合唱と緊張と
「人見君だっけ?これからよろしくね!」
今日、僕のクラスである2年3組で席替えがあった。席替えはくじで行われ、僕は運よく窓際一番後ろの席を確保することに成功した。これだけでも非常に喜ばしいことだが、さらに運のいいことに僕の隣の席は、個人的クラス美人ランキングでトップの羽生さんだ。今はちょうど席移動が終わったところで、クラスメイト達が各々楽し気に話す声が聞こえてきた。
「うん、よろしく」
僕らは軽く挨拶を交わしたのち、担任が今後の予定について話すのを聞いた。予定と言っても中一だった去年とやる行事は対して変わらず、合唱祭が再び行われるらしい。僕はすこし憂鬱な気分になった。ふと、隣を見ると相変わらず楽しそうな顔で担任の話を聞く羽生さんの姿があった。僕はつい彼女の横顔をまじまじ見てしまい、羽生さんに気付かれてしまった。羽生さんはニコッと微笑んだが、僕は慌てて目をそらした。
担任の長い話も終わり僕らは放課後となった。帰り際、羽生さんは僕に「またね!」と言ってくれた。僕はそれをドギマギした気持ちで返して、帰宅した。
帰宅したのち、僕はすぐに着替え日課のカラオケへと向かった。初めて来たときは時間がかかった入店手続きも今ではスムーズに行ける。カラオケ入店スピード対決なら世界も狙えるかもしれない。僕はそんなことを考えながら、指定された部屋に入り早速曲を入れる。僕が入れた曲はオアシスの『ドントルックバンクインアンガー』だ。小6のときユーチューブでこの曲を聞いたとき、子供ながらになんていい曲なんだと思った記憶がある。それ以降、僕は歌の世界にのめり込み、今では週3でカラオケに行っている。
気持ちのいいラスサビが終わり、点数を見ると92点と表示された。ここ最近はなぜか1曲目だけ点数が低い状況が続いていたが、自分の十八番ともいえるこの曲で低い点数を取るのはなんか嫌だった。負けっぱなしはいやなので再びこの曲を入れた。結果は96点。僕はすがすがしい気分で次の曲を入れた。
2時間ほど気持ちよく歌ったところで僕はカラオケを後にした。外はもう暗く、初秋の気持ちのいい夜風が吹いていた。僕はそれを全身で浴びながら家路についた。
次の日、僕が学校に行くと僕の席にだれか座っていた。よくよく見るとそれは隣のクラスの嵐山君だった。彼は羽生さんと楽しそうに話しており、なんだか複雑な気持ちになった。僕が席に近づくと、それに気づいたのか嵐山君は「それじゃあな」と羽生さんに挨拶して彼のクラスに戻っていった。羽生さんは彼の後ろ姿を恋しそうに見つめており、なんとなく察してしまった。僕が席につくと「人見君おはよ!」と声をかけてきた。
「あ、うん。おはよ」
いつもなら普通に返せるのに、なんかうまく挨拶できなかった。こんなことで動揺してる自分がなんか悔しくて、そんな気持ちを振り払うように色々話してみることにした。とりあえず部活から聞いてみようと思って、僕らは軽い世間話をして、話題はつい先日行われた体育祭のこととなった。
「てか、体育祭ほんと惜しかったよねー」僕がそう切り出すと
「ねー。マジであとちょっとだったよね」羽生さんはうんうんとうなずいた。
「最後のリレーさえ勝てれば優勝あったのにね」
「確かに。まぁでも、楽しかったからいいかな。みんなのいろんな一面見れてほんと良かった」
羽生さんはしみじみと言った。
「体育祭と言えば、部活対抗リレーも楽しかった。最後までどこが勝つか全然わからなくて観戦してるこっちまでドキドキしちゃった」
僕が言うと、「ほんとそう。手に汗握る戦いってこのことじゃんって思ったよ」羽生さんは興奮した様子で答えた。この流れで僕は聞いた。
「そういえば、羽生さんは部活何入ってるの?」
なんか緊張して声が少し震えた。
「私?私はバレー部に入ってるよ。ほら、こんな感じでばちーんとやるやつ」
羽生さんはバレーのアタックの真似をしながら僕に教えてくれた。その様子が可愛くて心臓がドキッとした。
その後も色々話して、彼女が去年は1組だったことや運動がかなり得意で体力テストで学年10位以内だったことなどいろんなことを知った。彼女のいろんな一面を知れてうれしかったのか、その日一日、僕は高いモチベーションで授業に臨むことができた。
放課後になり、「また明日ね!」と言う羽生さんを見送ったのち、僕は書道部へと赴いた。書道は別に嫌いではないが、僕がこの部に入ったのはある目的があったからで、その目的が達成された後はあまり足を運ばなくなっていた。今日だって部室にくるのは2週間ぶりだ。僕はやや緊張しながら部室のドアを開けると、静寂の中にあるピリついた空気がバチバチと僕の顔を打つ。この空気感だけは好きだ。ここにくると自分の感覚が研ぎ澄まされたように感じる。
「やぁ、人見君。久しぶりじゃあないか」
ドアの一番近くに座っていた男子が僕に声をかけた。彼の名前は久喜省吾。書道部部長で、彼だけは毎日真面目に部活に来ている、はっきり言って変わり者だ。部室全体を軽く見まわしたが、どうやら今日も久喜君だけのようだ。
「久しぶりだね、久喜君」
「うむ、まぁとにかくここに座りたまえ」
そう言って久喜君は自分の隣の席をポンポンとたたいた。僕はお言葉に甘えて座らせてもらうことにした。
「それにしても、人見君が来るなんて本当に珍しい。一体どういう風の吹きまわしかな?」
久喜君は僕をまじまじ見ながら言った。
「いやね、今日のお昼休み顧問から呼び出されて、最低でも一週間に一回は部室に顔を出すようにって言われたんだよね。だから来たってわけ」
「なるほど、なるほど。そういうことであったか。でも、せっかく来たんだから一枚くらい書いてくだろう?」
久喜君は半紙をぺらぺらさせながら言った。確かに、たまには書いてみるのもいいかもしれない。
「そうだね、やってみようか」
僕がそう言うと久喜君は満足そうに笑って、半紙を僕に渡した。
「では、文字は『歌』にしよう。君は確か歌が好きだったからね」
僕がそれに従い、2人で書き始めた。が、僕は一画目を書くことができなかった。なぜだかわからないが、手が震えてしまって狙いが定まらない。それどころか筆の持ち方はこれであってるよな、など疑心暗鬼になるばかり。そうして僕が息を整えたり、姿勢を正してみたり色々試しているうちに久喜君は書き終わってしまった。
「大丈夫かい、人見君」
僕の様子を見かねたのか、久喜君が心配そうな目で僕を見つめる。
「なんか久しぶりだからなのか、手が震えてしまってね。それにしても久喜君は相変わらず上手だね」
僕はおどけた様子で話をそらしたが、久喜君はずっと僕を見つめたままだ。
「もしかしてだけどさ、人見君。君、再発したんじゃないのかい。例の症状」
「そんなわけないだろ、去年あんだけ苦労して直したんだから」
思わず声が大きくなってしまった。だが、僕自身そんなこと信じたくなかった。
「本当かい?なら、今日部活を切り上げて一緒にカラオケに行こうか」
そう言って久喜君は荷物を片付け始めた。
「え、カラオケ?」
「そう、それが一番手っ取り早いからね。さぁ、行くよ。人見君も荷物片づけて」
久喜君は僕をせかすように言い、僕は慌てて荷物を片付けた。そして、問答無用といった感じで久喜君は僕をカラオケに連れて行った。
昨日も行ったカラオケに入り、入店手続きを済ませ部屋に入ると久喜君は言った。
「さぁ、君が本当に再発していないというなら歌って見せてくれ。短い曲でも長い曲でもなんでもいいから」
久喜君は僕に曲を入れるタブレットを手渡した。僕はおとなしくそれに従い、オアシスの十八番を入れることにした。僕自身、去年散々苦しめられた症状が再発してるなんて信じたくなかった。
イントロが流れ出し、音程バーが現れ僕は歌おうとした。が、全く声が出なかった。出そうとしても、かすれた声しか出てこない。それどころか手が異常に震えて、だらだらと冷や汗が流れるのを感じる。僕は何もすることができないまま曲はどんどん流れ続け、一番が終わってしまった。
その時、久喜君が演奏中止のボタンを押した。その顔はどこか悲しげだ。
「やっぱり、再発してしまったんだね…」
なんだか泣きそうになり、僕はその場に座り込んだ。
一体いつごろからこうなったのか、明確なきっかけはわからない。だが、僕がこの症状に気づいたのは小6の時だ。その頃僕はオアシスをはじめ、様々なロックバンドにはまっていた。その中で僕もこれらの曲を歌ってみたいと思うようになり、友人を誘ってカラオケに行った。カラオケは楽しく進み、僕が歌う番になったとき、それは起こった。
そう、全く声が出なくなったのだ。その時はのどの調子が悪いとか適当な言い訳をして事なきを得たが、それからだ。僕がみんなの前で何かしたり、最初に何かをしたりすることができなくなったのは。
小6の時こんなことが起こった。その頃運動会に向けて長縄の練習を僕らはしていた。クラスメイトが一列に並んで一斉に飛ぶやつじゃなくて、八の字になって飛ぶやつだ。速いテンポで次々とクラスメイトが縄に飛び込み飛んでいく。が、僕の前にいた子が引っかかってしまった。流れが途切れ僕が一番に縄に飛び込まなければならなくなった。縄は再び地面をパチンパチンとたたきながら高速で回転している。
僕は何度となくタイミングを計り、縄に飛び込もうとしたが一歩も足が動かなかった。タイミングを計れば計るほど、進めなくなり、クラスメイト達の視線は針のように鋭かった。
「頑張れー」「集中だよー」
などの声援が飛んでくる。その声がよりプレッシャーとなって僕の足を固定した。
ちょうどその時、練習の終わりを告げるチャイムがなり、その場はお開きとなったが、僕は自分自身が情けなくて死にそうだった。
他にも、卒業式の時一人一人が名前を呼ばれて返事をしなければならないとき、僕だけほとんど声が出ず、周囲からは軽いざわめきが起きたのをよく覚えている。
そういうことがあって、僕はこれを直そうと決意し中学校に入学した。だが、緊張の治し方なんてまるで分らなかった。部活を通して直していきたいと思って色々見て回ったが、どれもいまいちピンと来なかった。そうして、肩を落とした僕はとぼとぼと校内を歩いていた。そんな時だ、書道部を見つけたのは。
「お邪魔しまーす」
おずおずと書道部の戸を開けると、真剣な表示をした男子が4人真剣な表情で文字を書いていた。そのピリピリとした空気に僕は思わず後ずさりしてしまった。
「お、いらっしゃい。1年生かな?入って入って」
部長っぽい人が僕を手招きして呼んだ。彼は隣にあった椅子を指さし僕に座らせた。
「えっと、僕は北本、この書道部で部長を務めている。君の名前は?」
「あ、僕は人見って言います」
「人見君か、うん。人見君はどうしてうちに?書道とか興味ある?」
「あ、えっと、そういうわけじゃなくて」
「なら、どうして?」
部長が僕を見つめる。僕は本当のことを言おうか言わないか迷った。来て早々、こんな重い話を知らない人にしたくはなかった。だけど、部長の真剣な瞳を見てるとこの人なら打ち明けてもいいかもと思えてきた。
「あの、僕、人前で何かをやろうとすると足がすくんで動けなくなっちゃうんです。何でかわからないですけど。それでその、何か解決方法があればいいなと思って色々部活を見て回ってたんですけど、どの部活もそれを直せると思えるものはなくて。今回書道部に来たのもほんとになんとなく立ち寄っただけです。あのいきなり来て、こんな話しちゃってすいません」
こんなこと今まで人に言ったことなくて、気恥ずかしさから僕は下を向いた。部長は黙りこくっていた。いきなりこんな話して困惑してるよなと思って、僕は荷物を持って帰ろうとした。その時、部長が僕の手をぎゅっとつかんだ。
「待ってくれ。君のそれ、頑張ればうちで治せるかもしれない」
思わず僕が部長の方を見ると、彼はまっすぐな目で僕を見つめていた。
「えっと、どういうことですか?」
書道で僕の状態が治せるとは到底思えなかった。だが、今は少しでも希望にすがりたかった。
「それはね、実は僕も昔同じような症状に悩まされていたからだよ」
「ほんとですか!?」
僕は思わず聞いた。すると彼は「うん」とうなずいた。
「僕も君くらいの時同じような症状に悩まされていてね、どうすればいいか本当にわからなかったんだ。だけどそんなときにね、今は卒業しちゃったけど書道部にいた先輩からある言葉をかけてもらってね」
「ある言葉?」
「そう、彼はね、『そんなに人前で緊張しちまうってんなら人前に立ってることを忘れちまうくらい集中しちまえばいい』とそう言ってくれたんだ」
集中?そんなことできたら苦労はないだろうとそう思った。すると、そんな考えが顔に出てたのか部長は見透かしたように言った。
「僕もね、その人にそんな簡単に集中できたら苦労しませんよって言ったんだ。そしたら彼は呆れた顔でこう言った。『馬鹿かお前。それを鍛えるために書道部があるんだろうが。いいかよく聞け。書道ってのはな、この世のどんなものより神経遣うものなんだよ。なんせ筆の置く位置をすこし間違えただけでその作品は駄作になっちまうからな。駄作にしないためには集中するしかねぇ。それも生半可な集中じゃだめだ。そんなんじゃ、作品の途中で崩れちまう。大切なのは本気で集中することだ。周りのことなんか一切忘れちまうくらいにな。そうしたらもう最強よ。何をやってもお前は上手くいく。だからな、これから一緒に練習していこうな』と彼は言ってくれた。その言葉が僕を動かして、なんとか克服することができたんだよ」
部長は昔を懐かしむようにしみじみと言った。僕は、名も知らぬ部長の恩師の言葉を頭の中で何度も反芻した。正直、僕にはない発想だったから。
「君にもこの方法が当てはまるかはわからない。僕と君は違うからね。でも、試す価値はあるんじゃないか」
そう言って、部長は僕に手を差し伸べた。正直今でも半信半疑だ。だけど、試す価値はあると思った。僕は部長の手を取り、「書道部に入部します」と言った。
それから、久喜君をはじめ3人ほど書道部に入部してきた。僕たち新入生4人と先輩4人で新生書道部の活動が始まった。部活仲間たちは本当に優しくて、僕の悩みも真摯に聞いてくれた。
書道部での集中力を鍛える訓練とはつまるところ、ひたすらに字を書くことだった。ただし漫然と一日に何枚も書くのではなく、一日一枚、そしてその一枚を部員全員で審査してその日は良かったとか悪かったとかを決めるというものだった。また、書いてる最中は誰かがその様子を見るといった感じで、集中ができないと間違いなく駄作が出来上がる仕様になっていた。
僕は後で審査されるということを考えると、筆を持つ手にはますます力が入り大きなプレッシャーが僕を襲った。はじめのころは、書道経験があまりなかったというのもあるが、何よりプレッシャーから一画目を置くことができなかったり、置けたとしてもダメダメな字が出来上がったりした。失敗したときは決まって
「ドンマイドンマイ。だいじょーぶだよ。焦らず少しずつ行こう」
と部長が声を掛けてくれた。また、
「おいおい、またできなかったのかよーしっかりしてくれよなー」
と極めて軽い感じで先輩が声を掛けてくれた。こんな風に深刻にならず軽い感じで励ましてくれたことは、事態を重くとらえがちな僕にとって非常にありがたかった。
こんな風に継続的に練習して、半年ほどたったある日。
「できた!」
僕はその日、僕が書いているのを監視しプレッシャーを与える係だった久喜君の方を見た。久喜君はニコッと笑い僕に向かってサムズアップした。するとそんな様子を見ていた部長が近くに寄ってきて僕の字を見つめた。しばしの沈黙の後
「完璧だよ、人見君。お手本のとおりの美しい字だ。無事、まっすぐに集中できたんだね」
そう言って微笑んだ。そう言われたとき僕は感極まって泣きそうになった。これが、僕が人に認められた初めての経験だったから。
「はい!ありがとうございます!なんか今回は僕自身、久喜君が僕を見てるはずなのにそんなこと一切気にならなくてただ目の前のことに集中できたんです!」
興奮して部長に伝えると部長はうんうんとうなずき言った。
「その感覚を忘れないようにね」
その言葉を胸に刻んだその日から、僕はコツをつかんだのか1つの物事に完璧に集中するすべを身に着け始めた。書道は言わずもがな、授業でクラスメイトの前に立って何かをやるときでさえ僕は緊張をほとんど感じることなくこなすことができた。
それは、カラオケにだれかと行った時も同様だった。中学1年の冬、僕がこの症状に気づいたきっかけであるカラオケに部活メンバーで行くこととなった。
「人見君は普段カラオケとか来るのかい」
部長が聞いた。カラオケへ続く長い一本道、ガードレールの向こうからは車がひっきりなしに通っている。
「一人ではたまに。でも、この症状に気づいてからは人と来るのは初めてです」
僕がそう言うと、部長はきまりが悪そうにした。
「そうか、そんな無理はしなくていいからね」
「いえ、むしろこの機会に克服したいので大丈夫です」
カァとカラスの鳴き声が聞こえてきた。部長は一瞬驚いたようだったがしみじみとした様子で僕に言った。
「人見君は本当に成長したね」
カラオケにつき、案内された部屋に入り、早速順番に歌うこととなった。
最初は部長からだった。部長が音楽を聴いてるイメージが全くなくて何を歌うのか、僕は内心ワクワクしていた。そして画面に表示された曲名は、なんと『ウルトラソウル』だった。
「え!」
僕は思わず声を出してしまった。するとそんな様子を見た先輩がわかるわかるといった感じでうなずいた。
「まぁ、一回聞いてみろよ」
そして、曲が始まると部長は雰囲気が変わり集中しているのがはたから見ても分かった。彼は見事な高音を響かせ完璧に歌い切った。そして点数は93点。部長が満足したような顔でいるのとは対照的に僕はあっけにとられてしまっていた。
「見たろ、あいつマジで歌うまいんだよ」
先ほどの先輩が僕に耳打ちした。人には意外な一面があるもんだと思っていると、次の人が歌い始めた。部長に続くようにアップテンポの曲だ。みんなで盛り上がり、とても楽しい時間だった。
そして、ついに僕の番がやってきた。僕の入れる曲は、リベンジの意味を込めてオアシスの『ドントルックバックインアンガー』だ。機械から何度となく聞いた美しいイントロが流れ出し、僕は歌う準備を整えた。集中、そう自分に念じ機械から流れるメロディーと音程バーのみを意識に入れそれ以外の情報をシャットアウトした。
そこから歌っているときの記憶はあまりないが、とにかく歌いきることができたことだけは覚えている。何とか歌いきると、周りにいた部員たちが拍手していることに気が付いた。彼らは驚いた様子で感想を言い合っていた。
「人見君めちゃくちゃ歌うまいじゃん!」「サビまじでやばいんだけど」「こんな歌うたえたらモテモテだろー」「こんな歌うまいなんて聞いてないよ!」「俺、この後歌うの気まずすぎるんだけどー」
そんな様子をあっけにとられて見ていた。すると、画面に点数が表示された。95点。これが僕の点数?画面の表示が全く信じられなかった。
「やるじゃん、人見君」
部長が僕の肩をポンッとたたいた。そして、
「これで苦手克服だね」
そう言って彼は微笑んだ。
僕は顔がにやけるのを止められなかった。きっとはたから見たらきもい顔になっていると思う。でも、この気持ちを抑えられずガッツポーズをした。
「はい!やってやりました!」
その日から自信のついた僕は、友達と一緒にカラオケに行ったり授業でも躊躇なく手を挙げたりと積極的に人前に立てるようになった。この期間は僕にとって最も充実した時期だったと思う。
だけど、自信がついたからだろうか。先輩たちが3月に卒業してから僕が書道部へ足を運ぶ機会は少なくなっていた。以前は毎日通っていた書道部へ行くことが、週3、週2、週1とどんどん減っていき、そして今では2週間に1回といったペースになった。
「やっぱり、再発してたんだね」
座り込む僕に対し上から久喜君が言った。
「う、うるさい!そんなわけないだろ。ちょっと貸してみろ、もう一回やるから」
僕は久喜君から強引にタブレットを奪い取ると再び同じ曲を入れた。
「いいか、見てろよ。絶対大丈夫だから」
イントロが流れ出す。やってやる!とそう内心活き込んで僕は声を出そうとした。が、結果は変わらず、メロディーだけが寂しげに流れていた。
なんで、なんで、なんでだよ!僕はソファーを殴りつけた。感情が爆発して、なんだか泣きそうになってくる。口には鉄の味が広がった。
「人見君、また書道部においで。もう一回集中の仕方をおぼえなおそう」
久喜君は僕を慰めるように言った。だけど、それが僕を憐れんでいるように聞こえてますますイライラした。
「う、うるさい…」
僕はそれしか言えなかった。自分がダメになっているのを認めるのが怖かった。久喜君の言っていることは正しいって分かっている。でも、僕のくだらない自尊心がそれに従うことを許さなかった。
僕が何も言えず、じっと黙りこくっていると久喜君は軽くため息をついて言った。
「今日はもう帰ろうか」
なんでかはわからないが、その発言が一番心に来た。掌に何かが流れるのを感じる。見てみるとそれは僕の血だった。あんまり強く握って血が出たのだろう。
僕はふらふらと立ち上がり、久喜君とともにカラオケを後にした。そして久喜君との別れ際、彼は言った。
「また、書道部来なよ。僕はいつでも待っているから」
僕は何も言えずその場を立ち去った。
もやもやした気持ちを抱えたまま朝を迎え、最低のモチベーションの中僕は学校に行った。
教室に入ると僕の席にまた嵐山君が座っていた。なんか自分がみじめに感じて、僕はホームルームのチャイムがなるまでトイレにいた。
チャイムが鳴り教室に戻ると、嵐山君はすでにいなかった。僕は少し安心して席に向かうと羽生さんがあいさつしてきた。
「おはよ、今日遅かったね」
「ああ、まぁちょっとね」
なぜか羽生さんの目を見れなかった。
「ふーん」
担任が教室に入り、今日の予定を話していた。どうやら今日の放課後から合唱祭の練習が始まるらしい。去年もそうだったが放課後1時間ほど拘束されるのはなかなか面倒で、憂鬱な気持ちになった。
僕の学校の合唱祭は学年ごとにクラス対抗で合唱をして、どこが最優秀賞かを決めるって感じだ。僕のクラスが今年歌う曲は『心の瞳』で、投票で満場一致で決まった名曲で僕自身も結構好きな曲だ。
その後ホームルームが終わり、1時間目の数学の準備をしていると羽生さんが僕の目をじっと見てきた。その大きく切れ長な瞳から逃げるように僕が視線を逸らすと、羽生さんは首をかしげながら言った。
「人見君、なんか今日いつもとちがくない?」
「そう?別にいつもと一緒だと思うけど…」
僕は弁明したが、彼女は釈然としない様子だった。だが、めんどくさくなったのか
「まぁ、いいか。それより今日の合唱練習頑張ろうね!なんせ人見君は歌がうまいらしいから、期待してるよ!」
羽生さんがニコニコしながら言った。どうして僕の歌のことを知ってるんだろうと気になったが、ちょうど1時間目を知らせるチャイムが鳴ってしまい、尋ねることはできなかった。
その後大した出来事が起きるでもなくいつも通りの6時間が過ぎていった。そしてあっという間に、帰りのホームルームになった。
帰りのホームルームでは、担任が明日の連絡事項を伝えていた。どうせいつもと同じだと適当に聞き流しながら、ふと外を見ると今にも雨が降りそうな黒々とした雲が空を覆いつくしていた。強風が窓を打ち付け、ガタガタと音を鳴らしている。これは一雨ふるなとボーっと考えていると、周りのクラスメイト達が続々と立ち上がり廊下へ向かって行ってるのに気づいた。彼らはみんな合唱で使う楽譜を持っていた。僕は以前配布された楽譜を手に取り、慌ててみんなについていった。隣のクラスから歌声が聞こえる。他のクラスは教室で練習のようだった。なら、僕らはどこへと思いながらついていった。
目的地は音楽室だった。なるほど、今日はここで合唱の練習か。音楽室を見回すと音楽教師の大宮がピアノの前で座っているのが見えた。クラスメイト達もそわそわしているようだ。
音楽教師と担任は協力して合唱の隊形を整え始めた。まず男女別に身長順に並べ、より小さい半分は前に並び、より大きいもう半分は小さい生徒の後ろに並ばされた。そして、男女の境目である真ん中を起点に端に行くほど身長が大きくなるようにしていた。
僕は大体中くらいの身長だったので、後列の女子の隣の場所になった。ふと隣を見ると羽生さんがいた。最近なにかと縁があるなと思っていると、羽生さんと目が合った。
「お、隣は人見君か。よろしくね!」
「うん」
僕は前を向きながら言った。合唱の隊形を組んだ僕らの前で指揮者の春日部さんとピアノの親鼻さんが立っていて、大宮と何やら話し合っていた。そして、話し合いが終わったのか伴奏者はピアノの前に座り、指揮者はどこから持ってきたのか台座の上に上った。
「じゃあ、みんな楽譜を持ってー!一回通して歌ってみるよー」
春日部さんが僕らに声を掛けた。僕らは楽譜を開いて歌う準備を整えた。
そして彼女が手を挙げるのと同時にピアノ演奏が始まり、僕らは歌い始めた。僕もカラオケとか人前で歌うことはできなくても、みんなに紛れることができる合唱はできるので、僕は昨日の鬱憤を晴らすようにのびのびと歌った。
その間、担任は扉によりかかりながら僕らの合唱を聞いていた。一方で音楽教師は僕らの周りをぐるぐる回り、時には生徒の顔の隣に顔を近づけていた。
しっかり歌っているかの確認かなと思いながら歌っていると、大宮は僕の方にも近づいてきた。大宮は顔を近づけることこそしなかったか、僕の後ろを何やらぐるぐる回っていた。
そして無事歌い終わると、大宮が僕らの前に拍手をしながら出てきた。
「みなさん、初めてとは思えないほど上手です。特にピアノの親鼻さん、素晴らしい演奏でした。えー、そして今回の合唱祭、皆さんにはまだ伝えていませんでしたが一つ今までと違う変更事項があります!」
僕の周囲がざわめきだつ。僕自身もまるで見当がつかなかったので大宮の次の言葉を待った。
「はいはい、皆さん静かに。えー、今回から曲の一部のパートでみんなの中から誰か一人、前に出てきて歌ってもらおうと思います!」
「えー!?」
みんなが声を上げる。そんな公開処刑みたいなことするのかと思いつつも、選ばれるのは誰かななどと僕は楽観的に考えていた。が、そんな考えは大宮の次の言葉で粉々に打ち砕かれることとなる。
「そして今歌ってもらった中で誰がいいと思うか、先生が判断させてもらいました。その結果今回ソロ歌唱してもらうのは、、、人見君です!」
クラスメイトの視線が一斉にこちらを向いた。隣の羽生さんなんかびっくりしたようにこちらを見ている。
「は?」
僕はそれしか言えなかった。まるで意味が分からなかった。どうして俺なんだ。しかもよりによって、人前で歌えなくなったこのタイミングで。僕は大宮に説明を求ようと彼女を見つめた。するとそれに気づいたのか大宮は言った。
「えー、皆さん本当に上手でした。ですが、その中でも人見君の歌唱は声の出し方からブレスのタイミングまで本当に上手だったので彼に歌ってもらおうと思います。いいですか、人見君」
大宮は僕をジッと見つめる。
正直できるわけがない。少し前ならまだしも今は本当に無理だ。だが、大宮や羽生さん、他のクラスメイトの期待のまなざしがそれを許さなかった。
「は、、、はい」
絞り出すように僕は言った。
「それでは、人見君。よろしくお願いします。他の皆さんも人見君に負けないくらいに練習に励むようにしてください。いいですか」
大宮が僕らに問いかける。
「はーい」
クラスメイト達が元気よく言った。
その声はどこかひどく遠くに感じた。視界がどんどん狭まっていくのを感じる。思考が現実に追いつき、冷や汗がだらだらと流れ始めた。手は小刻みに震えていた。
こんなのできるわけがない…
その後、大宮が「今日はこれで解散です」と言い、その場はお開きとなった。
大宮や羽生さんが僕に何か声をかけていたようだったが、正直何も覚えていない。覚えているのは、うるさいくらいに鳴る心臓の音だけだった。
いつの間にか家の前にいた。僕は弱々しい手で玄関の戸を開け、まっすぐ僕の部屋に向かった。
部屋のドアを開けると山積みされたレコードのにおいが広がった。その匂いを嗅ぐと少し気持ちが和らいだ。僕はベッドに思い切りダイブし枕に顔をうずめた。
次の日、僕は学校を休んだ。
土日を挟んでの月曜日、僕は学校に着くと自分のクラスに行く前に久喜君のもとへ急いだ。書道部の部室を訪れると彼は静かに筆を動かしていた。
「おはよう、久喜君」
僕が声をかけると彼は筆をおいて、「やぁ」と手をあげた。
「おはよう、人見君。今日はずいぶんと早いね」
「まぁ、ちょっといろいろあってね」
彼は興味深そうに僕を見つめた。
「ふむ、まぁ聞かせてくれよ」
彼は自身の隣の空席をポンポンとたたいて手招きした。僕はありがたくそこに座らしてもらった。
「さて、何があったのかい」
彼が僕に向き直って言った。
「えーとね、単刀直入に言うと合唱祭で僕がソロ歌唱する羽目になったんだ」
彼は少し思い出すように目線をあげた
「ソロ歌唱…確かに僕のクラスでも一人選ばれていたね。確か嵐山君だったかな」
その名前を聞き、僕の胸がチクリと痛む。
「そうそれ。それに僕が選ばれちゃったんだ」
「それは…なんというか災難だというしかないね。今から変えられたりはしないのかい?」
彼は本当に僕の身を案じてくれてるようで、気の毒そうな顔をしていた。
「わからない、今日聞いてみるつもり。でも、もしダメだったら…」
本番で何も歌えずぶるぶると震えている自分がありありと目に浮かぶ。不安でなんだか泣きそうになってきた。
「その場合は君が頑張るしかないだろうね…その場合は、少しでもましになるよう去年と同じ特訓やるかい?」
やっぱりそれしかないのか。本当はそうした方がいいのはわかってる。でも、やっぱり自分が元の状態に戻っているということを認めたくはなかった。
「いや、いいよ。自分で何とかしてみる」
「そうか…」
彼は悲しそうに目を伏せた。
「でも、やばそうだったらいつでも来てくれ。僕はいつでも相談に乗るから」
その声音は優しく、緊張の糸が少し緩むのを感じた。
「うん、そうさせてもらう。それじゃあまた」
僕は書道部を出て教室へ戻った。
そして放課後、今日は教室で合唱練習だった。僕らは自分の席にいたまま、黒板の前に指揮者の春日部さんが立った。そしてCD音源に合わせて僕らは歌い始めた。1番2番と歌いラストワンフレーズ僕のソロパートがやってきた。
僕はしっかりと息を吸い「心の瞳で君を見つめれば」と歌おうとした。だが、最初の『こ』からまるで声が出なかった。
「k、k、こっ…」
そんな様子を隣の羽生さんが心配そうな瞳で覗き込んでくる。
やめて、そんな目で僕をみるな
最悪な空気感なままざらざらとした音を出しながらCDが終了した。クラスメイトの好奇の目が僕に集中した。前に立っていた春日部さんは気まずそうに僕に話しかけた。
「えっと、どうしたの?」
「いや、ちょっと…」
僕の声はどんどん小さくなった。
「んん?ごめん聞こえない。もう一回言ってくれる?」
「だから、ちょっと声が…」
「緊張して、声が出せなかったってこと?」
首肯する。
「ええっと、次は行けそう?」
僕は黙った。正直できるとはとても思えなかったが、直接それを言うのははばかられた。
「うーんと、じゃあ、もう一回やってみよっか」
春日部さんが再びCDを入れた。順調に1番2番と進み、僕のソロパート。僕は懸命に声を出そうとしたが、結果は変わらなかった。
曲が終わった後、クラスメイト達からきたのはため息と面倒そうなまなざしだった。いい加減歌えよ、ワンフレーズ歌うだけじゃん、面倒くさくなって来たわーなど彼らの心の声が手に取るように分かった。
「やっぱダメそう?」
春日部さんが聞いた。僕は再び黙った。僕自身ダメだと認めるのが怖かった。
静かな教室内で時計の音だけがカチカチと響いていた。制服の衣擦れの音が良く聞こえる。僕にとってこの時間は永遠に感じられるほど長かった。
どれくらい経ったのかふと時計を見ると練習終了の時間まで30分もあった。僕がその事実に軽く絶望していると、羽生さんが静寂を打ち破るように声をあげた。
「あ、あのさ、今日はもう終わりにしない?私も隣から見てたけど人見君必死に歌おうとしてたし…きっと今日は調子が良くないんだよ!」
「で、でも」
春日部さんは釈然としない様子だ。だが、周囲の面倒くさそうな視線に気づいたのか「うっ」と押し黙った。
「人見君もそれでいいよね」
羽生さんの声に僕はすぐうなずいた。そんな様子を春日部さんはため息をつきながら見ていた。
「じゃあ、今日は少し早いけど終わりにしたいと思います。明日からはしっかり最後までやるのでお願いします」
そう言って、僕の方をじろっと見た。思わず僕は目をそらした。
その後、僕は逃げるように教室を出て帰路についた。
途中考えていたことは、音楽教師、大宮に対する苛立ちだった。
今日の昼休み、僕はソロ歌唱を別の人に変えてもらおうと大宮のもとを訪れた。
音楽室に入ると、大宮が教員用の机で何やら作業をしていた。大宮は僕に気づくと
「人見君、どうしました?」
「いえ、あの今日は僕のソロ歌唱を別の人に変更できないか、お願いしに来ました」
大宮は思案気な表情をした。
「基本的に変更はできないんですけど…何かダメな理由でもあるんですか」
「あの、僕人前に立ったりすると動けなくなっちゃうんです。合唱とかみんなに紛れられるのは大丈夫なんですけど」
僕は正直に話した。きっと先生ならわかってくれるだろうと心のどこかで信頼してたのだろう。
「うーん、でもせっかくの晴れ舞台です。もうちょっとだけやってみませんか」
「いや、でも、本当に無理で、、、」
僕は口ごもってしまった。
「まぁ、今日だけでも一回やってみてはどうです?何事も経験するのは大事だと思いますよ」
これ以上は何を言っても無駄だろうと感じた僕は一回やってみることにしたのだった。
その結果があのざまだ。
羽生さんには助けられ、クラスメイトからは失望のまなざしを向けられた。
僕は足元に転がっていた石を力いっぱい蹴った。石は勢い良く進んでいったが、すぐにその勢いは失われカラコロと情けない音を立てて止まった。
その様子を見届けた後、肩を落としてとぼとぼ歩いていると、後ろから何か声が聞こえた。その声音は高く女子か子供の声だった。
うるさいガキだ。もっと静かにしろ。
僕は無視して歩いているとその声がどんどんこちらに近づいてくるのを感じた。
なんだよ、遊ぶなら公園で遊べよ。と思っていると
「人見くーん」
明確に僕のことを呼ぶ声が聞こえる。僕は後ろを振り返ると羽生さんが手を振りながらこちらに走ってくるのが見えた。
「っっっ!?」
僕の心臓がドキンっと脈打つのを感じた。羽生さんも僕が気付いたのを確認すると僕の隣に来た。
「はぁはぁ。もー何で全然気づいてくれないの。さっきからずっと呼んでたのに」
羽生さんは膝に手を付け、頬を膨らませながら僕の方を恨めしそうに見た。
ジーザス。
「あはは、ごめん、ごめん。ちょっと考え事してて」
「もー」
息を整えた羽生さんと僕は一緒に歩きはじめた。
そのうち、羽生さんの登場で興奮していた心も次第に落ち着き、羽生さんなんでわざわざ僕のとこ来たのかという疑問が僕の頭を支配した。
もしかして僕のためにわざわざ来てくれたのか?いや、そんなわけないだろ。どうせ何かのついでだ。でももし、僕のためだったらどうだ。
僕の中で理性と期待がせめぎあっていた。すると羽生さんがおもむろに口を開いた。
「考え事って、もしかしてさっきのこと?」
「え、あーまぁそんなとこ」
僕の曖昧な返事に羽生さんは「やっぱり」とつぶやいた。
「まぁ、誰しもああいうときはあるよね」
そう言った羽生さんの顔は優しげだった。
「羽生さんもそういうことあったの?」僕は思わず聞いていた。
「え、ああ、まぁ、うん。私もバレーの試合でね、ものすごい大事な場面で私がサーバーで。もうガチガチでコートに立ったの。手も震えててね。で、頑張ってサーブ打ったんだけどネットに引っかかっちゃって、その試合は結局負けちゃって…」
羽生さんは悲し気に目を伏せた。
こんなに明るい羽生さんも色々抱えてんだ。でもそりゃそうだ。誰だって緊張して失敗することくらいあるよな。
沈黙がその場に広がった。
「あはは、もうそんな深刻にならなくていいって。もう終わった話だし」
羽生さんは軽く微笑んだ。そして、僕に真剣な表情で向き直った。
「でも、人見君はそんな経験してほしくないな。私はその試合が先輩とできる最後の試合だったけど、人見君にはまだチャンスがあるでしょ。だから、一度失敗したくらいでへこんで欲しくないの。合唱祭優勝したいしね!」
そう言ってニコッと笑った。
その笑顔が僕には眩しかった。過去にとらわれ、明日が憂鬱だった僕にその言葉は重く響いた。
「まぁ、頑張るよ」
「うん、人見君せっかく歌うまいんだから他の人にも聞かせてあげないとだしね」
そう言った羽生さんは、大通りに出ると「私こっちだから」と言い走り去ってしまった。
僕はその後ろ姿をただ見つめていた。
3日後、久しぶりに学校に来た僕は朝から久喜君のもとを訪れた。
「久喜君!また、僕の特訓付き合ってくれるか」
書道部の部室に僕の声が響く。久喜君は驚いた様子だったが、すぐに微笑んだ。
「もちろんだ。早速やってくかい?」
「ああ」
僕は持参した書道用具を机に広げた。
「さて、何を書くんだい?」
「うーん、今回は『羽』にしようかな」
僕は墨ツボに墨汁を垂らす。
「ふむ、ちなみに何でか聞いていいかい?」
「ん?まぁなんとなくだな」
顔が熱くなるのを感じた。久喜君は「そうか」と言うと、僕が書く様子を眺め始めた。
筆に墨をつけ、半紙の上に持っていく。
久喜君の視線が鋭くなるのを感じる。僕の手も小刻みに震え、心臓のドキドキが収まらない。
だけど、3日前羽生さんが言ってくれたことを頭の中で反芻する。そして、羽生さんでも失敗するという事実が逆に僕に勇気を与えてくれる。
僕の症状は特段変わったことではない。他の人よりちょっとひどいだけだ。なら、僕はどうしてここで止まっている?
筆を持つ手に力が入る。
震える手を必死に抑え、僕は半紙に筆を置いた。
何とか置けた…でも、まだだ!
一画置いただけで満足している僕の心を戒め、勢いのままに「羽」を書きあげた。
「ふぅー」
僕は大きく息を吐いた。で、できた。勢いのままにやればできた…
その字は到底うまいとは言えないものだった。だが、確かな手ごたえを僕は感じていた。
ふと、顔をあげると久喜君が目を見開いていた。
「す、すごいじゃないか。どうしたんだ、もう復活できたのかい」
彼は拍手し、微笑んだ。
その言葉につい顔がにやける。でも、ここで満足してはいけない。
僕は頬を両手でパンっとたたいた。
「全然だよ。今回だって勢いでやっただけだ。安定感もあったもんじゃない」
「そうか…でも、その勢いというのは大事なんじゃないか」
勢いが大事?
僕の疑問を解消するように久喜君が言った。
「自分が余計なことを考えることもないほどに勢いよくやっていく。こうすれば、君が頑張るのは最初だけでいい。そう思えば心が楽じゃないか?」
頑張るのは最初だけか…
「でも、それだと安定感がないんじゃないか」
「その通りだ。でも、今から2週間後に迫った合唱祭までに以前のように『集中』ができるようになるのかい」
確かにな、以前は半年かかった。これを戻すとなると、半年はかからないにしても3か月はおそらくかかるだろう。
「だから、これから最初の一画目をやる練習をしようか」
「ああ、いや、ちょっと待って。そうなると勢いが落ちてくる後半音外すかもしれないだろ。実際この字も後半に行くにつれ下手になっているし」
僕は自分の書いた『羽』を指さしながら言った。
「それは、その通りだ」
「なら…」
「それでも、本番で何も歌えないよりは圧倒的に良い。それに音をはずしたって大丈夫だ。合唱祭ではそれもきっと味になる。君はただごちゃごちゃ考えず声を出すんだ」
久喜君は僕の言葉を遮るように言った。その目にはどこか決意めいたものが見え隠れしていた。
きっと、久喜君にも色々あるのだろう。それを見せないだけで。
「わかった。それでいこう」
僕は朝のホームルームが始まるその瞬間まで、久喜君とともに書き続けた。
「よし、これを合唱祭が行われるまでの2週間毎日やっていこう」
チャイムが鳴り、教室へ行く準備をする久喜君がいった。
「ああ、2週間でなんとかしよう」
教室に入ると、羽生さんと目が合った。
席に戻ると羽生さんが心配そうな瞳で尋ねてきた。
「3日間も休んでたけど、大丈夫だった?」
「ああ、別に大したことじゃないから」
「そう?なら安心だ。後さ、人見君に伝えといてって言われてることあるんだけど、ソロ歌唱は別の人になりそうだよ」
「え」
1時間目の準備をしていた僕は完全に固まった。
どういうことだ。せっかくやってやろうって気になったのに。
「なんかね、私も事情は良く知らないんだけど音楽の大宮先生が、人見君がソロ歌唱で失敗したのを聞いて別の人にしようかってなったの。で、今のところ指揮者の春日部ちゃんがその候補。って、聞いてる?」
おーいと僕の顔の前で羽生さんが手を振る。
「ああ、ごめん。ちょっと動揺しちゃって」
大宮か…確かに変えてほしいって相談はしたが、なんて間の悪さだ。しかも、候補は春日部さん。練習の様子から見るにやる気満々の彼女だ。たとえ僕がまだやりたいといっても簡単には引き下がらないだろう。
「あはは、まぁ、動揺するよね。自分がいないうちにこんな風になってたら。それで、人見君はどうしたいの?」
羽生さんは僕を真正面から見据えた。
「僕は、まだやりたい」
その言葉を聞くと羽生さんは満足そうに笑った。
「じゃあ、放課後春日部ちゃんと勝負だね」
放課後、僕のクラスは音楽室へと向かった。音楽室には既に担任と大宮が待機していて、譜面台などいろいろ準備されていて、いつでも歌える状態になっていた。
「はいじゃあ、みんな合唱の隊形に並んでー」
担任の掛け声とともにぞろぞろと自分の位置にクラスメイト達がつく。僕の隣は羽生さんだ。羽生さんは僕にグッと親指を立てて、小さい声で頑張ってと言ってくれた。
「えー今回は通しで2回歌って、ソロは最初が春日部さん、2回目が人見君でやってもらおうと思います。それで、良かった方を私たち教師含め皆さんで決めていこうと思います」
大宮はそう言うと、教員用の椅子に静かに腰掛けた。担任はドアわきに壁によりかかっている。
室内が静寂に支配される。安らぐような静寂ではない、人を委縮させるようなびりびりとした静寂だ。僕は静かに息を吐いた。
春日部さんがピアノの親鼻さんとアイコンタクトをし、うなずきあう。春日部さんが手を振り始めるとピアノ演奏が始まった。そして、指揮に合わせて僕らは歌い始めた。
歌い始めてすぐに3日前より、クラスメイト達がうまくなっていることに気づいた。以前より、迷いがなく安定感が増している。
僕らは順調に1番2番をこなし、ラストのソロ歌唱がやってきた。
ピアノの優しい旋律とともに春日部さんの優しくも真のある歌声が響く。
自分から指揮者へ立候補し、やる気満々なだけはある。正直僕自身、これに勝てるかといわれると自信はあまりない。
でも、休んでいた3日間自宅やカラオケでひたすら練習してきたという自負と羽生さんや久喜君の言葉が僕を奮い立たせた。
春日部さんの歌が終わると拍手が巻き起こった。春日部さんがちらりと僕に視線を送ってくる。僕は彼女の視線に応じずただ前だけを見つめていた。
再び静寂が訪れ、ピアノ演奏が始まる。指揮に合わせて僕らは歌いだす。
1番、2番と進んでいくたびに冷や汗は流れ、心臓の音はうるさいくらいに鳴る。2番の終わりとつながるようにソロ歌唱のワンフレーズが来た。
僕はビビッて行動しない声帯をたたき起こすように、声をあげた。そのおかげか、想像より声量が出てしまったが、何とか勢いに身を任せ歌い切った。
一瞬の静寂、そして大きな拍手が巻き起こった。隣を見ると、羽生さんが微笑みながら拍手をしていた。その瞬間熱いものがこみあげてくるのを感じた。僕は慌ててティッシュで鼻をかんだ。
「どうやら、決まりのようですね。春日部さんも大丈夫?」
大宮が春日部さんに問う。春日部さんは少し残念そうだったが「ええ」と言っていた。
「では、ソロについては最初に決まった通り人見君で行こうと思いますが大丈夫ですか」
「はーい」
クラスメイト達の緩い返事が響く。その緩い返事で肩の力が抜けたのか、その場にへたり込んでしまった。
「大丈夫!?」
羽生さんが心配そうに声をかけ先生を呼んだ。
「人見君大丈夫ですか?」
上から大宮が覗き込むように声をかける。
「ああ、ちょっと力が抜けちゃって…」
僕は立ち上がろうとしたが、腰が抜けてしまったのか全然立ち上がれなかった。
「人見君はもう休みなさい。誰か、保健室に連れてって」
大宮の声掛けに保健委員の子がやってきて、僕を担いで保健室に連れて行った。
目を覚ますと見慣れた天井が広がっていた。
起き上がって、あたりを見回すと古いレコードが積み上がり、少し埃っぽかった。外を見ると、すでにあたりは暗く月だけが淡く光っていた。
僕の部屋だ。
どうにも保健室に連れていかれたあたりから記憶があいまいだった。なんとなくだが、保健室で休んだ後、母さんが来て、車で帰ったような気がする。が、正直あの時は言われるがままに行動していたから全然覚えていなかった。
僕はその後、母さんから僕が学校から連れて返されたときのここを聞きながら夕食を食べた。どうやら、僕の記憶に間違いはなかったようだった。僕は安心して風呂に入り、床についた。
そうして、途中僕がやらかすこともなく瞬く間に2週間が過ぎた。
合唱祭当日の朝、久喜君と一緒に特訓した後教室に入ると、僕の机に嵐山君が座っていた。正直会いたくなかったので、引き返そうと思ったが目が合ってしまった。
「人見君だよね?このクラスのソロ歌唱担当の」
嵐山君は僕の方に駆け寄ると言った。顔には快活そうな笑顔を浮かべていた。
「そうだけど」
「やっぱり、俺は嵐山。隣のクラスで君と同じソロ歌唱担当してるんだ。羽生から話は聞いたんだけど、君めちゃくちゃ歌うまいんだってね」
羽生さんの名前が出たとたん、心臓がドキッとした。そして、これくらいで動揺してた自分が少し情けなくなった。
「いえ、そうでもないよ」
ついそっけなく言ってしまった。だが、彼はそんなこと意に介さず明るい調子だ。
「またまた。まぁ、お互いベストを尽くそうぜ。このクラスでできる合唱祭はこれで最後だから悔いは残らないようにな」
そう言って彼はグーを突き出した。
合わせろってことなのだろうか。やったことないので勝手がわからなかった。
恐る恐る、グーを合わせると彼はニカッと笑った。そして彼は羽生さんに軽く挨拶すると、隣のクラスへ戻っていった。
僕はその後ろ姿を見送りながらどうしようもない敗北感に見舞われた。
「人見君おはよ」
席につくと羽生さんが話しかけてきた。
「おはよ」
「ついに今日だね」
羽生さんはしみじみといった。
「ね、僕も緊張で死にそうだよ。もう昨日なんて一睡もできなかったから目バキバキだよ」
僕が目をかっぴらくと羽生さんはくすっと笑った。
「ほんとに、特に人見君はソロだからね。頑張って」
「うん、優勝もぎ取れるよう頑張るわ」
羽生さんの手前こう言ったが、脳裏には嵐山君がちらついてしょうがなかった。やっぱ嵐山君みたいな男子がモテるんだろうな。
もやもやした気持ちのまま、僕たちは合唱祭の会場へと向かった。会場は体育館ではなく、近所の音楽ホールだ。ホールはなかなかに広く、1000人は間違いなく入るであろう規模だった。客席は階段状になっていて、ステージに近いほど低くなっていた。そして、3年生が最もステージ寄りで学年が下がるにつれ後ろへいくといった感じだった。
僕たち2年は客席のちょうど中央付近に座った。
僕は学校の固い椅子とは違うふかふかの椅子に癒されながら、ぼーっと座り合唱祭が始まるのを待っていた。
ホールだからか声が良く響き、周囲のざわめきも一段と大きく感じた。会話に耳を傾けてみれば、「私今日気合入れて、髪切ったの」「今日弁当何持ってきた?」「私ピアノ間違えたらどうしよー」などなどいろんな声が聞こえてくるが、いずれの声もどこか興奮している様子でこっちまでそわそわしてきた。
合唱祭は1年、2年、3年という順番で歌っていき、最後に審査員の先生が各学年の最優秀賞を発表するといった感じで、ふと後ろを向くと1年生がステージに向かって歩いていくのが見えた。
その時、肩を後ろからちょんちょんとたたかれた。振り返ると、久喜君が「や」と言って軽く手をあげていた。
「久喜君じゃん!もしかして僕の後ろの席?」
「そうだよ」
「マジか。最高じゃん」
正直、僕は友達が少ないのでこういう時はいつも暇人になってたから、素直にうれしかった。
僕は軽く周囲を見渡した。依然としてざわめき立っているが、みんなの顔には笑顔があった。
「なんか、去年を思い出すよね」
「確かに。去年は初めてだったから緊張したね。でも、今は楽しみが勝ってるかな」
「マジか。僕は去年の100倍は緊張してる」
「あはは、まぁ、君の場合はそうだよね。どうだい、調子は?」
ワントーン声を落として聞いてきた。正直、調子がいいかといわれると微妙なところだった。けど、変な心配はかけたくなかった。
「まぁ、問題なしかな」
「そうか。まぁ、これで失敗しても人生が終わるわけじゃない。気楽にいきたまえ」
「おう」
すると、会場のステージ付近に設置されたスピーカーから「ビー」という音が聞こえた。そして、会場の電気がステージを除いて落とされた。全員の視線がステージに向く。
いつの間にいたのか、ステージには司会者らしき生徒が2人並んでいた。2人は会場のざわめきが収まるのを待ってから言った。
「皆さん準備はいいですか。それでは、これから第56回合唱祭を始めます」
「イエーイ!」
会場中から声が響く。ふと横の方を見ると羽生さんが友達と一緒に「イエーイ」と叫んでるのが見えた。
会場の興奮冷めやらぬまま、司会の生徒は軽く自己紹介をした後、合唱祭のスケジュールを説明した。そして、早速1年生の合唱が始まった。
1年生は「怪獣のバラード」だったり、「大切なもの」だったりといわゆる王道の合唱曲を歌っていた。1年生特有のまだ声変りが来てなくてアルトに配置される男子がいて、なんだかほほえましかった。
その一方でクオリティに関しては目を見張るものがあって、特にソロ歌唱の部分では素人目に見てもうまいと思える生徒が何人かいた。こういう子たちが将来歌手になって、いろんな人からキャーキャー言われるのかな。サインでも貰っとくか。とかいろいろ考えてるうちに1年生の合唱が終わっていた。
すると再び後ろから肩をたたかれた。振り向くとやはり久喜君だった。
「じゃあ、僕たちのクラスこれからだから先行くね」
彼はそう僕の耳元でささやくと他のクラスメイト達とともにぞろぞろと舞台袖に向かって行った。
そんな彼の姿を見送っていると、途端に僕も緊張してきた。念のためトイレに行っておこうと担任に一言言って席を立った。
「ふぃー」
用を足していると、なんとなく落ち着けた感じがした。僕は客席に戻るとすでに久喜君たちのクラスがステージ上にいた。久喜君は後列で緊張してるのか顔がこわばっている。そんな姿が新鮮で少し面白かった。端には嵐山君がいた。
どうせ歌うまいんだろうな。しかも爽やかとか。
いかん、いかん。嵐山君を見てると劣等感で支配されそうになる。僕は慌てて目線をそらした。
曲紹介が始まった。曲は「COSMOS」だった。確か以前に一度聞いたことがあるが、曲が壮大な分難しかったイメージだ。
曲が始まった。
「んん?」
どことなく迫力がない気がする。
僕は耳を澄ませて歌声を聞いた。アルトだ。アルトの女子が全然声が出ていない。
アルトは男子寄りにいるのが通例なので、そのあたりを見てみると顔面蒼白な女子が何人かいた。きっと僕と同じように緊張しているのだろう。
周りのクラスメイトも気づいたようで、こそこそと話声が聞こえる。これは、やらかしたな。
かわいそうだが、これは僕のクラスの勝ちだとそう思っていると、ソプラノとテノールまで声量を抑え始めた。
おいおい、いよいよ大丈夫か。
だが、歌っている人たちに迷いの目はなかった。きょろきょろもせず集中して歌っていた。
そのギャップがますます違和感を増幅させた。もうすぐサビが来る。この曲はサビが特に大事だ。ここで決められないと本当に終わってしまう。
僕がその声に耳を澄ました。
「!?」
予想だにしない大声量が僕を襲った。僕は思わず身を乗り出した。見ると、いつの間にか彼ら全員の顔は自身に満ち溢れている
そういうことか。
これも想定内だったのだろう。アルトがうまく歌えたらそのまま進み、失敗したらサビにすべてをかけるつもりだったのだろう。
周りの生徒たちも身を乗り出して聞いている。
そして1番のサビが終わると嵐山君がソロ歌唱を始めた。本来ならここは女性パートのはずだが、完璧になじんでいた。なにより安定感がすごかった。音をはずす気配が全くない。今まで失敗知らずで生きてきたんだろう、自身に満ち溢れていた。
羽生さんの方を見ると、瞬き一つせず嵐山君を見つめていた。
「はぁ」
僕は小さくため息をついて目線を戻した。
その後も完璧に歌い切り、最後は大迫力で終えた。
一瞬の静寂の後、万雷の拍手が彼らに向けて行われた。僕も彼らに拍手を送り続けた。彼らの顔は満足したように笑顔があふれ、そのあまりの眩しさに僕は目をそらした。
次は僕らの番だ。
久喜君たちが客席に戻るのと入れ替わるように僕らは舞台袖に向かった。
舞台袖で僕らは円陣を組んだ。
「最優秀賞、絶対取るぞ!!」
「おー!!」
僕たちは互いにハイタッチし、ステージに向かった。
「頑張れよ、人見」「頑張ってね、人見君」「絶対優勝しような」
途中クラスメイト達が僕の背を叩きながら応援してくれた。
正直、羽生さんから応援してもらいたかった。が、羽生さんは友人たちと励ましあっていた。彼女がこっちを向いたので慌てて視線をそらした。
いざ、ステージに立つと後ろの席の方まではっきりわかる。端から端まで見渡すと、客席の生徒たちの視線を感じた。
彼らは興味深そうに、次どんな合唱が聞けるのか楽しそうに僕らを見ていた。
僕は思わず手をぎゅっと握った。隣を見ると羽生さんがいる。彼女はちょんちょんと僕をつつくと、下の方を指さした。そこを見ると、羽生さんが小さくグーサインしていた。顔をあげると、羽生さんがニコッと僕に笑いかけた。
その笑顔を見て、僕は思わず笑ってしまった。緊張感が和らいでいくのを感じる。さっきまで、僕らを見つめていた視線もあまり気にならない。視界が広くなるのを感じた。
よし、やるか。
僕は全身をリラックスさせた。
春日部さんが前に立ち、手を振り上げる。演奏が始まり僕らは歌い始めた。
よし、開始は上々だ。
僕らは順調に歌っていき、2番のサビに入った。
ここを超えたらすぐに僕のソロパートだ。体に力が入る。心臓の鼓動がどんどん早くなる。どんどん視野が狭まるのを感じた。
その時、視界の隅で誰かが手をあげるのをとらえた。思わず視線をそちらに向けると、客席の後ろの方でよく見知った顔が筆を持って手をあげていた。
「北本部長…」
心の中で僕はつぶやいた。何で部長がここに?てか何で筆を持ってるんだ?僕の顔が少しほころぶのを感じる。
そしてついにソロパートが来た。
「心の瞳で君を見つめれば」
僕はリラックスして、いつも通りに歌った。最後まで気を抜かず丁寧に歌い切った。
歌い切った!
客席の方を見ると、会場中からの拍手が僕らを襲った。部長の方を見ると、満足した顔で拍手を送っていた。
僕らはそれぞれ顔を見合わせた。緊張が解けたからか、顔にはほっとした表情が浮かんでいた。春日部さんの瞳には涙がにじんでいる。きっと彼女も相当に緊張してたのだろう。
「人見君、お疲れ!めっちゃよかったよ!」
客席に戻る途中、羽生さんが声をかけてきた。
その声を聴き、自然と顔がほころぶのを感じる。
「うん、ありがとう」
「これなら優勝間違いなしだね!」
「だね、みんな完璧だったし」
席についた。
「じゃあ、またあとでね」
軽く手を振って、羽生さんは自分の席に戻っていった。
席に座ると、どっと疲れが出た。僕は背もたれに沈み込むように座った。
「ふー」
「人見君、お疲れ」
後ろから声が聞こえる。
「久喜君か。いやマジで疲れたよ」
「うんうん、でも客席から見てたけど歌完璧だったよ」
「マジで?よかった。後さ歌ってるときに北本部長見つけたんだけどなんか知ってる?」
僕は後ろに向き直った。
「気づいた?実はね僕が呼んでおいたんだよ。きっと君の助けになると思ってね」
久喜君は北本部長のいる席を指さした。そっちの方を見ると北本部長が誰かと談笑していた。
「北本部長…」
お世話になりました。
「部長ね、なんか、筆掲げてて笑っちゃったよ」
「筆!?部長にしてはユニークなことするね」
久喜君はアハハと笑った。
その後、2年の部を消化し3年の部も特に問題なく終わった。3年生はこれがラストだからか歌い終わった後に泣いてる人もいて、こっちまで泣きそうになった。
そして、結果発表の時間がやってきた。
音楽教師の大宮がステージに立った。
「えーそれでは1年生の部から最優秀賞を発表していきたいと思います。最優秀賞は…3組です!」
「いえーーい!!」
後ろから喜びの声が聞こえる。後ろを見ると、立ち上がって抱き合ったり、飛び跳ねたりしていた。こういう時、全力で喜べないから少しだけ彼らがうらやましかった。
「続いて、2年生の部の発表です」
僕は大宮の言葉に耳を澄ました。他のクラスメイトも真剣な表情で言葉を聞き逃さないようにしている。
「最優秀賞は…3組!!」
「いえーーい!」
僕のクラスメイト達が席から飛び跳ね、満面の笑みを浮かべている。
僕らのクラスが優勝?あまりにも実感がなくてふわふわした感覚だ。すると後ろから拍手が聞こえた。振り返ると久喜君が微笑みながら僕に拍手を送ってくれていた。羽生さんの方を見ると、羽生さんは僕に向かって満面の笑みでピースした。
僕は小さくガッツポーズした。




