4:親子
「ぼうや、何か用かね?」
と、父親。
相手が小さな子供とあって、穏やかな表情をしている。つんと横に伸びたヒゲ。
少し、間。
母親がかがんで、女の子に小声で話す。
「‥あなたのお友達?」
母親を見上げて、首を傾げる女の子。
‥変だ。何かが凄く変だ。
父親が、えへんと咳払いした。僕は、いたずらを見つかったときのように飛び上がった。
何か言わなきゃ‥。
「あの! ‥ええと‥。あそこ!」
僕は指差した。昨夜、女の子が飛び降りた欄干を。
振り返る3人。
人ごみの隙間から覗き込むように伸び上がって父親が眺めた。
「あそこが、どうかしたかね?」
何かを落としたのかな? 、そんな風にしか思ってないようだ。
だめだ、ちゃんと説明しないと、この人たちには判らない‥。
僕は戸惑いはじめていた。
なぜって、
たしかにあそこから飛び降りた本人が、まるで何も反応を示さないからだ。
「君! 。‥君、そのぉ、僕と会ったよね。ここで‥」
母親は、僕をじっと見ていた。
奇妙な目付きだった。壁の向こうにあるものを観察しようとするような。
女の子は、大きな青い眼を閉じたり開いたりしている。
あっけにとられてる顔。まるで訳が分からないという感じだ。
おかしい。
僕を見るあの子の眼、まるで初めて会った人を見てるみたいだ。
僕は、自分を見下ろした。
ぺらぺらの安っぽいジャケットに横縞の入ったシャツ、麻布のズボン。
頭には親父のお下がりのぶかつく帽子をかぶっている。
昨日の夜とまったく同じ格好だった。
似た様な格好の子供は他にもいるけど、そう見間違えるとは思えない。
君、あそこから‥、橋の上から飛び降りたじゃないか! 。なぜ‥生きてるの? 。ここにいるの? 。
僕は、そう聞きたかった。でも、
口から出てきた言葉は、そうじゃなかった。
「君、だから、その‥、ええと、僕の事知ってる?」
女の子はゆっくりと首を振った。昨夜と同じように。
「ごめんなさい。あなたの事、あたし知らないの」
そんな馬鹿な! 。
‥いや、まてよ。
「あの‥、君にはお姉さんがいる‥よね。じゃなきゃ妹か‥」
そうだ。そうだったんだ。
どうして気づかなかったんだろう! 。
きっと年の近いお姉さんか妹がいるはずだ。だから‥。
女の子は、きょとんと目を見開いたままだった。
そして、また首をふった。はっきりと。
母親が答えた。
「ねえ坊や。この子はね、一人っ子なの」
一人っ子なの‥、やけに一語づつ、はっきりと。
たいへんだ‥‥。
体中の血が、背中からさぁーっと抜けていくのが判った。
と、言うことは‥、つまり‥。
頭上から、えへんと咳払い。
「人違いのようだね」
と、父親。あきらかに怒るのをこらえてる様子で。
女の子は母親を見上げた。
‥ねえ、どうすればいいの? 。
そんな風に助けを求める視線。
母親はぴしりと言った。
「用事がないのならどいて頂けるかしら」
僕はうなだれると、しおしおと脇へどいた。
母親が素早く、行きましょうと言うと、3人はそろって歩き出した。
僕は何も言えずに見送った。
橋を渡りきった頃、母親がこちらを振り返った。
僕がまだ見てるのに気付くと、父親に何か言った。
父親が、明らかに怒った顔で僕を睨めつけた。
僕は目をそらした。
視線を戻すと、親子は小走りで通りを進んでいた。
やがて、人ごみにまぎれて見えなくなった。
‥‥‥。
僕は途方に暮れていた。
ようするに‥、ようするに‥。
あれは全部、夢だったの? 。
昨夜、ナラク橋から飛び降りた女の子。
そして、僕の事を知らないと言った女の子。
別人だった。
声がまったく違ったのだ。
昨夜の女の子は、乾いた響きのどこか大人びた声だった。
今の女の子は、もっと温もりがあって小鳥みたいに可愛らしい声だった。
でも、姿形はまったく一緒だった。
似てる人ってのは、時々いるけど、
背格好から髪型、そして着てる洋服まで同じなのに、別人だったなんて‥。
夢でも見たんだと考えるしかしようがなかった。
頭の中で打ち鳴らされていた鐘は、もう止んでいた。
凄く大きなため息をつく。大人がするみたいに。
でも、これで良かったんだ‥‥。
結局僕は、人が死ぬ所を本当に見た訳じゃなかったんだから‥。
それは途方も無い安らぎだった。
何も心配する必要は無いし、不安になる事も無いんだーー。
そう判ってはいた。いたんだけど‥。
子供には到底与えられっこない大きな役目を、
いきなり取り上げられた様な寂しさを感じた。
僕はその場に立ちつくしていた。
そして、
すっかり忘れていたある事に直面した。
〜つづく〜