ければ、潰されていたのは彼自身だったろう。打ち所が悪ければ、死んでいたかもしれない。

(……あ……)

 ちっと誰かの舌打ちが聞こえた気がした。

「殿下、何事ですか!?」

 棚が倒れた音を聞きつけて、兵士が数人駆け付けてくる。

 その後ろには侍女の死霊バーサも心配そうな顔で控えていた。

 兵士たちに対し、棚を元に戻すことを命じると、リステスは何でもなかったような素振りで、作業の邪魔にならないようその場を離れた。

 彼は部屋を出てしばらく廊下を無言で歩いた後、

「……ああ、びっくりしたなあ」 

 と、今更のように胸に手を当てて息を吐いた。そして志穂に対し、にこりと微笑みかけた。

「ありがとう、シホ。君のお陰で下敷きにならずに済んだよ」

 限りなく美しい、無邪気な子供のような笑顔。そこには率直な感謝の色がある。

 ──とっさに彼女が感じた嫌悪は、リステスに対するものではない。それは紛れもなく自分自身に向けられた感情だった。

 何故なら、志穂は思ってしまったからだ。

 危ないと叫んだ後で、リステスが棚を避けて怪我なく無事でいたのを見て。

 何故彼を助けるような真似をしてしまったのかと、後悔してしまった──あのまま押し潰されて死んでしまえば良かったのにと、ほんの一瞬であっても、少女の心は確かにそう思ってしまったのだ。

 そんな彼女の内心も露知らず、笑顔を向けてくるリステスを直視できず、志穂は顔を背けた。

 するとリステスは不思議そうに首を傾げる。

「どうしたの? 分かった、照れてるんだね」

 彼は上機嫌にそう決めつけると、ふと懐中を探ってそこから鍵束を取り出した。

「助けてくれたお礼に、礼拝堂の地下室と箱の鍵をあげるよ。やっぱり近付くのはお勧めしないけどね」

 そう言って、彼は鍵束の中から半分錆びた古鍵を二本選び、志穂に向かって差し出す。

 志穂は少し躊躇った後、のろのろと手を出して二つの鍵を受け取った。

 リステスは鍵を渡すと、そのまま上機嫌で踵を返し、志穂の傍から去っていく。

 その後ろ姿が少女の視界から消えた途端、唾を吐き捨てるような音がその場に響いた。

「けっ、余計な真似しやがって」

 男の声にはっと顔を上げると、天井のあたりに赤茶けた髪の盗賊が浮いていた。

 彼はあの嫌な薄笑いすら浮かべず、憎々しげに志穂を見下ろしている。

「テメエが声を上げなきゃ、奴は今頃棚の下敷きだったのによ。……王子様のお綺麗な顔に惚れでもしたか、このメスガキ」

 辛辣にそう吐き捨て、盗賊の姿はふっと消えてしまう。

 その様を、志穂はその場に突っ立ったまま、ただ呆然と見上げるしかなかった。

 

 

 ……鍵が床に落ちて跳ねるけたたましい音で、志穂は我に返った。

 気が逸れたせいで、鍵を取り落としてしまったらしい。

 慌てて鍵を拾い直し、しっかりと握りしめる。

 何はともあれ、せっかく鍵を手に入れたのだ。リステスの気が変わらないうちに、急いであの礼拝堂へ行き、箱から杖を取り返した方がいい。頭の冷静な部分はそう語りながら、一方で、今の到底平静とは言えない状態であの影の蛇のいる祭壇に近付くのはまずいとも告げている。

 それでも、錆び付いた感触を手のひらに感じながら志穂は回廊へ降り、礼拝堂のある方へ向かおうとした。だがその歩みは遅々として進まない。

 王子に惚れたかとロイは吐き捨てた。

 それは違う。むしろ逆だ。

 人の命を奪うことに対して何の良心の呵責も感じない、狂った価値観を持つ狂人。だが同時に彼は紛れもなく王子で、部下を信頼する騎士団長で、そして何より十六歳の少年なのだった。

 志穂はそのことを知った。けれど。

 ──それでも結局、自分はリステスが憎いのかもしれない。

 自分で手を汚すのは嫌でも、ロイがリステスを殺してくれたなら、内心喜んで受け入れるのかもしれない。

 それは少女にとって、軽蔑すべき、浅ましいことのように思えた。

 もしかしたら、自分自身の手で彼を殺して悪霊と化す道よりも、よほど。

「……シホか?」

 城を彷徨う影たちは、あの祭壇で見た蛇は、船出しないまま自分をなくして怨念そのものと成り果てたモノだという。だが、彼らと志穂との間に、どれだけの違いがあるというのか。

 例え喰われなくても、いつか自分も彼らのようになってしまうかもしれない。

 記憶を失い、自我を失い、──ただ怨念だけを残して彷徨う、彼らのような存在に。

「シホ」

 ふと、誰かの手の感触を肩に感じた。

 だが払いのける気力もない。ロイだろうか、バーサだろうか、それともあの騎士だろうか、いや彼に名乗った覚えはない──などとぼんやり考えていると、

「シホ。大丈夫か?」

 その低い声に聞き覚えがあることに、志穂はようやく気が付いた。

 はっとして見上げた先、そうして少女を見下ろすその顔にも、やはり見覚えがある。

 血の気の引いたような白い肌。乱雑に切り揃えられた黒い髪。

 紫の目が、少し心配そうに志穂を見つめている。ロイのように打算や悪意ではなく、バーサのように冷ややかでもなく、あの騎士のようにどこか突き放すような鋭い目でもない。そしてリステスのように、残酷で無邪気な身勝手さもない。

 ごく当たり前のようにこちらを案じているその眼差しは、深い淀みに足を取られかけていた心によって、何よりもの救いのように感じられた。

「……ラダ?」

「ああ」

 淡々としたその短い答えすらも懐かしく感じる。

 気付くと志穂は手を伸ばし、目の前の青年の服の裾にすがりついていた。

 青年はやや戸惑ったようにしていたが、やがて遠慮がちに手を伸ばし、志穂の背中を幾度か優しく撫でた。いつかと同じように。

「すまない、シホ」

 いつかと同じようにラダは言う。また子供扱いだ、と思ったが、そう扱われたって仕方ない。

 しばらくしてから、ラダはやんわりと志穂を離した。そして口元にかすかに笑みを浮かべて言った。

「無事で良かった」

「……うん。ラダも」

「俺は大丈夫だ。牢からはすぐに釈放されたし、この城でも上手くやっている」

 見れば彼は、城で時々見かける下働きの人々と似たような作業服を着ていた。志穂がリステスに怯えたり、杖を探したりしている間、彼もまた杖を追ってこの城に忍び込んだのかもしれない。

 だが、以前よりも少し痩せたように見えるのが少し気にかかった。肌が白いのは元々だが、顔色が心なしか色白を通り越して土気色に近くなっている気もする。

「本当に? なんだか……前より元気がなさそうに見えるよ」

「……心配はいらない。少し体調が悪いだけだ。この土地はどうも合わなくてな」

 気候が合わないなら分かるが、土地が合わないということもあるのだろうか。だがそれなら、ラダはこの城に長居しない方がいいのかもしれない。 

「そうだ。ラダ、あの、杖のことなんだけど……」

 そこで肝心なことを思い出し、志穂は急いで元の持ち主に杖のことを告げようとした。杖さえ取り返せば、志穂もラダも、この城に留まる理由はなくなる。それに彼の力なら、あの祭壇にいる影の蛇についてもなんとかできるかもしれない。

 だが、少しばかり遅かった。

 

「ふうん。その人、君の知り合いなの?」


 血の気の引くような感覚とはまさにこのことだ。

 志穂が青ざめた顔で振り返ると、リステスがそこにいた。回廊の柱に身を預け、見定めるような視線をこちらに向けている。

 彼は志穂を見た後、その隣で険しい顔を浮かべるラダに目を留めて、

「思い出した。君、エテルベリにいたね。白い杖を持って、シホを追いかけてた。違う?」

 と、謎を言い当てる子供のような口調で言う。

 美しい顔に浮かぶその無邪気な微笑みは、やはり何よりも恐ろしかった。  

  

       *


 ……自分が生きていた頃のことを、バーサはもうよく思い出すことができない。自分が死んだその理由の詳細すらもう彼女の記憶にはなかった。

 自分はリステスという名の王子に仕えていた。

 自分はリステスを慕っていた。

 自分は戦地へ旅立つリステスを見送り、彼が帰ってくるよりも前に死んだ。

 バーサが覚えているのはただそれだけの事実だったが、彼女にとってはそれで十分だった。

 彼女がこの城を彷徨う怨念の影たちと同じ存在にならなかったのは、ひとえに彼女の抱くこの世への執着が憎悪や怨念の類ではなく、またその思いが極めて偏執的なまでに強固だったからだろう。

 そして──リステスは帰ってきた。帰ってきたのだ、この城に。バーサは再び仕えるべき主を得た。

 かくして忠実な侍女の死霊バーサは、今、城の中庭に立っている。

 うごめく影たちのことは、端からバーサの眼中にはない。

 用があるのは大抵いつも中庭にいる、赤茶けた髪の、狐のように目が吊り上がった青年だ。

「そう怖い顔すんなよ」

 ロイは下卑た笑みを顔に貼り付けながら言った。 

「あんなの、ちょっとした悪ふざけじゃねえか」

「運が悪ければ、殿下は死んでいたかもしれないのですよ!」

 非難の声は否応なしに跳ね上がる。バーサはロイをこれ以上ない冷たい目でロイを睨んだ。

「薄汚い盗人が我が物顔で殿下の城をうろつくばかりか、王子殿下の御身を害そうとするとは、不敬の極み。……これまでは見逃してきましたが、もはや我慢の限界です」

「ふん」

 バーサの言葉にロイは動じない。鼻で笑い、

「殿下が死んだからって、何だっていうんだ?」

 と、平然と嘲った。

「オレたちは死んでもここにいる。なあ、そうだろ。なら、殿下が死んだって大したことはない。むしろアンタと同じ存在になって、ずっとアンタの傍にいてくれるかもしれないんだぜ?」

 ロイの言葉は、バーサの心を揺らした。

 彼女はその動揺を表に出すことはなかったが、ロイは目敏く見抜いたらしい。

「それにな。お説教で死人は殺せないんだぜ。……我慢の限界だって?」 

 ふとロイの声が低くなる。

 嫌な予感を覚えて、バーサはとっさに身を引こうとした。引こうとして、体が動かないことに気付いた。

 はっとして見ると、彼女の足は既に形のぼやけた影の手に捕らえられていた。 

 彼女もこの城に暮らして長い。影の一つ一つの力はごく弱く、すぐに引き剥がせば済むことを知っている。

 だが、バーサが影の拘束から逃れるよりも前に、盗賊の青年の姿が一瞬輪郭を失った。

「……そりゃあ、オレたちの台詞だよ。なあ?」

 次の瞬間、バーサの体は深い闇の中に引きずり込まれていた。

 短い悲鳴が女の口から漏れる。蛇のような姿をした濃い巨大な影が、実体のない女の体に食らいついていた。

 痛みはない。

 苦しみもなかった。

 ただおそろしく深い怨念の中に、人の形も、長い時の中で歪んだ記憶も、変わらない思いも、すべてが溶かされていく。逃れようと足掻いても叶わず、そのうちに逃れようとする意思すら溶けてなくなる。

(──リステス殿下)

 彼女を彼女たらしめる執着への思いを最後に、バーサの意識はぷつりと途切れた。


「安心しろよ。王子様も、他の奴らも、すぐに同じように喰ってやるってさ」

 人気のない中庭で、歪んだ笑みを浮かべる青年の呟きを聞くモノの中に、人の形を残した者はいなかった。

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