11:闇に怯えた夜
「おかえりなさい‥」
僕はつぶやいて、席についた。
今夜の献立は、ちっぽけな魚のフライに、野菜くずのタレをかけたもの。ごはんと味噌汁。菜っ葉の漬物が”おかず”ではなく添え物だったから、「今夜はご馳走」と言う事になる。
とにかく腹ペコだったので、無我夢中でご飯をかきこんだ。
一番最後にとって置いた小魚のフライに箸を伸ばしたとき、親父がぽつりと言った。
「お前‥、大工場の前をうろうろしていなかったか?」
僕は内心飛び上がった。どうしてバレたんだろう‥! 。
「僕、しらないよ」
今思うと、何故そんな事が出来たか判らない。僕は何事も無かった様に平然とフライを頬張ったのだ。
無関心を装ってご飯をかきこんだ。そのお椀に飯は一粒も残っていなかったけど、箸を止めなかった。
かちゃかちゃ‥、かちゃかちゃ‥。
しばし、間。
おやじは、「そうか」と言って、それっきり何も言わなかった。
ごちそうさまをして、歯磨。僕はすぐにベッドに潜り込んだ。
猛烈に眠いはずなのに、一向に寝付けない。親父の言ったことが気になって仕方が無かった。
それが何故かは判らないけど、僕が大工場の周りをうろついていた事を親父は知っていたのだ。
いや‥、まてよ。父さんは、それが僕だと決めつけてはいなかったーー。
つまり、うろついてたのが”誰か”までは知らなかったんじゃないだろうか? 。だいたい、大工場の前で誰かに名前を聞かれたわけではないし、知り合いに姿を見られた訳でもない。
僕は、憲兵人形の目にじろりと睨まれた事を思い出した。あれは立ってるだけの作り物でしか無かったけど、何かの仕組みによって、人形の目を使って誰かが僕を”見ていた”のではないか? 。
僕は運良く捕まらなかったので、ただ、小さな子供が大工場の前をうろうろしてるという知らせだけが、親父や他の工員の耳に入ったのだろう。
そう考えると納得がいくし、気も少し楽になった。
僕は、今日の冒険の意味を考えた。
謎の親子を知る人は見つけたけれど、親子の名前は聞きそこねたし、何処に住んでいたかも判らない。あの親子は引越してしまい、たぶんもう、「すばらしいまち」には帰ってこない。
「お金持ちだから、きっと遠くへ行ってしまったんだ」
僕は何故だかそう思い込み、あの女の子に会うことは、幼い子供の力ではどうにもならない事なのだと考え始めていた。
これ以上「すばらしいまち」へ行っても、たぶん何も判らないだろう‥。あのタバコのおばさんも、どの家に住んでいるかもう判らない。
どっちにしろ、これ以上危ない橋を渡る訳には行かなかった。
(「ああいった連中にはかかわるんじゃない」)
僕はその警告に対して「はい」と返事をしてしまった。それなのに、親父が言う所の”ああいった連中”に会うために『すばらしいまち』へ行った事がバレたら、げんこつくらいでは済まないかも知れない。夕飯抜きくらいで済めばいい方だ。
もしも鍵を掛けた納屋に一晩中押し込められたりでもしたらーー。大分前に、三日連続でおねしょをした時そうなった。その時の暗闇とカビ臭い匂いを思い出しぶるぶるっと震えた。
冗談じゃない‥。僕はぎゅっと目をつぶった。
別に何も困った事にはなっていない。少なくとも今のところは‥。だから何も気にすることはないんだ。ひたすら自分にそう言い聞かせた。
とっとと寝てしまおう!。
寝ると決めると、やけに町の様子が音に聞こえてくる。ごうと風が吹き、窓枠がカタリと揺れた。居間に掛けられた古くて大きな振り子時計がこつこつと動く音がまぶたの闇に忍び込む。こそこそと物音。投げ売りされた野菜を買ってきて、腐って悪くなった所を母さんがむしる音ーー。
眠れない。布団を深くかぶる。闇の中に、白い人影が鮮明にうごめいた。僕はそれを無視した。
あの女の子の為に何かをしなくちゃという、闇雲な気持ちはもう無くなっていた。
出来ることはやってみたのだし、これ以上僕に出来る何かがあるとは思えなかった。
そもそも動機がなかったのだ。僕がしなくちゃいけない事はそもそも何も無かったのだ。
そうなんだ。あれは僕に何の関係も無いのだ。確かにナラクへ人が飛び降りたけど、あの女の子は僕が居ても居なくても飛び降りたに違いない。
僕には関係ない。
ナラク橋から飛び降りた女の子も、その子と同じ顔をした謎の女の子も、全て忘れてしまいたかった。
眠れない‥。寝返りを打って枕に顔を押し付ける。白い人影は消えない。
「『すばらしいまち』へはもう行かないからね‥」
僕は闇の中の幻につぶやいた。膝を抱えて丸くなる。
(「見たかったなあ‥、お日様」)
耳をふさいだ。
(「見たかったなあ‥、見たかったなあ‥、見たかったなあ‥、みたかったーーー」)
「やめて! 。君が勝手に飛び込んだんじゃないか。僕には関係ない!」
深い海の底へ沈んでしまいたかった。地面に穴を掘って埋めてもらいたかった。何も見えない、何も聞こえない、深くて真っ暗で何も無いところに落ちてしまいたかった。
‥ナラク。
僕は泣いていた。何故泣くのか訳も分からず泣いていた。
いくら眼を閉じても、いくら布団に潜っても、何も無い真っ暗闇へ逃げ込む事は出来なかった。白くて小さい、その寂しそうな人影は、どこまでもつきまとって離れなかった。
‥ナラク。
真っ暗で何も見えないところへ落ちて行くって、どういう事なんだろう‥。
何も聞こえなくて、何も感じないんだろうか‥。
そういうのって、なんだろう‥?。
そういうのって‥、
そういうのって‥。
今思えばーーー。
その夜。僕は「始まり」と「終わり」という名の「光と影」に、生まれて始めて気が付いていたのだろう。
それは、五歳の子供にはただひたすら漠然としたもので、形がはっきりと見えず捉え所が無いくせに、いつでも確実に「そこに居る」何かーー。
幼心にも何故か、それだけは判るのだった。
それは心の耳に、いつまでも残り続ける小さな足音だった。
その足音から逃れるには生きることを辞めてしまうしかない‥。そう気づくのは、もっとずっと大人になってからの事だった。
幼い僕は、闇がただ闇であるというその事だけに怯え、泣き、眠った。そして朝が訪れる度に忘れていった。
結局、あの親子の姿を見かける事は二度と無かった。
〜つづく〜
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ここまでが第一部となります。第二部からはちょっと成長した「僕」が登場します。お楽しみに。