第四話 あさひの場合、梅雨の頃—①
愛してるの響きだけで強くなれる気がした。
なんてそう歌う、まひるちゃんの声が、重なるような雨の音が。
思考の外でずっと再生され続けてる。
ダメだあれは、ちょっとした狂気だ。推しが隣で二人だけで聞こえる場所で歌ってるなんて、理性を保っただけ褒めて欲しい。なんてことを考えながら、私はえっちらおっちらタンスの中をがさごそ漁る。
目当てのものは見つからないように、普段は奥に入れてるから、ちょっとばかり取り出すのに時間がかかる。でも、今日みたいにまひるちゃんがバイトでいない日しか、堂々と取り出せないんだよねえ。
しばらくほこりをかぶりながら、タンスの中の引っ越しの頃から解いていない段ボールを漁って、ようやく目的のそれを見つける。
小脇に抱えれる程度の小さな段ボール、なんの変哲もなく見えるように、表面にはあえて何も書いてない、私の秘密の箱。
本当はまひるちゃんと一緒に住むってなった時に、手放すことも考えたけれど。結局思い出の品だからと捨てきれずに持ってきてしまった。
箱を開けたら鍵付きの箱が、もう一つ出てくる。
ぱっと見、錠前はついてるけど、鍵穴はない。ちょっと特殊な箱で、知恵の輪みたいに、付属のパズルを回すと鍵が開くようになっている。ま、見た目がちょっと洒落てるだけで、実体はダイヤル式の鍵と何も変わらないかも。
おばあちゃんがくれたお気に入りだから、なんとなくつけてるだけだし。開け方さえ覚えていれば鍵を失くした、なんてことにもならないしね。
しばらくかちかちと鍵を回して、程なくしてかちゃりと音が鳴って、錠が外れる。
中に入っているのは、数枚の推し歌手のCDとプレイヤー。それを手に取って、手近なイヤホンをそこに差し込む。
とんとんとん、と、すぐにすっかり聞き慣れたイントロが私の耳を打っていく。
ふっと息が吐かれると同時に、歌手の声が私の耳の奥に響いていく。
最終盤のサードアルバム。最初の曲は、震えた少年が、折れてしまいそうな心を抱えて未来を探すそんな曲。
この曲も大好きだけど、今はもう一つ聞きたい曲がある。
プレイヤーのボタンを何度か押して、曲番号は七番目。
この曲はイントロが無くて、そのまま歌詞から始まっていく。
『届かない言葉を、君に告げた―――あいしてるって』
しばらく眼を閉じて、響いてくる優しい音と、静かな声に耳を預けて、その曲の世界に浸る。
七番目の曲は、愛の歌。この歌手、普段は割と激しめのロックチックな曲が多いけど、この曲だけは静かに語り掛けるように愛を歌ってる。
その声が本当に届かない想いを歌っているようで切なくて、それでも誰かのことを本当に好きなんだなって伝わるくらい愛おしくて。
ファンの間では結構賛否両論なんだけど、私は文句なしに大好きな曲。まあ、私、この歌手で嫌いな曲ないんだけどね。
しばらくじっと膝を抱えながら、その曲の最後まで、終わりにふっと吐かれる吐息までじっと聞く。そして私も少し、ふーっと長めに息を吐いてから、そっとプレイヤーを一度止める。
やー……、やっぱりいいね。
高校生の頃、飽きるくらい聞いたけど、何度聞き直しても、ちょっと涙腺が緩んでしまう。こんなふうな想いをどうやったら抱けるのか、どうやったらここまで誰かを愛せるかとか、色々考えたこともあったくらい。
今の私が抱える想いが、この歌の一体、何割くらいあるんだろっとか、想っちゃうときもあるけど。
『届かない言葉を、君に告げた―――』かあ。
今の私のあいしてるは一体、どれだけ君に届いているんだろう。
まあ、届きすぎも考え物なのだけれど。それでも、少し気づいて欲しいような、決して気づかれてはいけないような。
淡い青と深い緑が混じった、透明な群青みたいな、そんな曖昧な想いを少し胸に抱きながら、私はそっとCDたちを箱に戻してく。
本当は、もうちょっと聞きたいけれど、あまり長く出しておくものでもないし。あんまり聞きすぎると、普段も聞きたくなってしまうからほどほどにしないといけない。
もう一度、鍵を掛けて、段ボールにしまい直して、洞窟みたいなタンスの奥にそっと再びしまい込む。
これは私の秘密の段ボール。
決して君には知られてはいけない、秘密の箱。
だって、これを持っていることを知ってしまったら、きっと君は傷ついてしまうから。
そして、それを抱えていた私のことを、もしかしたら君は嫌いになってしまうかもしれないから。
だから、この秘密はそっと洞窟の奥に隠してしまう。
どんな醜い秘密も、それを知られないうちは、誰も傷つけはしないから。
だからそっと蓋をして、だからそっと鍵を掛けて。
どこにも、誰にも、特に君には見えない場所に、そっとしまいこむ。
ただそうやってしまううちに、友人たちの少し心配そうな声が、頭の中でリフレインする。
「閉じ込めて抑え込んだ想いは、いつかどこかで君の心を歪めてしまうよ」
そう、ゆうちゃんは言っていた。
「大きな秘密なんて、ずっと抱え続けてたら、絶対どっかで隠しきれなくなるでしょ」
なんて、よぞらちゃんも言っていた。
わかってる、どこかで向きあわなきゃいけない瞬間は必ず来る。
それでも、私はまだ。
何も知らないまま、何も知られないままでいたいから。
その真実がいつか隣にいる私たちの仲を引き裂いてしまうかもしれないとしても。。
それまで、どうか、曖昧な夢のようなこの時間をもう少しだけ過ごしていたいから。
ふと見上げた窓の外で、今日もまた梅雨らしく雨がしとしと降っている。
まひるちゃん、今頃バイトしてるかな。
今日、いつ上がりって言ってたっけ、でもまだまだ結構かかるよね。
そんなことを考えて。
ふと、小さな思い付きが頭の奥にやってくる。
そうだ、今日はどうせ私も暇な一日なのだから。
ちょっと、まひるちゃんの様子を見に行っちゃおう。
新しい傘と長靴も買ったばかりだし、丁度いいよね、丁度いい。
鼻歌を唄いながら、そんな思い付きに従って、腰を上げる。
雨の中のお出かけなんて、普段は憂鬱なのに、なんでか今は不思議と足は軽やかに動いてく。
なんでだろ、なんて、理由は分かりきっているのですが。
愛してるの響きだけで、人は強くなれるそうです。
君に会いに行くのだから、足取りが軽くなるくらい、朝飯前ということですね。
さあ、今日も楽しくお出かけです。頑張って働いているまひるちゃんの顔を見に行きましょう。帰りに材料を買って、夕食は唐揚げにでもしてあげれば、少しは喜んでくれるかな。
そして今日もまた、届かない言葉を君に告げに行きましょう。
だって、これはそういうゲームなのだから。
すべてはおふざけ、すべてはお遊び。
そうして鼻歌で何度もさっきの曲を繰り返しながら、準備を終えた私はアパートの外に飛び出しました。
傘に落ちる雨音をベースに、私の鼻歌をメロディーに、長靴で跳ねる水たまりをドラムにして。
雨の中を、陽気に楽しく踏み出しました。
さあ、親愛なる君に会いに行きましょう。
何も知らないふりをしたままで。
※