喰らい症の化物だって痩せたいんだって話
世の常として、およそ人間という生物は、多く食べれば当然のように肥えるものである。
太古の昔より連綿と受け継がれる、生物の性。
他の生物を食らい、生存の糧としてこれを消費し、活力は物質を媒介として大地を巡る。
時として過酷な状況に、予め備えて――その身に余剰の活力を貯め込んでいく。
そう、特定の層には蛇蝎の如くに嫌われる、我らが相棒。
即ち贅肉。脂肪である。
----
……えーと、どこまで話したことがあるんでしたっけ。
自己開示って、結構内面的なことについては、事につけては鬱陶しくも話している自覚はあるわけですけど、まぁ具象的なことってあんまり話さないですよね。
となると、基本的には全く話していないものと推定されるか。
いつくらいでしたかね。結構最近……具体的には2年くらい前かな? 時期は冬だったのを憶えている。
身長が男性の平均身長に多分足りない程度、1.66メートルほどであるにもかかわらず、体重が普通に8万グラムを超える時期があったんですよ。こういうのはBMIで言った方がわかりやすいので、だいたい31近くですね。
それで、まぁくだんの2年ほど前……2024年の2月のバレンタインデーあたりだ。
その頃からしっかりと発起して、なんだかんだで今に至る。現在の体重はざっくりと67キログラムで、BMIで言うと軽肥満にちょっと届かない、つまりは「普通体重」と呼ばれる領域の上限ギリギリともいかないながら、
正直これくらいだとこう言われるわけです。
「あぁ、結構しっかりした体重でいらっしゃるんですね」
----
……的な、現代日本の病理(?)はまぁどうでもよくて、私が持つ「現代日本人は概ね肉がなさすぎる」という思想もどうでもいい話で。
とはいえ最近友人に言われるところによると、今は結構「すっきりした」体型であるようだ。
勿論それは理屈では分かる話で、まぁ元々馬鹿みてェにぶくぶくと肥えていたことによるハードルの下がりも然ることながら、シンプルにやせ細ったというより、運動習慣の継続による筋肉の確保も伴ったことにより、重量に比してすっきりした見た目が得られる、という効果が得られているのである。
幸いにして、栄養の吸収は良好であるものの――これについても実際厭味でもなんでもなく心底から羨まれる場合があるとおりではあるが――私は運動をするという事それ自体に関しては、明確に素質があるらしい。
勿論、目を瞠るほどに優れているとかそういう話ではないが、恵まれた肉体を持っている。食えばきっちり肉が付き、運動もそれなりに苦も無く継続が出来る。当然のように。
そう、当然のように。
それこそ数年来の出不精、運動不足、不摂生……そして昨年4月には痛風発作も発生したような、そういうレベルの終わりかけている気すらする肉体でも。ただやろうと思っただけで、ある程度強度の高い運動が出来るのである。
これはどうやら、少なからぬ人にとって驚嘆や賞賛に当たる事項であるらしい。そんな程度のことが、実のところ誰にでも出来ることではないのだと――おそらくは単に当事者ではないからというだけで、そこにある苦難を大きく見積もりすぎている。
まぁ。実際、造作もないです。トップアスリートがやってるようなことをやってるわけでもなし。
どちらかというと貧弱クソもやしに何が出来るものか、という侮りに由来するんじゃないですかね知らんけど。これでも結構意志の力は豊富にあるほうなので、興が乗れば色々出来ますとも。
さておき。
とはいえね、ちょっとここ最近は体重減少が停滞しているっていうか……もっと有り体に言うと、若干戻りつつあるんですよね。
今日はちょうど採血なんかの検査のついでに、栄養指導を受けたんですがね。
ここ2回は2ヶ月に一度の頻度で受けていた感じでちょっとスパンを空けていたから、
「まぁ時間はあるんで次の私の激烈な成果を見せてあげますよ。震えて眠れ!」
なんてことは後半は全然言ってないものの、そういう言葉を2回ほど実現出来ていなかった、と。
意図的でなくとも、噓を吐いた。これでは、いけない。
ただ、今日改めて話してて気付いたんですが、私はどうやらそもそも「食いすぎている」らしい。
……いや、まぁそれはそうなんですよ。半分は自覚があった。半分はね。
例えば、外食。外食は分かりやすい。食った量が概ね金額に出るので。
中でも回転寿司。あれは本当に分かりやすい。近年はだいぶ単価が上がってしまって、同じ額でも結構実態は変わってくるものの、とはいえ一人で会計3千円が「基準」になるのは多めと言って差し支えないだろう。20皿食ってるわけでもない(※)とはいえね。
ただ、それを考えれば、――貴方がたには「考えるまでもなく自明だろ」と思われるかもしれないが。
私は外食以外でも全然食いすぎているようだ。
これはね。自覚なんてないんですよ。本当に。
例えば、鶏むね肉を買ってくる。私の地域では今でもだいたいグラム70円しないくらいに非常にお安い素敵な食品なわけで、これを好んで食う。無論、もも肉でもいい。ちょっと高いけど。
じゃあ鶏むね肉。あるいは、鶏もも肉。さて、一食でどれくらい食べるか?
答えはこう。「1枚」。グラム数で言うとざっくり300グラム。
これがね。実は「多い」らしいんですわ。肉なんて300グラム食うものなんじゃないの?
こう言ったらね。栄養指導のお姉さんにこう言われたんですよ。「多い」って。
一食あたりの肉の摂食目安、120グラムくらいじゃね? ってことらしいです。マジ?
そりゃ確かに500グラム超えて食ったら多いよなー、とは思う。それはまぁわかる。とかいいつつごく最近600グラムくらい電気圧力鍋でがっつり加熱して食ったな。美味かった。
でも、120グラムって。120グラムですよ? そんなん食ったうちに入ります? 本当に?
そこに食えるものがあって、調理して、食えるなら。
食わないという選択肢がそこにありますか? 何故、食わないのです?
腹がいっぱい? 何故腹がいっぱいなら食わないのです?
仮に食わない利益があったとしても。食える余地がそこにあり、食えるものがそこにあるなら、食うのが普通ではありませんか?
どうして「食わない」という選択肢がそこにあり得るのかが、心のどこかでは常に否定されている。
分かってはいる。理屈では。そうでない人が存在する、その事実のみは認識出来るから。
だけど、それだけだ。前提の違いが生む認識と現実の違いを、本当の意味では理解出来ない。
栄養をあまり効率よく吸収出来ない人がいる。その人にはその人の苦労がある。
故にその人は言った。「どうすれば肉が付くのかがわからない」。
それは切実な悩みであって、別に皮肉であるとも思っていない。まぁ皮肉である可能性はあるが。
だが、私はそう聞かれると無神経にこう答えるしかない。「食えば付く」。それ以外にない。
食えない人には、腹がいっぱいになっても食い続けるという選択肢は絶対にない。あるいはそれで体調を崩すのかもしれないし、単純に不快に寄るからそこまでは出来ないのだろうと感じる。
それでも、我々は違う。そこに食えるものがある。食える余地がある。ならば食う。基本的に、それ以外はない。
これは、生きる世界の違いですらある。色んな人がいる。
飯の食い方ひとつをとっても、性愛に向き合う姿勢をとっても、他は何だろ。睡眠とか?
色の見え方もそうだし、起きる事象の解釈もそうだし、学問への向き合いもそうかな。
人の気持ちを慮ることについても、まぁまぁ狭い道で対向から人が来るにもかかわらずほんの最低限しか道を空けないゴミクズみてえなカスも、信号待ちの間にウインカーを出さないどころか曲がり始めてからしかウインカーを点けねえような脳が搭載されてないレベルのゴミカスもいる(※)くらいだから、そこに性能差があるのは言うまでもない。よくわかるね。
だから、そういう差の全てが当然に肯定に足るとは言わないにしても。
いいじゃん、別にさ。直接害されない限りは、大抵のことは割とどうでもいい。
ルールを守らないことは共同体のためにならないから、司法でしっかり裁く。それでいい。
なんにせよ、これからもきっちり色々しっかり見直して、誰にも恥じない生き方をしていきたいものだと思う。
最後だけ前向きにしとけば全て許されるでしょう? みたいな発想で今日は終わり。
※回転寿司20皿食ってない:一人で回転寿司に行く際はよくソフトドリンクを飲んでいるくらいに割高な飯の食い方にも躊躇がない(ただし700円くらいの盛り合わせみたいなのはなんか食えない)
※周りが見えてないゴミクズども:両方とも今日あったのをさっき書いてて思い出した