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『この世界では、それが普通じゃない』  作者: ゆう


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第8話「ことみの視線」

第8話「ことみの視線」


夕食のあと、ゆうが自室に戻ろうとしたときだった。

廊下の角で、ことみが立ち止まっているのが見えた。

声をかけようか迷っているような、そんな表情。


「どうしたの、ことみ」


呼びかけると、ことみはびくっと肩を揺らし、

一瞬だけ固まったあと、ゆっくりこちらを向いた。


「……あ、えっと……その……」


言葉が出てこない。

けれど、逃げるわけでもない。

“話してもいいのかどうか”を慎重に判断しているような沈黙だった。


ゆうは少し距離を保ちながら、穏やかに言う。


「何かあった?」


その一言で、ことみはまた固まる。

返事を返すまでに、数秒の空白。


「……っ……あの……今日……学校……どうだった……?」


ようやく絞り出した声は、かすれていて、震えていた。


「うん。まあ……普通に授業受けて、普通に帰ってきたよ」


“普通”という言葉に、ことみの目がわずかに揺れる。


「……ふ、普通……」


その言葉を反芻するように、口の中で転がしている。


(やっぱり、この世界では“普通”って言葉が重いんだな)


ことみは視線を落とし、指先をぎゅっと握った。


「……お兄ちゃん……今日……誰かに……話しかけられた……?」


「うん。少しだけ」


その瞬間、ことみは息を呑んだ。


「……っ……だ、大丈夫……だった……?」


「大丈夫って……何が?」


問い返すと、ことみは困ったように眉を寄せた。

“説明していいのかどうか”を迷っている顔だ。


「……その……女子が……近づきすぎたり……

 ……変なこと……言われたり……」


(変なこと……?)


ゆうが首を傾げると、ことみは慌てて手を振った。


「ち、違うの……! 女子が悪いとかじゃなくて……

 ……その……お兄ちゃんに……負担が……」


負担。

またその言葉だ。


今日一日で何度も聞いた。

学校でも、教師からも、女子たちからも。


(男子に話しかけること自体が“負担”扱いなんだよな……)


ゆうは軽く息を吐き、ことみに向き直った。


「大丈夫だよ。話しかけられて困ることなんてないし」


その言葉に、ことみは目を見開いた。

返事を返すまでに、また数秒の沈黙。


「……っ……そ、そう……なんだ……」


声は小さく、どこか信じられないような響き。


ゆうは少し笑って言った。


「ことみも、そんなに気を使わなくていいよ。

 普通に話してくれたら、それで十分だから」


その瞬間だった。


ことみの表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。

驚きと、戸惑いと、そして――

どこか嬉しさのようなものが混ざった、複雑な揺れ。


けれど、すぐに俯いてしまう。


「……わ、わたし……普通に……って……

 ……どうしたら……いいのか……わからなくて……」


その言葉は、ゆうの胸に静かに刺さった。


この世界では、

男子に“普通に接する”という経験が、

ことみにとっても、母にとっても、

ほとんどなかったのだ。


ゆうは少しだけ距離を詰め、

ことみが驚かない程度の柔らかい声で言った。


「ゆっくりでいいよ。

 俺も、この世界の普通をまだ知らないし」


ことみは顔を上げ、ゆうを見た。

その目は、怯えではなく――

“安心していいのかどうか”を探している目だった。


「……ゆっくり……で……いい……?」


「うん。ゆっくりでいい」


ことみは小さく息を吸い、

そして、ほんの少しだけ微笑んだ。


「……うん……」


その笑顔は、ぎこちなくて、

でも確かに“前より近い”距離にあった。


ゆうはその変化を胸に刻みながら、

静かに自室へ戻った。


――第8話、終わり。

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