普痛
普通。
辞書を引けば、「広く一般に通ずること。また、そのさま。ありふれていること。特別ではないこと」とある。
実に素晴らしい。全くもって素晴らしい言葉だ。これほどまでに無害で、無責任で、そして救いようのない絶望を内包した四角四面な二文字を、僕は他に知らない。
僕は普通だった。
身長も、体重も、成績も、思想も、嗜好も、何もかもが標準偏差のど真ん中、見事なまでにベルカーブの頂点にへばりついた、工場出荷状態の量産型。誰かの人生という名の舞台においては、通行人Aの役すらもらえない、背景と同化したただの『環境音』のような存在。それが僕だった。
そして僕は、その無個性な『普通』であることを、一種の盾として、あるいは免罪符として生きてきた。普通である限り、僕は誰かを決定的に傷つけることもなければ、誰かから致命的に傷つけられることもないのだと、そう信じて疑わなかったのだ。
無知とは罪ではない。無知とは暴力である。
彼女が血を流していることすら気づかず、絆創膏の一枚も差し出せないまま「今日はいい天気だね」と笑いかけるような、悪意なき無邪気な暴力。
僕は彼女に、魔法をかけてやりたかったのだと思う。
どこかの御伽噺に出てくるような、灰にまみれた少女をカボチャの馬車に乗せて連れ出すような、そういう都合の良い奇跡を。けれど、あいにくと僕の右手には魔法のステッキなんて握られておらず、ただのコンビニのレジ袋がぶら下がっているだけだった。
「ねえ。人間って、どうして空を飛べないのかな」
放課後の教室。西日が射し込む窓辺で、彼女は唐突にそんなことを言った。
文脈も何もない。つい数秒前まで、僕たちは昨日の深夜番組のくだらなさについて、あるいは駅前に新しくできたクレープ屋の行列の異常性について語り合っていたはずだった。
彼女は時折、こういうバグのような唐突さで、会話のレールをへし折る。
「質量と空気抵抗、そして何より進化の過程で翼より腕を選んだという痛恨のミスだね」
僕は、至極真っ当に、そして徹底的に『普通』の回答を用意する。
「腕なんて便利なものを手に入れたせいで、人間は重力に縛られることになった。もし僕らの祖先が、何かを掴むことより、どこかへ逃げ去ることを優先していれば、今頃背中には立派な羽が生えていたかもしれないね」
「そっか」
彼女は窓の外、オレンジ色に染まる空を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「じゃあ、落ちるしかないんだね」
落ちる。
その単語のチョイスに、ほんのわずかな違和感を覚えるべきだったのだ。飛べないから『歩く』でも『走る』でもなく、『落ちる』。それは明らかに、彼女の視座が最初から地面ではなく、どこか高いところ——あるいは、足場のない虚空に設定されている証拠だった。
「引力には逆らえないからね。アイザック・ニュートンに文句を言ってくれ」
しかし、致命的なまでに凡庸な僕の脳髄は、その違和感を『ちょっとしたポエム』として処理してしまった。
「ニュートン君も迷惑だろうね。リンゴが落ちただけで、後世の人間からそんな理不尽なクレームをつけられるなんて」
「ふふっ、確かに」
彼女は笑った。笑ってしまった。
その笑顔が、僕の罪を確定させた。彼女が笑うなら、この会話は『正解』なのだと、僕は安心しきってしまったのだ。彼女の笑顔の裏側に、どれほどの諦観が、どれほどのSOSが張り付いていたのか。その皮膚の下で、彼女がどんなふうに自分自身を切り刻んでいたのか、僕には想像することもできなかった。
「でもさ」と彼女は続ける。「もしもだよ。もしも、落ちている途中で、誰かが手を引っ張ってくれたら、それは飛んでいるのと同じじゃないかな」
「物理法則への挑戦だね。それは飛んでいるんじゃなくて、落下運動を一時的に阻害されているだけだ。いずれ腕が疲れて手を離せば、結局は地面に激突する」
「……論理的だね。身も蓋もないくらいに」
「普通のことさ。僕はいつだって、標準的な見解しか述べていない」
僕は誇らしげにすら、そう答えた。
馬鹿な男だ。彼女は、魔法を求めていたのかもしれないのに。
一時的な落下の阻害でもいい。論理を無視した、御伽噺の老婆が振り回すような都合の良すぎる暴力的なステッキで、自分を空中に留めてほしかったのかもしれないのに。
僕は、僕自身の『普通』という無菌室の中から、彼女のSOSを論破し、見事に撃ち落としてみせたのだ。
僕が彼女に提示すべきだったのは、ニュートンの引力法則ではなく、一時の猶予を与えるための『提案』だったというのに。
窓の外では、太陽が完全に沈みかけていた。
夜が来れば、星が見える。
僕の手の届かない、はるか遠くで燃え尽きた、ただの光の残骸たちが。
ーーーー
帰り道という概念は、ひどく退屈だ。
出発点と到達点が既に確定しており、その間に横たわるのは「ただ移動する」という義務的なプロセスのみ。イレギュラーが介入する余地などなく、そこにあるのは完全な予定調和だ。だからこそ、僕は帰り道という平素な時間が好きだった。僕という『普通』の人間が、最も『普通』に機能できる時間帯だからだ。
「そういえばさ」
コンビニの横を通り過ぎようとしたとき、彼女がふと足を止めた。
視線の先にあるのは、灰皿代わりの空き缶から立ち上る、細く頼りない紫煙だ。誰かがポイ捨てしたのか、あるいは吸い殻の山がくすぶっているのか。
「タバコって、何のために吸うんだろうね」
「百害あって一利なしの代表格だね」
僕は即座に、そして完璧に模範的な回答を弾き出した。僕の辞書にタバコという選択肢はない。
「金銭を対価として自らの寿命を意図的に前借りする、極めて非合理的な行為だ。ニコチンという化学物質に脳をハックされ、依存という名の手枷を自ら嵌めにいく。正常な判断力を持つ人間なら、まず手を出さない代物さ。もちろん、僕は一生吸うつもりはないよ」
「合理的だねえ。相変わらず」
「普通のことさ」
彼女はクスリと笑い、しかし空き缶から目を離さなかった。
「でもさ。寿命を前借りするってことは、つまり『今』を生きるために未来を削っているってことじゃない?」
「削るほどの『今』なんて、普通の人間にはそうそう訪れないよ」
「そうかな。……息をするのが苦しくて、肺の中が空っぽで、だから代わりに毒でもいいから煙で満たして、それでようやく『あぁ、息ができた』って錯覚できる。そういう人だっているんじゃないかな」
彼女の声音は、どこまでも平坦だった。
まるで、今日の晩ご飯の献立を語るかのような、日常のトーン。
だから僕は、その言葉の裏に隠された『彼女自身の肺の渇き』に気づけなかった。
「だとしたら、随分と燃費の悪い呼吸法だね。深呼吸でもした方がよっぽど健康的だ」
「健康的、か。……健康って、どういう状態のことを言うんだろうね」
彼女は唐突に、僕の顔を覗き込んだ。
その時、彼女の制服の袖口から、真っ白なガーゼの端がちらりと見えた。昨日までは無かったものだ。いや、正確には「昨日とは違う場所」に貼られているものだった。
「猫にでも引っ掻かれたのかい」
僕は尋ねた。ごく自然に。
「うん。うちの近所の野良猫、凶暴でさ。撫でようとしたらガリッて」
「不用意に近づくからだよ。学習能力がないね」
「あはは、ほんとだね。私、学習能力ないや」
僕は納得した。
猫に引っ掻かれた。なるほど、それは『よくあること(普通)』だ。
だが、少しだけ視点をずらせば、そこには明白な異常が横たわっていた。
なぜ、その凶暴な野良猫は、いつも決まって彼女の手首や、二の腕の内側や、時には首筋といった『衣服で隠せるギリギリの場所』ばかりを正確に狙って引っ掻くのか。
なぜ、彼女はそれほどまでに頻繁に、凶暴な猫に近づこうとするのか。
少し考えればわかることだった。
彼女の言う「野良猫」なんてものは存在しない。彼女の皮膚を切り裂いているのは、猫の爪ではなく、もっと冷たくて無機質な、例えばカッターナイフのようなものだということに。
だが、僕の『普通』を愛する脳髄は、その不都合な真実をシャットアウトした。なぜなら「自傷行為」は僕の辞書においては『異常』のカテゴリに属しており、僕の平穏な日常に持ち込まれるべきではないノイズだったからだ。
「猫に引っ掻かれた」という彼女の嘘は、僕の日常を守るための、ひどく都合の良い防波堤として機能してしまった。
「ねえ」
歩き出しながら、彼女は言った。
「痛みって、何色だと思う?」
「色? 痛覚は神経を伝わる電気信号のバグに過ぎない。物理的な色は存在しないよ。強いて言うなら、結果として流れる血液の赤色だろうね」
「私はね、透明だと思うんだ」
彼女は空を見上げた。一番星すらまだ見えない、濁った夕暮れの空を。
「透明だから、誰にも見えないの。自分がどれくらい痛いのか、どれくらい傷ついているのか、目に見えない。だから、器から溢れて、肌を破って、赤色になって外に出てくるまで……誰にも、自分にすら、限界がわからないんだよ」
それは、今にして思えば、あまりにも露骨なSOSだった。
たすけて。
見えない痛みが溢れそうだから、たすけて。
彼女はそう叫んでいたのだ。喉を掻き毟るような絶叫で。
だが、僕は。
無知で、無神経で、救いようのないほどに『普通』だった僕は。
「ポエミーだね。どこかの深夜アニメの受け売りかい?」
そう言って、笑い飛ばしてしまった。
悪意なんて一ミリもなかった。ただの、気の利いた軽口のつもりだった。
僕のその言葉が、彼女の器を最後に叩き割った致命的な一撃だったとも知らずに。
彼女は一瞬だけ目を見開き、それから。
「……うん。そう、かもね」
ひどく、ひどく綺麗に微笑んだ。
その日を境に、彼女は学校に来なくなった。
透明な痛みが致死量に達したのだと僕が理解するのは、彼女が『星』になってからのことだった。
ーーーー
不在。
あるべきはずのものが、そこにないこと。
しかし、物理学的に言えば「完全な真空」などこの自然界には存在しない。彼女が座っていた窓際の席には、今や彼女の質量の代わりに、ただ等量の空気が満ちているだけだ。空間は常に何かに埋め合わされている。だから、誰か一人がこの世界からログアウトしたところで、世界の総量が減るわけではない。実にありふれた、ごくごく『普通』の物理法則だ。
彼女が学校に来なくなってから、三日が過ぎ、一週間が過ぎた。
担任は朝のホームルームで、事務的なトーンで「今日は休みだ」と告げるだけだった。風邪なのか、家庭の事情なのか、あるいはその他の致命的なエラーが発生したのか、誰も問いただそうとはしなかった。
教室という名の水槽の中では、一匹の魚が消えたところで、他の魚は立ち止まらない。昨日と同じように昨日のテレビ番組の話をして、明日も続くであろう平穏を消費していく。
僕もまた、その水槽を構成する善良なモブキャラクターの一人として、完璧に『普通』の日常を演じ続けていた。いや、演じていたのではない。僕は本当に、彼女の不在を「一時的なエラー」として処理していたのだ。
雨が降っていた。
五月蝿いほどの土砂降りで、視界は最悪だった。
放課後、いつものように一人で帰路につきながら、僕は水たまりを避けることもなく歩いていた。靴底から染み込む泥水の不快感すらも、この退屈な日常におけるささやかなスパイスだなどと、能天気なことを考えながら。
その時だった。
ふと、僕の脳裏で、何かのスイッチがカチリと音を立てた。
『もしもだよ。もしも、落ちている途中で、誰かが手を引っ張ってくれたら、それは飛んでいるのと同じじゃないかな』
『痛みって、何色だと思う?』
『私はね、透明だと思うんだ』
『ポエミーだね。どこかの深夜アニメの受け売りかい?』
『……うん。そう、かもね』
フラッシュバック。
記憶の再生。
それは、ただの回想ではなかった。僕の脳内で、これまで僕が彼女に向けて放ってきた数々の『普通で真っ当な回答』が、一斉に牙を剥いて僕自身に襲いかかってきたのだ。
歩みを止める。
雨音だけが、世界を支配している。
どうして、僕は気づかなかった?
いや、気づかなかったのではない。「気づかないふり」をしていただけだ。
彼女の制服の下に隠された無数の傷跡を。彼女が空を見上げる時の、あの重力から解放されたがっているような虚ろな瞳を。彼女が求めていたのは、物理法則に基づいた正しい解説なんかじゃない。引力をねじ曲げてでも、彼女の手を強く引いてくれる、非合理的な『魔法』だったんだ。
魔法。ビビディ・バビ・ディ・ブー。
御伽噺の魔法使いは、灰かぶりの少女にドレスを与え、カボチャを馬車に変え、彼女を絶望の底からすくい上げた。あれは単なるファンタジーじゃない。論理や理屈、そういった『普通』の概念をすべて破壊してでも、誰かを強引に救い出そうとする圧倒的なエゴイズムの比喩だ。
僕には、それができたはずだった。
彼女の言葉の裏にある悲鳴に気づき、「そんなふざけたことを言うな」と彼女の手首を掴み、そのガーゼを引き剥がして、一緒に泥だらけになって泣き叫ぶ権利があったはずなのだ。
だが、僕はそれを放棄した。
『普通』という無菌室に引きこもり、彼女の血の匂いから目を背け、安全な場所から石を投げるように「正論」をぶつけた。
僕の無邪気な正論は、彼女の透明な痛みを否定し、彼女の存在そのものを否定する、鋭利な刃だった。
僕が殺したのだ。
僕の「無知」が、僕の「普通」が、彼女を追い詰めたのだ。
携帯電話が震えたのは、僕がそんな遅すぎる、そして無意味な自己解体に溺れている最中だった。
画面には、滅多に連絡など寄こさないクラスメイトの名前。
電話に出るまでもなく、僕はすべてを理解した。
雨が降って、夜を待って。
飛べない彼女は、きっと重力に身を委ねることを選んだのだ。
「……もしもし」
『あ、ごめん。今大丈夫? あのさ、先生から連絡網が回ってきて……』
クラスメイトの、ひどく狼狽した、それでいてどこか他人事のような浮ついた声。
僕はそれをBGMのように聞き流しながら、ただ鉛色の空を見上げた。
彼女はもう、いない。
僕がカボチャの馬車を用意するより先に、彼女は自らの手で重力を手放し、夜空の塵となってしまった。
僕の手の届かない場所で、冷たく光る、ただの星になってしまったのだ。
ーーーー
葬儀というのは、ひどく滑稽な儀式だ。
死という圧倒的で絶対的な『異常』を前にして、残された生者たちが必死に『普通』を取り繕おうとする、極めてグロテスクな茶番劇。
参列者たちは皆、一様に黒い服を着る。黒は光を反射しない色だ。色彩の喪失。自己主張の放棄。私たちは今、悲しみに暮れており、一切の光を放つ気力もありませんという、わかりやすすぎるほどの記号的なアピール。
祭壇の中心で微笑む彼女の遺影の前で、人々はハンカチで目元を押さえ、あるいは鼻をすすり、あるいは言葉少なに俯いている。
僕は、泣けなかった。
悲しくないからではない。ただ、僕の脳髄を満たしているのは「悲哀」などという情緒的な感情ではなく、「エラーの検証」という極めて事務的で冷たいプロセスだったからだ。
彼女は星になった。
誰かがそんな、使い古された、手垢のついた、あまりにも『普通』すぎる比喩を口にした。
星。
夜空に輝く恒星。自ら光を放つ天体。
馬鹿馬鹿しい。星の光というのは、何万光年も昔に放たれた過去の残骸に過ぎない。今、僕たちの目に見えているあの瞬きは、既に燃え尽きて消滅してしまったかもしれない星の、遅れて届いた幻影なのだ。
だから、彼女が星になったという表現は、ある意味では物理学的に極めて正しい。
彼女はもう、この宇宙のどこにも存在しない。ただ、彼女が遺した言葉、彼女が浮かべたあのひどく綺麗な微笑み、彼女が隠し持っていた透明な痛みという『光』だけが、何万光年という距離を隔てて、今さら僕の網膜を焼き焦がしているのだから。
雨が降って、夜を待って。
彼女は重力を手放し、星になった。
ニュートンの法則に従って地面へと落下し、赤い血を流して、ただの肉の塊になって、そして焼却炉で灰になって、星になった。
「プロポーズ」
不意に、僕の口からそんな単語がこぼれ落ちていた。
読経の響く静粛な空間には不釣り合いすぎる、場違いな七文字。誰の耳にも届かなかったほどの小さな呟きだったが、その言葉は僕自身の鼓膜を震わせ、脳髄に深く突き刺さった。
プロポーズ。Propose。
語源をたどれば、「前に(pro)」「置く(pose)」。
すなわち、提案すること。提示すること。転じて、結婚を申し込むこと。
それは、未来を前提とした言葉だ。明日があり、明後日があり、来年があり、十年後がある。その不確かな未来の時間を、僕と一緒に消費しませんかという、傲慢で暴力的な契約の打診。
あの日、彼女が僕に向けて放ったSOS。
『痛みって、何色だと思う?』
あれは、彼女からの逆プロポーズだったのだ。
私のこの透明な痛みを、明日も、明後日も、一緒に抱えてくれませんか。私の致死量の絶望に、あなたの未来を差し出してくれませんか。そういう、命懸けの提案だった。
対して、僕はどうだ。
『ポエミーだね。どこかの深夜アニメの受け売りかい?』
僕はその提案を、ひどく無邪気に、そして致命的なまでに完璧な『普通』の論理で、一蹴したのだ。契約書を読みもしないで、シュレッダーにかけて笑っていたのだ。
未来を拒絶された彼女に残された選択肢は、現在を終わらせることしかなかった。
提案が却下されたのなら、企画そのものを白紙に戻す。実に論理的で、身も蓋もない結末だ。
祭壇の遺影が、僕を見つめている。
いや、それは錯覚だ。写真というインクの染みが、僕を見つめるはずがない。彼女はもういないのだから。
なのに、僕の頭の中では、ウェディングドレスを着た彼女が踊っている。
純白のドレス。喪服の対極。黒が光を吸収する色なら、白はすべての光を反射する色だ。彼女は今、何万光年先から、あの透明な痛みをすべて乱反射させて、僕の目を眩ませている。
僕は今更になって、彼女に提案の返事をしようとしている。
だが、プロポーズとは未来に向かって放つものだ。過去に向かって、ましてや死者に向かって放つプロポーズなど、ただの遅すぎた懺悔でしかない。どんなに美しい言葉で飾ろうと、どんなに高価な指輪を用意しようと、星になった幽霊の薬指に、それをはめることはできないのだ。
どう頑張っても、僕は普通だ。
時間を巻き戻す魔法も使えなければ、死者を蘇らせる奇跡も起こせない。
ただ、彼女の遺影の前で、一生涯という名の呪いを押し付けられて、永遠に受理されることのない提案書を胸に抱えながら、立ち尽くすことしかできない無力な傍観者。
ーーーー
解剖台の上に横たわっているのは、他でもない僕自身である。
執刀医も僕、助手も僕、そして切り刻まれ、内臓を引っ張り出され、ホルマリン漬けにされる検体もまた、僕だ。
葬儀から帰宅した僕は、薄暗い自室のベッドの上で、一切の物理的な運動を停止したまま、ただ己の精神と思考の解体作業に着手していた。なぜなら、そうでもしなければ、脳髄を満たし尽くしたこの致死量の『後悔』に押し潰されて、狂ってしまいそうだったからだ。いや、狂えればどれほど楽だっただろう。あいにくと僕は、致命的なまでに健康で、絶望的なまでに『普通』に設計されているがゆえに、狂うことすら許されないのだ。
思考実験を始めよう。
罪状は殺人。いや、未必の故意による見殺し、あるいは重過失致死か。
凶器は『常識』。そして『無知』。
動機は——『現状維持という名の怠慢』だ。
僕はなぜ、あの日の彼女のSOSを見殺しにしたのか。
彼女の不自然なガーゼに気づきながら、彼女の「透明な痛み」という狂気めいた告白を聞きながら、なぜ僕はそれを「深夜アニメの受け売り」などというチープな言葉でコーティングし、安全圏から笑い飛ばしたのか。
簡単なことだ。
面倒だったのだ。
彼女の痛みに踏み込むということは、僕自身の平穏な日常を破壊することを意味する。彼女の傷口からあふれ出す赤黒い泥水に、僕まで肩まで浸かって、一緒に溺れなければならないということだ。
僕はそれを恐れた。
自分が『普通』ではなくなることを、何よりも恐れた。
だから僕は、彼女の異常性を「よくある中二病的なポエム」へと強引にダウングレードさせることで、自分の日常を守ろうとしたのだ。彼女を救うことよりも、僕の『普通』を防衛することを優先した。自己保身のための、極めて合理的で、反吐が出るほどに利己的な防衛機制。
ああ、なんという傲慢だろう。
僕はこれまで、自分が『普通』であること、つまり「無害」であることを免罪符にして生きてきた。特別な力を持たない凡人だからこそ、誰も傷つけないし、何の責任も負わなくていいのだと信じ切っていた。
だが、現実は真逆だ。
『普通』とは、マジョリティという暴力の結晶だ。多数決の論理によって武装した、社会における最も巨大で無慈悲なロードローラーだ。
僕が彼女にぶつけた「ニュートンの法則」や「タバコは非合理的だという正論」は、すべてこのロードローラーから発射された機関銃だった。僕は『普通』という圧倒的な数の暴力を背景にして、たった一人で世界(重力)と戦っていた彼女を、背後から無邪気に撃ち抜いたのだ。
無知とは暴力だ。
相手が血を流していることに気づかないふりをして、「普通はこうだよね」と笑いかけること。それがいかに相手の存在そのものを根底から否定し、孤独の底へ蹴り落とす行為であるか。
僕は、彼女にとっての重力そのものだった。
空を飛びたがっていた彼女の足首を掴み、「人間は飛べないよ」と笑いながら地面へと引きずり下ろした、引力の執行者。
もしも僕が、どうしようもない不良少年だったなら。
あるいは、世界を救う義務を背負ったヒーローだったなら。
彼女の異常性に寄り添い、共に社会のレールから外れてあげることも、理不尽な奇跡を起こしてあげることもできたのかもしれない。
だが、僕はただの量産型の通行人Aだった。
特別なことは何一つできないくせに、他人を常識の枠に押し込める『普通』の機能だけは一丁前に備わった、欠陥品。
「……ごめん」
暗闇に向かって、ぽつりと声が出た。
謝罪。懺悔。
だが、その言葉が空気を震わせた瞬間、僕は猛烈な吐き気に襲われた。
ごめん、だと?
誰に向かって言っている? 星になった彼女にか?
違う。僕は今、自分自身を慰めるために謝っているだけだ。「僕は今、後悔して、苦しんで、反省しています」というポーズをとることで、自分の罪を少しでも軽くしようとしているだけだ。
死体蹴りならぬ、死体を利用したマスターベーション。
果てしなく続く自己解体の果てに行き着いたのは、僕という人間が、どこまで皮を剥いても『自分のことしか考えていない凡人』でしかないという、おぞましい真実だった。
許されたいわけじゃない。
そもそも、僕には赦しを乞う権利も、誰かに裁いてもらう権利すらない。
僕に科せられた罰は、ただ一つ。
この『どう頑張っても普通である』という無力な自分を抱えたまま、残りの何十年という余生を、彼女の幻影に怯えながら消化し続けること。
この生涯全部。
ただひたすらに、息をして、ご飯を食べて、排泄して、眠るだけの、意味のない生存を続けることだ。
窓の外では、いつの間にか雨が上がっていた。
厚い雲の切れ間から、冷たく無機質な星の光が、僕の部屋の床に落ちている。
僕はその光から逃げるように、布団を頭からかぶり、ただ息を潜めた。
ーーー
物語というものは、大抵の場合、主人公が何かしらの教訓を得るか、あるいは決定的な破滅を迎えることで幕を閉じる。それがフィクションにおける『普通』の構造であり、読者に対する最低限の礼儀というやつだ。
だが、僕の現実はフィクションではない。だから、彼女が星になろうと、僕がどれだけ狂おしい自己嫌悪に溺れようと、エンドロールは流れないし、地球の自転は一秒たりとも遅延しない。
あの日から、僕は変わらず『普通』のままだ。
相変わらず身長も体重も成績も標準偏差のど真ん中に居座り、毎日同じ時間に起きて、同じように無味乾燥な授業を受け、同じように無難な会話を消費している。僕が内側でどれほど致命的に決壊していようと、社会というシステムは僕を「正常に稼働している歯車の一つ」として扱い続けるのだ。
ただ一つ、変わったことがあるとすれば。
僕の視界の端に、時折、純白のドレスを着た彼女の幻影がちらつくようになったことくらいか。
それは決まって、夕暮れの帰り道だ。
タバコの吸い殻が落ちている道端や、雨上がりの水たまりの向こう側。ひどく曖昧なピントの向こうで、彼女はあの日のように、ひどく綺麗に微笑んでいる。その腕には無数の透明な傷跡が刻まれていて、純白のドレスは、彼女が流すはずだった血の代わりに、ただ沈みゆく西日を赤く反射している。
僕はその幻影を見るたびに、立ち止まり、そして口の中で一つの言葉を転がす。
「ビビディ・バビ・ディ・ブー」
おとぎ話の魔法使いが、灰かぶりの少女を救うために唱えた、奇跡の呪文。
だが、僕がそれを何度唱えようと、カボチャはカボチャのままで、ネズミはネズミのままで、星になった彼女が再び地面に降り立ってくることはない。
当たり前だ。僕の手には魔法のステッキなど握られていないし、僕は魔法使いでもなんでもない。どう頑張っても、僕は普通なのだ。この生涯全部、論理と物理法則の奴隷として生きるしかない、ただの凡人なのだから。
だからこれは、魔法の呪文などではない。
僕が僕自身の無力さを、僕自身の『普通』という名の残酷さを、毎日毎日、骨の髄まで刻み込むための『呪い』だ。
彼女のSOSを論破し、引力という正論で彼女を墜落させた僕が、自分自身に科した永遠の罰。この意味のない文字列を唱えるたびに、僕はあの日、彼女の手を引けなかった自分の愚かさを反芻し、自らの精神をヤスリで削り落としていく。
夕闇が、街を飲み込んでいく。
僕は、数メートル先に立つ彼女の幻影に向かって、ゆっくりと一歩を踏み出した。
逃げることは許されない。忘れることなど、もってのほかだ。
僕は彼女の前に立つ。
もちろん、そこに質量はない。ただの空気の層だ。それでも僕は、まるで見えない祭壇の前に立つように、あるいは断頭台の階段を登るように、恭しく片膝をついた。
そして、空っぽの虚空に向かって、震える右手を差し出す。
「僕と」
喉が張り裂けそうだった。
肺の奥底から絞り出した声は、ひどく滑稽で、惨めで、そして手遅れだった。
「僕と、結婚してください」
それが、僕のプロポーズだった。
未来を拒絶し、現在を終わらせ、過去の残骸となってしまった星に対する、究極の自己満足。
決して受理されることのない契約書。
誰の指にもはめられない、透明な指輪。
僕のこの空っぽの未来を、あなたの透明な痛みと一緒に、永遠に抱え落ちていくという一方的な誓い。
幻影の彼女は、何も答えない。
ただ、あの日のように「ポエミーだね」とでも言いたげに、少しだけ首を傾げて、透明に笑っただけだった。
夜が来る。
空を見上げれば、無数の光の残骸たちが、嘲笑うように瞬いている。
僕は差し出した右手をゆっくりと下ろし、また一人、普通で退屈な帰り道を歩き始めた。
この生涯全部、終わることのない後悔を唱えながら。
最後まで読んでいただき、サンキュっす。
まぁ、伝わる方には一発で伝わると思うんすけど、露骨に『あの曲』を聴いて、脳を焼かれながら構成したお話っす。
別に「これが楽曲の正しい考察だ!」みたいな野暮なことを主張したいわけじゃなくて。単に自分が曲から受け取った「無知ゆえの暴力」や「絶望感」をベースにして、自分なりに一つの物語として出力してみた、ただそれだけっすね(てかぶっちゃけこの部分とか使ってなくね?みたいなのだらけだし……)。
それにしても、久しぶりにここまで救いようのない悲惨な話を書いたっすwww
こんな胃の痛くなるような屁理屈と独白に、最後まで付き合ってくれた物好きな読者の皆様、本当にありがとうっす。




