2:ナラク橋の少女[挿絵 x 8]
ナラク橋は、街で一番大きな橋だった。
渡りきるまでには、それなりに歩く必要がある。
夜中。ナラク橋に街頭は少ない。
真ん中と、両端の三本だけ。
だから、橋の上にいたのが僕一人じゃない事に気付くのに、少し時間がかかった。
僕はまだ小さかったから、夜中の道に誰か知らない人が立っていたら、きっと用心したはずだ。
でも、その人影はずいぶんと小さかった。
僕と同じ‥いや、少し大きいくらい。
だからあまり怖いとも思わず、歩くのは止めなかった。
その人影は、向こうに行くでも無く、こちらへ来るようすもなかった。
じっとしているみたいだ。
近づくとだんだん様子が見えてきてーー。
やっぱり子供だ。
‥迷子かな? 。
僕は、すれ違えるように端っこへ寄った。
車2台が楽にすれちがえる幅の橋で、そんな事をする必要は無かったのだけれど。
その人影は、橋の真ん中辺りに立っている。
大きく切れ込みの入った袖、百合の花を逆さに伏せた様なスカート‥。
女の子だった。
得体の知れない人物とは、絶対に目を合わせるべきじゃない。
大人なら誰でも持ってる分別を、幼い僕はまだ持ち合わせていなかった。
青白く光る顔。辺りはこんなに暗いのに。
僕は、その女の子の瞳に視線を引き寄せられた。
「こんにちは」
不意に声をかけられた。
「こんにちは‥」
僕は挨拶を返してから、
「いま夜だよ。だから、こんばんわだ」
と、付け加えた。
女の子はきょとんとしている。
「そう‥。今は”よる”なんだ。知らなかった」
「よる‥だと思うよ。外が真っ暗だもの」
「”そと”‥って、なあに?」
もう‥。
この女の子は頭が悪いのかな? 。
「だから‥そのぉ、”せかい”さ。
‥世界が真っ暗だから、”よる”なんだ」
女の子は、まだ不思議そうな顔をしている。
「世界が真っ暗なのは、当たり前の事じゃない。それとも、暗くない時でもあるって言うの?」
まったくもう。
この女の子の言ってることは訳が分からない‥。
僕は、この変な子にも判るようにと、考えながら答えた。
「だって‥朝になれば明るくなるでしょ。昼になれば、もっと明るくなるし」
「どおして? 」
どうしてって言われても、何といえばいいのかな‥。
「お日様が昇るから」
そこで女の子はケタケタと笑い出した。
「そうか、ここではお日様が昇るんだ‥。そうか、うふ、うふふ、あっはっははは」
‥‥‥。
僕は、女の子の笑い方が、なんだか普通じゃ無いように思えた。
こんな事を言ってはいけないと思うけど、気が狂ってると思ったんだ。
だから僕はじりじりと、その場を離れた。
もう何も話しかけてこない。僕は背を向けて歩き出した。
女の子の白い影は、視界の隅にやけに残った。
たぶん、まだその場に立ったままでいると思うけど、
なんだかそっと後ろからついて来てるような気がした。
だから、また女の子に声をかけられた時、僕はどきりとした。
「ねえ、君」
「‥‥。なあに?」
僕は振り返った。
女の子は同じ場所に居る。
返事は返したけど、足は止めなかった。ちょっとずつ後ずさってる。
僕は帰らなきゃ行けないんだと、女の子に気付いてほしかった。
女の子は言った。
「お日様、あとどれくらいしたら昇ってくるの?」
小さいけど、胸に突き刺さすように響く声。
「あと? ‥、あと‥、お日様が? 。うーんと‥」
この女の子は頭がちょっと変だけど、
それでも、自分より大きな子に頼りにされるのは、ちょっぴり嬉しかった。
僕は飲み屋を追い出された頃の時刻に、ここまでかかった時間を足して、一生懸命考えた。
今、11時を少し回ったぐらいだから‥、
「あと5時間。‥いや、6時間だ。それくらいだよ。たぶん」
「そっか‥」
ふいに女の子の表情が曇った。
ぷいっと横を向くと、両手を後ろに組んで歩き出した。
一歩踏み出すごとによろける、少し奇妙な歩き方だった。
‥裸足? 。
僕の立ってる側の橋の欄干まで来ると、背中をもたれかけた。
スカートの裾がふわりと寄り添う。
女の子は、ぼんやりと光る街灯を見上げた。
何か真剣な事を考えている。
何かを諦めてぼおっとしている。
そのどちらにも見える表情。
その時になって僕は、少女が思いのほか美しい事に気が付いた。
街頭の黄色い灯りが、青白い顔につかの間、
うっすらと生気を垣間見せたからかもしれない。
少し、間。
僕は、歩みを止めていた。
「見たかったなあ‥お日様」
もう二度とお日様を見れないか、
今まで一度も、お日様を見たことが無かったのか、
どちらかの意味に聞こえた。
ただそれは、今になって思うことで、その時はただ、
「朝になれば見えるよ」
と、ぶっきらぼうに答えただけだった。
馬鹿馬鹿しいおしゃべりだと思った。
だってそうじゃないか。
家へ帰りベッドに入り、目が覚めれば、お日様なんていくらでも見れるのに。
女の子はゆっくりと首をふった。
「‥もう、行かなきゃ」
そして女の子は、橋から飛び降りた。
僕はあっけにとられた。目の前で起きてる事の意味が判らなかった。
我に返り、欄干から身を乗り出すと、下を見た。
一輪の白い花の様な円が、
少しづつ少しづつ、小さくなって、
そして闇に吸い込まれて、見えなくなってしまった。
その後、僕が取った行動はよく覚えていない。
ただ気が付くと、ベッドの中でがたがたと震えていたように思う。
次の日。
僕は女の子と再会した。
あの橋で。
〜つづく〜