第十八話 まよいの場合、いつかの頃—③
そこからの私はただみすぼらしかった。
単位だけ取って、大学にはほとんど顔を出さない、ライブハウスももちろんいかない。一回だけ見学に行った大学の軽音サークルは、レベルが低すぎて吐き気がした。
高校時代に触れた、あの頃の音楽と比べるのもバカバカしい。馴れ合いと、惰性で積みあがった、下らない奴ばかり。私の曲を乗せるのはこんなどうでもいい奴らじゃない。
だから、引きこもった。愚痴と悪態ばかり虚空に吐きながら、誰に聞かれてるわけでもない言い訳をし続けたまま。
とういか、そもそも、ぱららいずが終わった時点で、私には何も残ってなかった。
まひるがいない私のことを、誰も気に掛けはしない。至極当たり前に。
ゆうや、文音さん、佑哉さんからは少し連絡が来たけれど、まひるからのは連絡は来たことがない。まあ、当たり前だ、私の方からブロックしたんだから。
SNSのアカウントも、ライブハウスに在籍していたリストも、他の連絡ツールも大体消した。そうやって、ネット上からいなくなると、本当に私という人間は何処にもいなくなったみたいだった。
全部失くした、私という存在も、あの頃、音楽を始めた時に抱いていた夢すらも。
いつか、いつか、私という存在を誰かに知ってもらうため、私の心を誰かに見つけてもらうために始めたあの想いも。いつか、大きなステージの真ん中で、自分の存在を誰しもに認めてもらうんだなんて、稚拙に描いていたあの憧憬も。
今ではすっかり、汚れて、溶けて、ぐちゃぐちゃに壊れてしまった。
それでも、時たま、布団にこもってばかりの時間の中で、曲を書く手を止められないのは何でだったんだろうか。
もう、聞いてくれる人もいないのに。もう、唄ってくれる人もいないのに。
そんなふうに出来上がる曲は、到底人に見せられるような出来じゃなくって。
唄ってみようとしても喉から零れる音は低くて、濁ってて、聞くに堪えない濁音ばかり。
それでも、私には音楽しか残ってなかった。なのにそれさえぐちゃぐちゃで。
もう全部が全部、手遅れだった。
そんな頃のことだったろうか。
生きてるかい? なんて、不躾な心配を理由にゆうが部屋に会いに来た。
追い返すのも面倒なので、適当に部屋にあげて、ぽつぽつと話をしたっけ。
「……まひるの様子、聞きたいかい?」
「別にどっちでも…………」
この時に聞きたくない、なんて言えてたらまだ楽だったろうか。
「そうか……じゃあ、手短に。四月の頃は、少し落ち込んでいたけどね。最近は少しずつ笑顔が見えるようになってきたよ。大学で出来た友人が、励まし続けてくれたおかげかな」
「…………そう」
喜ばしいじゃない。その時はそう言って、誤魔化したっけ。
でも後になって、その言葉がじわじわと私を蝕んできた。
まひるは段々と前を向いている。
私なんかいなくても、段々と、傷を越えて、過去を糧にして、前を―――。
空っぽで、もうなにも湧いてこないはずの胸に、どうしてか後ろ暗い残り火のようなものがゆらめくのを感じてしまう。
それから、授業のない日を見計らって、ゆうから聞いていたまひるの通う大学に少し顔を出してみた。
一応、私とバレないように、帽子にサングラスにマスクまでして。
そうして、あてもないので大学の構内をぶらぶらと歩き回る。本来その場に居てはいけないやつがいても、誰も気にしないのが大学の数少ない良いところだった。
そうして、三時間ほどあてもなく、歩いた果てに見つけてしまった。
そこにいたのは。
どこか―――楽しそうに笑うまひるの姿。
どこにでもいる大学生みたいに、普通に喋って笑ってるそんな姿。
ステージの真ん中で太陽のように輝いていた姿は見る影もなく、私の部屋で歌詞の一文字まで悩みつくしていた様子もどこにも見えなくて。
でも、それでも、隣にいるなんでもなさそうな女子と、気楽に話すまひるがそこにいた。
笑ってる、普通に。
私のいない場所で、普通に。
私の想い出の中のあんたは、最後、泣きそうな顔してたのに。そんな顔、もう二度と私には向けてくれないのに。
まひるは、全部、忘れて、普通に過ごしてる。
私のことなんて―――忘れて。
胸の奥で黒く悍ましい何かがもう一度、揺らめいた気がした。
なんで。
なんであんたは普通に笑えるの。
私はもう笑えないのに、あんたがいないと笑えないのに。
どうしてあんたは私がいなくても、笑えるの。そんな顔、できるの。
たった、それだけの事実が。
悲しくて。
受け容れられなくて。
憎らしくて。
それに何より。
あいつの中で、私が過去になっていくのが。
想い出の中に消えていって、やがてはすっかり忘れていくのが。
何より、何より許せなかった。
私にはもうあんた以上の誰かなんていないのに、これから絶対現れっこないのに。なのにあんたはまた新しい誰かができたの?
やめてよ、忘れないでよ、想い出してよ。
傷になってもいいから、消さないで。
憎悪でも、嫌悪でもいいから、覚えてて。
でないと、私は—――――。
それからは、今、想い出しても馬鹿みたいだった。
付き纏って、嫌がらせして。
私であることすら告げないで。
ただ、何度も何度も意味のない手紙を書いて送りつけたり、ずっと付けまわしたり、隠し撮りしたり、ゴミを拾い集めたり。
敵意でもいい。蔑みでもいい。
ただ、あんたからの感情が欲しかった、私に想いを向けて欲しかった。
そうやって、あんたの嫌がる顔を見るたび、些細な欲望が満たされる感覚と、洪水のような自己嫌悪に心が壊れてしまいそうだった。いや、もうとっくの昔に壊れてたのかもしれない。
愛なんてもうどうせ手に入らないものは要らないから。
せめて、せめて、憎しみでいいから、私に頂戴。
傷でいいから、あんたの中に、私を遺して。
ああ、ろくでもない、本当にろくでもない話だ。
警察沙汰になってないのは、ただまひるがそうしなかっただけにすぎない。
…………というより、そうなる前に、意図的に解決されたっていうのが正しいのか。
ある日、まひるを付けまわしてたら、妙な視線を感じた。
まひるの周りで嫌がらせをしようとしたら、その悉くが誰かに先回りされたように回収される。
ゴミ袋を漁ろうとしたら、何故か他の誰かに撤去されてて、隠し撮りはどうしてか光の反射や偶然が重なって上手くいかない。
そんな違和感が数日続いた後に、いつもの監視スポットの大学のカフェに行こうとしたら、待ち伏せするようにそいつは立っていた。
いつかの頃、まひるの隣に立っていた、謎の女。いや、ゆうが言ってた、大学に入ってからの友達か。
最初はなんでこいつがこんなところにと、思って避けようとしたけれど、そいつは私の手をぐっと掴むと、静かに怒りを秘めた表情で「ちょっとお話があります、真宵さん」と名乗ってもいない私の名前を告げてきた。
ま、今、思えば向こうはステージの上の私を知っていたんだから、そりゃそうなんだろうけど。
なんだこいつと、戸惑っているうちに、そいつが見せてきたのは私がやっていたストーカー行為の証拠の雨あられ。ストーカー中の写真、動画、嫌がらせ行為の記録、その行動パターンまでほぼ漏れなく網羅された一つのノート。
何より異様だったのはそこまで調べられているにもかかわらず、私側が何一つだって気づいていなかったこと。記録を辿れば、尾行している私を、さらに尾行していることになってるけど、気配一つだって気が付かなかった。
青ざめて、うまく喋ることも出来ないままの私に、そいつは静かに怒りを抑えた表情で真剣な眼をして私に告げた。
「ストーカーするなら、ちゃんと推しの幸せは護ってください」
…………今、想うと、やっぱここらへんもおかしいな。あの時の私はただ勢いに呑まれて呆然とすることしかできなかったけど。
それから、そいつは滔々と、ストーカーをするうえでの心構えとは何か、推しの幸せがどうだの、自分たちは影だから悟られてはいけないだの、ファンとしての一線はどうだらの語り始めた。
頭おかしいやつに捕まってしまったと想ったっけ、まあ、実際それに間違いはないと今でも想うけど。
「―――まひるちゃんのこと、大事なんでしょう?」
それでも。
「じゃあ、こんなことしてちゃダメです。傷つけてもいいから覚えてて欲しいなんて、そんな風に想っても、あなたはずっと苦しいまんまじゃないですか」
そうやって伝えられる言葉には。
「次、してるのをみかけたら、今度はこんな半端じゃ済ませません。警察も動かします。……だから、本当に大事なら、まひるちゃんにとっての幸せをもう一度考えてあげてください。あと、あなたの幸せも…………」
どうしてか、うまく言い返すことができなかった。
わけがわかんない話だとは思う。
ストーカーしてたら、もっとヤバいストーカーに推しの幸せがどうたらと説教をくらったなんて。
わけがわからない―――けれど、どうしてか安心してる自分がいた。
ああ、やっぱり、私、間違えてたんだ。
こんな想いは間違えてた。
そんな最初から分かりきっていたはずの答えを。
その日、誰かに言われることで、私は初めて自覚した。
それと同時に、あそこまでまひるが誰かに想われていることが、辛くて、苦しくて。
なのにどうしてか、安心できた。
ああ、よかった。
本当に、もう、私がいなくても大丈夫なんだって。
そう想えてしまったけど。
この時の感情は、正直、今でもよくわかってない。
※
「あ、いた」
九月頭のまだ蒸し暑さののこる風の中。
約束の時間、待ち合わせの駅前でぼーっとしていたら、嫌な奴の顔が目に入った。
例のストーカー女、まひるを誘惑する淫乱痴女。
「……なんで、出迎えあんたなのよ」
もしかして、まひるが来るのかな、いっつも本番前は駅前ぶらぶらしてたし、なんて淡い期待を抱いていたのにそれをぶっ壊すように現れやがった。
「……仕方ないじゃないですか、まひるちゃんたちはリハで忙しくて、ゆうちゃんはライブハウスのオーナーさんと話してるから、動けるの私だけなんです」
こっちが剣呑な視線を向けると、向こうは犬がぐるると唸るような反応で言葉を返してくる。色々あって、致命的な一線を止めてくれた相手ではあるんだけど、それはそれとしてこいつのことは嫌いだ。おかげで、数少ない遠慮の要らない相手になっているのは皮肉な話ではあるけれど。
「あ、そ。……ちゃんとリハやんのね、まひる」
「それだけ本気ってことだと想いますよ、よかったですね、ちゃんと想ってもらえて」
よかった、という割には、言葉尻は喧嘩腰だ。ふんと軽く鼻を鳴らしてやると、ふんと景気よく返事が返ってくる。
「…………何よ、文句あんの?」
「………………そうですね。改めて、言うのもあれですけど」
変態女は軽くため息をつくとすっと、視線を落ち着けて静かな瞳で私を見た。
「…………なに」
「私は、あなたを許してません。まひるちゃんを傷つけたので」
溜息をつく、呆れと、納得を含ませて。
「そりゃそうでしょーよ」
誰だってそう想う。誰より私がそう想う。
こいつの反応が、多分、一番正常だ。
ただ、それでもこいつはすっと視線を切ると、ゆっくりと歩き出した。それからちらっとこっちを見て、ついてくるように促してくる。
「でも、あなたが笑えないと、まひるちゃんは笑えないんです。…………だから、今日、逃げずに来てくれたことには……その……感謝してます」
「……………………」
そう言うと、ふんと鼻を鳴らしながら、そいつは…………あさひ……とか呼ばれてたっけ。そう想ってるうちに、あさひはすてすてと私を置いて歩き出してしまう。
そんな姿を見て、納得と諦観が同時に湧いてくる。
「優しいね、あんた」
「…………あなたに褒められても別に嬉しくありません」
「大丈夫、褒めてないから」
「はあ?」
そんなやり取りを交わしながら、二人で駅前を離れて、見慣れた路地を抜けていつものライブハウスに向かう。
あさひのやつは、さっきのやり取りですっかりぶーたれたようで、ふんふんとあからさまに遺憾の鼻息を鳴らしながら歩いていく。
私はその後姿を見て、ふうと一つ息を吐いた。
なるほど、これくらい優しい子だったから、まひるの傍にちゃんと居て、あの子を前に向かせられたんだ。
素行は大分、変だけど。私だったらこうはなれない。
何が違ったんだろう、まひるの特別さがなせる技か、それともこの子が底抜けに明るいだけか。
……………………。
いや、違うか。
もし、この子と私に明確な違いが一つあるとすれば。
伝える勇気があったかどうか。
どれだけ醜くても、どれだけ不安でも、自分の想いをちゃんと相手に伝えられたか。
きっとそんな些細のことが、私とまひるの決裂と、この子とまひるの親愛の差なんだろう。
たったそれだけ。
でも、それだけが途方もない、底すら見えない深い崖のような違いに想えた。
伝えることは怖い。
伝えられることも同じくらい。
それでも、まひるは今日、私に何を伝えることを選んだらしい。
私はなんて、返せるだろう。
わからないまま、あさひに導かれるまま、ライブハウスの階段を一つ、また一つと降りていく。
「つきましたよ、真宵さん」
そんな声に導かれるまま。
私はゆっくりと顔を上げた。
まだ胸の内に残る怖さを抱えたまま。




