第十八話 まよいの場合、いつかの頃—②
『私生活では全然明るくない、ステージ上はあくまで演技』
『よく自分勝手に人を選んでは、チケット代も取らずにライブに連れてきてる』
『リハーサルをしない、遅刻する、曲をかけないどころか、楽器一つ弾けない、譜面もまともに読めない』
『ステージ上の演出は大体、自己判断で勝手にやってる。周りが無理矢理合わせてるだけ』
『アルバム本当の一曲目の歌は、愛の歌だったが、本人は恋の一つもしたことがない。そのせいでお蔵入り』
『誰より、身勝手、大っ嫌い』
掲示板にそんな、短い投稿の羅列が並んでく。
気持ちよかった。
自分の中のずっと言葉にできない部分を、ようやく言葉にできたような気がして。
気持ち悪かった。
みんなで丹精込めて作った大事な作品に、自分の口から漏れ出た吐瀉物を、あられもなくぶちまけているような気がして。
嗤っているのに、涙が零れて止まらない。
布団の中にくるまって、スマホに浮かぶ文字列を眺めながら、自分じゃない声が漏れ出て行くみたいに止まらない。
ああ、ああ、ああ。
なんて、なんて、醜い。
これが私か、こんなのが私の心か。
こんな心で、私はあいつの隣に何食わぬ顔で立っていたのか。
嗚咽が漏れる、爪が頭に疵をつけていく、吐き気が漏れる、漏れた。
唾か胃液かよくわからないものが、涙と混じって、布団のなかで零れてく。
ああ、下らない。
こんなのが、私か。
汚泥のように穢れた指でスマホを手に取りながら、投稿をそっと削除する。
自分ですら、あまりに見るに堪えなかったから。
まるで自分の心に幕を下ろして隠すように、私は全てを投げ出したまま、独り部屋の中、ただ嗚咽を漏らしてた。
これでことが終わっていれば、幾許かマシだったのだろうか。
いや、結局、遅かれ早かれ、どこかで破綻は訪れていたんだろう。
※
あの投稿は削除した。
でも、どこかの誰かがコピーをとっていたらしい。
コピーは誰かに引用され、引用は誰かに拡散され。
あっという間に、情報は湯水が乾いた布に染み渡るように、広がっていった。
私がその事実を知ったのは、楽屋でいつも通り、過ごしていたころのこと。
廊下の隅で、別のバンドの人が、小さく噂話をしていたのを聞いてしまった。
消したのに、と最初は戸惑ったけれど、同時にすぐに思い知る。
消したから、なんだ。お前の醜さは別にどこにも消えてないじゃないか。
そして何より。
投稿の内容はどう見ても、身内だ。関係者しか知らない内部情報。
そして何より、最初の曲がお蔵入りになった理由は。
私と―――まひるしかしらない。
つまり、まひるに知られた時点で……。
全身の血が汚泥か何かに変わってしまったようだった。どろどろとぐちゃぐちゃと、ゆっくりと私の足元から、溶けて崩れ落ちるような感覚。
どうしたいいんだろう。どんな顔して、あいつに会えばいいんだろう。
分からない、このまま消えて無くなってしまいたい。ああ、私なんていう醜いものがいなければ、この場所はきっともっと、綺麗なままなはずだったのに。
その日、私はまひると目も合わせられないまま、視界の端に映ったまひるは少し悲しそうな顔をしてて。用事がおわったら、私は逃げるようにライブハウスを抜け出した。
よかった、追及されなくて。そんな浅ましい思いと。
どうして、なじって否定してくれた方がまだましなのにと、そんな身もふたもない思いが。
ぐちゃぐちゃに、ぐちゃぐちゃに、私の心を崩していった。
佑哉さんも、文音さんも、ゆうも。
時折、何かを言おうと、私達に声をかけようとしてくれたけれど。
そのたびに、私は逃げた。適当な言い訳をして、まるで何もないような顔をして、裏切り者が浅ましく、素知らぬ顔で逃げていた。
一つ、思ってもみなかったのは。
この一件で、ぱららいずは炎上したわけだけど、その焦点がまひるが、無償で客を連れ込んでいたという方向に向かったことだった。
金を払っている人間がいるのに、それは不誠実じゃないかって。
ちゃんとチケットを買った人間が馬鹿みたいだって、自分が満員にしたいからって、身勝手だって。
多分、普段、まひるのことを嫉妬で目の敵にしてる奴らが、これみよがしに、鬼の首を取ったようにまひるを責めた。
そうやって、隣で責められる姿を見ながら、私は何も言えないままで。
胸の奥はずっとナイフか何かで掻き混ぜているみたいに、痛くて気持ち悪くて。
結局、まひる独りが大勢の前で謝罪して。
そうしている間に、段々とまひるの顔が辛そうなものになっていく。
ライブ中、不安そうな瞳で周りを見ることが多くなった。
いつものアドリブをあまりしなくなった、筋書き通りに必死に沿うように歌う姿は、見ていて痛々しくさえあった。
笑顔で張り上げている声ですら、どこか泣いているような気さえした。
どうにかしたかった、でもどうにもできなかった。
私は結局、加害者だ。この一件は全部、私の醜さが引き起こした顛末だ。
何も言えない。
何もできない。
だから、冬の終わりに、楽屋でまひるが「もう卒業だし、次のライブでぱららいずも終わりかなって」そう言ったことにすら。
ただ何も言えないままだった。
頭の奥で、低くて悍ましい声の誰かが嗤ってた。
お前の望んだ結末だぞ、よかったなって。
お前があいつを貶めたんだ、願いが叶ったぞ、悦べよって。
憎んだんだろうって。妬ましかったんだろうって。
私を嘲笑うように、私そっくりの低くて掠れた大っ嫌いな声でそう言っていた。
そして。引退ライブでたくさんの、本当にたくさんの人が、まひるの最後を泣きながら見送っているときに私は背後で独りで涙を無言で零してた。
引退が悲しいんじゃない。
そうやって、沢山の人に大切にされていた、本当に掛け替えのないまひるを、私の手でくだらない理由で終らせてしまったその事実が。あまりに惨くて、惨めで、それがただ悍ましくて泣いていたんだ。
あの場所で、私だけが、身勝手に。
そうして、打ち上げを終えて、みんなと別れて。
もうそろそろ暖かくなる空を見上げて、初めて気が付く。
どうして、どうしてこんなに泣いているんだろう。
私のせいなのに、私の嫉妬が、私の憎悪が全てを台無しにしてしまったのに。
泣く資格なんて、どこにもないのに。
そうしてまだ寒い、夜闇の中に、息を吐きながら。ふと気が付いた。
眼を閉じたら、瞼の裏に浮かんだ光景は。
最初の頃、まだただ夢を見て、二人であれこれいいながら曲を作っていた頃のこと。
私しか知らない、まひるの心を。
あいつしか知らない、私の心を。
ただ静かに音楽を通して、語り合っていただけの、あの時間が。
もう二度と、戻ってこないと。
そして、あんなふうに心を許せる相手はきっともう生涯、永劫に現れないと。
これから私は、きっと、ずっと本当の意味で独りぼっちなのだと。
そう気づいてしまった瞬間に、涙と嗚咽が同時に零れた。
すれ違って、傷つけて、眼を逸らして、全てを台無しにしたその果てに。
自分の想いに初めて気が付いた。
そんな救いようのない愚者が私だった。
※