第3話「登校」
第3話「登校」
朝の空気は少し冷たく、寝込んでいたせいか外の景色が妙に鮮やかに見えた。
靴を履いて玄関を出ようとしたとき、背後から慌てた足音が追いかけてくる。
「ゆ、ゆう……! ちょっと……!」
振り返ると、母のたか子が息を切らしながら立っていた。
普段は落ち着いた人なのに、こんなふうに駆け寄ってくるのは珍しい。
近所の女性たちも足を止め、心配そうにこちらを見ている。
「どうしたの? 忘れ物?」
「ち、違うの。ただ……その……」
たか子は言葉を探すように視線を泳がせ、少し間を置いてから、ようやく口を開いた。
「……気をつけて行くのよ」
「うん。ありがとう」
それだけのやり取りなのに、たか子は胸に手を当てて深く息を吐いた。
まるで“返事が返ってきた”こと自体に安心しているようだった。
(……普通に会話しただけだよな?)
軽く手を振って歩き出すと、たか子はしばらくその場に立ち、こちらを見送っていた。
通学路を歩いていると、前方から来た女子高生の集団が、こちらに気づいた瞬間、自然と列を崩した。
誰かが小さく合図を出したのか、間隔を空けるように横へずれる。
「……男の子、通るから」
「間隔……ちょっと」
「……触れないように」
声は小さく、こちらに聞かせる意図はない。
ただ、当たり前の確認作業のように淡々としている。
(……俺、そんな扱い?)
視線を向けると、彼女たちはすぐに目を逸らした。
立ち止まる者もいれば、こちらが通り過ぎるまで身を引く者もいる。
(歩いてるだけなんだけどな……)
学校の門が見えてくる頃には、その違和感ははっきりした形を持ち始めていた。
校門前に集まる生徒の大半が女子で、男子の姿は探さなければ見つからない。
(……こんな比率だったか?)
昨日、ことみが言っていた「女子が多いから」という言葉を思い出す。
多い、というより――ほとんど女子校だ。
門の前に立っていた生活指導の女性教師が、こちらに気づいた瞬間、表情を変えた。
「あっ……崎山くん。おはよう」
「おはようございます」
返すと、教師は一瞬言葉を失い、それから小さく息を吐いた。
「……体調は、もう大丈夫?」
「はい。熱も下がりました」
「そ、そう……よかった……」
その反応は、やはり母と同じだった。
(なんで、そこまで……?)
廊下を進むと、教室の中から女子たちの声が聞こえてくる。
「……今日、来るのかな」
「昨日、休んでたし……」
「人、集まりすぎてないよね……」
(集まりすぎ……?)
扉に手をかけた瞬間、教室の気配が変わった。
開けたとたん、ざわついていた空気が音もなく止まる。
「……おはようございます」
思わず、いつもより丁寧な声になった。
返事は――ない。
女子たちはこちらを見ている。
だが、誰も声を出さない。
目が合いそうになると、すぐに逸らされる。
(……返ってこないのが普通、なのか)
そう理解した直後、後方の席から、遅れて小さな動きがあった。
「……あ……」
誰かが息を吸い、言葉を探している。
「……おはよう、ございます……」
その一言が落ちた瞬間、教室が微かに揺れた。
声に出たのは、その一人だけだ。
席へ向かう途中、近くの女子が、勇気を振り絞ったように小さく声をかけてきた。
「……さ、崎山くん……」
ゆうは足を止め、自然に振り返った。
「なに?」
その瞬間、彼女は完全に固まった。
言葉が返ってきた。
視線が合った。
それだけで、処理が追いついていない。
「……っ」
何か言おうとして、結局、口を閉じる。
「……体調……だいじょうぶ……?」
「うん。心配してくれてありがとう」
返事をした瞬間だった。
彼女の顔が、一気に赤くなる。
周囲の女子たちも、息を詰めたように動きを止める。
「……返事……」
「……ありがとう……言った……」
「……会話、してる……」
(……会話が“してる”って……)
席に着きながら、ゆうは小さく息を吐いた。
この世界では、
男子が話しかけても返事が返らないことの方が普通で、
会話が続くこと自体が、特別な出来事らしい。
――少しずつ、だが確実に。
自分の“普通”と、この世界の“普通”は、ずれている。
そう実感しながら、ゆうは静かに前を向いた。
今日一日で、まだ知らない違和感に、いくつも出会う気がしていた。
――第3話、終わり。




