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第七話 あさひの場合、真夏の頃—④

 何か、人生の過程で、それまで積み上げてきた全部が、不意に塗り替わるようなそんな体験。


 価値観が変わること。


 塾での勉強の最中、現代文の文章題に出てくるその言葉に、私はいつも首を傾げてた。


 どうすれば、そこまで心が動くんだろう。


 何をすれば、そこまで想いが変わるんだろう。


 そもそも今信じている世界が、変わるなんてそんな喜ばしいことなんだろうか。


 ずっと神様を信じていた人が、耐えきれない不幸で神の不在を知ってしまうような。


 努力すれば夢が叶うと想っていた人が、自身の努力ではどうにもならない現実に向き合ってしまうような。


 価値観が変わるって、そういう怖くて辛いことなんじゃいかって想ってた。


 だって、道標があるほうが人生楽だし。


 だって、両親に言われた通りにしていれば、将来は安泰なはずなんだし。


 そうに違いないって、ずっと、ずっと物心ついた時から誰かに言われて、自分に言い聞かせて今日まで生きてきたはずなのに。


 それが塗り替わってしまうなんてこと―――。



 細く、しなやかな、その手に繋がれるまま、普段、習い事との往復でしか使ってこなかった道を外れて路地裏に歩いてく。


 ビルの暗がりは、まるでいつかおばあちゃんと一緒に歩いた裏山の山道みたいで、怖いはずなのに、その先の未知の景色に魅入られて、繋いだ手が離せない。


 やがて、どこかさびれた不思議な匂いのする小さな看板のお店に着くと、私たちは地下への階段をとんとんと降りていく。金板の不思議な残響を聞きながら、踏み入れたこともない暗がりの場所へと進んでく。


 そして受付らしきドアの前で、私の手を引いていたその人は、そ子に座っていた小柄な少女に向けて声をかけた。


 「お待たせ、ゆう。記念すべき80人目! ゲットしてきた!」


 「おかえり、主役。それはいいけど、もう開演5分前だ。リハを舐めてるって、また真宵がぶーたれてるよ」


 「うわ、まじか。ごめん、すぐいくわ。そんで、この子のこと頼んでいい? ライブハウス初体験だって」


 「ああ、任された。だから、君はさっさと舞台裏に行っておいで」


 「うーい、じゃ、楽しんでね」


 そんなやり取りをして、その人は満面の笑みを私に向けると、手を振りながら脇の暗がりへ消えてしまった。


 私は気づいたら離されていた手をぼーっとみながら、思わずきょろきょろと首を巡らせる。


 えと、これからどうしたらいいんだろう……?


 そう迷っていると、受付の私より小さな少女は、少し首を傾げてこちらをみた。


 「お客さん、初めてなんだね。……まひるのことだし、チケット代はいいとか言われてるんだろう。本当はあまりよくないが、まあ、ここだけの秘密だ。中で他のお客さんに言ってはいけないよ?」


 そう言って、少女はすっと引き出しからチケットを出すと、半券を千切って私の手にそっと乗せた。少し荒い紙にプリントされた、真っ黒な下地に、稲妻のような模様が入ったチケットだった。


 「中に入ったら特に決まりはないよ。喉が渇いたらカウンターに、トイレはここ上がって右の部屋。壇上に上がらないとか、撮影しないとか、最低限の注意事項はあるけれど、詳しいことはチケットの裏に書いてある」


 言われた通りチケットの裏に目を通して、不意に何か音が響いてることに気がつく。


 扉の奥から少しずつざわめきのような、何か大きくて低い声の音がが響いてる。


 「初めてだと、色々勝手がわからないこともあるだろうけど。大丈夫、考えることは一つだけだ」


 そう言って、少女は小さく笑って、首を傾けた。



 「どうか――楽しんでおいで」



 そして私は、少女の声に背を押されるまま、扉を開けた。
















 音。





 音。





 重く、響くような、お腹から弱く揺らされるようなそんな音。



 クラシックのコンサートで大型の管楽器が鳴らす音よりもっと、大きくて、近くて、まるで身体全体で音を感じさせようとしてくるような、そんな音。



 重い扉が後ろ手に静かにしまる。



 人が一杯、狭い空間に敷き詰められて、色んな格好の色んな年代の人が、じっとステージの上を一様に見つめてる。



 ステージの上にはギターを持った大人の男女が二人と、ドラムに座っている少女が一人。



 音の練習なのか、時折弦を鳴らしているのが、さっき響いてた音みたい。



 そんな光景に気圧されるまま、どうしたらいいかわからず、ぼーっとしていたら不意に背中をそっと押された。



 振り返るとさっきの少女が私の後ろに立っていて、端っこにあるパイプ椅子の一つを指さしていた。



 あそこかな、私の席。



 っていっても、見に来てる人のほとんどは席を立ってるから、あんまり意味なさそうだけど。



 促されるまま、その席に向かってすとんと腰を下ろしてみる。



 周りはなんだか、うまく言葉にできない熱気に満ちていて、ライブの始まりを今か今かとまっているような期待感が誰も言葉を発していないのに伝わってくる。



 こういう場所で小綺麗な自分が少し浮いてないか心配だったけど、最後尾の席だから幸いあまり私のことを振りかえる人はいなかった。



 ……改めて、すごいところに来てしまった気がする。



 英会話教室をさぼって、病気でもないのに初めて休んで、この後どういう風に怒られるのかさえうまく想像できない。高校生になってから、そもそも誰かに怒られたことなんてほとんどなかったし。だって、全部誰かの言われた通りにしてきたから。



 そもそも、なんていい訳すればいいんだろう。たまたま路上で誘われてライブを見に行った? その通りに違いはないけれど、そんなことを口走った後に、両親がどういう顔をするのか、イメージすることすらできなかった。



 そっか、私、こんなふうに、自分で勝手に行動したことなんてなかったんだ。



 そう想うと、ちょっとだけ怖くなる。



 なんでこんなことしたんだろう。なんでこんなとこ来ちゃったんだろう。



 あの時は、あの人にライブに行くって答えた時は、どうしてもそうしなきゃいけなかった気がするけれど。今、改めて、どうしてそんなことしなくちゃいけなかったんだろうって考えても答えは出ない。



 わからない、勉強に疲れて、どうかしちゃってたのかもしれない。



 そんなわけはないけれど、それくらいしか今の現状を説明できる言葉がなかった。



 なんて考えている間に。






 不意に、音が止んだ。





 さっきまで、身体の奥底まで揺らすくらいに響いていたはずの音が、突然しんと鳴り止んでいく。



 しん―――と、誰かが息を呑む音まで聞こえそうなくらいの静寂が辺りを満たす。



 困惑する私を置いて、ステージ上の気配が一瞬ざわついた。





 照明がガンッと落ちた、それと同時に。





 不意に訪れた暗闇に驚く間もなく、辺りが瞬くまにざわめいていく。



 そして、再び照明が場を照らす。



 眼が慣れなくて、一瞬、視線を覆ってるうちに、会場が一気に騒めいた。熱気と興奮のような息遣いが、狭くて小さな地下室を満たしてく。



 何が起こったんだろう?



 みんな立ってるから、全然様子がうかがえない。



 わからない、わからないから、鞄を置いて、私もそっと立ち上がる。



 前に立っていた観客の隙間にどうにか顔を覗かせて、そのざわめきの理由を探そう必死に目を凝らしてた。




 やがてステージの真ん中に、さっきまでなかった人影を一つ見る。




 それは。




 黒いパーカーを目深にかぶった。




 少年のような、少女のような誰かが―――。




 違う。




 私に手を伸ばした()()()が、マイクを持って。





 そこにいた。






 『痺れていって―――』






 音。






 音。





 音。





 歓声。





 嬌声。






 ギターの音。






 ドラムの音。






 スピーカーから響く割れたような音。







 身体の底から揺らして震えるほど、大きな音。






 そして、その全てを飲み込むような。





 透き通っているのに、力強くて。





 荒々しいのに、儚くて。





 少し掠れているはずなのに、どうしてか綺麗と想ってしまうような。





 そんな声。あの人の声。






 ギターも持たず、マイクに向かって、ただ一心不乱に。





 あの人は歌ってた。





 ……そっか、私のバンドって言ってたもんね。





 あの人がボーカルだったんだ、すごい綺麗な声、すごい熱気、すごい歌。






 ただ目の前の光景と音に圧倒されて思考が停止している最中に、周りの人が一様にみんな手を上げていることにふと気が付いた。




 指を真っすぐにまるで空を指さすように、音楽に合わせて飛び跳ねながら、曲の合間に歓声を上げながら。




 みんなあの人の歌に呑まれるように、その熱気と衝動に身を任せるように。




 『どうか――楽しんでおいで』




 という入り口の少女の言葉を不意に想いだす。




 そっか、みんな楽しんでるんだ、きっと。




 私は何もわからない。今、この曲がどういう曲なのか、なんて名前の曲なのか、あの人の名前も、ここでの振舞い方も何も知らない。




 それでも、そんな私を振りかえる人は誰もいない、詰る人も口出ししてくる人も誰もいない。ただ何も気にせず、一つの曲に、一つの声に、身を任せるみたいに、その熱気と一緒に踊るみたいに、みんな楽しんでいた。




 わからない、何もわからないけど、あの人の手を取った時と同じ、名前のない衝動に背を押されるまま、私はそっと震えながら手を上げた。



 ほんとはこんなこと、してる場合じゃないけど。




 周りの人の真似をするみたいに、指を空に向けるみたいに。




 ほんとはこんなこと、誰にもやりなさいって言われたわけじゃないけど。




 それから、ちょっとおっかなびっくりジャンプする。




 それでも何かをしてみたくて。




 小さく跳ねて、ちょっとバランスを崩しそうになって、それでもともう一回。




 私の心がそう背中を押したから、楽しんでって誰かに押してもらったから。




 たどたどしく、音にも全然あってないけれど、それでもちょっとずつ小さく。まるでまだ飛ぶこともできないあひるが、必死に地を蹴るように。朝、お母さんに結んでもらった髪ひもが解けても構わずに。




 精一杯、引いてもらった手に縋りつくみたいに手を伸ばした。




 なんでか泣きそうになる。




 わかんない、何もわかんないけれど。




 そうやって、必死に、必死に手を上げて、飛び跳ねて、出来るかぎりの歓声を声に出した。




 周りからどう見られるかとか、変な子って思われないかって、怖いことはたくさんあったけどそれすら振り払って必死に跳ねた。




 胸が高鳴る、顔が熱くなる、熱気に歓声に、あの人の声にあてられたようにその波の呑まれてく。




 そして。




 その境に、不意に。




 たくさんの観客の向こう、最後尾にいるはずの私と、あの人の眼が、ピタリと合った。




 気のせいかもしれない、こんなにたくさんの人の中、そんなこと起こるはずなんてない。




 でも。




 あの人は、優しく笑うと、スッと私に手を伸ばした。




 そうやって伸ばし合った指の先が重なるような錯覚の後。




 それに呼応するようにあの人が一段と声を上げる。




 どこか掠れるようなのに。




 震えるほどに綺麗で。




 圧倒されるほどに力強くて。




 不意に消えてしまいそうなほどに儚い。




 そんな声に呑まれるまま。




 熱に浮かされるように飛び跳ねた。




 わからない、この気持ちの名前を私は知らない。




 なのに涙がごぼごぼ零れてくる。




 熱くて震える雫が頬を伝って止まらない。




 メンバーの男の人が、ひときわ大きくギターを掻き鳴らす。




 それに呼応するように他の楽器も音のボルテージを上げていく。




 そしてその全てを飲み込んであの人は歌い続ける。





 『君の声を聴かせて』と。





 『君の想いを歌って』と。





 『君のしたいことやってみて』って。





 『君の心をなくさないで』って。





 『これは君のための歌だから』って。










 そう―――歌ってた。









 私はどうして零れているかもわからない涙を、ただ流しながら。





 必死にその歌に、その声に、その想いに。





 必死に手を伸ばしてた。





 まるで子供が遠く向こうの星空に向かって、必死に手を伸ばすみたいに。





 あなたの声に導かれるまま。









 胸の奥でずっと疼いていたはずの微かな痛みは、いつの間にかなくなってた。


















 ※



 価値観がまったく変わってしまうことなんて、そうそうない。


 事実、私はあの日から、行動が全く真逆になった……なんてこともなく。


 その日は結局お母さんが大慌てで、よぞらちゃんに連絡して、お昼過ぎには駅でぼーっとしていた私が部活帰りのよぞらちゃんに発見された。


 英会話教室の先生には、ちょっと疲れちゃってって言い訳して、お母さんやお父さんにはちょっと怒られたけどそれくらい。まあ、本当に何してたかはよぞらちゃんにだけはバラしちゃったけど。


 その次の週も、私は変わらず、英会話教室も塾も他の習い事も欠かさず通った。


 誰かに言われた通り、望まれた通りに過ごしてた。


 ただ、少し変わったことと言えば、後であのライブハウスの名前を覚えておいて、あのバンドのことを少し調べたくらい。


 『ぱららいず』という名前のそのバンドは、今年売り出したばっかりで、ボーカルのあの人はなんと私と同い年の高校生だった。


 それはまあ、凄いびっくりしたのを覚えてる。私と同い年の人が、あんなに堂々とステージの真ん中で、何十人もの人を熱狂させてる。あんなに自分の考えをしっかりもって、あんなに自分の言葉をはっきり使って、それを誰に恥じることもなく堂々と歌ってる。


 凄いな、って単純だけどそう想った。だって私は多分ひっくり返ってもあんな風にはできないから。ただそれでも、だからこそ、その光に、あの人に、届かずとも手を伸ばしていたかった。


 だから翌月、そのバンドのライブがある日に、よぞらちゃんにお願いして、遊びの約束を取り付けてもらった。そしてお母さんたちには内緒でまたあのライブハウスにこっそり向かった。


 そんなことを繰り返して、気付けばがっちりファンになっていたっけ。


 ただ、どれだけライブハウスの中で歌っても、どれだけ必死に飛び跳ねても、日常に帰れば、私はいつも言われた通り望まれた通りに生きているだけの人間だった。そこに変わりは別にない。


 でも、それでも、あの場所で、あの人の声と一緒に唄って歓声あげている間だけは。


 少しだけ、何かを楽しんでる私でいられた。


 少しだけ、私を好きな私でいられた。


 きっと、私にできた変化はたったそれだけ。


 でもその、たったそれだけが、どれだけの私の心に勇気をくれたかを。



 きっと君は知らないまま。



 「まーひるちゃん」


 お母さんに夏休み中はこっちにいるよって連絡をして、残念そうな答えが返ってきた頃に、私は夜のリビングでごろっとしてる君の隣に座り込む。


 君は少し不思議そうな顔をして、軽く首を傾げてこっちを見た。


 「どしたん、なんか嬉しいことあった?」


 ふふふ、さてどうでしょう。


 「まひるちゃんの隣にいるだけで、私ずっと幸せだよ?」


 そういうとあなたは一瞬面食らったような顔になって、しばらくすると段々と頬が染まってくる。


 あらら、もしかしたら、攻め時かな?


 「あーいしてる」


 だから、そうやって私のほんとの想いを告げると、あなたは、しばらく眼を泳がせて顔を腕で覆ってしまう。


 「ズルいって……もう……」


 はてさて、いったい何がズルいのでしょうか。


 によによ笑みを深めながら、君の頬をつんつんと付き続ける。


 そうやってからかっていると、君はいーって真っ赤な顔を必死に伸ばして、ちょっとした反撃を試みる。子どもが必死に拗ねているみたいな顔をして。それに合わせて、私も何でか、うーって顔を伸ばしてみる。


 いーって、うーって。


 そしたら、その変な空気がなんでか段々面白くなってきた。


 しまいに二人で吹き出して、訳もなくけらけら笑ってた。


 夏の夜。


 いつもの学生街の、どこかで遠くで誰かが騒いで仕方ない、そんな夜。


 私の心を、少しだけ変えてくれたあなたと、そうやって笑い合っていた。


 その小さな変化がどれだけ私を励ましてくれていたか。


 きっと君は知らないまま。




 あさひ『勝利! ででーん!』


 まひる『敗北! ぐはー!!』


 よぞら『仲いいわね、あんたら』


 あさひ『ふふんそれほどでも! そしてついに七勝目だよ! 残すはスリーカウントだよ!!』


 よぞら『ふーん、割とすぐ終わりそうね』


 まひる『私もそう思う』


 よぞら『負けてる当人に抵抗する気がなさすぎるでしょ……』


 まひる『だってよう……可愛すぎるもん! むり!』


 あさひ『あはは……』




 ゆう『まあまあ、()()()()()()()()()()()()()()()()()




 あさひ『……?』


 まひる『………え?』


 よぞら『………………』


 ゆう『ところで、あさひ、まひる、来週お祭りに行くんだけど、予定空いているかい? 私が10勝したから、よぞらは強制参加なんだけど』


 あさひ『へ? ゆうちゃん? よぞらちゃん? なんで? いつのまに?』


 まひる『どゆこと……?』


 よぞら『聞かないで、お願いだから何も聞かないで』


 ゆう『続きは次週を……待て!』







 ※





 本日のリザルト

 あさひの勝ち(七勝目なんだけど、なんかそれどころじゃないような……?)

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