第三十一話 まひるの場合、前夜の頃
その日の夜、いつも通りあさひが作ってくれたご飯に舌鼓をうちながら、適当に今日あった練習の話をぽつぽつとする。
文音さんがこんなことで騒いでた、それでに佑哉さんがこんなツッコミ入れて、まよいはどこか呆れ気味にそれを眺めてた……とかとか。
ただ、そうやって話していても、あさひの相槌はどことなくぼーっとしてる。
んー……なんか、悩んでるかな。いや、ここ数日で散々動揺させた原因の私が言うのもなんだけどさ。
だから、お風呂も上がって、あとは寝て明日に備えるだけってところで、後ろから不意にあさひに抱き着いてみた。
「ふにゃぁっ?!!」
うん、上がる声はまるで猫のよう。お風呂上がりの少し火照った身体と、汗でほんのり湿った感触と、あさひ元来の柔らかさが非常に心地いい。
「あさひー、急な提案であれなんだけど」
「な、なな、なにですか?!」
ただ、当のあさひは随分と動揺していて、大丈夫かなって感じだけれど。
「今日、一緒に寝ない?」
とりあえず、思い立ったそんな言葉を告げてみたら。
「………………………………ひゅっ」
君はどことなく、入ってはいけない場所に、息が入ったような、なんだか危うい音を立てて呆然と私を見ていた。
…………あれ、なんか誘い方間違えたかな。
「私……今日、爪塗っちゃって、き、切れないよ?」
「…………? 切らなくていいんじゃない? 寝るだけだし」
「え?! え、えーと、そ、それにその、し、下着適当だし!!」
「寝る前の下着なんてみんな適当では……? 私もスポブラみたいな奴しかつけてないよ……?」
「えと、あと、その、あ、あ、あ、シャワー浴びなきゃ?!」
「さっき、お風呂入ってたじゃん……?」
顔が真っ赤になったあさひと、そんな頓珍漢なやり取りを繰り返すことはや数分。
いい加減、違和感を覚えてしばらく首を捻ってから……その勘違いの原因に気付いて、思わず「あ」と声が出た。
いや、うん、そっか、『寝よう』ってそういう風にも聞こえるか。
ちょっとあさひの顔の赤さに当てられて、自分の頬まで熱くなるのを感じる。
「いや、えと、あさひ。あれね、本当に『寝る』だけね?」
「え、だ、だから……」
「寝る、睡眠、スリープ…………だから、えっと……おせっせ……ではない」
「あ…………」
そこまで説明して、あさひはようやく状況を理解したらしく、顔を紅くしたまましばらく制止する。
いや、うん、これは誤解する言い方した私が悪い。うん、いい訳の余地もない。
「…………」
「………………」
気まずい沈黙が流れること、はや数秒。
「あさひ……今のは私がわるいから……」
「―――まひるちゃん」
「はい」
「今の数分はなにも起こっていません、おーけー?」
「おっけ、私たちは何も聞いてないし、話してない」
そうやって粛々と告げるあさひの表情は、うつむいていてうまく窺えない。
やれやれ、これはなんか気を遣おうとして、思いっきり空回ったパターンかな……。というか、誘いをかけたことまで、なかったことになる感じかな。
なんて独り頭を掻いていたら、空いていた手の袖がそっと指先でつままれた。
「だから、えと、その前の部分の返事は……いえすで……いいですか?」
………………。
しばらく呆けて、あさひの少し赤らんだ頬と、逸らされた視線を見つめる。
…………理解におおよそ数秒ほど。
返事、いえす、そのまえにしてたこと。
ああ、なるほど。
「ん、りょーかい」
そういって返事と一緒に君のおでこに軽く口づけをする。
どうやら『お誘い』自体はなかったことにはされていなかったようで。
しばらくお互い頬が赤くなったまま、何も言わずにじっとそばに居た。
※
「お、お邪魔します」
「どーぞ」
それから時間的にはちょっと早いけど、私の部屋のベッドで待っていたら、未だにどことなくもじもじしているあさひが枕を持って入ってきた。
うーん、なんか初々しいなあ。という感想が出るのもいかがなものかと想うけど、こういう状況があさひはとてもよく似合う。本人に言ったら怒りそうだけど。
とりあえず、ベッドに寝ころんだまま、布団をそっと大きく広げてにんまりと笑って見せる。
「ふふふ、おねーさん、いらっしゃい」
「まひるちゃん、なんかそれやらしーよ……」
ううと唸りながら、あさひは必死にこっちを睨んでくるが、枕を胸に抱えたままだからリスが小さく睨んでくる程度の可愛さしかない。
「添い寝屋まひるにようこそ、本日はスタンダードプランのご利用ありがとうございます」
「……うう、推しが自分の商標的価値を理解してやがる」
適当にふざけていったのだけれど、あさひはぷるぷると震えたまま、ゆっくりと私の布団に潜り込んでくる、ひどく恨めしそうな視線で。
あさひが私の隣にいついたのを確認して、そっと布団を下ろすと、二人分の暖かさがベッドの中に広がっていく。
そろそろ本格的に秋になって、夜は涼しくなってきたから、丁度良く心地いい。
「会員制のお客様には無料となっております。ごゆるりとお楽しみください」
「毎回想うけど、まひるちゃんがお金を無心するタイプのバンドマンだったら、私、喜んで破滅してたと想うんだよね」
しばらく布団にもぐっていたあさひはすぽっと布団から顔を出すと、もぞもぞと身体の下から枕を引っ張り出してきた。なんだかカタツムリみたいだねと笑いながら、私は肘をついた姿勢でその様子を眺めていた。
「さすがにそんなことしませんよ……。てか、そんなことになったら私が悲しい」
「…………そこで線引きできてるのが、まひるちゃんらしさ、って感じだねえ」
そんな会話をしつつ、なんとなく目線を合わせて、リモコンで部屋の電気をそっと落とした。ふって暗くなった部屋の中、しばらくお互いの息遣いだけが聞こえてる。
「…………」
「…………今日はさ」
ぽつりとつぶやくように、隣のすぐ近くから声がする。
「…………ん?」
「なんで、一緒に寝ようっていってくれたの?」
暗いから、あさひの表情は窺えない。見えるのは窓から差し込む、月明かりか街灯の灯りくらい。にしても、なんで誘ったか、か。
「んー……なんか、喋りたかったから」
何を、と言われれば困るけど。何かを喋りたかった、本当にそれだけだった。
「……ふーん、明日のライブのこと?」
そうやって尋ねるあさひの声は、静かで、でも何かを探るようで。
「それもある……かな。言われてみれば、色々急だったし、ここ数日も練習漬けだったから、ちゃんと話す機会なかったかなって」
口にしてから、ああ、そうだったのかと納得する。そういえば、私は割とこういう順序で話すことが多かった。こうしたいって気持ちと行動が先にあって、後からなんでだったんだろって理屈がついてくる。
「それは……そうかも、今週忙しかったもんね、まひるちゃん」
「うん…………ま、その分、ちゃんと練習はしたから、明日、楽しみにしといて」
ぽつぽつと言葉を紡ぐ、自分の気持ちを、君への想いを一つずつ確かめるように。
「…………あー、緊張で死にそう」
「はは、あかひ、それ私の台詞」
「それはそうなんだけどさ、こう、受け止める側にも覚悟がいるといいますか、色々考えちゃって、うわーってなる……」
「気楽に構えてていいよ、私が言いたいこと言って、唄いたいこと唄うだけだから」
そうやって笑うと、君の方から少し拗ねたような声がする。枕にでも顔をうずめてるのか、少しくぐもったような声。
「そうだけど、そうなんだけど、うー……あー……」
「はは、あさひは心配性だねえ」
そうやって口にすると、あさひは何かを考えこむようにじっと黙った。
段々と暗がりに目も慣れてきて、そんな様子が朧気に見えてくる。表情は予想通りちょっと拗ねた感じだ。
「ねえ、まひるちゃん」
「なに、あさひ」
小さく声がする。
「ほんとは私、まだ、ちょっとだけ不安だよ」
「―――うん」
何かを確かめるように。
「でも、きっとね、それは私に自信がないからだと想うの。自分の気持ちをちゃんと認められないから、まひるちゃんの気持ちをちゃんと受け止めきれてない……気がする」
「…………そっか」
私とあさひの間にある『何か』を確かめるように。
「でも、それじゃあ、ダメだと想うから。もっと、ちゃんとまひるちゃんの言ってくれた言葉と向き合いたいから―――」
「…………」
少し目を閉じた。声だけで、その気持ちは充分に伝わったから。
「明日―――頑張るね。私が頑張るのも変だけど、頑張って―――頑張って歌を聞いて、いっぱい、いっぱい応援するね。そしたら、ちょっとでも、まひるちゃんの気持ちに応えられる気がするから」
「…………うん」
私は暗闇の中、ゆっくりと頷いた。
「…………なんか、まとまってない? 伝わった?」
「ううん、充分」
君の気持ちは、君の想いは、それで充分。
「だから、えと、まひるちゃんも頑張ってね?」
それだけで、私は前を向ける。
「うん、頑張る」
そうやって返事をしたら、隣で少しもぞもぞと動く音がした。
ちらりと細目を開けてみると、髪を片手でそっとかき上げながら、君はゆっくり私の方に顔を寄せて。
ふっ、と。
優しく、静かに。
ほんの一瞬だけ、口元に柔らかくて、あたたかな感触がした。
「おやすみ、まひるちゃん」
「おやすみ、あさひ」
そうやって、言葉を交わして、今度は二人揃って眼を閉じる。
秋の夜長の涼しくて静かな時間の中。
部屋の中には月明かりだけが残るころ。
私達は指をそっと絡ませながら眠りについた。
明日、君に想いを伝える。
明日、君に全てを伝える。
明日、そこからが私の再出発だ。
弱く震える胸の内を抱えたまま、指先に残る熱を確かめながら、ゆっくり意識を手放していく。
最後に君の名前を呟きながら。
明日――。
頑張ろう。今はただそれだけでいい。