10:家に帰る
立ち並ぶ倉庫を駆け抜け、町工場街へたどり着くと、僕は無性にほっとした。自分の居場所に戻ったという気がした。
町工場の屋根が連なるギザギザの線を踏みつける様に大工場がそびえていた。
もう午後も遅い。傾いた陽光がスモッグに煙る工業地帯をくたびれたオレンジに染めていた。
街道は、仕事を終えてぶらぶらと家路につく工員達がちらほら見られた。
町工場街を抜けると、街道は右へ折れ、また大工場を周回する順路となる。と、そこで僕は思い出したくない事を思い出した。
また、あの憲兵達の前を通らなければいけないのだ。
立ち止まって、5歳の子供なりに状況を分析した。
「ええと、憲兵の人形にイタズラをするのって、どれくらい「悪いこと」なんだろう? ‥」
イタズラと言っても、外れて落ちていた腕を拾ってまたくっつけようとしただけだ。本来あるべき姿に直そうとしたのだ。これはむしろ誉められてもいいくらいではないか。
しかしその後、人形を蹴ったり馬鹿にしたりしたのはまずかった‥。
いやまてよ、人形を蹴ったり馬鹿にしたりって、そんなに悪いことかしら‥。
「今度から気を付けるように」そう言われて終わりかも知れない。でも‥、それで終わらなかったらどうしよう‥。
僕は、親父が呼び出されて、みんなの見てる前で叱られたりぶたれたりするのが嫌だった。近所の子にそんな所を見られたら、この先ずっと馬鹿にされるだろう。
「どうしよう‥。どうしよう‥」
僕は、曲がり角に置かれているベコベコにへこんだドラム缶の後ろに隠れると、そっと顔を出した。
そこからは、大工場の一つ目の門が見える。さっきと通った時と変化は無く、門番の憲兵が一人で立っているだけだ。誰かを探してうろうろする憲兵等は見当たらない。
さっきと違うのは、沢山の人が大工場から出て来る事だった。定時で仕事を終えた工員達なのだろう。
‥あの人達の中に入って歩けば、憲兵に見つからずに通れるかもしれない。
それは賭けだったが、他にいいアイデアも無い。とにかく、この道を通らない事には家に帰れないのだ。
僕は、門番に見つからないよう、壁へくっつくように歩き、門のそばまで行った。
がやがやとだべりながら門から出てくる若者の一団があった。僕はそっとその中に紛れた。
大工場との間に人がいる位置関係を保ち、ひたすら道路側を歩いた。大人は歩くのが早いので、遅れないように歩くのが難しかった。
門の前を通るときは、大人の影に隠れるよう身を縮めて歩き、憲兵の視線から逃れた。
「使われてない門」もいくつか通り過ぎた。その中に、枯葉の山が踏みちらされている場所があった。
それが僕のせいなのか、悪戯小僧を捕まえに駆けつけた憲兵のせいなのかは判らなかった。
あの、腕の落ちた憲兵人形が、工員達の身体を素通りして僕を見つめてる様な気がした。走りだしたいのを必死でこらえた。
来る時よりも、何倍も長い距離を歩いてるような気がした。道を間違えてるのでは‥という不安で何度も振り返った。
ついに、通い慣れた商工業地区へと通じる曲がり角が見えた。思わず走り出した。追いかけてくる憲兵がいないか振り返る余裕も無かった。
ナラク橋にたどり着くまで、ひたすら走り続けた。
家に着いたのは、すっかり日が落ちてからだった。
母さんにたっぷりと叱られたけど、「何処へ行ってたの」と聞かれなかったのでほっとした。
風呂に入り、自分のベッドに座り込んだ。物凄く疲れていたので、そのまま横になりたかったけど、お腹の虫がそれを許しそうになかった。
夕食に呼ばれ、居間のテーブルに駆け込んだ。
親父が食卓に居た。びっくりした。
こんなに”早い時間”に家に居るのは滅多に無い事だった。
〜続く〜