第九話 灰色の城
城壁を越え、兵舎と思しき平屋の建物を横手に見ながら道なりに丘を登る。
二つの守備塔に見下ろされながら城門をもう一つ潜り抜けると、城の前庭らしい空間が広がった。
リステスはそこで馬車を降りた。とりあえず志穂もそれに従う。
「殿下、ご無事で何よりでございます」
「うん」
出迎えた侍従らしい男に生返事をしながら、彼は杖を抱えたまま城の建物の方へ足を向けた。
ヴィルフォート城は、丘の頂上を平らに削った土台の上にいくつもある、飾り気のない石造りの四角い建物や塔で構成された城のようだった。建物と建物の間には中庭が設けられ、それぞれが屋根付きの回廊で繋がっている。
無骨とも見える石造りの外観に反し、灰色の城の内部は色鮮やかなタペストリーや絨毯、銀製の調度品で飾られていて、この間見たブレニー子爵の屋敷ともあまり遜色がないくらいには華やかだった。少なくとも内装は。
けれども城全体に漂うこの雰囲気はどうだろう。
決して真夜中ではない、青空に太陽のさんさんと輝く昼間であるにも関わらず、重苦しくどんよりと淀むような城内の空気は灰色の外観から受ける印象とよく似ていた。
それは分厚い石壁と小さな窓のせいで、あまり陽の光が入ってこないからだろうか。
王子を出迎える衛兵や侍従、下働きの召使いと見られる女性まで、皆一様に表情に乏しいからだろうか。
あるいは──中庭の隅、回廊の角、石壁の表面やタペストリーの陰に見える『影』のせいだろうか。
エテルベリの街で見かけた死霊やジェフ、カレンらは、見た目には生きた人間とほとんど変わらなかった。けれどもこの城のそこかしこで彷徨っている影は、輪郭がぼやけてはっきりとした形がなく、白とも黒とも灰色ともつかない奇妙な色彩に覆われている。曖昧な輪郭の体から突き出た頭部らしきものと、時折何かを求めるように宙を彷徨う手足らしきものがなければ、人影とすら判別がつかなかったかもしれない。
(……あれも、死霊?)
でなければ、まだ志穂の知らない異形の存在だろうか。
いずれにせよ、見ていてあまり心穏やかになる類のものではない。
「娘。あれらを注視してはならぬ。近付いてもならぬ」
不意に背後の方から低い声がした。
驚いて振り返ると、すぐそこに一人の男性が立っていた。
目深に被った兜から覗く青い目が志穂を見下ろしている。鈍く光る鎖帷子の上に白い胴衣を着込み、腰帯に剣を下げ大きな盾を携えて、顎髭をたくわえた精悍な風貌は、兵士というよりもむしろ騎士という言葉が相応しいように思えた。
騎士団の長であるというあの少年王子よりは、よほどそれらしい。
「ここは怨念に満ちた城。早々に立ち去られよ」
その男性は端的にそう告げると、すぐに横合いの壁を音もなくすり抜けて志穂の前から去っていってしまう。だから志穂は、できるものならそうしたいのだと言い損ねた。
リステスは階段をいくつか上り、衛兵たちに左右を守られた扉を開けて、中の部屋へと入っていった。
志穂は一瞬躊躇った後、拳を軽く握りしめて、その部屋の中へと滑り込んだ。
それなりに広々とした部屋の中には、天蓋付きの寝台や金で縁取られた大きな姿見、側面や脚に丁寧な彫刻の施された木のテーブルと椅子、銀の燭台や水差し、衣装箪笥といった風に、豪華な調度品が一通り揃っている。床には柔らかそうな絨毯が敷かれ、壁の暖炉の周りには肖像画や羊皮紙の地図、それに大きなタペストリーが掛けられていた。
タペストリーに織り込まれている模様は、先程も城門で見かけた、あの紋章のようだ。
角の生えた爬虫類のような頭部、何対もの蝙蝠の翼、鱗に覆われた長細い胴体と尾。
そして背中に突き刺された巨大な槍と、そこから流れ出して体の半分を赤く染める血。
鮮やかな色糸で巧みに表現されたその竜の姿は、城門に掲げられていたものよりもずっと生々しく見えた。
ジェフによれば、アーフェル王家の紋章は英雄に退治された竜なのだという。ならばこれがそうなのかもしれない。志穂からすると、何もわざわざ痛々しく血を流しているところを紋章にしなくてもと思ってしまうのだが、アーフェル人と日本人の感覚は違うのかもしれない。
「どう? ここが僕たち聖ユオル騎士団の城だよ」
リステスは椅子に座りながら、輝くような笑顔を志穂に向けた。
「この城はとても古くて由緒ある城なんだよ。この建物自体は百年前のものだけど、城壁と堀は二百年前、基礎部分とか井戸とかはさらにずっとずっと昔、建国期にまで遡れるんだって。かの英雄王、聖ユオルに仕えた騎士の居城があったところだそうだよ」
聖ユオル、竜殺しの英雄王。アーフェルを建国した王なら、王子であるリステスはその聖ユオルの子孫だということになるのだろうか。
退治された竜と、ラダの探す竜、そして竜の船。
それらの話がどの程度重なり合っていることなのか、志穂にはよく分からない。けれどもまったく別の話とも思えなかった。
「……あの……あなたは……」
「リステスって呼んでよ。あ、そういえば君の名前もまだ聞いてないや」
王子は座ったまま、やや距離を置いて立っている志穂を見上げた。
「ねえ、名前を教えてよ。教えてくれたら一つ頼みを聞いてあげるから」
頼み、と志穂は目を瞬かせた。
そして少し思案する。この無邪気な語り口の少年の言動が信用できるとは思えないが、名前を教えるくらいで現状がこれ以上悪くなることもないだろう。
「……岸辺、志穂」
志穂が名前、と小さく付け加える。
「キシベ、シホ? やっぱり異国風だね。シホ、シホ、不思議で素敵な響きだなあ」
この上ない美少年に名前を連呼されても、ラダの時のように気恥ずかしい思いはまったく感じなかった。代わりに感じたのは強烈な違和感と居心地の悪さ、少しの気味の悪さで、志穂は彼の言葉を遮るように声を上げた。
「そ、それより……私の頼みを聞いてくれるんでしょう」
「うん」
「じゃあ、その──その白い杖を、返して」
ありったけの勇気を振り絞って告げた願いに対し、リステスはにっこりと笑った。
「それは駄目」
さすがにここまで堂々と朗らかに前言を翻されるとは思わなかったので、志穂は怒る前に呆気に取られた。
「だって、この杖はもう僕のだからね。それに君に渡したら、きっと君はどこかへ消えていってしまうだろう? そんなのはつまらないよ。僕は君が気に入ったんだ」
志穂は暗澹たる気持ちになった。絶望的な気分、と言い換えてもいい。
リステスはつまり、志穂が彼から遠ざかることは許さないと言っているのだ。
「……気に入ったって、どうして?」
弱い口調で問うと、
「そうだなあ、君が黒髪で、異国人で、ちょっと変わった感じの子だからかな」
どこまで本気なのか分からないような答えを、至って真面目な目つきで言う。
それからリステスはふと思いついたようにこう続けた。
「ああ、でも。この杖のこと、詳しく教えてくれたら考えてもいいよ」
「……杖のこと?」
「どういう謂われがある杖なのかとか、君以外に持ち主がいるならそれは誰か、とか」
杖の本来の持ち主である青年の白い顔が、志穂の実在しない脳裏に浮かんで消えた。
(ラダ……)
離れずに付いていくと約束したのに、こうして離れてしまってから何日が経っただろう。
リステスと話せば話す度、青年がどれだけ親切だったかが身に染みるようだ。
志穂は唇を引き結び、首を横に振った。
リステスの言うことは何一つ信じられない。だが、例え本当に杖のことやラダについて知っていることを話せば杖を返してくれるのだとしても、やはり志穂は何も言わないことを選ぶだろう。志穂が杖を抱えてラダの元に戻ったところを、今度は青年も一緒くたに捕まえられるようなことになっては堪らない。
「そう。ならいいや、この杖は大事にしまっておくからね。でも、後で教えてくれる気になったらいつでも言ってね」
朗らかにそう言うリステスを、志穂は怪訝に思った。
何故、彼は杖のことを知りたがるのだろう。いや、そもそも彼は何故、杖を自分のものにしたのだろう。
人の形見についてやかましく訊ねるのは気が引けたから、志穂は杖についてラダに質問したことはない。ただ、あの杖は、ラダが死霊術士としての力を行使する際に用いられる道具だ。だから杖自体に何らかの特別な力が込められているのだとしてもおかしくはない。ラダと同じく死霊を認識できるリステスが、杖に何らかの力を見出した──というのもありそうなことだ。
それでも、何か引っかかる。
そういえばリステスは杖の材質を気にしていたようだった。石でも木でもない、と。
以前にも杖の材質について語られる言葉を耳にした覚えがある。そう、あれは確か、杖を盗まれた時のことだ。あの時、倉庫にいた盗人たちは何と言っていただろう──。
「殿下」
志穂の思考を遮って、リステスを呼ぶ声が部屋に響いた。
いつの間に部屋にやってきたのだろう、二十代半ばに見える年頃の女性が扉の傍に佇んで、リステスに向かって頭を下げている。褐色の髪を後頭部で一つに纏め、姿勢良く背筋を伸ばしているその姿はいかにも真面目そうだ。
「ご帰還をお待ちしておりました。此度もご無事で何よりです」
「ああ、バーサ。ただいま。留守の間、何もなかった?」
「はい。特に申し上げるほどのことは何もございませんでした。……ところで、そちらの方は?」
ちらりと女性に視線を向けられ、志穂はそれほど驚きはしなかったものの、彼女の視線の冷たさに少し居心地の悪さを覚えた。
「シホだよ。気に入ったんだ」
リステスは笑顔で、紹介にも説明にもなっていないことを言った。
「……さようでございますか」
「この城で困ってたら助けてあげるんだよ、バーサ」
「畏まりました」
バーサというらしい女性は真面目な顔つきのまま答える。
「それじゃあ、僕はちょっと出てくるからね」
そう言うと、リステスは杖を抱えて立ち上がり、部屋の扉を開けて外へ出て行った。
その後を追うべきかどうか、志穂が迷っていると、
「シホ、でしたね」
と、部屋に残った女性に刺々しい声を掛けられた。
「私はバーサ。リステス殿下の侍女として、長らくお仕えしております」
「あ、はい、ええと……岸辺志穂です。はじめまして……」
とりあえず最低限の挨拶はしたものの、好きでこの場にいるわけでもないのに「これからよろしくお願いします」などと続けるのは何か違う気がして、志穂はそれ以上何も言えなかった。そんな少女をバーサはじろりと見下ろす。
「この城に来たからには勝手な行動は慎み、くれぐれも王子殿下にご迷惑をかけることのないように。それと、勘違いなさらぬことです。殿下は毛色の違う娘を面白がっているだけなのですから」
志穂は一瞬ぽかんとして、バーサという名の女性を見上げた。
誰であっても頭を下げて王子に仕えるのが当然だと思っていそうな顔だった。
──勝手に連れてこられて、迷惑をかけられているのはこちらの方だ。
と言い返せれば良かったのだろうが、その勇気が出ないうちに、バーサは志穂を冷たく一瞥すると、扉をすり抜けてどこかへ行ってしまった。
(……本当に、何なんだろう、この人たち)
志穂はもやもやする心を抱えたまま、枷に引きずられる前にリステスを追って部屋を出ることにした。
リステスは城にいくつかある中庭のうちの一つにいた。
中庭では、屈強な男性たちが互いに剣と盾を構えて打ち合ったり、あるいは素手で組み合ったりして、戦いの鍛錬をしているようだ。リステスは杖を抱えてその様子を眺めながら、この場にいる人々の中では一番年嵩で立派な感じのする男性と言葉を交わしている。
今すぐ志穂に話しかけてくる素振りはないので、少し安心して中庭を眺めた。
ここが騎士団の城だというなら、鍛錬している彼らは騎士なのだろうか。
その割には、顔や腕が傷だらけだったり、髪や髭が整っていなかったりして、粗野な風に見える男性ばかりなのはどういうわけだろう。もし志穂が生身の少女のままで出くわしたら、回れ右して逃げ出したくなるような大男もいる。
もっとも、物語の外の本物の騎士というものはこういうものなのかもしれない。ましてや聖ユオル騎士団は世にも悪評轟く非道な集団なのだ。中庭にいる彼らが皆、老人も子供も問わない殺戮に関わっているのかと思うと、胸の中がざわつくように感じる。
(でも、あの人たち……)
平然とした顔で訓練に精を出しているあたり、やっぱり気付いていないのだろうか。
あの気味の悪い曖昧な『影』のようなものが、中庭のあちこちに吹き溜まって、まるで靄かかかったようになっていることに。
今も、取っ組み合っている男性たちの足元にふっと影の一つが現れて、彼らの足を掴もうと曖昧な手足を伸ばすような仕草をしている。けれども影は男性らの踏み鳴らす足音にかき消されて、一旦霧散したかと思うと、少し離れたところでまたあやふやな形を結んだ。
あれらを注視してはいけない、と言っていた死霊の男性のことを思い出す。
彼はこの中庭にいる誰よりも騎士らしい容貌をしていたように思う。あの人は一体何者だったのだろう。
薄気味の悪い光景を眺めながら、そんなことを考えていると、
「おい、そこの黒髪の嬢ちゃん」
いささか乱暴な口調でそう話しかけられた。
こんなにそれぞれ違う人たちに話しかけられる日は、この世界に来て以来のことだ。
そう思いながら振り返った先にいたのは、ラダと同じ年頃、二十歳前後くらいの青年だった。
ひょろりと痩せて背が高く、赤茶けた髪は不揃いで、似た色の目が狐のように吊り上がっている。そしてラダが着ていたものよりも遙かにぼろぼろで継ぎ当てだらけの服を身に纏っていた。
「アンタ、あの王子様が連れてきた奴だろ」
はい、と小さく返事はしながらも、志穂は胡乱げな感情を隠さずに青年を見上げた。
「あの王子様は年上趣味だとばかり思ってたが、異国人の年下のガキでも構わないのな。あんなのに気に入られて、可哀相になあ」
狐に似た風貌で、にやにやとした薄笑いを浮かべながらそんなことを言われても、むしろ反発心が起こるだけだ。
同じ年頃の男性でもラダとはまるで違う。
「そうそう、オレはロイ。嬢ちゃんは?」
「……岸辺志穂、です」
あまり気乗りはしなかったが、一方が名乗っているのにだんまりを決め込むのも気まずいので、小声で答える。
変な名前だな、と青年は臆面もなく呟いてから、
「なあ、突然城に連れてこられたのなら勝手が分からねえだろ。オレが色々と教えてやろうか?」
いかにも親切めいた言葉だが、にやにやと嫌な笑みを浮かべながらこちらを見下ろす素振りといい、馴れ馴れしい感じのする口調といい、このロイという青年は、ラダやジェフのように信用できる人間には到底見えない。
その思いが表に出ていたのだろうか、ロイは目を細めた。
「はは、そんなに胡散臭そうに見るなよ。オレとアンタは似たような境遇の間柄なんだからさ」
「似たような……?」
同じ死霊の身だと言いたいのだろうか。
「そうさ。見れば分かる。あの王子様に向ける目──」
口元を歪める青年の首に奇妙な黒い痕があることに、志穂はふと気が付いた。
不自然なほど黒々としたそれを思わず注視すると、ロイもまたそれに気付き、一瞬笑みを消した。
「ああ、これがなんだか教えてやろうか」
そう言って、手を伸ばしてきたロイに手首を掴まれる。かすかにひやりとした気がしただけで、あとはまったく体温の感じられないその手の感触にぞっとする間もなく、胸が軋み、視界が揺らめいた。
そうして脳裏に浮かぶものを、志穂は見た。
ロイと名乗った赤茶けた髪の青年が、首に縄をかけられているところを。
だらりと手足を伸ばした格好で台から吊られて、ゆらゆらと揺れている様を。
──そして少し離れたところでそれを眺めている、美しい少年の退屈そうな顔を。
息を呑み、目を見開いた少女を見て、ロイは低く笑った。
「オレはな、ドブ溜めみてえな場所に生まれて、生きるためには何でもやった。盗むためには人も殺した。けどな、あの王子様ほど殺しちゃいねえぜ」
胸の内を突き刺すような激しい感情。これと似たものを以前も感じた。
「それでもオレは薄汚い盗賊として首吊り台送り、王子様は綺麗なお顔で今日もご機嫌だ。これ以上不条理なこともねえよなあ?」
怒り。憎しみ。──そして、生者への恨み。
無惨に命を奪われた死者の怨念──カレンの時と同じ感情が志穂の中で暴れている。
けれど、今こうして志穂の胸を苦しめるそれは、果たして本当に青年から来るものなのだろうか?
「分かるだろ、アンタなら。分かるよなあ。だって、アンタも──」
志穂はとっさにロイの手を振り払った。
赤茶けた髪の青年から、彼がもたらす負の感情から逃げるように踵を返す。
中庭から離れようとする志穂の背中に向けて、嘲笑うような声が投げかけられた。
「これから仲良くしようぜ、お嬢ちゃんよ」
中庭を飛び出し回廊を駆け出してそう間もないうちに、見えない壁が行く手を阻んだ。志穂は先に進むための無駄な努力をする気にもなれず、しばらくその場で一人うずくまっていた。
ロイは追いかけてはこなかったし、城までの道中とは違い、リステスもわざわざ探しには来なかった。
次第に日が落ちはじめ、灰色の城にも宵闇が迫り来る。
回廊からも、城内に灯された明かりが窓からほのかに零れているのが見えた。
けれども人気のない回廊は深まる闇に呑まれたようで、少女の孤独をますます深める。
城には死者を見る力を持つリステスがいて、何人もの死霊がいる。その気になれば対話する相手には困らないのに、無言のラダの後を付いていくしかなかった旅の間よりも、今の方がずっと孤独に感じる。
このままここでこうしていても仕方がない、そうは思うがリステスの元へ戻る気も起こらず、志穂はふと下を向いた。
そして眉をひそめる。
足元の暗闇の中に、何かがうごめいているような気がした。よくよく見ると、それはあの得体の知れない影と同じ存在のようだ。気味悪く感じた志穂が数歩後ずさり、その影から離れようとした途端、影の曖昧な手が伸びてきて志穂の足を掴んだ。
感触はなく、体温もない。
けれども確かに影は志穂を捕らえている。その証拠に、掴まれた足を動かそうとしても動かない。
(何、これ……)
悪寒を覚えて身を竦ませる志穂に向けて、影の手がもう一本、また一本と伸びてくる。
まるで、志穂を闇の中へと引きずり込もうとするかのように──。
「散れ」
低い、けれども鮮烈な男の声があたりに響いた。
と同時に手首を掴まれ、ぐいと引っ張られる。影に掴まれていた足からその手が剥がれた。
影たちはどこか口惜しそうにその手を彷徨わせてから、ふっと霧散するように消え失せた。
「忠告したはずだ、娘。あれらに近付いてはならぬと」
「あ……」
志穂を引き寄せたその男は、あの騎士のような風貌をした死霊だった。
「あ、ありがとう、ございます……」
まだ動揺の収まらない頭で、どうにか礼だけを述べると、騎士の霊は厳しげな表情のまま頷いて志穂から手を離した。
「あれらは、死霊の成れの果て。……海のかなたに行けぬまま自身の形を失い、怨念そのものと成り果ててしまったモノたちだ。強い意志をもって拒まねば、怨念に取り込まれてしまう。心せよ、次もこうして私がそなたを助けられるとは限らぬ」
どこか突き放したようにそう言うと、彼は踵を返した。
「娘よ、この城を離れられぬのなら、せめて強く心を持て。自分の身は自分で守ることだ」
そして、先刻と同じように、少女の前からさっさといなくなってしまう。
待って、と呼び止めようとして躊躇う。
そのまま消える騎士を見送ると、志穂はふと項垂れた。
(私……何してるんだろう)
杖を取り返すこともできないまま、こんな城まで連れてこられて、ただ怯えて縮こまるだけで。
挙げ句に得体の知れない影に捕まって、人に助けられて。もしあの騎士がもう少し親切めいた態度を取っていてくれたら、きっと寄り縋っていただろう。今までラダに頼り切っていたのと同じように。
自分が何も判断のできない迷子になったようで、ひどく情けない気持ちになる。
いや、実際にその通りなのだ。
故郷から遠く引き離され、見知らぬこの世界に霊として身を置いてから、もう幾日が経っただろう。
何も分からぬその最初からラダという青年の傍にいられたことが、どれだけ自分を孤独と寂しさから掬い上げてくれていたことか。彼という導き手を得られたことが、どれだけ幸運だったか。志穂は改めて実感した。
(……今までが、恵まれてたんだ)
ラダとの間に感じた彼との溝はそう簡単に埋められるものではないが、それでもこうして離ればなれになった今、彼の今までの優しさが一層懐かしく思える。
けれども、もういくら怖がっても寂しがっても慰めてくれる者はいない。親身になって助けてくれる者もいない。あの騎士のような死霊の男性も、言うだけ言ってさっさとどこかへ消えてしまった。
見知らぬ世界で死霊として目覚めてから、ずっと傍にいてくれたラダはここにはいない。
志穂は目を伏せ、小さく拳を握りしめた。
この灰色の城の中で、本当に信用し、頼れるのは自分だけ。
これから何をなすべきか、どう気を付け行動するべきか、考えられるのも自分だけ。
──自分自身だけなのだ。