閑話 まよいの場合
それを自覚したのは、いったいいつの頃だったろうか。
3歳の頃から、音楽を初めて、高一の時で13年。
積み重ねてきた時間は数知れず、身に着けた技術も、覚え込んだ理論も、繰り返した演奏も、同年代の誰にだって負けない自信があった。
ギターも弾ける、ベースも弾ける、ドラムも叩ける、ピアノも弾ける、エレクトーンやアコーディオンだってその気になれば触れる。なにより曲だって書ける。
強いて気に入らない物を上げるなら、低くて響かない私の声と、書く詩の稚拙さくらいのもので、こればっかりは練習してもさっぱり改善しなかった。
声は生まれつきだし、詩はセンスが……というかそれを出力するだけの感情がいる。
どこかにそれを補えるやつがいれば、きっと私の曲と演奏は、もっとさらに上の領域に行ける。地元のライブハウスで天才児としてもてはやされてこそいたけれど、それだけじゃ満足できない。
もっと上に行けるはず。代わりに歌う誰かがいれば、この曲や演奏はもっとたくさんの心を震わせられる、もっと誰かに私を知ってもらえる。
そうやって探し回っていた頃に出会ったのがまひるだった。
あいつの本気の歌を聞いた時、なくはないなんて言いながら、内心はほくそ笑んでいたっけ。
とうとう見つけた、私の音楽の最高のピース。求めてやまなかったどこまでも響くような声と溢れるほどに漏れ出る感情。
こいつを使えば、こいつを主役に据えれば、私の音楽はもっともっと高みへ行ける、メジャーデビューだって夢じゃない。
そう、想ってた。
まあ、その予感自体は決して間違いなどではなかったけれど。
事実、初ライブは大成功、沢山の人に持て囃されて演奏も最高のものになった。
その事実が嬉しすぎて、その当時は、まだ気づきはしなかったけれど。
一つ、致命的な違和感がそこにはあった。
思い描いたパズルを埋めているはずなのに、どこか違う絵柄の絵を積み上げているようなそんな違和感。
何度もライブを繰り返して。
何度も何度も、まひるの歌を聞くたびに、やがて違和感を明確になっていく。
初ライブでの私たちの演奏は、私が思い描いた以上のものだった。
それからのライブも、私が描いた曲とそこに乗せた演奏から、予測される以上のものが毎度毎度出力される。
それはまるで、私の曲以上の何かが、私の演奏を超える何かが、そこにあるかのような。
そんな違和感は、やがて疑念へ。
疑念は、不安へ。
不安は、確信へ。
やがて嫌でもそれに気づかされる。
いや、そもそもどれだけ目を逸らしても、それに気づかないことなんて不可能だった。
パズルのピースが埋まっていくたび、私が描いた絵ではない何かがゆっくりと完成していく。
だって、あの子は。
ライブの時のまひるは。
まるで人が変わったようで。
普段は自信なさげで練習でも一番ミスって、頼りないくせに。
いざ本番になるとこっちの演奏ミスに即座にアレンジを入れて対応してくる。
咄嗟のアドリブにまるで呼吸を合わせるかのように、調和して歌を盛り上げる。
響かせた声が、高く伸ばした指先が、綻ぶような表情が、心の奥まで見透かすような視線が、ふっと吸い込む吐息すら。全てが、会場を盛り上げる、観客の心を飲み込んでいく。
しかも不意に予定にないことを平気でする、はしっていたテンポを急に下げたり、曲の演奏に急に跳ねさせたり、突発的に歌うのをやめたことすらあった。
なのに、その全てがあの子がやれば、人の心を揺らすこれ以上ない演出になる。
まるで、どうすれば聞いている人間の心が震えるか、どうすればその感情に訴えられるか、どうすれば歌にこめた想いが相手に届くか、その全てを知っているかのように、まひるがなしたその全てが圧倒的に誰かの心を震わせ続けた。
最初は演奏側も戸惑っていたけれど、やがてはみんな納得して受け容れていく。結局は、ステージの上のまひるを望むままに唄わせることが、何より観客の心を動かせると気づいてしまったから。
観客はみんなまひるを見てた。まひるただ一人を見てた。爛々と輝く姿に、誰しもが目を離せなかった。
それはどう考えても、街の片隅のライブハウスに存在していいレベルの器じゃなかった。
もっと大きなライブハウスの、メジャーデビューの、プロの、いやともすれば、もっとそれより上の―――。
蒼空の上にあって、その眼下の全てを照らし尽くすような。
まるで太陽のように煌々と輝くまひるの姿に、気付けば私たちは目を離せなくなっていた。
そうしてようやく致命的な間違いに気が付いた。
ずっと私は、自分が埋めてきたパズルの最後のピースが、まひるなのだと想っていた。
13年間の積み重ねの果て、私という人間を誰かに知ってもらいたくて、必死に鳴らし続けた音楽を完成させる。たった一欠けらの最後のピース。
でも、違った。
私が、まひるのピースだったんだ。
13年、積み重ねてきたその全てが、あの子が描いた絵を完成させる、あの子という存在をより高みへと押し上げる。それだけの、たった―――たった一欠けらのピースに過ぎなかったんだと。
そう気づいてしまった日から。
私はまひるの眼が見れなくなった。
その眼に反射して映る、自分の愚かさと、矮小さと、醜さにただ押しつぶされるのが怖くなって。
挙句、取り返しのつかない過ちまで犯し果たして。
全てを台無しにして、今、私は独りぼっちだ。
誰も望めず、誰にも望まれず。
暗い部屋の隅っこで、膝を抱えて時折、想い出したように高校時代のCDを聞き漁るだけ。
まだ何も知らず、受け渡される賞賛にはしゃいでいたあの時を。
己の弱さも、あの子の煌めきも、まだ何も知らないまま駆け抜けていたあの青春の日々を。
ただ、想い返すことしか出来ないでいた。
※
その日の夕方、目が覚めたのは、携帯の着信音が鳴っていたから。
寝ぼけ眼のまま、すっかり昼夜逆転してしまった身体を引きずって、窓の外を見る。そろそろ日も暮れそうだ。大学が夏休みになって、授業に出る必要もなくなったから、生活は余計に荒み始めた。
捨てれてない生ごみの山をかき分けて枕元から少し離れた携帯に手を伸ばす。
映っていたのは、懐かしくも、不可解な名前。
「…………なに、ゆう」
『やあ、元気かい、まよい』
中学半ば、私がライブハウスに通うようになってからの友人…………いや、そう呼べる間柄ではもうないけれど。そんな旧知の仲からの、随分と久しぶりの電話だった。相変わらず、抑揚のない感情の読めない声だ。
「別に…………もう何もしてないわよ」
漏れ出た声は寝起きと引きこもり生活も相まって、ただでさえ低くて嫌いな声なのにガラガラで、自分で耳にするだけで不快になる。
それにしても、何の電話だろう。監視か、けん制か、まあ、何にしても今更私にそんな大したこと出来るはずもない。それはつまり、私がしたことに対して、償えることももうないってことなんだけど。
そんな私にゆうはいつもの調子で、返事を返してきた。
『そこのところは心配してないさ。あさひからおかしな話は何も聞いてないしね、ただ単に最近どうしてるかなって思っただけだよ』
電話の中に出てきた名前に、思わずチッて舌打ちを打ちそうになってしまった。
想い出すだけでも忌々しい、あの全国お前が言うな選手権があれば文句なしに一位を取りそうなあの女。私とは真逆のふわふわ系でパッと見、人畜無害そうな見た目なのに、平気でストーカーとかやるあの女。
正直、耳に入れたくもないけれど、あれのお陰で最後の一線は越えずに済んだのだから恩人と言えなくもない。そこがまた、腹立つ要素に拍車をかけてくる。
「別に、変わらずよ。家にいて、大人しくしてる、悪さもしてない」
『なるほど、つまりザ・引きこもりというわけだね』
私の言葉に、ゆうは淡々と無感情に事実を突きつけてくる。こういうやつだとは解っているけど、今の荒んだ心には、そんな物言いですら小さなささくれみたいに突き刺さる。
「……そんなこと確認するだけなら、もう切るんだけど」
『そう冷たいことを言わないでくれ、これでも中学以来の旧知の仲だ。ちゃんと心配しているんだよ、自暴自棄になったり、荒んだ生活を送っていないかとね』
そういうゆうの声は淡々としていて、電話口では尚のこと真意が読めない。
悪意があるやつではないけれど、慈悲深い女神というわけでもない。むしろこいつの行動には大体何かしら目的があるものだ。ふっと高校生の頃、まひるともども散々こいつの欲望に振り回された日々が蘇って、少し寒気が走った。
「別に……そんな風に腐ってないわよ」
漏れ出た声は我ながら少し弱弱しかった。引きこもりも自暴自棄も、正直、図星だったから上手く否定できない。
『……そうかい、じゃあ、少しだけ世間話をして切るよ。この前の祭りで、佑哉と文音にあってね―――』
それから、ゆうは淡々と言葉の通り、他愛ない話をしはじめた。話題は大体、共通の知人について。佑哉さん、文音さん、ライブハウスのメンバー、サブカル仲間とかとか。
『―――そういえば、まひるがね』
ただ、その名前が出た瞬間に、胸の奥がぎゅっと何かに強く掴まれたみたいに傷んだ。
それを通話口の向こうに悟られないように、暗い部屋の中で膝を抱えてぎゅっとこらえる。
『……大丈夫かい? まよい』
「……別に、あいつがどうしたのよ」
といっても、既に知っている話なんだろう。ライブハウスから離れても、あいつの話は嫌でも耳に入ってくる。もうステージに立たなくなって、歌うこともなくなった。その理由は、誰より私がよく知っている。なにせ私が全ての原因なのだから。
その罪の重さを考えれば、ゆうがこれから言うであろう、あてつけの言葉を聞くのも罰の一つといえる。
あいつが今、どれだけ苦しんでいるか、あいつが歌を奪われて、どれほど惜しまれているか。
自分が台無しにしてしまった、誰かの誕生日ケーキがどう無為に捨てられていくのかを聞くように、この話は私への罰として聞かなければいけない話なんだろう。
『ああ、最近のまひるはね―――』
これが罰だ。私の、償いようのない、一生受け続けるであろう、責め苦なんだ。
『あさひに―――たじたじだね』
……………………。
………………。
………。
「……は?」
なんか今、話の流れから、何にも予測できない言葉が出てきた気がするんだけれど。
『いや、ここ数か月のあさひの覚醒の仕方が凄くてね、まひるに対してそれはもう迫る迫る。時折、録音が送られてくるんだが、聞いてるこちらがごちそうさま、もとい、大変参考にさせてもらってるくらいでね。特に息遣いがいいね、あんなものを耳の傍で囁かれたら、まひるじゃなくてもなかなか危うい。身体接触がどう行われているかが録音ではわからないのが、玉に瑕だが。それはそれで、こちらの想像を掻き立てられてむしろいいというか―――』
「………………ゆ、ゆう?」
ゆうが喋ってる情報が何ひとつ頭に入ってこない、興奮してる時の早口だからなのもあるけれど、どうしてか脳がその情報を処理することを徹底的に拒んでいる。
『やはり同棲というのがよかったかな。我ながらあれはファインプレーだった。あ、そうだ言い忘れていたが、今、私たちの間で愛してるゲームが大変にブームでね。ずっとその話をしていたんだ。やれやれ、我ながらつい興奮して先走ってしまった、すまないね。それでそのゲームなんだが10勝すれば『なんでも』おねがいを一つ相手にできるんだ。なんでも、そうなんでもだよ。そして、この前あさひがとうとう10勝を果たしてね、そう、まひるにたいして『なんでも』おねがいする権利を得たと言うことだね。そしてそこでされたおねがいが切なくもまたいじらしくて―――』
同……棲? 愛……してる……ゲーム? おねがい……? なんでも……?
わけがわからない、脳が理解を拒否し続ける。それなのに、ゆうのやつはそんな私に延々と情報をつぎ込み続ける。
『昨日ね、まひるとそのおねがいについて話をしていたんだ。そしてその後にあさひが迎えに来てね、ああしかもその姿がどこか煽情的でね。帰り道にもどうやら1ゲームあったらしく、ふふ、我ながら下品だが、少しその……ね。というわけで、その話の興奮冷めやらぬまま、こうして電話しているわけだが、……まよい、まよい? 聞いてるかい?』
――――。
しばらく思考が停止した。
停止して、停止して。
最後にまだ私に笑いかけてくれていた頃のまひるの姿が、視界を一瞬よぎって。
その末に。
―――プツンと。
私の中の何かが切れていた。
「あんのストーカー変態女………………私のまひるに…………」
そんな口から言葉が漏れ出ると同時に。
力を籠めすぎた指が気づけば通話を遮断していた。
そして同時に半年以上前に、あいつの言っていた言葉を想い出す。
『私は、その、所詮、まひるちゃんのただのファンだから、線引きはしてるつもり……だよ』
「どこらへんが線引きしてんのよッ!!! あんの寝取り女ぁっ!!!」
久方ぶりに喋った喉はガラガラなのに、何の遠慮もなく怒りのままに言葉は溢れてくる。
大慌てでごみの中から外行きの服と帽子を引っ張り出して、着込んでそのままつんのめるように外に出た。
とりあえず、あの女、一発かます!!
「私の方が先に好きだったのに!!!」
夕暮れの街を走りながら漏れた文字通りの泣き言は、我ながら情けなさすぎて意味がわからなかったけど。そんな感情も幸い、すぐに怒りに飲み込まれて消えてった。
そうして怒りに押されるままに私は、赤い夕暮れの中を駆けていった。口から漏れ出る呪詛の言葉を聞きながら。ただあいつの元へと。
あんの泥棒ネコがぁーーーー!!!!!!
※
リビングでしていた電話を切ったゆうは、夕方の紅い空に目を細めながら、豆乳オレをから口を離して、煙草のようにふーっと長く息をくゆらせていた。
「ねえ、ゆう、なに満足げな顔してんの?」
「……いやね、よぞら、私はまた名采配をしてしまったかもしれない。……我ながら自分の才能が恐ろしいよ」
そんないつもの同居人の奇行に私はふーんと適当に相槌を打ちながら、台ふきをその空いた手にぽとんと落とした。ゆうは、ふふふとどこかしたり顔で、台ふきをぎゅっと握ると、そのまませっせと机を小さい身体で拭いていく。
「ねえ、趣味の話してる?」
「ああ、性欲の話をしている」
ずごご……と、ゆうが咥えた豆乳オレのパックが、荒々しい音を立てている。よっぽど興奮する案件だったらしい。
そんな様子に、なるほどと私は呟いて……しばらく考えてから、その首に軽く手刀を落としておいた。まあ痛くない程度の力で。
「あごびゃっ?! よ、よぞら、なじぇ……突然サドへ目覚めたのかい……?」
「んー、なんとなく、いろんな人の代わりと私のモヤモヤ分」
てなわけで、今日の夕ご飯準備するいつも通りの夕方のことだった。
この時のゆうの『名采配』が何かを知るのは、また少し後のこと。
紅く光る夕暮れの遠く向こうで、どこかの誰かが泣き叫んでいるような気がしたけれど。
ま、多分、気のせいでしょ。