第二十七話 あさひの場合、想い出の頃—③
口を開きかけて改めて想うのは、自分の心の醜くて汚い部分。
きっと世の中の大半の人が、生きていくうえでそっと蓋をしてみなかったことにしてしまう所。
馬鹿らしいほどの心の弱さ、育ちきれない拙い想い、どうしようもない独り善がり。
他人には決して告げない、心の奥底の井戸のような場所。
口にするのはやっぱり怖い。胸の奥がぎゅっと締まって、そのまま体ごと縮こまってしまう。
伝えていいのかな、嫌われないかな。
でも、もうそんなことを迷う段階はいつのまにか通り過ぎていて。
君が惑っている私の手をそっと引っ張ってくれたから。
だから―――言おうか。例え、どんな結果になったとしても。
ふぅと吐いた息が弱く震えている。
静かな夜の中、向かい合ってカフェオレを啜りながら、ゆっくりと。
それでも言葉を紡いでいこう。
「まよいさんに歌を唄ってるまひるちゃんを見た時にね」
「嬉しくて、嬉しくて仕方がなかった。あなたがやっともう一度唄ってくれたから」
「あなたがまた歌うことと向き合えた、それが嬉しいのは嘘じゃなかったんだけど」
「でも、同時にね、改めて思い知ったの」
「あなたはたくさんの人にとって、必要な人。私だけのまひるちゃんじゃない」
「バカみたいだけど、そう想うと胸がぎゅっと潰れちゃいそうになったんだ」
「でもね、私は、まひるちゃんにはね、誰よりも幸せになって欲しいんだ」
「だって、あなたはきっとそれくらい素敵な想いを沢山の人に届けてた。私も、その沢山の一人だったから、よくわかるよ」
「そのためにまよいさんとのことは、必要だった。どこかで向き合わないと、まひるちゃんはもう一度唄い出すことができないから」
「でも、それを乗り越えてしまったら」
「あなたが、もう一度、唄い出すことを選んでしまったら」
「まひるちゃんは、みんなのまひるちゃんになっちゃうんだよね」
「それがね、ちょっとだけね………………」
「イヤだった」
ふうと吐いた息が、弱く、でも確実に震え続ける。
胸の奥から血がドロドロと落ちだして、そこから身体の熱が奪われていくようで。
眼元が熱を持ち出すのを、ただ堪えることしか出来ないでいた。
「あなたにとって、きっと、唄うことが何よりの幸せで」
「それはわかってる。わかってるから、邪魔したくないの」
「だけどね、段々、段々……気持ちが抑えられなくなってくるの」
「もし、あなたがまた唄い出したら」
「私はまた、たくさんのファンの一人に戻っちゃうのかな」
「この一年半、一緒に隣にいられた夢みたいなこの関係は変わっちゃうのかな」
「もちろん、あなたはそんなに急に態度を変えるような人じゃない、それは解ってる」
「でも、私…………怖くて」
「あなたが遠くに行ってしまうのも怖いけど」
「それより、何より、自分が、わがままに、みんなのために唄うあなたの邪魔をしてしまいそうなのが」
「あなたを身勝手に引き留めて、足を引っ張ってしまいそうなのが」
「それが―――何より怖くって」
「私は――――ずっと」
「まひるちゃんを――――ずっと独り占めしていたかったの」
声が震える。
あなたの顔を見れない。
滑って落としてしまいそうだから、持っていたマグカップをそっと机に置いた。
「変なこといってるのは、わかってる。身勝手なのも、わかってるんだ」
「だけどね、私、まひるちゃんの幸せのためとか言いながら」
「あなたがまよいさんのために唄った日」
「怖かった」
「あなたはやっぱりまよいさんの所にいってしまうんじゃないかって」
「そうでなくても、これからまた唄い出したら、私との距離がどんどん離れていっちゃうんじゃないかって」
「そう考えてしまったら、怖くて、不安で、どうしようもなくなって」
「そしたらね、悪いことばかり考えてしまうの」
「どうにかして、あなたを独り占めできないか、そうでなくても、どうにかして、せめて、私のことを忘れさせないようにできないかって」
「ごめんね、ごめんね」
「―――こんな醜い女で」
「そんなのダメだって、ちゃんとどこにでもいるファンの一人として、割り切らなきゃって考えるんだけど」
「抑えようと想えば想うほど、段々、抑えきれなくなるの」
「いけないことばかり、考えてしまうの、淫らなことばかり、想ってしまうの」
「お願いで無理矢理言うことを聞かせれば、既成事実さえ作ってしまえば、あなたは私を忘れないんじゃないかとかさ」
「ずっと、そんな」
「我儘なことばかり」
「想っちゃって、そんな自分が嫌で―――」
「ずっと、こんなこと考えてた……いつからだろう」
「ステージの下であなたのことを想っていた時には、こんなこと想わなかったのに」
「たまたま、あなたの隣に居られてしまったからかな」
「たまたま、あなたに直接想いを告げることができたからかな」
「たまたま、あなたのことを、一人の人として好きになってしまったからかな」
「あいしちゃった……からかな」
「お遊びのはずだったのにね…………」
「繰り返して、繰り返して、気付いたら、本当にそんな風に愛し合えてるような気がして」
「勘違い、しちゃってたのかも」
「あなたはたまたま羽が傷ついてしまった鳥で」
「私はただたまたまそこに居ただけの止まり木で」
「あなたは翼が治ってしまえば、どこまでも飛んでいけるのに」
「私だけがずっと、あなたはここにいてくれるんだって、叶わない夢見てた」
「ただ、独り善がりでわがままな夢」
「止まり木は時がくれば、飛び去って忘れてしまう場所なのに」
「ごめんね」
「ごめんね」
「ね、まひるちゃん―――」
「―――あいしてるよ」
「ふふ、私の勝ちでいい? …………ごめんね」
「今日のことは、やっぱり―――忘れて?」
「明日になったらいつも通りだから」
「それに、このゲームもあと少しで終わりだからさ」
「…………おやすみ、まひるちゃん」
※
あさひが去ったリビングで私は独り、腕を組んでじっと考えていた。
あさひの言葉を、ただ否定することは簡単だったけど、なんとなくそれじゃあダメな気がした。
だって、これはあさひがきっとずっと抱えていて、それをようやくたくさんの怖さと一緒に吐き出してくれた想いだ。
そんなの違うって、軽く否定していい言葉じゃない。
てなると、私もちゃんと覚悟決めてから応えないと。
どう―――すればいい、どう―――言えばいい。
具体的な言葉はまだ何も浮かばないけど。
一つ―――確信めいたことはあった。
しずかで雨が降り始めた夜のリビングの中。
直感に従うままに、指を動かす。
コール音は丁度三つで、待っていたと言わんばかりに、通話は繋がる。
「もしもし、ゆう。この前、言ってたやつなんだけどさ」
ゲームの終わりはもうすぐだ。
あと、もう少し。
それまでに、ちゃんと君の想いと向き合うと。
私の想いもちゃんと伝えると。
ただ、それだけを、胸の中に誓ってた。
※
あさひの勝ち(18勝目)