間話
気を緩めると途端に襲い来る吐き気と戦いながら、青年は包丁で玉葱を刻んでいた。
別に、玉葱が吐くほど嫌いだというわけではない。
青年の久しく涸れた涙腺の代わりに、刺激が吐き気となって現れているというわけでもない。
「できたか、新人」
はいと返事をし、刻んだ玉葱でいっぱいになった器を差し出すと、ヴィルフォート城の厨房を取り仕切る料理人の男は、満足げに頷いた。
「なかなか早いじゃねえか。最近はどんくせえ上にすぐ辞める奴ばかりだがよ、お前は気合い入れて頑張れよ」
そう言うと、料理人は玉葱の器を火にかけられた鍋のところへ持っていく。
料理が一つ出来上がるのをぼんやり眺めている暇はない。さっそく次の玉葱に取りかかりながら、確かにこの城は随分と人手不足らしい、と青年は考えた。
ほとんど通りすがりの男を、こうして城の厨房の下働きに採用するくらいなのだから。
この城に忍び込むにあたり、ケル婆に頼んで、適当な農村で生まれ育ったことを証明する文書を用意してもらったとはいえ、それでも城の門を叩いたその日に採用されるとは思っていなかった。
(すぐ辞める、と言っていたが……)
それは、この城の騎士団が悪評に塗れているせいだろうか。
無論、そうなのだろう。血に塗れた人間が大勢いる傍で働くのに足るほどここの給金は良くないし、仕事が楽なわけでもない。まして、この地方の民にとっては、いつ自分の村が騎士団の標的になるか分かったものではないのだから。
だが、それだけだろうか。
あるいは──この城が極めて特殊なせいもあるのだろうか。
部屋の隅にうごめいている影を横目に見ながら、ラダは唇を噛みしめて吐き気を抑え込んだ。そして、玉葱を素早く切り刻んでいった。
厨房が一段落ついたのは、日が落ちて夜も深まった頃だ。
青年は下働きの寝床として宛がわれた大部屋をそっと抜け出し、人気のない丘の斜面で考え事をしていた。
ひたすら下拵えと使い走りに終始した一日だったが、厨房の下働きというのはそんなものだ。昔、路銀を稼ぐために似たような仕事をやったことがあるが、その時も料理人にこき使われた覚えがある。
悪逆非道、行く先々を焼き払い皆殺しにし、灰燼か死体の山だけ残していくと評判の聖ユオル騎士団も、食生活の面では普通の人間と何ら変わりないようだ。
(だが……この城……この空気は、堪え難い)
怨念の影が目に見えるほどに満ちている土地は、墓地や古戦場のような特殊な土地であってもそうは存在しない。
ラダがこれほど怨念の渦巻く場所を見たのは、数年前に王都を訪れた時以来のことだ。
都の外れにある王宮、あの壮麗な白壁を外から一望しただけで分かるほど、宮殿は怨念の巣窟だった。確かあの時は堪えきれず早々に王都の外へ出てしまい、以来、ラダは王都へ近付こうともしていない。
それよりは多少ましとはいえ、この城もまた怨念の巣窟であることには変わりない。
霊感のない普通人ならまだしも、多少の霊感を持つ者でこの城に長くいられるのは、よほど鈍感な者か──でなければ怨念を怨念とも感じないような種類の人間だけだろう。
形を失い影となった人々の成れの果てを、ラダ個人の力で船出させることは叶わない。
杖の力を通しても限りなく困難だろう。
本来あれらは、人の手には余るモノなのだ。
(シホは大丈夫だろうか)
ラダは、母の形見の杖に取り憑いた少女のことを思った。
杖は王子リステスによって持ち去られたという。リステスがまだ杖を所有しているなら、志穂もまたこの城のどこかにいるはずだ。もしかしたらリステス本人の傍に。
頭を巡らしても見知った姿が見えないこと。
呼び掛ければ応えてくれる者がすぐ傍にいないこと。
何かと問いたがる少女の声に耳を傾けられないこと。
少女とこうして何日か離れてみてはじめて、ラダはそれらのことに物足りなさを感じる自分に気がついた。それは久しく感じたことのなかった、寂しさという感情によく似ていた。
(……駄目だな。俺もまだ未熟者らしい)
ラダは内心に苦笑を浮かべて首を振った。
誰かに執着心を持つことは、青年にとって許されない。だから、いくら〈水煙亭〉の居心地が良くても長居はしなかったし、誰か特定の者を旅の道連れにしようともしなかった。
まれびとの少女との契約は、海のかなたのあの〈果て〉まで。
そこでどんな結末が待ち受けていたとしても、旅は終わる。必ず。
幸い、ラダは容易く城壁の内側に入り込むことができた。使い走りの際などに折を見て城の奥へ紛れ込むこともできるだろう。なるべく早く杖を取り返し、この城から退散できればいいのだが──。
そんなことを考える青年の視線の先、少し離れた斜面に古びた石垣が見える。かなり古い時代の建造物の名残のようだ。城壁と堀に囲まれた丘の城の中で、そこだけがぽつんと取り残されたように暗く静かな野原になっていた。
近付いたラダの目に映る、草に埋もれて崩れかけた石垣は、しかし、ひどく禍々しく、より一層気分を悪化させる空気に包まれている。あの石垣の周囲には、他よりもかなり濃く怨念の影がうごめいているようだ。もしかしたら、あの怨念の影たちは石垣が築かれた時代に由来するのかもしれない。
(だとしたら、この城に巣くう怨念の根はかなり深い……)
そんな石垣の陰に、人の姿が見えることにふと気付いて、ラダははっと目を見開いた。
死霊ではない。生きた人間──それも少年だ。
月明かりにきらめく金髪が、ここからでも視認できる。
少年もまた、ラダがそちらを見上げていることに気付いたらしい。
彼はうごめく影を気にする素振りもなく、身軽な動作で石垣によじ上ると、ラダを見下ろした。
「ねえ」
と、少年はよく通る声で言った。
「君、どこかで会ったかな」
「──いいえ」
表情を一切動かさず、青年は首を横に振った。
それからその場に膝をつき、頭を垂れ、厨房に雇われたばかりの下働きだと小声で答える。吐き気の波が胸元にまで迫り上がってきていたが、必死に堪えた。
ふうんと興味もなさげに頷くと、少年は石垣をぐるりと見回した。
「知ってる? この石垣は、この丘に最初に人が住み始めた頃の名残なんだって」
青年の方を見ることなく、まるで独り言のように淡々と呟く。
「それでね、その頃は、まだ竜の船が空を飛んでいたんだってさ」
ラダは頭を垂れたまま、唇の端を噛みしめる。
「お伽噺だと思う? でも、竜は本当にいるんだよ。僕はそれを知ってるんだ」
竜殺しの末裔は、不思議な確信をもった声でそう言い切った。
彼は何かを知っている。ふとラダは思った。杖を志穂ごと持ち去ったのも、何らかの意志があってのことかもしれない。それが王子本人の意志なのか、それとも別の意志が介在しているかは分からないが。
「……ああ、もう行かなきゃ。じゃあね、お仕事頑張って」
そう言って石垣から飛び下りると、少年は丘の頂上の住み処へと戻っていった。頭を垂れる黒髪の青年に、ちらりと一瞥だけを残して。
少年の気配が完全に消えたと分かると、ラダは深く息を吐いて立ち上がった。
そこで、彼は自らの拳が固く握りしめられていたことを自覚した。青白い爪の先が白い手のひらに食い込んでいたが、血の気の薄い肌の表面に跡はほとんど見えなかった。
リステス・ギイ・アーフェル。
思いがけず出会った、あの少年の名を口の中で呟く。
おそらく志穂を殺した少年。
〈山の民〉を滅ぼした聖ユオル騎士団の長。
そして竜退治の英雄王の血を引く、アーフェル王家の王子──。
(……やはり、俺はまだ、未熟だ)
ラダはその一言で、胸の内側で荒れ狂いかけた感情に無理矢理蓋をした。
──憎悪も怒りも、彼にとっては捨てるべき執着だった。




