第二十三話 まひるの場合、平和の頃—②
心に少しだけ余裕が出来てきた。
だから、その余った部分で、考えてしまう。
人を好きになるってどういうことだろう。
その答えを私はうまく持っていなかったから、あの時あさひへの返事を待ってもらった。
誰かを好きになる、誰かと付き合う、誰かと恋に堕ちる。
数多の歌が、歌い尽くしたその感情。自分自身で唄ったこともあるはずなのに、私は大学生になるまで、それを実感としては何一つ知らなかった。
あなたが好き。あなたを愛してる。
言葉は解る、心情も理解できる、身体の反応も知識では知ってる。
でも、未だにその実感を私は持てていないでいる。
いつかの頃、よぞらに「あさひが好きかもしれない」なんて相談したときにでさえ、明確な確信はどこにもなかった。
一緒に居たいとは思う。これが恋?
触れたいとそう想う。それが愛?
理解はしてる、多分そうなんだろうなって自覚はある、でもどうしてか確信がない。
私の抱いているこの想いが、本当にそれなのかわからない。
みんなの言っている恋なのか、自信がない。
好きなはずなのに、触れたいと想っているはずなのに、ゲームの中で幾度となく繰り返してきた愛してるを、私は未だにちゃんと言えていない気がする。
どうしてだろう。
「よぞらはさ―――」
「うん?」
「どうやって告白したの?」
「―――ぶっ!!」
授業終わり、よぞらの稽古が始まるまでのそんな時間。一般教養のレポートを作るために図書室のラウンジでノートを開いているころに、ふと気になってそう口にしてみた。
よぞらはそれまで、口に咥えていたプロテインドリンクを盛大に吹き出して、折角丁寧に文字を詰めていたノートに、大層な染みをつくってる。……前々から思ってたけど、割とそこんとこアンタッチャブルくさいな。
「きゅ、急に何よ……」
「いや、結局聞いてなかったなって」
そもそも明かされたのが、夏休みの頃だし、なんか流れでさらっとカミングアウトされたし。そっからは、まよいのことで色々忙しくて、私もそれどころじゃなかったから。
だから、ふと、想うと、色々謎だ。そもそも私達と同時期にルームシェアを始めてるけど、その頃からそういう関係だったのか。こいつらがしてる愛してるゲームも正直さっぱり想像できない。本当にしてるんだろうか。
「いや、あー……うん、まあ、そうね言ってないわね」
「でしょ?」
ノートを適当に書き留めながら、自分の書いた内容を見返してみる。うん、まあ大体書けてるでしょ、あとはこれをデータにまとめるだけ。ぐーっと背を伸ばしてから、よぞらを見ると珍しくうげえって表情で額を押さえてた。
「…………黙秘は?」
「うーん、そん時はゆうに聞くかな」
私の返答に、よぞらは余計に表情を歪めて、ぐににと唸りだしている。額を押さえる手も両手になって、あらあらこれはまた苦悩しちゃって。よっぽど恥ずかしい内容なのか。
「…………うぐぐ、絶対そっちのがやばい」
「まあ、別に言いたくなかったら無理に聞かないけどさ、正直、私の気持ちの整理のために聞いてるとこあるから」
ノートをぱたんと閉じて、ふうと一息つく私に、よぞらは深々とため息をついてこっちに視線をよこしてくる。ちょっとだけ首を傾げて。
「まひるの整理?」
「うん……、ほら、そろそろあさひへの返事も考えないといけないから」
ペンもあらかたしまって、これで私のすることは終わり。よぞらもほとんど終わってて、あとはチェックするくらいなのかな。
「あー、なるほどね…………そんな悩むことなの? あんた普通にあさひのこと好きだと想ってたけど、そういう相談もしてたじゃない」
「した……けどさあ。まだ正直実感ないっていうか、私、恋の一つもしたことないからさ……」
我ながら、こんなんで恋の曲を唄ってたって言うんだから、お笑い草だ。たははー、照れ隠しに笑うとよぞらは少しだけ居住まいをただして、そっとノートを閉じた。
「ふーん、あんたあれね、前回のライブでも思ったけど、気持ちの整理にだいぶ時間かかるタイプね」
そんなよぞらの指摘に、思わずぐさって胸を刺された気分。人はこれを図星と呼ぶ。
「うぐ……、うん、いや、まあ、要領悪いのはわかってるんだけどさ……」
昔からそうだ。他の子が一日あればできることが二日、三日と酷い時はもっと平気でかかる。図工の絵を仕上げるのも、読書感想文を書くのも、いっつも締め切りをオーバーしてばっかりだった。作詞の締め切りも破って、まよいに何回怒られたか……。
「別に貶してないから、シンプルにそういう性質でしょ」
「う、うっす……」
よぞらは少し首を傾げながら、そうフォローしてくれるけど、思わず苦笑いが浮かぶばかり。そんな私に、よぞらはふうと少し息を吐くと、軽く唸ってから少し諦めたように肩を落とした。
「私はすぐ決めちゃうから、あんま参考になんないと想うけど……」
びゅうっとラウンジの窓から、少し心地いい風が吹いた。二人してそんな風に少し目を細めた。
「なんやかんや一緒に住みだして、ゆうのことは別に悪くないって想ってた。私とは全然違う、したいことは全力、それ以外は興味なし。できるできないは両極端、世間のルールより自分がしたいかしたくないか。
私の価値観には今までいない人間だった。それがまあ物珍しくて、ちょっと面白かった」
「私がそもそも、なんでもやれって言われて、その通りにしてきた人間だからね。人より上手く、人より効率よく、人より勝つのが大原則。まあ、幸いそういうのに向いてたから、別にそこに不満はないけど」
「まあ、でもあいつを見てるのは面白かった。愛とか恋とか、私もよくわかんないけど、あいつの傍だと何かと気楽だったしね。あいつ、私が誰かよりどれだけ優れてるかなんて一つも気にしてないから」
そうやってすこし遠くを見るようなよぞらの視線は、ほんのりと色っぽくて。
「…………ちょっとしたきっかけがあって、それをいう機会があったの。だから言って、向こうも割と私のことを気にいってたみたいで……後はなんか……その、流れよ。なんか付き合うことになった…………」
「…………あー……あれよ、別にそんな大層に考えなくてもいいんじゃない? ゲームと同じでしょ、気持ちなんてわかんなくてもとりあえず言葉を言っとけば、そのうちわかるんじゃないの?」
「あー、うん、ごめん、まじで参考になんないね…………」
よぞらは最初はぶつぶつと言葉を小さく零していたけれど、段々と顔を紅くして最後は額を押さえて、何かを想い出してしまったみたいに顔をうつ向かせた。
いつも気丈に振舞っている何でもできる氷の女王が、しっかり頬を赤らめて自分の気持ちを素直に、だけど恥ずかしながら告げている。
私はそんなやつの反応に、ふむと少し唸りながら考える。心の中の何か熱く滾るような場所が震えてるのを感じてた。
確か、こいつネコだったよな…………。
「わかったかい? まひる? こんなのツンデレの極致が四六時中隣にいて、時折デレてくるんだよ? いい雰囲気になった時に、つい一夜の過ちへと至ってしまうのも致し方なしだと想わないかい?」
「あー、うん、なんか納得したわ」
「え、ちょ?! ゆう?! なんでいるのよ!?」
まあ、確かに私がゆうの立場でも手は出す気がする。なるほど、これがゆうがよく言ってる、滾るってやつか。
私の脇からいつ来たのやらそっと顔を出してきたゆうは、ふぅ……と神妙なため息をつきながらオーバーに肩をすくめていた。
「ちなみにきっかけは、ルームシェア直後のよぞらの誕生日の時でね、初めての飲酒で酔っぱらったよぞらと致して、そのまま流れで付き合うことになったかな」
「あー、道理でよぞらって、私らの前だと飲もうとしないんだ。この前の打ち上げも飲んでなかったよねー」
「な…………あ…………?!」
そういや、この前のライブの打ち上げでも飲んでなかったな。
「普段、理性で抑え込んでいる分、酔うと色々タガが外れるみたいでね。中々可愛いんだが、時々飲むのはウチでだけみたいだよ、録音を聞かせたいがさすがにその許可は降りてないんだ……」
「まじで、ちょっと聞きたかったな………なーんて……」
「………………」
「あんなシーンもこんなシーンもあってお披露目できないのが大変心苦しいんだがね」
「はは、そりゃあご愁傷様。ただ、それはそれとしてさ……、ゆう」
「なんだい? まひる」
「―――あんたこの後、無事で済むわけ?」
私の問いに、ゆうはふっと達観したような表情で、小さく慈愛の表情で微笑んだ。
そして―――ガッっと。
同時にその首がよぞらの手で、がっちりとヘッドロックされた。
「それでも見たい―――景色があるのさ」
そういって、ゆうはよぞらの真っ赤になった表情を眺めて、満足げに微笑んだ。
そしてその遺言の直後に、こきゅっという生々しい音と共に、全国大会ベスト4の剣道有段者によるヘッドロックで、ゆうの首は絞め落とされた。後に残っているのはかつてよぞらだった、もはや表情すら伺えない修羅が一人。
断末魔の一つもなくダウンしたゆうにそっと黙祷を捧げて、私はゆっくりと自分の頭を差し出す。無駄な抵抗はただ余計な傷を増やすだけだから。
「せめて一思いに頼むよ……よぞら」
「大丈夫、安心しなさい。もう二度と、その話を口にしたくなくなるだけだから……」
可能ならそのまま記憶を物理的に消去されかねない勢いで、がっと私の頭がアイアンクローでわしづかみにされる。指がめり込む。うーんいてえ、そのほっそくて綺麗な指のどこにそんな力が込められているのかわからないが、ぎりぎりと頭皮がねじ切られそうなほど私の頭蓋骨が締め上げられていく。
よぞらちゃんの握力は普通に常人の倍くらいあるよ! といつかあさひが教えてくれた豆知識を想い出しながら、私はそっと眼を閉じた。
もし叶うなら、最期にあさひの手料理が食べたかったな……。
「あだだだだだだだ、いたいたいたい、いだいたいだいだすぎ!! このば、ばかぢからーーー!!!!」
「大丈夫、跡に残るまではしないから。あさひに怒られるし」
「問題そこかなあ?! あだ!? いだぁ?! なんか、なんかこりゅっていってる?! 入っちゃう、頭蓋骨にひび入っちゃうぅ!!??」
「ちなみにだがね、まひる、人間の頭蓋骨は元からたくさんひびが入っているものだよ―――あぎゅぎゃゆやぎゃゃゃ……」
「消しなさい……全部、全部脳細胞から消しなさい……」
そんな感じで、もうすっかりお約束になった、あほうなやり取りを繰り返す。そんな秋の午後の頃だった。
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