第7話「ただいまの距離」
第7話「ただいまの距離」
玄関の扉を開けると、家の中の空気がふわりと動いた。
靴を脱ぐ音に反応するように、廊下の奥から足音が近づいてくる。
「……ゆう? 帰ってきたの?」
母・たか子が顔をのぞかせた。
その表情は、ほっとしたような、でもどこか緊張を含んだまま固まっている。
「ただいま。今日は普通に授業受けられたよ」
ゆうがそう言うと、たか子は一瞬だけ目を見開き、
それからゆっくりと息を吐いた。
「……そ、そう。よかった……」
返事が返ってきたことに驚いているような、
それでいて安心しているような、複雑な反応。
(……やっぱり、返事が返るのって“特別”なんだな)
ゆうが靴を揃えて上がると、たか子は半歩だけ後ろに下がった。
避けているわけではない。
ただ、“近づきすぎないように”という配慮が、自然に染みついている動きだった。
「……お兄ちゃん、おかえり」
今度は妹のことみが、廊下の角からそっと顔を出した。
目が合った瞬間、肩が小さく跳ねる。
「ただいま、ことみ」
その一言で、ことみは固まった。
返事を返すまでに、数秒の空白が生まれる。
「……っ……う、うん……おかえり……」
声は小さく、震えている。
だが、拒絶ではない。
“返事を返していいのかどうか”を慎重に判断した結果の声だった。
(家族でも、こうなんだな……)
リビングに入ると、たか子が少し距離を置いた位置から声をかけてきた。
「……学校は……どうだった?」
「うん。まあ……普通に授業受けて、普通に帰ってきたよ」
その“普通”という言葉に、たか子の表情がわずかに揺れた。
「……そ、そう……普通……ね……」
(あ、これも“普通じゃない”ってことか)
ゆうは内心で苦笑する。
ことみが、勇気を振り絞ったように口を開いた。
「……あの……お兄ちゃん……その……女子、多かった……?」
「うん。めちゃくちゃ多かった。ほぼ女子校みたいだったよ」
その瞬間、ことみは息を呑んだ。
「……っ……そ、そんな……言い方……」
「え? いや、事実だろ?」
「……う、うん……そうなんだけど……」
ことみは視線を落とし、指先をぎゅっと握る。
「……お兄ちゃんが……そういうふうに……言うの……珍しいから……」
(珍しい……? 普通の感想だと思うんだけどな)
たか子も、どこか落ち着かない様子で言葉を続ける。
「……その……女子が多いと……ゆうも……大変だったでしょう……?」
「別に。普通に授業受けただけだよ」
また“普通”と言ってしまった。
たか子は一瞬だけ目を伏せ、
ことみは小さく肩をすくめた。
二人の反応は、まるで――
“普通に過ごせた”という事実が、信じられない
と言っているようだった。
(……本当に、この世界の“普通”は俺の知ってる普通じゃないんだな)
ゆうはソファに腰を下ろし、深く息をついた。
たか子は少し距離を置いたまま、そっと言う。
「……ゆう。無理は……しないでね。
あなたが……普通にしてくれるのは……嬉しいけれど……」
「無理なんてしてないよ。俺は俺のままだから」
その言葉に、たか子は一瞬だけ目を見開き、
ことみは息を止めたように固まった。
返事を返すこと。
会話が成立すること。
“普通に接する”こと。
それらすべてが、この家族にとっては
“前のゆうにはなかったもの”
なのだと、ようやく理解できた。
(……まあ、ゆっくり慣れてもらうしかないか)
ゆうは天井を見上げながら、静かに思った。
――第7話、終わり。




