第三十五話 ゆうの場合、想い返す頃
声が高らかに、夕暮れの空に昇っていく。
曲が終わって、十数秒。
本来、拍手が巻き起こるのステージは、異様な沈黙に満ちていた。
ただ、そこにあるのは落胆でも、悲嘆でもなく。
そこにいた誰もがまひるの声に言葉を呑まれていた。
歌いながら、涙ぐむ声の震えが。
愛を語りながら、そっと伸ばす指のたどたどしさが。
じっと、どこか彼方を見つめている、そのどこか愛おしくも切なくもあるような表情が。
そこに込められた愛を、ただ鮮明に浮かび上がらせていた。
まひるの声はいつも、聞くものの声を震わせてきた。
本人が人一倍多感だからだろう。どうすれば人の心が震えるか、どうすればその感情を揺さぶれて、どうすればその奥にある想いに届くのか、無意識のうちに察知しているのだろう。
長らくの付き合いだ、彼女の活躍もずっと見てきていた、そんなことははなから解っていたはずだけれど。
それでも、ここまでとは、想ってもみなかった。そもそもこの曲だって、まひるとまよいは納得がいかないと封印していたけれど、ファンの間では最高傑作なんて噂も立っていたような曲だ。実際に恋をしたことがないからと言って、唄えていないわけではなかった。
ただ、今ならその言い分も納得できる。
本当に恋を知ったのだ。本当に愛を想えたのだ。
それを知って、初めてこの歌は完成したんだ。
そして、その愛をまひるに教えたのは――――。
横目で隣を少し窺う。
そこにあったのは、どこまでも溢れていきそうな涙と、見ていられないほどぐちゃぐちゃになったあさひの表情。
そして恐らく、ここにいる誰より心の底からまひるのことを想っている、そんな友人の姿。
思わずふっと表情が緩む。
まひるが言うには、あさひはずっと自信がなかったらしい。
自分の後ろ暗い気持ちで、まひるの幸せを邪魔してしまうと、ずっとそう想っていたらしい。
だから、自分に愛されるような資格はないと。
どの口が―――と思わず聞いてる途中で言ってしまいそうだったけど、まひるが言うべき言葉だろうから、その時はそっと口をつぐんだ。
そんな光景を瞼の裏にみながら、ふと眼を開ける。
呆然としていたはずの観客が、少しずつ我に返り始める。
それに合わせて、会場全体にゆっくりと拍手が満ちていく、まるで大きな波が静かにでも確かに浜辺に押し寄せていくように。
そして、私の隣でこれでもかと必死にあさひが拍手をしているから、どこかおかしくなって私も懸命に手を打ち鳴らしていた。
長らくの友人の、ようやくの再起と、さらなる開花に捧げるように。
そして、その拍手がやがてさざめく波のように収まるころに。
再び、叩きつけるように、後背の三人が楽器を掻き鳴らす。
さっきまで淡く照らしていたステージ中のライトが一転、煌めくように光を迸らせる。
さあ、ライブは始まったばかりだ、まだまだ終わりは遠いとも。
それに、何事も緩急が大事だ。ゆっくりと静かに心を揺らしたのなら、次は激しく胸を高鳴らすものだから。
『さあっ!!! テンション上げてくよ!!!』
ステージ上で、高らかに吠えるまひるの声に、観客の声が、ついでに隣のあさひの声が割れんばかりに呼応して跳ね上がる。
そんな姿を見て、柄にもなく少しほくそ笑んでしまう。
ああ、よかった。
楽しそうだね、まひる。
まよいも、どこか吹っ切れたような表情をしているし。
あやねが泣きそうになっているのは、恒例行事だが乙なものだし。
ゆうやが珍しく、凶悪な笑みを見せているのも中々いい。
ああ、本当に。
いい夜だ、今日は。
そうして、少しだけ目を閉じて、夕暮れの空の中どこまでも響いていきそうな、彼女たちの演奏に耳を傾ける。
そうしていると、ふと、何時かの頃の姿が瞼の裏によぎっていった。
今日、ここにいたるまでの、いつだったかの彼女たちの姿が。
※
初めて英語のクラスであさひの顔を見た時に、割とすぐピンときた。
まだぱららいずが売り出し始めの頃に、まひるが連れてきたあの子だと。
当のまひるは、老若男女問わずしっちゃかめっちゃか悩んでそうな人を捕まえていたから覚えていないだろうけど。かなりいいとこのお嬢様学校のしかも同級生だったから、私の方はちゃんと覚えていた。その後、常連になったから尚のこと。
当のあさひは、まあまひるのことは当然として、私のこともばっちり覚えていたようで、最初の方は慌てようがかなり面白かった。
案の定、二人きりになって少しつついたら、簡単にボロを出してくれて、酷く慌てた様子で、必死にまひるに自分がファンだったことは告げないように頼まれたかな。
今更、本音を振りかえれば、場合によっては、私は彼女をまひるの傍から遠ざけることも考えていた。
なにせ当時、まよいとの一件があって、まひるはかなり不安定になっていた。普段感情は比較的素直に出すはずのまひるがずっと思い詰めて、心押し殺しているような表情ばかりしていた。まよいとまひる、どちらも危うくはあったが、傍に居なければどうなるかわからないと想えたのは、どちらかと言えばまひるのほうだった程だ。
そんなところに近づいてきた元ファンの女の子。ハッキリ言って、かなり危うい。場合によってはただでさえ不安定なまひるの心に、取り返しのつかない傷を負わせる可能性すらあった。
だから真意を見定めようと、薄い笑顔を張り付けたまま、私は彼女のことをじっと観察していた。
まあ……一月もすれば、見極める気もなくなったんだが。
なにせ、あさひはまあ、端的で言えば、驚くほどにお人好しだった。
そういえば、ライブ会場に来ていた頃から、マナーはちゃんとしてるし、ガチガチの装備の割に周囲の客への配慮も抜かりなく、ファンと歌手という一線は徹底して守っていた。時々ファンレターを、非常に丁寧にお辞儀しながら、受付で渡すような子だったしね。今にして思えば、そんな子を疑っていた私もだいぶ過敏になっていた節がある。
まひるが秘密にしている以上、ぱららいずのことは決して触れない。
何よりもまひるの意思を尊重する。無理に唄わせたり、不用意に歌に触れることもしない。
自身がファンであるからと言って、まひるに害があることも決してしない。……ストーカーの件はまあ、まひる自身が気づいてないからノーカンということにしておこう。
あさひは、あくまでただの友人として、何も知らない大学の友達として、一緒に過ごすことを選んだ。彼女自身の想いには蓋をしたまま。
どうして、と一度、問うたことがある。
もうすっかりまひるも心を許して、大学入学時はあんなに人を遠ざけた様子だったのに、見る影もなくなったころのことだった。
私の問いに、あさひは少しだけ悲しそうな表情して微笑んでいた。
「だって、今のまひるちゃんに、ぱららいずのこと言ったら、きっと傷つけちゃうでしょ」
「私の自己満足とか、私の幸せだけ考えたら、それでもいいのかもしれないけど。でも、やっぱりまひるちゃんが笑っててくれないと、私も喜べないから」
「まひるちゃんが幸せそうな顔してくれてるのが、私は一番、幸せだから―――」
なるほど―――と想うと同時に、少し危うさも感じたのが正直なところだった。
誰かの幸せのために、本当は自分が口にしたい言葉を我慢する。
その行いは尊くもあるだろうけど、同時に口を噤んだものに、相応の苦しみを強いるのも確かだったから。
ただそれと同時にまよいとの決裂を経て、心無い言葉を数多受け止めて、確かに荒んでいたはずのまひるが、どうしてあさひを拒絶しなかったかの意味を知る。
人の心に人一倍敏感なまひるだからこそ、その心をこの友人が誰より大事にしてくれることに気づいたんだろう。
そして、共に過ごすうちに、私自身もいつしか、そんな穏やかな時間に救いのようなものを見出していたことを知る。
今にして思えば酷く自然なこと。
何せ、あの一件で、どこかやりきれなさや救いを求めていたのは、まひるだけじゃなかったのだから。
高校生の頃、比較的自分は折り合いをつけるのが得意な方だと想っていた。
親がそういう育て方をしたというのもあるだろうし、元の気質的にそうだったのもあるだろう。
小学生の頃に自分がいわゆるオタク・アングラであることを知るが、早々に受け入れた。むしろ自分の好きが明確だということを誇った。
中学生の頃、18禁ゲームのOPに心を打たれ、音楽の道を志す。……が、自身に音才がさっぱりないことを知る。ので、ライブハウスを経営していた叔父の手伝いから初めてみる。スケジュール管理や機材の調整、折衝などを繰り返していくうちに、プロデューサーまがいの扱いを受け始める。
高校に入る間近の頃、才はあるのにコミュニケーションがあまりにへたくそなまよいに声をかけて、新たなバンド活動を模索する。偶然歌える場所を探していたまひると出会い、あやねとゆうやと出会い、そこからぱららいずを結成。怒涛のようで楽しくもあった青春の日々を駆け抜ける。
だが、結局それは破綻した。
予感をしていなかったわけじゃない。
あまりに突出した才能を持ったまひる。
自身の在り方と想いに苦悩するまよい。
山のように舞い込むスケジュール、休む暇もない練習の日々。
止むことのない観客の期待、追い詰められていく心身、目まぐるしく変わる環境。
綻びはたくさんあって、あったにもかかわらず忙しさや、正解を見つけられないことを言い訳に、結局、決定的瞬間まで私は何もすることができなかった。
音を立ててひびが入って崩れて、全てが手遅れになったあとに、ようやく三年来の親友同士の決裂に気が付いた。
今、想い返して、当時の私にいったいどれほどのことができたかと言われれば、わからないとしか言えない。昔から口下手で理詰めでものを語ることはできても、上手く感情を口に出来ない性質だった。いつも通り割り切れといえば、そこまでだが、簡単に割り切るにはあまりに失ったものが多かった。
傷を負い、痛みを負い、挫折を負い。
そして何より、その痛みを人一倍感じるはずの友人が、全ての責を負って独りで塞ぎ込むようになっていくのを見てしまった。
割り切るのは得意だと思っていたけれど、罪悪感というのは、心と半ば溶け合って単純に割り切ってしまえば必然、大切なものすら失ってしまうのだと嫌でも想い知ることになった。
だけど、そんな日々を―――あさひが。
いや、あの四人で過ごした、あの他愛ない時間が少しずつ溶かしていってくれた。
傷を抱えたことは決して消えはしないけれど、時間が進めば少しずつ傷は塞がっていく。
どれだけ嘆いて、どれだけ塞ぎ込んでも、日常は流れる。そんな日常の中で、楽しいことがあれば、必然人間は少し笑うようになる。
ただ当たり前に隣にいて、ただ当たり前に時間を過ごして。
ただ当たり前に、誰かに幸せを願ってもらえる。
ただそれだけで、心は少しずつ力を取り戻していくんだろう。
私も、まひるも……ともすれば、まよいも。
そしてそれを為したのは、他でもないあさひ自身で。
そしてそのために、ずっと自身の幸せを考えないようにしていたのも、また、あさひだった。
ふと、顔を上げる。
ライブは半ばに差し掛かり、辺りには溢れんばかりの熱狂と、もはや涙で濡れた面積の方が多いんじゃないかと思えるほどに、ぐちゃぐちゃになった表情のあさひの声が響いている。
幸せそうかな? 幸せそうだね。
今、こうしてこの場にいる誰しもが。
とても、とても幸せそうだ。
曲を聞く観客も。
会場の盛り上がり興奮するスタッフも。
久方ぶりの熱狂に身を躍らせるあやねも。
内に秘めた激情をあらん限り暴れさせているゆうやも。
最後のケジメを懸命に全うしながらも楽しんでいるまよいも。
ステージの真ん中で誰より心を震わせているまひるも。
そのまひるの幸せそうな姿に、誰より幸せを感じているであろうあさひも。
みんな、みんな幸せそうだ。
ああ、本当に。
ふぅと少し漏らした息が、安堵に震えているのを微かに感じる。
長い―――永い勤めを今日、ようやく果たし終えたような、そんな安堵の息が漏れると同時に。
少しだけ頬を雫が伝った。
やれやれ、私もみんなにあてられたかな、あまり表情が動かないはずのたちなんだが。
そうしていると、はっとなったあさひが、こっちを振りかえると少し心配そうにおろおろしていた。
「だ、だいじょうぶ? ゆうちゃん、なんかしんどかった?」
「……いや、少し嬉しくなっただけだよ。ようやく、こうしてみんなで笑えることがね」
それから少しだけ想いを馳せる。
いつかの頃、君がまひるへの想いを相談し始めたころ。
自分の想いをずっと押し殺してきた君に、それがまひるの幸せだとある種割り切っていた君の相談に。
私は、少しずつその想いを口にすることを勧めた。
愛を胸の内に隠したままでいるのでなく、ゲームという形でそれをすこしずつ伝えることを君に勧めた。
それはともすれば、とても残酷な選択だったようにも思える。
ある意味で、あさひが想いに蓋をすることで、成り立っていた安寧の日常を、あさひ自身の手で壊すことを勧めたようなものだから。
決裂は当然あり得た、今日ほどに上手くいく保証はどこにもなかった。
でも、あの時、君は酷く苦しそうな顔をしていたから。
本当は好きなのに、その想いを押し殺すこと。
誰かの幸せのために、自身の幸せを切り捨てること。
その決断は尊いもなのかもしれないけれど。
私は―――あの時、君の幸せも考えて欲しかった。
あの時で、約一年。君は充分、誰かの幸せを精一杯考えたのだから。
今すぐは無理にでも、少しずつ時間をかけて慣らしていけば、まひるもあさひの気持ちを受け止められるようになるかもしれない。
それに何より、君の自身が君の幸せを考えられるようになれたらいいと。
そう、思い付いて君に『愛してるゲーム』を始めないかと声をかけたんだったね。
ここまでうまくいくとは、到底想像もできなかったけれど。
それでもこれは紛れもなく、あさひとまひるが選んできた道の先だ。
選ぶことができない? 勇気がない? 独り善がり?
君を大事に想っている人間に、そんなことを想っている者は誰一人だっていなかったよ、あさひ。
沢山の人が想いを重ねてきた果てではあるけれど、それでもやっぱり君がみんなをここまで連れてきたんだよ。
まあ、当の君は、今はライブの応援に必死でそんなことを振り返っている余裕もないのだろうけど。
思わずふっと笑ったら、丁度、曲の切れ間だったのか、君は不思議そうにこちらを見て首を傾げた。
「……どうしたの、ゆうちゃん?」
「いや……改めて、あさひにまひるを任せてよかったな……とね」
そうやって口にすると、君は少し不思議そうに首を傾げて、やがてぼんとやかんでも沸かしたように顔が紅くなった。やれやれ涙で既に色々と腫れて赤いのに、忙しい顔を持っているね私の友人は。
まあ、何はともあれ。
ライブも、残すところあと少しだ。
精々、今、この瞬間を目一杯楽しむとしようか。
掛け替えのない友人たちの、その喜ぶ顔に胸をそっと躍らせながら。
『さあ、まだまだ上げてくよっ!!!』
留まることを知らぬまひるの迸る声に乗せられるように、熱気と共にぶわっと夜風が舞い上がる。
そんな風に乗せられてふと、その中に飛びあがる鳥を幻視する。
遠く遠く、空の上へ、その先へ。
ああ、いけいけ、どこまでも行ってしまえ。
終えることも、堕ちることも、今だけは忘れていいから。
ただ、どこまでも飛んでいけ。
いつか潰えたはずの翼をもう一度、そこに拡げて。
高く高く飛んでいけ。
帰るべき止まり木は、もう見つけているのだから。
あとはいけるとこまで飛んでいけ。
もう一度、吹きあがる風の中。
高らかに唄う友人の声と、それに泣きながら歓声を送る友人の声を聴きながら。
私はそっと微笑んだ。
ああ、本当に、いい夜だ。




