第七話 あさひの場合、真夏の頃—③
「ね、君、今から暇?」
その日はたまたま、いつも送ってくれるお父さんが用事があって来れなくて、私一人で電車に乗って英会話教室に行くことになっていた。
その時、私はお母さんが朝、丁寧に織り込んでくれた上品にまとめられた髪を弄くっていて。
そして、英会話教室が始まるまでの空き時間、少し駅前の広場のベンチでぼーっとしていたら、そんな風に声をかけられた。
ふへ? って思わず変な声が出て、跳ね上がるほど、心臓がそのまま割れちゃうんじゃないかってくらいにびっくりしたのを覚えてる。
そんな変な様子の私に、声をかけてきたくれた人は、ちょっと苦笑いをしてたっけ。
不思議な人だった、パーカーを目深にかぶってて、目線が少し見えなくて。ぱっとみ男の子か女の子かもわからないけど、すらっとした折れてしまいそうなくらい細身で、私より背が高いそんな人。
声の感じは、女の子にしては低くって、男の子にしては高くって、なんだかどっちつかず。年齢は……同じくらいなのかな、なんとなくだけど。
最初はナンパか何かかと思って焦ったけれど、手に持っていたビラでどうやらそうじゃないってことに気が付く。
「今からさ、私のバンドがライブすんの。あと一人、入ってくれたら丁度満席なんだよね、よかったらどう?」
そう言ってその人は軽く首を傾げた。言われた通りビラの方を見てみると、ポップな色彩でバンドとライブの日時が書いてある。
「ぱらら……いず?」
私が書いてあるバンド名を口にすると、その人は目線が解らないまま、にこっと笑みを深めてゆっくりと頷いた。
「そ、名前の由来があれだからちょっと恥ずかしいけど、大丈夫、歌は保証するから。どーう、来てみない?」
わけが、わからない。
っていうのが、正直な最初の感想。
だって音楽のライブなんて、両親に何度か連れられていったクラシックコンサートや、ミュージカルしか経験がないし。こんなふうに路上で誰かに誘われて、ついて行ったことなんてまったくない。
大体、そういうナンパまがいのものにひっからないよう、お父さんが送迎してくれていたわけだし。今までもそういう危ないのが世の中には一杯あるって、散々教えられてきた。
最初はどうにか断ろうと言葉を探した。
「お金……ないです、その現金が……」
「だいじょーぶ、せっかくだし満席にしたくて私が入って欲しいだけだから、タダだよタダ。あ、でもみんなには内緒ね?」
わからない、どう断ればいいんだろう?
「そういうライブとか……行ったことなくて」
「初めて? いいじゃーん、想い出つくってこーよ、行ったら楽しいし、私もまだあんま慣れてないけど。ちょっと価値観変わるかもよ?」
わけもわからず首を傾げる。
価値観が変わるって……なんだろう? 何をしたらそんなことなるんだろう?
「あ、でも私これから習い事が……」
「……うえ、まじかあ。そりゃあ、邪魔しちゃ悪いか。うーん、ぱっと見で君が一番、楽しんでくれそうだったけど……用事があるなら仕方ないか」
あれ、でも、なんだか断れそうな雰囲気だ……。
その人は少し惜しむように口をすぼめると、肩をすとんと落とした。ざーんねんってそう呟いて。
えと、これで……いいんだよね?
だって、実は危ない勧誘かもしれないし、これから習い事だってあるんだし、バンドとかライブとかそういうのは下品で低俗だからあんまり教育によくないってお父さんとお母さんも言っていたし。
私の対応は何も間違えていないはず。
なのに、なんで。
落ち込むその人を見ると少し申し訳なくなるんだろう。
何かの期待が裏切られたような、そんな感覚があるんだろう。
胸の奥の疼くような痛みが、どうしてこんなに鮮明に感じられんだろう。
ぽっかりとまるでそこに孔が開いているような。
そこから、静かに、でも確かに、私の大事な何かが流れ落ちているような。
「あの」
どうして。
「ん?」
どうしてだろう。
わからなかった。だから、ついそのまま話を続けてしまった。
「その……なんで……私が一番楽しめそうって想ったんですか?」
都会の駅だから、ぱっと見回せば、私よりそういうライブに行ってそうな人は一杯いる。私の装いは、お父さんお母さんに見繕ってもらった、落ち着いてるけど上品な服と高価な靴で、そういう場所に行く人にはお世辞にも見えなかったと想うんだけど。
そんな私の問いに、その人はうーん……と少し考え込むと、ふっと私の方を見た。
その時初めて、パーカーの下から覗くその人と眼があった。
黒くて、なのに澄んでいて、まっすぐと私の方を射貫くみたいに見つめてきて。
まるで心の奥底をそのまま見透かしてくるような、そんな瞳だった。
「君が一番、辛そうな顔してたからかな」
そして、その人は……そう口にして私を見つめてた。
真っすぐと、まるでそのまま、私の瞳の奥から心の底まで見透かすみたいに。
「え…………?」
「初対面で失礼だとは想うけど。あー、人生しんどい、やってらんないって顔してるなって見えちゃった。これでも結構、人を見る目はあるほうだと想うんだけど、どうあってる?」
「えと…………あの」
私、そんな顔しているよう見えてたの?
でも、そんなわけない、だって私はたくさんの物を与えられてる。お金だって一杯かけてもらってる。その額の分だけきっと愛されてる―――はずだから。
がちって、動きかけた表情が強張る気がした。笑顔がうまく作れない。
だって、私にはそんなこと想う資格すら――――。
「そういう辛い時こそさ、音楽がいいんだよ。思いっきり歌うんだ。抱えてた想いも言葉全部、みんなで一緒になって吐き出すんだよ。ふざけんなよこんちくしょうって」
何も言えない私にその人は、無邪気に笑ってた。心底楽しそうな顔で。
人間ってこんなに楽しそうな顔できたんだって、そう想ってしまうほどに。
どうすれば、そんな風に笑えるんだろう。何がこの人をそこまで笑顔にさせてるんだろう。
「そしたらさ、きっと、ちょっとだけ、自分のこと好きになれるよ。本当の自分の想いをちゃんとわかってあげられる。私は音楽ってそういうものだと想ってる」
言葉が―――出ない。
「だからどう? って誘おうとしたけど、用事あるなら仕方がないか、また来月の―――」
そういうとその人は少し残念そうに肩をすくめる。これで話はおしまいだとでもいうように。
え、だめ。
わからない、わからないけど、胸の奥で誰かが扉をどんどんと叩いているような感じがした。今、ここで、話を終えたらダメだ。
それはまるで必死に何かを私に伝えようとするみたいに、私の背中を思いっきり押して、どこかへ連れて行こうとする。
わからない、この気持ちが何を示しているのか、何もわからないけど、今この人と別れたくはなかった。今偶々つながった、この糸を手放したらダメだと想った。
そんな言葉にならない何かに押されるまま、手を伸ばして。
気づけば、口は開いてた。
「行き―――ます」
そういうとあなたは、最初は面食らったように目を見開いて、でもすぐに酷く嬉しそう笑ってくれた。
「まじ? じゃあえっとね、来月の土曜の―――」
「いま―――、今から行きます!!」
なんでそんなこと言ったのかは自分でもわからない。
習い事があるのに、行ってはいけないと言われている場所なのに。
それでも今、この人との出会いを無かったことにしたくない。なんでだろう、わからないけど心臓は必死に何かを―――とても大切な何かを私に知らせてる。
わからない、この衝動の名前を私は知らない。
それでも、何かを求めるように、怖いけれど、不安だけれど、それすら全部飛び越えてどこかに駆け出してしまいそうな感覚だけを頼りに。
え? いいの? ってその人は、少し心配そうだったけど、私の顔をしばらく見るとふっと優しく笑って、それからゆっくり頷いてくれた。
何もわからないまま、それでも何かが変わる予感だけが、胸の奥で心臓を足早に鳴らしてた。
高一のそろそろ夏も近い頃、日差しの中、遠く向こうで街の喧騒だけが響くころ。
それまで誰かに決められるだけだった私の人生が、ほんの少しだけ変わるような。
そんな予感だけを感じてた。