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第十話 誘い

 とにもかくにも、リステスに怯えて流されるままではいけない。

 なんとかあの白い杖を取り戻して、ラダの元へと戻るべきだと、志穂は改めて自分に言い聞かせた。

 リステスは恐ろしいが、それでも彼は生きた人間だ。ラダと違って死霊を操る術の心得はなく、あちらから死霊に触れる力も持たないようだった。あのロイという青年は胡散臭い人物だが、少なくとも王子に味方する者ではない。気にかかるのはバーサという侍女の女性で、彼女はリステスの意に反することを看過しそうにない。

 いっそのこともう力ずくで奪えるか試してみようか、霊体の身なら、その気になれば生前では考えられないくらいの怪力を出すこともできるかもしれない──などと考えながら志穂がリステスの前に戻ってみると、金髪の王子の傍にはもう白い杖はどこにも見当たらなかった。 

「あの杖なら、秘密の場所に隠したよ」

 見つけられるものなら見つけてごらん、と言いたげに笑うリステスを、志穂は睨み付けてから杖を探しに行った。 

 杖が一所に安置されて動いていないなら、志穂の移動可能範囲も一定のはずだ。見えない壁に囲まれた空間をぐるりと巡って、その中心部を探せば、すぐに見つけられるだろうと最初は思った。霊体の身にとっては、どんな壁も扉も無意味なのだから。

 幸い、志穂が城の中の動ける範囲をうろついて回ることに対し、リステスはとやかく言わなかった。彼も騎士団の長、城の主としてやるべき仕事が多いらしく、いつまでも志穂にかまけていられないようだ。 

 しかし、探しはじめて間もなく楽観的な思いは消えてしまった。

 城の建物の地下あたりにあるらしい、と見当を付けたまでは良かったが、貯蔵庫や物置として使われている地下をくまなく探すのは存外手間がかかるということに気付いたのだ。

 その上、

「殿下のご迷惑になることはしていませんね」

 と、侍女のバーサが定期的に志穂の様子を見に来るのである。

「……い、いえ、何も」

 志穂が首を横に振ると、バーサは胡乱げな目つきで少女を下ろす。そしてそのまま居心地の悪い沈黙をたっぷりと経た後、わざとらしく鼻を鳴らして去っていくのだ。貴方の考えは分かっていますよ、とでも言いたげに。

 そのやり取りを繰り返すこと数日、合わせて十度目にもなると、杖を探し続ける気力も削がれる。

 バーサが立ち去った後、志穂は深いため息をつかずにはいられなかった。普段は呼吸などしなくても平気なのに、ふとした折にこうして生きた人間のような仕草が出てしまうのは、志穂がまだ生前の肉体の感覚を忘れられずにいるからなのだろうか。

 暗い貯蔵庫の隅にはあの『影』がうごめいていたが、騎士の忠告に従い、そちらには視線を向けない。 

 ふと地上へ続く階段から足音がして、志穂は顔を上げた。

 階段から貯蔵庫に降りてきたのは、下働きらしい二人の男たちだった。彼らは運んできた箱を貯蔵庫に置くと、一息つくように座り込んだ。そしてだらけたように手近な箱に身を預け、

「聞いたか? あの王子様、エテルベリで白昼堂々暗殺されかけたってよ」 

「ああ、聞いた聞いた」

 貯蔵庫の隅に死霊の少女が佇んでいることにも気付かないまま、男たちはひそひそと噂話をしはじめた。

「騎士団にやられた村の生き残りだってよ。確か、前にも似たような事件があったよな」

「それなのに大した用心もせずにふらふら出歩いて、また暗殺されかかっちゃ世話ないね。自分が命を狙われて当然の身分だって、自覚してないんだろうな。まあ剣の腕前だけは確からしいから、そう簡単には死なんだろうが」

「まったくだ。それでなくても、日頃から何もないところに一人で話しかけてるような、頭のおかしい王子だってのに。あれが将来の国王かと思うと、ぞっとするね」

「は。心配はしなくても、あの王子が王様になることはないだろうさ」

 男の一人が心底から馬鹿にしたように言った。そこには王子に対する敬意の念など欠片もない。

「じゃなきゃ、どうして大事な跡継ぎがこんな地方の城にいて、名ばかりの騎士どもを率いて、盗賊退治だの焼き討ちだのに精を出してるんだよ。王宮から追い出されたのさ、あの王子は」

「じゃあ誰が次の王なんだ? 他に王子はいないんだろ?」

「姉君の王女様がいるさ。弟と違ってごく真っ当で聡明な貴婦人だって聞いたぜ。女王でもなんでも、あれよりはずっとましだと思うがね」

「確かにな」

 もう一人の男は納得したように頷くと、 

「……おっと、そろそろ行かねえと怒られるな」 

 と呟いて立ち上がった。

 貯蔵庫を出て再び地上に戻っていく男たちを見送りながら、志穂は今しがた耳にした話を複雑な心持ちで思い返した。例えあのリステスが対象であっても、他人の陰口を聞くのはあまり気分の良いことではない。

 だが、一方で、彼らの言っていることは間違っていない──そう感じる自分もいる。

 リステスは恐ろしい。

 彼は頭がおかしい。

 彼は人の命を何とも思わない狂人で、志穂を殺した張本人だ。

(……でも)

 先程の男たちが噂していた言葉。リステスが何もないところに一人で話しかけていること──その点については、別に彼がおかしいわけではないのだ。普通の人間には見えなくても、確かに志穂は存在しているのだから。ラダのように周囲の目を意識しないのは非常識な行為かもしれなくても、狂気の沙汰というほどではない。

 もっともリステスは生きた人間と死霊の区別をあまりつけていないようだし、普通の人間には死霊が見えないということをちゃんと理解しているかどうかは分からないが──。

(……今は杖を探すことに集中しないと)

 志穂は首を振り、どうでもいい思考に沈みかける自分を止めた。

 


 いつまでも薄暗い地下に籠もっていては精神的に疲れるし、気力が削がれて捗るものも捗らない。関係のない物思いに沈みかけるのもきっとそのせいだ。

 そう思い地上に出て、中庭を通りかかったところ、あのロイという赤茶けた髪の青年と出くわしてしまった。

「よお、嬢ちゃん、探し物か? 手伝ってやろうか」

 ロイは以前と変わらず嫌な感じのする薄笑いを浮かべて、志穂を見下ろした。

 正直に言って、この青年とはあまり関わり合いになりたくなかった。本人の言によれば彼はかつて人殺しも辞さない盗賊だったというから、尚更だ。

 志穂は小さく頭を下げると、

「ありがとう、ございます。でも、一人で大丈夫です」

 と素っ気ない返事を返した。

 そして足早にロイの傍から離れようとしたのだが、その前に彼の痩せた腕が志穂の行く手を遮った。

「おいおい、少しくらい話に付き合ってくれてもいいだろ。この城でまともに話せる奴は貴重なんだぜ? 安心しろよ、別にとって喰おうってわけじゃねえ」

 これが生身の肉体を持つ相手なら目を閉じてすり抜けることもできただろうが、霊体同士ではそうはいかない。飛んで逃げるという選択肢もあったが、志穂はふと思い留まった。嫌なものから逃げてばかりでは、何の情報も得られない。

 勇気を出して、志穂はロイの方へ向き直った。

「……あの。この城には、そんなに死霊が少ないんですか?」

「おう。霊もどきなら、そこら中にいやがるけどな。あいつらは話なんて通じねえし」

 とロイは、中庭のそこかしこでうごめいているあの影たちを指し示した。

 確かにあれらには、話が通じるほどの明確な意志や知性といったものは感じられない。

「オレが行ける範囲では、あの王子様にくっついてる侍女さんだろ、騎士のおっさんだろ、あと……」

 ロイはいくつか志穂の知らない名も挙げたが、合わせても両手の指で数えられる程度しかいないようだ。城中にいる影たちの数に比べると、確かに多くはない。

「まあそれくらいか。何人かはアンタも多分見たことはあるんじゃねえか?」

「はい。騎士っていうのは、あの白い服に盾を持った、顎髭の……」

「そうそう、そいつ。よくは知らねえが、昔この城に住んでた正真正銘の騎士らしいぜ。神出鬼没で融通の利かねえ、頭の固いおっさんだけどよ。まあ、あの聖ユオル騎士団の騎士様がたよりはよっぽど立派な騎士様だったんだろうよ」

 ロイは皮肉げな口調で言いながら、中庭で鍛錬をしている人々の方へと視線を移した。

 そこでは今日も、粗野な男たちが汗を流している。戦士と呼ぶならまだしも、やはり、あまり騎士には見えない。特にあの騎士の死霊と比べると雲泥の差がある。

「……あの人たち、やっぱり騎士団の人なんですか?」

「そうだぜ? 栄えある聖ユオル騎士団の代理騎士様がただよ」

「代理……?」

 眉をひそめる志穂に対し、ロイは目を細める。

「そう、代理。本来騎士団に所属する貴族の坊ちゃんたちの代わりの傭兵たちさ」

「傭兵……の人が、騎士団に? そういうことって、よくあるんですか」

「さあな。ただ、聖ユオル騎士団がこうも傭兵の巣窟になったのは、王子様が団長になった後だそうだぜ。以前の聖ユオル騎士団は、威張り散らした貴族の子弟の吹き溜まりで、ろくな見回りもしなけりゃ訓練もしないような……今とは違う意味で名ばかりの集団だったんだってよ。当然、盗賊団となんて戦いに行くわけがねえ」

 あの頃は楽だった、とロイは嘆息する。何が楽だったのか、志穂はあえて聞かなかった。

 ──二年ほど前、王子リステスが十四歳で騎士団長に就任した時も、あくまで名目上の役職だと思われていたらしい。

 だが彼には、騎士団長として真面目に働く意欲があった。騎士団に所属する貴族の子弟が『使えない』ことが分かると、リステスは彼らに軍役の代わりと言って金を払わせ、そしてその金で、代理として働く傭兵を雇わせたのだという。

 本来騎士の称号を持つ人間の代わりの、実働部隊として雇われた傭兵。

 現在、聖ユオル騎士団の実働部隊として各地で非道を働いているのは、そういう種類の人々らしい。

「それも食い扶持を求めてそこらをうろついてるような、盗賊紛いのただの傭兵じゃないぜ。……あのお坊ちゃんは変に潔癖なところがあるみてえでな、部下が必要以上に略奪をするのも女を攫うのも許さなかった。自分は平然と皆殺しを命じるくせにな」

 ロイは呆れたように首を振り、その結果、と続けた。

「今騎士団に集まってるのは、略奪にも女にもとんと興味がない──食うより寝るより人殺しが大好きな、王子様と同じ類の頭のおかしい連中ってえわけだ。笑える話だろ?」

 口元に嘲笑を浮かべる青年に対し、志穂は少しも固い表情を動かすことができなかった。

 交錯する悲鳴と怒号、嗅覚を麻痺させるほどの血の臭い。赤く染まり倒れ伏す老人と女性たちの姿が心の中に浮かんで消える。

 唇を引き結んだままの少女の顔を、ロイは面白がるように覗き込んだ。

「もちろん、そんな連中を率いて、命令を出してるのがあの王子様だ。狂った頭で何を考えてるんだか知らねえけどな。あいつがいなけりゃ、騎士団がこうも人殺し集団として名を馳せることはなかった。オレもアンタも、きっと死なずに済んださ」

 ラダよりも高く、リステスよりも濁った声で、青年は饒舌に喋り続ける。

「せめて激しい戦争のあった時代に生まれれば、誰より人殺しの好きな王子様だって英雄にでもなれたんだろうがよ。はっ、どうせあいつは王にもなれずに惨めに落ちぶれる。もしかしたら救いようのない狂人として幽閉されるかもな」

 脳裏に次の王位について噂していた男たちの言葉が蘇る。

「だから、そんな奴──いっそのこと今死んじまった方がいいよな?」

 不穏な言葉に、志穂ははっとしてロイを見上げた。

 青年の口元が吊り上がる。見透かすような、嫌な表情だった。

「なあ、シホの嬢ちゃんよ。アンタはあの王子様が憎くはねえのか? ──あいつに同じ痛みを味わわせてやりたいって、そう思ったことは?」

「……それは……」

 とっさに否定しようとして、志穂はそれ以上、言葉を続けられなかった。

 憎くない、といえば嘘になるからだ。

 恐怖。嫌悪。怒りと憎しみ。胸に渦巻くこの感情は確かに、リステスに向けられたもの。

 ──どうして自分が死ななければならなかったのか。

 ──どうして自分を殺したあの少年は、今も無邪気な笑顔を浮かべているのか。

 そんな思いがこの胸に秘められていないとは、言い切れなかった。

 そんな少女を見下ろして薄笑いを浮かべると、ロイは軽く背を曲げてその耳元に口を寄せた。

「なあに、簡単さ。他の兵士どもにはオレたちの姿は見えねえんだから」

 ロイの囁きは、まるで悪魔の誘いのようだった。

「ちょいとそこらから刃物か何かを拝借して、宙に浮いて、王子様の頭上で手放せばいいんだ。階段や城壁から突き落としてもいいな。それくらいなら嬢ちゃんにだってできるだろ?」

 耳を塞ぎ、先日のように逃げ出したくなる衝動を堪え、志穂はロイを睨んだ。

「……あなたはそうしないんですか?」

「あいにくオレはあの侍女さんに睨まれてるし、王子様にも好かれちゃいねえからな。そりゃあ何度も殺そうとしたけどよ、あの金髪野郎、へらへらした顔してことごとく回避しやがる」

「……私も、あの侍女の人には嫌われてると思います」

「けど王子様には気に入られてるだろ。きっとアンタなら油断させられるぜ」

 志穂はこの盗賊の青年が妙に親しげに話しかけてきた理由をようやく悟った。

 要するに、ロイは自分の代わりにリステスを殺してくれる人物を求めていたのだ。そのためにこうして志穂をそそのかして、利用しようとしている。

 

『──生者に無闇に干渉することは、人に躊躇いなく害を為す悪霊への近道』


 ふと、ジェフから伝えられた言葉を思い出した。

 リステスを殺してしまえば、志穂は悪霊となり、ラダにとって退治すべき存在となるだろう。

 そうなれば、ラダはきっと躊躇わないだろう。彼は、そういう青年だ。

 そしてカレンのように沖つ国へと船出させられる。

 この世には何の痕跡も残さずに消え失せる──。

(そんなの、嫌)

 嫌だ、と志穂は自分に言い聞かせた。

 例え相手が人殺しだとしても、憎しみに駆られて殺してしまえばきっと同じ穴の狢だ。

 ロイの言葉に耳を貸しても、彼に利用されるだけ利用されて終わるに決まってる。

「……でき、ません」

 志穂は首を横に振り、ロイの傍から数歩後ずさって離れた。

「私……そんなことより、やることを、やらないと。今のままだと、狭い範囲にしか動けないから」

「ああ、探し物か」

 ロイは少しつまらなそうに呟いたが、志穂が離れるのを止めようとはしなかった。

 それから彼は少し考えるような素振りを見せた後、

「嬢ちゃん、あっちにある礼拝堂の地下はもう調べたか?」

「まだ、だと思います」

「なら、調べてみろよ。聖ユオルの聖遺物が保管されてるとかいう、曰く付きの地下室があるぜ」

 やや投げやりな口調だったが、嘘をついているようには見られない。

「ありがとうございます。それじゃあ、今から探してみます」

 志穂は深く頭を下げると、足早に踵を返して中庭から立ち去った。

 少女の後ろ姿を見送る青年の顔が、ひどく歪んでいることには気付かぬまま。

 

 

 その礼拝堂は、中庭からも程近く、城の建物の陰にひっそりと佇んでいた。

 中に人気はなかった。どうやら、今のこの城の住人たちにとってここは取り立てて興味を惹くところではないらしい。それを示すように、木彫りの長椅子や奥にある祭壇の上には埃が降り積もっている。

 壁の一面に描かれた壁画は、例の聖ユオルの伝説を題材にしたものだろうか。倒れ伏す竜と、ひれ伏す民衆たちの間に挟まれて、若い男女が手と手を取り合い見つめ合っていた。

 床にも埃が積もっていたが、その白い層にはうっすらと足跡がついている。

 志穂が埃っぽい礼拝堂の中でどれだけ動いても、積もった埃が舞い上がることはなく、意識しなければ足跡もつかない。その事実が少し胸に染みて痛んだ。 

 目を瞑って礼拝堂の石床の下へ抜けると、ロイの言った通り、小さな地下室があった。

 リステスの部屋よりもずっと手狭で、三面を石壁に囲まれている。残る一面には鉄の格子が嵌められていて、その向こうに人一人通るのがやっとの狭さの石段が見えた。その他に外部に繋がる窓や通気口などは見当たらない。やはり埃っぽく、どこか息の詰まりそうな小部屋だった。

 そんな部屋の中央に、大理石のような石でつくられた円形状の祭壇があり、その上に絹の布がかけられた箱が置かれていた。この箱も石造のようだ。

 あの中に、探す杖があるのだろうか。

 根拠はないが、そうに違いないという奇妙な確信も心のどこかにあった。もし箱に鍵がかかっていれば、鍵を探しに行かなければならないが、まずは祭壇に近付いて確かめなければ。

 志穂が祭壇に近付き、箱にかけられた絹の布を退けようとしたとき、異変が起こった。

 石でできた祭壇の下部から、靄が染み出すように現れたもの。

 志穂は、先日のことを思い出してとっさに跳び退った。

 祭壇から離れた少女を追うように、祭壇の内側からどんどん靄が染み出して、狭い部屋の空間を占めていく。形のないそれは、城内を彷徨っている影たちよりも輪郭がさらにぼやけ、手足すらも見当たらない。そのくせ色だけは濃く、見る者を引きずり込んでしまいそうな、深い闇に覆われている。

 それは、人の影というより、とぐろを巻いて鎌首をもたげる蛇に似ていた。

(──駄目)

 志穂はほとんど反射的にそう思った。

(これは、駄目。近付いちゃいけないモノだ)

 影の蛇は、巨大な頭を揺らしながら、部屋の隅に下がった志穂に視線を向けた。正確には影に目はないが、そう感じた。

 けれども近付くような素振りはない。どこか窺うように、ただ志穂を見つめている。

 とっさに志穂は目を閉じた。

 影を注視してはいけない、とあの騎士に言われた言葉を思い出したのだ。

 けれども闇に塗り潰された視界の中で、恐ろしい何かが近くにいるのにただじっとしていることには堪えきれず、志穂はしばらくしてからそっと目を開けた。

 すると、もう影の蛇は姿を消していた。

 もう、今の今までそこに影がいたという痕跡は地下室のどこにもない。

 石の祭壇と絹布をかけられた箱が、何事もなかったかのように静かにそこにある。

 蛇は現れただけですぐに消えてしまった。もう一度祭壇に近付き、箱を確かめても構わないのではないか。そうは思うものの、志穂はしばらくの間、部屋の片隅でじっと祭壇を見つめることしかできなかった。

 

 結局、志穂はもう一度祭壇に近付くことなく地下室を出た。

 よく見れば、地下室の入り口の鉄格子にも鍵がかかっている。そちらの鍵も探さなければ杖を地下室から出すことはできないという事実に気付いたのだ。

 肩を落としながら格子をすり抜け、今度は階段を使って上まで戻る。礼拝堂の奥の祭壇の陰にある隠し扉から出てくると、先程まで誰もいなかった礼拝堂の内部に人の姿を見つけた。

 その人物は壁画の前に佇み、手を取り合い見つめ合う男女の絵を見上げている。

 どこか遠い目をしたその精悍な横顔を見て、志穂はふと彼が思ったよりも若いのではないかと気付いた。ロイはおっさんと呼んでいたし、蓄えた顎髭は立派だが、それをなくせば、二九歳で死んだというジェフと大して変わらない年頃にも見える。

 志穂が彼に声をかけるよりも前に、彼の方が志穂に気付いて振り返った。

「……そなた、地下にいたのか?」

 怪訝そうに問われる。

 影のことについて少し教えてくれたこの騎士の男性なら、先程見たあれのことも何か知っているかもしれない。そう思い、志穂が地下の祭壇で蛇のような影を見たことを伝えると、彼は険しい顔になった。

「……その祭壇は、この城においてもっとも古き井戸を封じたもの。我らのような死者にとっては、人を食らう大蛇のごときもの……。城内を彷徨う怨念の影らの巣穴、あるいは母体だ」

 兜の陰から覗く青い目が、鋭く志穂を見据えた。

「迂闊に近寄れば、喰われる。そして奴らの一部と成り果てるだろう。二度と近付かぬ方が良い」

 志穂は首を横に振った。

「……私、杖を探さなくちゃいけないんです。私の依り代で……ある人の大切な物なんです」

 だから箱の中身を確かめたかったのだと、そう言うと、騎士は少し考えてから重々しく言った。

「確かに、この礼拝堂には最近人が訪れた形跡があるようだが」

「なら、やっぱり……」

「しかしその箱は、元々、ギイ・ユオルがかつて挑んだ竜の鱗を収めているものだ。古井戸と共に封印されていると言ってもいい。その箱をみだりに開け、中に別の物を入れるなど……」

 予想もしなかった言葉に、志穂は目を見開いた。

「竜って……本当にいるんですか?」

「かつては、いた」

 騎士は、ラダと同じように過去形で言った。

「……この目で見たことも二度ある。一度は肉体を通し、二度目は魂を通して。もう遙かに遠い昔……アーフェルという国が生まれたばかりの頃のことだ」

 ますます驚いて騎士を見つめる。

 アーフェルの建国が正確にいつのことかは知らないが、少なくとも何百年も前の昔だろう。

 ジェフは十七年、二九歳の見た目のままで〈水煙亭〉にいた。なら、彼と同じ年頃に見えるこの騎士は、一体いつから死霊として存在しているのだろう。

「でも、今はもういない……ってこと、ですよね」

「……異国の娘、そなたは竜を求める者か?」

 静かな口調で問われ、志穂はまた首を振った。

「私は、竜のことはよく知りません。……ただ、私の知っている人は、探しているようなんです」

 竜を。

 ──あるいは、死者を沖つ国へと運ぶ竜の船という存在を。

 それを聞いた騎士はしばらく自身の記憶を探るように顎髭に手をやっていたが、やがて、

「……以前にも、竜という存在を探し求める者を見たことがある」

 と、低い声で言う。そして、さらに志穂をはっとさせる言葉を続けた。

「彼は〈死の民〉と呼ばれていた。……死霊を操る力を持ち、かつてはアーフェルの西の海岸に暮らしていたという、古い民の末裔だった」

「え……その人は……」

「死霊を操り、罪なき民を害したと謂われなき罪を着せられ、この城で処刑された」

 今から数十年前のことだ、と騎士は付け加える。

 それほど昔の話なら、ラダと直接関係があるわけではないのだろう。

 だが──あの老婆はラダを〈死の民〉の生き残りと呼び、ラダはその言葉に激怒していた。

(同じ一族……同じ、目的……? 先祖代々の悲願だとか? でも、それなら……)

 志穂は背筋が寒くなるような思いを覚えた。ラダの同族がかつて死霊を操った罪で処刑されたなら、死霊術士であるラダもまた、罪を着せられてもおかしくない身の上である、ということではないだろうか。

 ラダが人に無愛想な態度を取る理由が、少しだけ見えたような気がした。

 志穂と共にいた時、あれほど人目を気にしていたことも。

 リステスがあれほど奇矯な言動を取っても、表立っては誰も何も言わないのは、きっと彼が王子という高い身分にあるからだ。その彼ですら陰口を叩かれるのに、ましてやラダは流浪の死霊術士だ。

 思わずうつむいて考え込んでしまった志穂に対し、騎士は幾分柔らかな声で話題を戻した。

「……娘。ここの地下室と箱の鍵は、代々の城主、つまり聖ユオル騎士団の長だけが持つことを許されているはずだ。もし箱にそなたの依り代が隠されているなら、まずは鍵を入手する手段を考えるべきだろう。無論、かの王子と話し合う手もあろうが」

 薄々気付いてはいたが、志穂は内心でため息をつかずにはいられなかった。

 例えあの箱の中に杖が隠されているのだとしても、鍵がなければ開けられない。それに箱から杖を取り出せても、地下室と階段の間には鉄格子がある。結局、どうあっても、またリステスの傍へ行かなくてはならないのだ。見つけてごらんと言いたげに笑っていたリステスが、大人しく鍵を渡してくれるものか。

 だが、いつまでも怖じけていても仕方がない。

「分かりました。ありがとうございます」

 とりあえず志穂はそう言い、騎士に頭を下げた。

 騎士は頷くと、用は済んだとばかりに以前のようにさっと踵を返して去ろうとしたようだが、ふと振り向いてこう訊ねた。

「……そなた、自力でここの地下室を見つけ出したのか?」

「え? いえ……ロイという人に教えてもらったんです」

 少女の答えは、騎士にとって何か気に入らないものであったらしい。

 彼は眉間に皺を寄せると、頭を振った。

「……あの者の言うことには、あまり耳を傾けない方がいい」

 端的にそう言い残して、騎士は今度こそ去っていった。

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