第十六話 あさひの場合、夕ごはんの頃
お昼に真宵さんとの邂逅を経て、私とまひるちゃんはあまり多くは語らずに私たちの家に帰ってきた。
少し何かを考えこむような、それとなく真剣なまなざしで。
そこにあるのは、きっととても大きな決意。
まひるちゃんは、一年半の懊悩と、お互いの罪悪感に、そして真宵さんとの関係に一つの決着をつけることを決めたんだ。
和解か、決別か、それとも違う結論になるのか、何もわからないけど、わからないまま進むことを、あなたは決めた。
きっとそれを人は勇気と呼ぶのでしょう。
真宵さんとの関係に想うことは多々あれど、私としては応援する以外の選択肢はない。彼女の歌の一人のファンとして、一年半付き合い続けた友人として、そしてたとえ一方通行でも想い人として。
全力で、応援するのだ。
そうと決まれば、今日は腕によりをかけてご飯を作るぞう!
メニューはまひるちゃんが大好きな、カレーに、唐揚げも載せちゃおう、サラダはアボカドいりのやつで、デザートにぶどうまでつけちゃうもんね。
ふんと気合を入れて、調理に取りかかることおよそ三十分。
とりあえずカレーを煮込みまちの段階まで済ませて、ふうと一息ついた頃に、リビングで話し声が聞こえることに気が付く。
ちょっと顔を覗かせて内容を聞いてたら、どうにもまひるちゃんが電話しているみたい。
「そう、だからごめんだけど、今週末でどっか場所の確保できる? あと佑哉さんと文音さんにも声かけて欲しいな。私連絡先消しちゃったからさ、うん、まじでごめん。急すぎるけど、頼むって。ゆうだけが頼りだからさ」
……どうにもゆうちゃんと電話しているようです。内容は……昼間に約束した、真宵さんとのことかな?
とことことまひるちゃんの後ろにそっと歩いて行ったら、まひるちゃんはこっちを振り返って軽く微笑んでくれた。そして、私が会話を気にしてると想ったのか、わざわざ通話をスピーカーに変えてくれた。
『まったく、調子のいいことを言ってくれるね。まあ、私が焚きつけたんだ、どうにか場所はあてを探すさ。佑哉と文音は……多分、大丈夫だよ。あの二人からはむしろ、まだまひるから連絡がこないのかって催促されてたくらいだからね』
「はは、そっか、ありがたいやら、期待が重いやら……」
まひるちゃんはそう言って、少し力の抜けたような表情で笑ってた。
『ドラムはこっちで心当たりがあるからなんとかしよう。曲目だけでも教えてくれれば、多少は向こうに引き継げるんだが、もう決まっているのかい?』
「あーうん……一曲でいいかなって想ってる。何するかは、ちょっとだけ考えるかな。ま、今日中に送るよ」
『おーけー、了解した。……と、文音からもう連絡が来たよ。本番前に一回別日でリハがしたいとさ、水曜か木曜がいいみたいだが、まひるはどっちがいい?』
「はっや、今、会話しながら送ってたよね? うーん、できたら水曜かな」
そんな風にやりとりを繰り返しながら、まひるちゃんは着々と、唄う準備を進めていく。どことなく予定の合わせ方が手慣れていると言うか……て、当たり前だね、彼女たちはそうやって三年間歌い続けてきたのだから。
ふうと一つ息を吐いたら、まひるちゃんんが『どうかした?』って感じで首を傾げて、私を見た。目敏いなあ、もう。
私は軽く笑って首を横に振る。なーんでもないよ、って、そう小声で伝えながら。
そのまま五分程して、まひるちゃんは通話を終えた。
しばらくスマホを眺めてから、ふーっと長めに息を天井に向かって吐いていく。長く長く、まるで風船から空気が抜けていくよう。
「つっかれたー……」
「ふふ、お疲れ様です」
そのまままひるちゃんの頭が抜けた力と一緒にこてんとこっちに倒れてきたので、そっと手を添えて受け止める。ほんとに力が抜けてるから、ちゃんと受け止めないとそのまま転がっていってしまいそう。
「ふぅ………………」
長く、長く、息が吐かれる。今日という日で、溜まった沢山の想いを、そっと心の内から吐き出すように。
「まひるちゃん、大丈夫?」
出来るだけ、笑顔に勤めてそう尋ねると、まひるちゃんは力の抜けた頭を私の肩に預けて小さくだけど頷いた。
「うん、でもちょっと、疲れた。……今日、色々あったから」
そんな言葉にかるくうなずきながら 、私は隣にあるまひるちゃんの身体からゆっくりと力が抜けていくのを感じる。風船からぷしゅっーと空気が抜けていくように、まひるちゃんの身体が少しずつ萎んでいるような気までしてくる。
「そだね、……色々、ほんとに色々あったねえ……」
今日のハイライトを軽く頭の中で浮かべていたら、ついでとばかりに私の胸に突き刺さった数多の言葉まで想い出されたので、ちょっとだけ苦笑い。
でも、まあ、まひるちゃんにとっては、きっと今日はとても大事な一日だったのは間違いない。
大事な決意をすること、本当の気持ちと向き合うこと。
それはきっと誰にだって、大切で大変なこと。
だからこうやって、少し疲れてしまうのも仕方がない。むしろよく頑張っているとさえ言えます。私が添削の先生なら赤丸で100点つけちゃうぜ。
なんで一人でうんうん頷いていたら、肩に乗っていたまひるちゃの頭がもぞっと動いた。少しだけ顔がこっちに向いて、ちらっと少し視線が合う。
「あさひもありがと、背中押してくれて、嬉しかった」
小さく、小さく、雫のような、そんな感謝の言葉。
ただ私にとっては、それは推しからもたらされた大金言。
ふふふ、思わずにやけちゃうのが抑えられないぜ。
「ふふふ、どうってことないよ……ま、個人的には、暴走しまくった記憶しかないんだぜ……」
今日はまひるちゃんを害されるかもしれないという怒りと、思わずテンションが上がった末の奇行が数多あったため、あまり冷静に振り返ることはできてないんだけれど。というか、冷静になったら多分死にたくなる。我ながら、よくあの衆人環境で愛してるゲームとか始められたな。
なんて風に、ちょっと自嘲が入ってる私に、まひるちゃんはゆっくりと首を横に振った。
「ううん、あそこであさひが思い切って踏み込んでくれなかったら、私たち去年と何にも変わらなかった。あそこで、ちょっと無茶してくれたから、私も思い切って声かけられたし。ほんとに感謝してる」
囁くように、まひるちゃんの少し低いのによく響く声が、そう私の耳を撫ぜてくる。く……抑えろ、推しの直褒めASMRに思わずにやけが顔に浮き出そうになる。いや、多分、もう半分出てる。しかし、これ以上のにやけは多分見るに堪えない。私の中の乙女センサーがわんわんとアラートを鳴らしてる。
「……ふふふ、あんな暴走でも役に立ったなら、何よりだよ……ふふふ」
我ながら、にやけを抑えようとするあまり、変に不敵な笑いになってしまった。
そんな私の様子に、まひるちゃんもどうしてか少しおかしそうで、二人してしばらくふふふって不思議な笑みを零してた。なんだかとても変だけど、ちょっと楽しい。
そうしてしばらく笑い合ってから、私はちょっとだけ気になってたことを聞いてみる。
「まひるちゃんは……その、大丈夫? ずっと向き合えなかったことと、突然向き合うことになっちゃったけど」
私が逆の立場だったなら、そう簡単に心の準備は出来ない気がする。心の傷のような部分に触れるとなればなおのこと。
そんな私の問いに、まひるちゃんは少しうーんと考えてから、小さくうなずきながら言葉を零した。
「実は、私もまだあんまり整理はついてないかな。てか、多分だけど、当日歌うまで、ちゃんと心の整理はつかない気がする。というか整理をつけるために唄うと言うか……?」
まひるちゃん、自分で言ってて、少し不思議そう。まるで、口にすることで初めて、その想いが形になるかのような。
「ふむ…………?」
「うーん、久しぶりに唄うのは正直怖いかも。どんなことを伝えられるかとか、他の人にどう想われるんだろとか、こうずっとぐるぐるしてるのも、あんまり変わってないんだけど」
「…………だけど?」
「うーん、そうだね。それでも、歌う必要があると言うか、そうしなきゃいけないと言うか……」
「…………むぅ」
私の肩ではまひるちゃんは口元に手を当てて、言葉を探す。なんでか私もそろって同じようなポーズをして思わず考え込んでしまう。
やがて、まひるちゃんはそっと雫を零すように、小さく口を開いた。
「…………ちゃんとここで決着付けないと、あさひに返事ができない……気がしたかな」
「ふむ…………なるほどつまり私のために決断をしたと言っても、過言ではないわけですな」
うん、いや、過言だわ。ごめんなさい、調子に乗りました。己を過大評価するにしても限度がある。
「そうだね」
くそう、思わず漏れた世迷言を推しが肯定してきやがる。嬉しいけどそうじゃない。そこまでいくと過剰供給で溺れて死ぬと言うか、私の羞恥心がもたないというか。
「じょ、冗談です……そこまでの価値は私にはありません」
思わずそのまま土下座しそうになったが、それをするとまひるちゃんの頭がずり落ちてしまうので、顔を両手で覆うにとどめる。恥ずかしい、今日、暴走してばっかり、私。
「いや、割とマジなんだけど…………」
「………………いや、ほんと、ちょっと勘弁してください。今日は、まひるちゃんがもう一回唄ってくれるかもってだけで、私としては過剰供給なんです……」
口にして情けなくなってくるけど、事実なので仕方がない。
「はは、なんじゃそりゃ。てか、やっぱりあさひ的には、私がもっかい唄ったらうれしーんだ?」
肩口でもぞもぞとまひるちゃんの柔らかい髪の毛が動いて、視線がこっちにむけられるのを肌で感じる。くそう、ちょっと楽しそうな顔してる。私は思わず、その素敵な顔面から目を逸らしながら、くぅと唸りながら頷くことしか出来ない。
「そ、そりゃあね? 一ファンとしては、嬉しくないわけがないというか。ほんとは今すぐ飛び跳ねて小躍りしちゃくらいには嬉しいけど、必死に隠してるだけというか……」
実際、料理しながら小躍りしてたのは内緒だぞ。……うん、ちょっとテンションがおかしい自覚はあります。
「ふうん……そっか、ずっと待っててくれたもんね」
そういうと、まひるちゃんが少しだけ大人しくなったの感じた。逸らしていた眼をそっと戻すと、穏やかな顔ですっと眼を閉じているまひるちゃんの姿があった。
……寝てる? わけないか、こんな短時間で。ちょっと気が抜けたのかもしれない。
耳を澄ますと、鍋がぐつぐつ煮える音と、ちいさく君の口元からすーすーと息が響く音だけしてる。
……………………。
一瞬、ちょっと魔が差した。
キス、しちゃえるなーなんて。
ただ、魔が差した瞬間に、今日の真宵さんの一言が胸の内にぐさっと刺さってきます。
『どこがただのファンよ……、一緒に住むなんてどこが一線引いてんの?』
『この変態……淫乱……ストーカー……痴女……』
さ、さすがに、この忙しい時期。まひるちゃんの心の内もまだ固まっていないタイミング。ここで愛してるゲームなんてしでかすのはいかがなものか。まして、キスはまじで私がしたいだけだから、淫乱の汚名はどうあがいても返上のしようがない。
ぐぐっと堪えて、どうにか自分を抑えつける。心の中の大和撫子が操を守れと私に囁きかけてくる。
…………でも、うーん、ちょっとだけ、ちょっとだけなら。今日頑張ったご褒美に……だめかなあ。
そんな感じで、脳内で大和撫子とフラッシュバック真宵さんが手を取りあって、暴れる私を羽交い絞めにしているそんな最中。
肩がもぞって少し動いて、目を向けると、まひるちゃんが片目を開けてちらっと私の方を向いていた。
それから、少し眠たそうな表情で、ぼんやりとした瞳で私を見ながら―――。
「あれ……しないの? キスされるかなー……って想ってたのに」
そう―――言った。
我ながら、よく我慢しました。いや、こういう時、私最終的に我慢できない気がするけれど。
これは、うん、なんというか不可抗力……でもなく、はい私のせいです。操は浜で死にました。
というわけで、勢いのまま、まひるちゃんにぎゅっと顔を押し付けるようにそのまま迫って、唇を交わすまでわずか0.3秒。
ちょっと鼻がごっつんこして、少し呻いた後に、お口直しにもう一度キスをして。
その後はじっと、ただ甘くて、熱くて、蕩けてて、少し濡れてるそんな時間を。
カレーの鍋が噴きこぼれるまで続けていたのでしたとさ。
‥‥‥‥そういえば、何か忘れているような気がするんだけれど。
「…………あれ、あさひ、あいしてるは?」
「あいしてる! あいしてます! 世界で一番あいしてます!!」
そうしてゲームの体裁すら忘れて、ひたすらに私が盛っただけの夜なのでした。
そうして、真っ赤になって半泣きの私に、まひるちゃんはどこかおかしそうに優しく笑ってた。
うう、やっぱり変態なのかなあ……私。
※
本日のリザルト
引き分け(両者勝ち)(事後判定)
……まひる6勝目、あさひ11勝目。