プロローグ
いつの間にか見知らぬ場所に立っていると気付いてからこの方、一体何度「これは夢だ」と思ったことか、志穂にはもうよく分からない。
そもそも、はじめからおかしなことばかりだった。
中学校に登校しようとしていたはずなのに、黒いセーラー服を着たままで奇妙な絵が描かれた石床の上に立ち尽くしていたことも奇妙なら、その周囲に山ほどの人間がいて、とても日本人には見えない彼らが皆、一様に志穂の方を見つめていることも奇妙極まりない。
おまけに老若男女を問わず歓喜の声を上げ、涙ぐむ者まで続出していることなど、夢だと思わなければとても理解のしがたい、奇妙で奇怪な出来事である。
だが、それだけならまだ良かった。
夢だとしても、人が何やら喜んでいる光景を見るというのは、そう悪い夢ではない。
問題は、何度「これは夢だ」と念じても、一向に目覚める気配がないということだった。
群衆の中から裾の長い服を着た老人が進み出て、やはり涙ぐみながら、志穂に向かって意味不明な外国語で話しかけてきたので、どうすればいいのか困っていたのは確かだ。
けれども彼女の困惑を違うものに塗り替えたのは目覚めではなく、突然響いた悲鳴だった。
男のものか女のものかも判別できないほどの金切り声は、志穂を取り囲んでいる群衆の背後から聞こえてきたようだった。
悲鳴はすぐに怒号に代わり、また悲鳴と怒号が交錯した。
訳の分からないまま、志穂は狼狽した様子の老人に腕を引かれ、傍にいた幾人かの女性に囲まれて、その場から離れた。
右往左往する人々の間をすり抜けて、扉を潜り、見知らぬ建物の内部を駆ける。どこをどう走ったのか、息が切れそうになった頃に、胸や腕に衝撃が走った。
膝からその場に崩れ落ちた志穂と同じように、老人や女性たちもまた、地面に膝をついていた。中には顔から倒れ伏している者もいた。
慌ててすぐに立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。
不意に、視界がぱっと赤く染まった。
それが血の色だと気付くのに、随分時間がかかった。だが何故血が視界を赤く染め上げているのかということについては、志穂の理解の及ぶところではなかった。
気付けば、彼女の身体は地面の上に横たわっていた。
視線の先では、赤く染まった老人や女性たちが、志穂と似たような姿勢で倒れている。
(──痛い)
呻こうとして、あまりの痛みにそれすらも叶わなかった。
志穂には分からなかった。
どうしてセーラー服が赤く染まっているのか、どうして身じろぎしようとするだけで呻くことすらできないほどの苦痛に襲われるのか、どうしてあの老人たちはあんなに赤く濡れていて、まるで壊れた人形のように動かないのか。
何一つ、志穂には理解できなかった。
──これが夢ならば、どうして未だに覚めないのか。
どれほどの時間、堪え難い痛みと共にいただろう。何時間も経っているような気もしたし、まだほんの一瞬しか過ぎ去っていないような気もした。
強い血の臭いのせいで、嗅覚はすっかり麻痺してしまっている。
つい先程まで、遠くから近くからひっきりなしに上がっていた悲鳴や怒号も、今はもう聞こえない。
視界は霞み、痛みに耐えて伸ばした手も虚しく空を切る。
周囲に倒れ伏した人々はもう起き上がらない。
夢は未だ覚める気配がない。
彼女に残っているのは、痛みだけ。
胸や腕に突き刺さったいくつもの矢と、切り裂かれた腹がもたらす、苦痛だけだった。
……ふと、志穂は、誰かが自分の顔を覗き込んでいることに気が付いた。
いつからそこにいたのだろう。
死体の散らばる空間にはまったく似つかわしくない、輝く月の光に似た金の髪に深い海のような青い目をした、美しい少年だった。
その整った顔立ちは、まるで精緻な彫像のようだ。造形美、という言葉がこれほど似合う人間はこの世にいないのではないかとすら思える。
その美しい少年が、じっと志穂を見つめている。
二つの青い瞳の表面に、血塗れで倒れ伏すセーラー服の少女の姿が映り込んでいる。
(──たすけて)
声を上げようとしても、喉から出るのは荒い呼吸ばかりだ。
もう手を伸ばすための体力もなく、瞼を動かすことすら苦痛に感じる。
(いたい……たすけて……)
それでも少女は少年に向かって、必死に訴えかけようとした。助けてくれと。
こんなところで、こんな風に、死にたくない。
死にたくないのだと。
「──」
少年は何か哀れむような調子の言葉を、微笑みと共に呟いた。ぞっとするほどに美しく、邪気のない微笑みだった。
微笑んだまま、彼は腰に吊るした剣を鞘から引き抜き、振り上げた。
鋭利な刃が白銀に光り、
(たすけ……)
体を貫いた衝撃と共に、少女の意識は闇へと落ちた。