第二十四話 まひるの場合、雨降りの頃
「ねー、あさひ……」
「…………んー、どうしたの、……まひるちゃん?」
朝ごはんを食べて、歯を磨いて、今日雨じゃん、バイト行くのちょっとめんどいなーなんて考えていた頃のこと。
声をかけたあさひの反応が、なんとなくワンテンポ遅れて、声のトーンが少し低くて、眼が少しとろんとなっていることにふと気が付いた。
「………………」
「…………まひるちゃん?」
「んーん、なんでもない」
うーん、さては、調子悪いな。
どことなくぼんやりしているあさひのおでこに指をあてて、うりうりと押してみる。だけど、少しむずがゆるだけでさっぱり抵抗してこない。普段なら、ぷんぷん可愛く怒ってくれるはずなのだけど。
それに、話しかけてもどことなく上の空というか、あてもなく窓の外の雨降りを眺めているような感じだ。
まあ、必要な買い物はこの前済ませてあるし、特に今日は外に出る用事もないはずだから大丈夫だとは思うけど。一応、出る前に、自分の分の洗濯だけでも済ましちゃおっか。
…………なんて朝には考えてはいたんだけれど、バイト時間も半分を過ぎたくらいで、なんとなく気になって、結局、その日は早引きすることにした。幸い、雨でお客も少なくて、店長も軽く了承してくれた。
帰りのコンビニで、適当にシュークリームだけ買って帰って、余裕があれば今日はご飯も私がしよう。簡単なパスタの材料くらいは揃っていたはずだしね。
雨の中をちゃぽちゃぽと音を立てながら、傘を差したまま小走りで家に帰る。
ガチャリと金属製のドアを開けて、少し濡れた靴を脱いでいく。
ただ後ろ手にドアが閉まって、内鍵を掛けたあたりでふと違和感に気づいた。
―――――静かだ。
いっつも家に帰った時にどことなく響いてるあさひの生活音がどうしてかしてこない。
響いているのは、ドアの向こうでしとしと降っている雨音と、キッチンの奥から唸る冷蔵庫の稼働音だけ。
………………でかけてる? いや、靴を見る限り、そんなことはない。
なんだか、ちょっとだけ嫌な予感がして、そっと廊下を進んでく。なんとなく、足音を潜めて。
リビング、いない。
キッチン、いない。
あさひの部屋、いない。
あれ?
トイレも、バスルームもいない。
え、何、誘拐? 強盗? 病院?
なんて、一瞬嫌な思考がよぎるけど、自分の部屋をばっと開けて、どうにかほっと一息つくことになる。
いた、なんでか私のベッドに。
こんもりと膨れ上がった布団の中で、膝を抱えるように丸まって、頭にヘッドホンを付けたまま、すーすーと小さな寝息を立てていた。
「………………あさひ?」
声をかけてみるけれど返事はない、まあ、しっかり寝入ってるねこりゃ。
それにしても、びっくりした。……調子悪そうだったから、なんなら、どっかで倒れてるのかと思った。
ふうと思わず一息ついたところで、ふと、ヘッドホンから漏れ出る音に意識が向く。
しゃかしゃかと、遠巻きに聞こえるだけではあるけど、……これって多分私の曲だよねえ。
ヘッドホンを眠るあさひの頭からそっと外して、自分の耳に当ててみる。
…………ファーストアルバムだな。しかも限定版でしかいれてない『アイのことば』が入ってる奴じゃん。ははは……。
しばらく苦笑い気味にその曲を聞きながら、やれやれと首を横に振る。
いやあ、……未だに聞いても恥ずかしいな、我ながら。初恋の一つもしたことない癖に、必死に愛の言葉なんかささやいちゃって。
そう、このころの私は恋なんて一つも知らない。
誰かを好きになることなんて、想像も出来なくて、どんな人が理想の相手かとかすら考えることもしていなかった。それなのにまあ、よくもこんなに必死に歌えたもんだ。
軽くため息をついた後、そっとあさひの寝顔に起こさないように静かに指を添える。
そう、好きな人、なんて、あの頃は想像の一つもできなかった。
でも―――今は?
君の寝顔を撫でながら考える。
君が笑う顔を想いうかべる。
君が怒る顔を想いうかべる。
君が泣く顔を想いうかべる。
それだけで少しだけ、胸の鼓動が早くなる。
雨の音が遠く向こうで響いてて、寝室の暗がりの中、自分の息が少しだけ逸るのを感じてる。
ふうと短く吐いた息に、確かに熱が灯っていた。
わからない、これを恋と呼んでいいのか、私はまだ自信がない。
でも、もしかして、今ならあの唄も、ちゃんと――――。
なんて、考えていた時だった。
あさひの寝息がすっと止まった。
ふっと瞼を開けると、ちょうどあさひの瞼もゆっくりと開いていた。
ありゃ、起こしちゃっかな、ていうか触ってたらさすがに起きるか。
「まひる……ちゃん?」
「……おはよ、あさひ」
表情が崩れないように、そっと出来る限り優しく微笑んだ。
胸の奥に秘めた想いはできれば君に気付かれぬように。
ただ、そんなよからぬことを考えていたからだろうか。
ふっと君の腕が甘えるように、私に向かって伸びてきた瞬間に。
少しだけ、眼をつむってしまった。
そして、視界が途切れたその一瞬。
ぐらっと不意に身体のバランスが崩れてた。
手からシュークリームの入ったレジ袋が滑り落ちていく。
膝をついて、まるで自分のベッドに突っ伏すみたいに、そしてそこで横になっているあさひに覆いかぶさるみたいに体勢が崩れる。
え?
なんて想った時には首はしっかり押さえられていて。
ふと瞼を開けたその先で。
君はどこか蕩けたような瞳のまま、じっと私のことを見つめて微笑んでいた。
その妖しくもどこか蠱惑的な視線が、どうにも獲物を捕まえた捕食者のそれに見えたのは―――。
「捕まえた―――あいしてるよ、まひるちゃん」
どうにも気のせいじゃ、なさそうだった。
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