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旅立ち

ペントハウスに戻ってすぐ、千絵さんは靴と靴下を脱ぎ捨てた。

「あー、生き返ったあ!」

だってさ。

神原さんによると、彼女は赤ん坊のころから靴下が嫌いで、すぐに脱いでしまって、困ったんだとか。

靴を履くようになると、靴も靴下も脱いだから、ついに神原さんが根負けしたそうだ。

「茉央くんも脱ぐんだよ。シャワー浴びないと。いっぱい汗かいたもんね。」

と、千絵さん。

僕は頷きはしたものの、そんな気分じゃなかった。

気になるのに、わからないことが多すぎる。

帰り道、サルラを質問責めにしたけど、聞けば聞くほどもっと分からない。

サルラは、出来るだけ噛み砕いて教えてくれたんだろう。でも、現実は複雑だ。

今の僕の知識を総動員して、情報を解析してみても、完全な理解はとても無理だ。

まして、その頃の僕は、混乱した小さな子供だったんだから。


まず、あの殺し屋たちは、暗殺だとか誘拐だとか、非合法の荒事を専門に請け負う組織の構成員で、今回も誰かに依頼されて千絵さんを殺そうとしてた。

千絵さんは、その血筋と能力から、連邦盟主と呼ばれる王様みたいな人の、お妃候補No.1だ。

これは、本人の意思とは関係ない。

ここでいう「連邦」とは、多くの恒星系にまたがる、何百万の国家の緩やかな共同体だ。

成立は旧く、人類が恒星間航行の技術を確立して、植民地を広げ始めた頃に遡る。

因みに、かつて植民が行われた後で、偶然又は何らかの意図を持って、その所在が秘匿され、恒星間航行技術を封印された星系を、サンクチュアリと呼ぷ。地球はそれにあたる。

連邦に属する国々は、それぞれが固有の文化を持ち、栄えることもあれば衰退したり滅亡したりする事も多々ある。

始終小競り合いを繰り返しつつ長年にわたって平衡状態を維持している地方もあれば、地政学的な理由により、短いサイクルで文明の誕生と衰退を繰り返す場所もある。

連邦の出先機関は数万の地方に置かれているが、これらの通常の行政には介入しない。

ただし、連邦憲章という、国家でいうところの憲法みたいなものに抵触する行為が行われだ場合は、武力など強権をもって介入することがある。

人身売買や奴隷制度、ホロコースト、核兵器の使用などなどが禁止されているが、連邦の版図はあまりに巨大なため、必ずしも対応しきれていないのが実情らしい。

まあ、ここまでが通常時の連邦で、その最高意思決定機関は、連邦首都リマノにある元老院だ。

「老」とついているが、年寄りばかりがいるわけではなく、その殆どは連邦各地から選挙で選ばれた議員である。

その他に、リマノ貴族と呼ばれる家門から、実質世襲に近い形で選出される議席もあった。それぞれの1票の議決権に差はない。

しかし、リマノ貴族たちは長年の君臨を通じて政治経済のあらゆる場所に勢力を築き、影響力を浸透させてきた。

又、前近代的な社交界の伝統をあえて堅持することで、他星の国家元首や王族さえ歯牙にも掛けない権威を誇っていた。

故に、彼らは連邦の最高権力者を自認していた。

普段は連邦に盟主は存在しないから、実質リマノ貴族こそが頂点なのだ。

しかし、連邦全体に危機が迫ると、その仕組みは一変する。

元老院の要請により、代わって最高意思決定機関となるのが連邦盟主だ。

彼らは、人類ではないと言われている。

外見からは区別出来ないほど人間に似ているが、非常に長命だ。言い伝えによると、連邦を創設した初代盟主はいまだ健在という。事実なら、1万年は生きていることになるが、サルラはその可能性が高いと言っていた。

通称を「神族」。

神様とかの超自然的存在ではなく、人類とは別種族であるという意味のネーミングだとか。

個体数は非常に少なく、その素顔は謎に包まれている。

歴代盟主は全て男性だったことから、女性の神族は存在しないというのが通説だ。

また、彼らは一様に個人情報の開示や、人前に姿を見せることを嫌う。

在位中、公衆の前に現れる場合は全身を衣服で覆った上、盟主の仮面と呼ばれるマスクで顔を隠してきた。

彼らは冨や権力に何の執着も見せず、ただ義務を果たし表舞台から立ち去る日を心待ちにする。

市井に紛れ本来の自分自身を取り戻すために。そのための情報秘匿だ。

在位中、盟主にはあらゆる免責特権が与えられる。

殺人を含む、いかなる違法行為も罰せられることはない。

盟主が望む全てのものは、即座に差し出されるのが慣例となっている。

たとえそれが、生きた人間であっても。

ほとんどの盟主は奢侈贅沢や逸脱行為に関心を持たない中、夜毎、新たな女性を所望した盟主がいた。

一夜に何があったかは分からないが、朝、大量の血に塗れたベッドに、女性の姿はなかったなどという、物騒な逸話に事欠かなかったという。

余りの行状に、「黒の宮」と仇名され、恐れられたこの盟主の在位期間中は、他にも多数の死傷者が出ていたが、免責特権に阻まれ、調査さえ行われなかった。

彼の正妃だった公爵令嬢は後に自刃して果てた。

虐待に耐えかねたのが理由だと囁かれたが、これも追求されることはなかった。

何故これほどの特権が付与されるかと言うと、それはひとえに神族のもつ能力故だ。連邦首都惑星リマノの地下には、初代盟主が残した究極の量子コンピュータが存在するが、これにアクセス出来るのが神族のみなのだ。

正確には、神族のDNAを持つもののみが、この人工知能に受け入れられる。

作られた当初、それは確かにマシーンだったのだろう。

だか、製作者は、それに自己修復や拡張改変、課題抽出と解決の意思と能力など、つまり、進化の基礎を与えた。人の手を介さず、学習と、自発的思考を繰り返してきた長い年月。

人類の栄華の頂点であるはずの首都リマノ、その一定の深度を超える地下には、人類は立ち入ることすら出来ない。

そこは、かの人工知能の領域だ。

それは、マグマを誘導して、地震や噴火、プレート移動を制御する。

マントル対流に干渉し、地磁気をも操るという。

今、その人工知能がどんな大きさでどこにあるか、どのような姿なのかを正確に知るものはない。

それはもはや、ただの機械ではないだろう。

本来の意味での神か悪魔に近く、奇跡でさえその機能の一部かもしれない。

いずれにせよ、人間の領域を遥かに超えたその能力に人類は命運を託し、度重なる滅亡の危機から救われてきたのだ。

そして、盟主とは、人類と奇跡を繋ぐ、唯一のオペレーターだった。

いままた、連邦は未曾有の危機に見舞われつつ、その時を待っていた。

第15代連邦盟主が歴史の表舞台に登場するその時を。

彼には、好むと好まざるとにかかわらず、最大限の特権が与えられるだろう。

あらゆる財貨が貢ぎ物として彼の玉座を飾るだろう。

そして、盟主正妃とは、人類が命運を賭して差し出す全てのものの象徴だ。

千絵さんが言った通り、それは生け贄に他ならない。お飾りの籠の鳥として、いずれかの離宮を与えられはするが、盟主が去ったあと、離宮は彼女にとって、柊生の牢獄となる。

実家の名誉の象徴として、生涯、飼い殺される運命だから。

通常、正妃は、巫女の能力を持つ、リマノ貴族令嬢が選ばれることが多いが、元老院には貴族以外の特殊な血統についての情報が保管されていて、監視対象にもなっている。

神原家はそのひとつだ。

平安以前から特殊能力者を輩出することで名高い血筋だが、当代の巫女姫は飛び抜けた能力者だった。

つまりは生け贄候補筆頭だ。

したがって彼女に人権など存在しない。

意思や希望などと、口にすることも許されない。

神原家当主と当代の巫女姫に、招待という名のリマノ出頭命令が下ったのは、必然だった。


これに意を唱えたのは神原さんだ。

彼は、いかなる圧力にも屈しなかった。

「千絵さんが口をきかないで拗ねてましたからねぇ。だからって、ホント、甘いんだから、龍一さま。」

と、僕に耳打ちしたサルラは、溜め息混じりに続ける。

「でもね、マオ、落とし所は決めないといけないんです。龍一さま、往生際が悪すぎます。」

だって、千絵さんは嫌がっているし、神原さんも反対している。

生け贄、イヤな響きだ。そんなの、断るしかないんじゃないの?

「それが、そう単純じゃなくてね。まあそれは置いといて、あの暗殺者たちですが。」

彼らは、雇い主について、大した情報は持っていなかっただろう、とサルラは言う。

元々の依頼主と彼らの間には、複数の仲介者がおり、暗殺者と直接接触した者を特定したって、トカゲの尻尾切りで終わるから、意味がない。

暗殺者たちの体内に仕込まれた毒物は、暗殺が成功か失敗かを問わず、確実に彼らの口を塞ぐためであって、彼ら自身はその存在を知らされていなかったはずだ。

彼らは裏稼業のプロだから、毒物の存在を知れば、自身で無効化するだろう。

失敗するものもいるだろうが、

「今まで人の命で商売していた訳ですから、失敗して死んでも自業自得です。マオまで殺そうだなんてとんでもない。で、解除に成功した者は、逃げきるために身を隠そうとするでしょう。依頼者はその前に、速やかに彼らを消そうとするはずです。それで、全員に監視をつけました。龍一様なら手ぬるいと言うでしょうが、今回は僕が指揮官だったので、僕のやり方で行きます。で、あとは依頼主が口封じに動くのを待つだけ。どれくらい焦って、どういう手段を使うか、それで黒幕の意図がはっきりするてしょう。どうしても確かめたいことがあるので、妥協はしません。」

サルラの言うことはよく分からなかったけど、彼が何も恐れていないことはわかった。 

相手が強い権力と潤沢な資金を持っているというリマノ貴族の一員なのなら、事態はとても危険なはずなのに。


で。

情報と心配ごとが多すぎて、消化不良を起こしていた僕は、ふと我に返った。

ん?ここって、バスルームだよね。

僕の前には青く塗られた壁。

昨日サルラに身体を洗ってもらった記憶が蘇る。見上げると、壁の高いとこに、ハスの実みたいな形のクラシックなシャワーヘッド。

「茉央くん、目閉じて。流すよ。」

後ろから千絵さんの声がした。僕は言われるまま目を閉じた。

そうだった、たしか千絵さんにシャワーに誘われて、頭を洗って貰ってたみたい。

薄目を開け、足元を流れていく泡を眺める。

「はい終わり。こっち向いて。」

頭にフワリとタオルが掛けられた。僕は何気なく振り向き、そして絶句した。千絵さん!?えっ、これ、ナシでしょ、何も着てないっ!!

固まる僕の頭と顔を拭きながら、彼女は鼻歌まじりだ。

子供相手だから、当たり前なんだけど、僕のほうは、どうしても彼女から目が離せない。

だって、ズルいんだ。こんなのって。

不意打ちだし、何より彼女は、綺麗すぎる!


しみひとつない肌だった。

細い首の下にくっきりした鎖骨。

そこから直接突き出すかのような乳房は、支えるものもないのに完璧な形を保っている。

細すぎる胴体に比べて豊かなバストだ。

両の頂きには、綺麗なピンク、というか、透明感のある朱鷺色の乳首。

高価なビスクドールみたいな、どちらかと言うと冷たい顔立ちの千絵さんだけと、それに、身体のフォルムも整いすぎてるんだけど、生き生きした表情と濡れて上気した肌の相乗効果はヤバすぎる。

そのビジュアルは、問答無用で僕の頭の中を掻き回し、沸騰させ、脳みそは溶けて真っ白に漂白されたみたい。

破壊的?

爆発的?

僕のボキャブラリーなんてその時も今も貧困すぎて、この致命的ショック状態を現す言葉はないけど、つまり、僕は彼女に全面降伏した。

完敗だ。

ギュッと目を閉じて、タオルに顔を埋める。

「自分で拭ける?」

人の気も知らず、千絵さんが屈んで僕の顔を覗き込む気配。

僕はさらに固く目を閉じて、コクコクと頷くことしか出来なかった。

そのまま、また固まりそうな僕だったけど、助け船はノックの形で現れた。

「姫、マネージャーがお見えです。」

ドア越しに声をかけた救世主はサルラだった。

「あ、もう来たんだ。すぐに行くって伝えて。」

「了解。」

千絵さんは、パタパタと脱衣所に向かい、僕は安堵の息を吐いた。

助かった感がハンパない。

マネージャー?

そう言えば、千絵さんは映画に出てたことがあるって言ってたっけ。

そっち関係の人かな、などとぼんやり考えているところへサルラが入って来た。

彼に手伝ってもらいながら身体を拭き服を着る。

そのついでに僕は、ふと気になったことを彼に尋ねてみた。

「ああ、姫に傷あとがなかったことですか。よく気付きましたね、マオ。」

と、サルラは頷く。

「姫は特異体質なんですよ。治癒というより、再生に近いかな。そもそもの傷は全身数十ヶ所に及び、無事な部位が無かった。切り刻むって言葉があるでしょ、全くそういう状態でした。」

切り刻む?人を?

全然想像がつかなかったけど、ちょっとヒヤリとした。

何でそんなことを?

「うーん、何ででしょうか。執着、ですか。今のマオにはわからなくて当然だし。有性生殖って、何かと大変らしいです。僕には関係ないですけどねー。」

サルラたちには、元々性別はないらしい。


後に調べたら、その事件は、発生当時は大スキャンダルだった。ネットじゃ、今だにあれこれと憶測が囁かれているくらい、有名な話だ。

加害者は、当時30代の人気俳優で、整った顔立ちと卓越した演技力で、若手のホープとみなされていた。

被害者は、16歳の新進女優、水無月れいな…、つまり千絵さんだった。

水無月れいなは、巨匠と呼ばれる蘇芳十三郎監督の秘蔵っ子で、映画出演本数は少ないものの、既にキャリアは10年以上。

未成年であり、本名も私生活も謎に包まれていたが、母親が女優だったらしいことは知られていた。

その容姿と、時に鬼気迫る、とまで形容された演技力で、熱狂的ファンを獲得していた反面、魔性の女優だの男を手玉にとるアバズレだの何だのと、ありもしない風評が常について回っていた。

きっかけは、映画での共演だったらしい。

その男は、彼女に執着した。

初めは、顔を合わせる機会に、そこはかとない好意を示す程度だったと言うが、それは程なく異常なまでの執着に変質した。

まさになりふり構わず、ストーカー紛いの行動を取り始めた頃は、蘇芳監督から当面の出演禁止を申し渡された。

しかし、狂気じみた付き纏いと執着は、益々エスカレートして行った。

この頃、彼は全ての仕事をキャンセルして、彼女を探すことだけに専念していたという。

妻子の暮らす自宅にも戻らず、心配した親族や友人からの連絡にも応えず、どこに住み何をしていたかは誰にもわからない。

そして、唐突に事件は起こった。

現場は、ブロンクスの貸し倉庫。

最初に彼女を見つけたのは、彼女の親族だったという。

これはおそらく、神原さんだろう。

犯人は死んでいた。

彼女を切り裂いたあと、ピストルの弾丸を自らの頭に撃ち込んで。

そのことを考えると、今でも強い怒りをおぼえる。

まだたった16歳の少女に、凄まじい苦痛と絶望を与えながら、自分はあっさり死ぬなんて。

犯人は末期ガンだったらしい。

彼女に対する執着が理不尽な死の恐怖に起因していたのだとしても、それは到底許されることではないだろう。

彼は死ぬことで人生の苦痛から逃げたが、残された妻子はどうやって生きていくのか。

事件はアメリカで起きたけれど、犯人が人気俳優だったから、日本では大々的に実名報道されていた。

後追い記事も多数出ただろう。

被害者は奇跡的に生きていたかもしれないが、マスコミは彼女が水無月れいなであることを特定して、事件と魔性の女優との関係を面白おかしく書き立てたし、ネットでの扱われ方と来たら、醜悪過ぎて見るに耐えないものだった。

彼女の本名や出身地などを特定する試みも執拗に繰り返されていた。

全てが、理不尽の極みだった。


リビングに戻ると、千絵さんと神原さん、それに、見たことのないおじさんがいた。

中肉中背で、この暑さにスーツ姿だ。僕の父くらいの年齢だろうか。

きちんと締めたネクタイ。オールバックにセットされた黒い髪。

鋭さを感じさせるシャープな顔だちに、灰色の目。

まっすぐ伸びた背中。

タレントのマネージャーさんというより、軍人とでも言う方がしっくりくる。

「ケリー、津田茉央君や。茉央、彼は千絵のマネージャー兼所属プロ社長の、ケリー・G。」

紹介しながら、神原さんは何だか不機嫌そうだ。

ケリーさんは、穏やかな眼差しで僕に会釈したから、僕も何となく頭を下げる。

「条件は申し上げた通りです、龍一様。問題がなければ、サインを。」

神原さんに向き直って、ケリーさんがペンを差し出した。

神原さんは不貞腐れたように無視して視線を流す。

「問題だらけやろ。大体、蘇芳監督は何で俺まで…。」

「監督は以前から龍一様にご執心だったでしょう。満を持してのオファーです。条件は最高。諦めて下さい。それとも、固定資産税の財源確保に代案があるとでも?」

神原さんの目がちょっと泳ぐ。

「一部売却か、物納とか、」

と言いかけた神原さんに、ケリーさんが更に畳み掛けた。

「お黙りなさい。売れるものは相続税対策で売却済みです。残りは、売っても物納しても、タタリで死人が出る物件だ。」

「なら、浄化したらええやろ。」

投げやりに言うと、神原さんは、前方にすっと腕を伸ばした。

僕は、驚きに硬直した。

その手には、瞬間的にあの剣が出現していたんだ。

手品と言うにはあまりに滑らかな動き。

いやこれ、手品とかじゃないな、と、何故か僕は納得した。

召喚とかそんな感じ。

「ダメだよ、龍ちゃん。やり過ぎたらどうするの?いい加減諦めて。」

神原さんは、鈍く光る刀身を眺めた。

何の前触れもなく、刀は消え失せる。

うん、やっぱり手品じゃない。

ため息をついた神原さんは、ケリーさんの手からひったくるようにしてペンを取り、テーブルに広げられた書類にサインをはじめた。

何箇所か書き終えて、書類とペンをケリーさんの方へ押しやる。

ケリーさんは、それを脇にあったブリーフケースに納めた。

「で、本題は何だ、ケルベロス・グラデエルファイラ?」

神原さんの言葉に、ケリーさんはうっすら笑った。

「軍部で内紛が起きています。勢力は3つですが、今のところ2大公爵家はいずれにも肩入れしていません。静観の構えか、あるいは。」

神原さんは頷いた。

「こっちでの仕事を片付け次第リマノへ向かう。お前が古巣の完全掌握にかかる時間は?」

ケリーさんの笑みが深まった。

「地球時間で8時間あれば充分かと。」

「ブランクは問題にならずか。」

「当然です。さて、蘇芳監督に連絡を入れましょう。」

神原さんは投げやりに頷く。

ケリーさんは立ち上がった。

「龍一様、敵前逃亡は許しませんよ。」

何だか脅迫的な言葉を残して、マネージャーさんは帰って行った。


「おい、千絵、お前知ってたんやろ。何で俺みたいな素人が映画なんて話になる?蘇芳さんは大御所や。こんなことで、監督のキャリアに傷でもついたらどないする?」神原さんはそうぼやきつつ、ラズベリーパイを切り分けていた。鮮やかな赤。

クッキーみたいな生地に敷きつめられたのは、カスタードクリームだろうか。バターとバニラ、それに洋酒みたいな香り。

すごく美味しそうだ。

「龍ちゃん撮るのってさ、10年前から監督の宿願だったんだ。演技なんか要らないんじゃない?台詞なかったりしてねー。」神原さんは、千絵さんに視線を固定した。「なんや引っかかる言い方やな。何を隠してんねん?とぼけたかて無駄やで。お前の演技は俺に通用せん。」

神原さんは流れるようにテーブルを回って、千絵さんの椅子の真後ろに立った。

千絵さんは慌てて立ち上がろうとしたが、両肩を抑えられ、身動きが取れない。

神原さんは屈むと、千絵さんの耳もとで囁く。

「隠し事は、あかんやろ。ん?」

すごく甘い声だけど、なんか怖い。

目が、全然笑ってないんだ。

一方千絵さんは、明らかに動揺していた。目が泳いでる。

言い訳を探しているみたいだけど、これ、千絵さんの負けっぽいな。

「そういうたら、この間、蘇芳さんからなんか届いてたなぁ。あの厚みやと、そうか、ふーん。」

千絵さんがぎくりとする。神原さんは千絵さんを椅子に押さえつけたまま、凄みのある笑みを浮かべた。

「サルラ。千絵の部屋から、台本を持ってこい。タイトルはたぶん、蛇神、や。」

そう、蛇神。世界的に大ヒットしたあの映画だ。

蘇芳監督の代表作にして、水無月れいなのカムバック作品でもある。

各映画賞を総なめにした名作なんだけれど。

「これはどういうことかな、千絵?」

椅子に座って腕組みした神原さんと、テーブルの向い側で縮こまる千絵さん。

神原さんの口調は滑らかで静かだけど、これは、相当、怒っている。

僕と、サルラは顔を見合わせて頷いた。

サルラ、ちょっと怯えてる?

神原さんの前には問題の台本。きちんと製本されたものじゃなく、コピーを仮綴じしたもので、手作り感が溢れている。


「これをお前が演じる?正気か?どう見ても、AVやろ、18禁確定の。お前もうすぐ18やけど、そもそも男と付き合うたことすらない。こんなハードな濡れ場、処女が演技力でカバー出来る範囲やないやろ。監督に迷惑かけたらどないするつもり?せめて、男でも出来てから考えるべきや。」

千絵さんは俯いたまま、お説教を黙って聞いていたけど、唐突に何か呟いた。が、声が小さくて聞き取れない。

「え?」

神原さんが聞き返す。千絵さんは俯いたまま、今度ははっきりした声で言った。

「責任とってよ、龍ちゃん。」

「契約書にサインした責任?それやったら、なんとか別の方法を…」

「違うっ!」

思わずビクッとするほどの鋭い声。

千絵さんは顔をあげた。厳しい表情だ。

唇は固く結ばれ、眉間にシワが刻まれている。まなじりを決する、って言うんだろうか、強い視線は、まっすぐ神原さんに据えられていた。

目つきだけで人が殺せそうだ。

「私を育てた責任。」

意味不明だ。

が、彼女がこの上なく真剣なのはわかる。神原さんは暫く彼女を見つめてから、椅子に深くもたれて脚を組む。

こんな何気ない動作までが絵になるなんて、確かにセリフなしでも主役が張れそうだった。

「その責任やったら、なんぼでも。」

ゆったり答えて、神原さんは千絵さんを見つめる。

笑顔と甘い声に騙されそうになるが、僕は千絵さんの緊張が一段と高まるのを感じた。

これって、何なんだろう。

ただならない気配なのはわかった。

僕の隣で、サルラも居心地悪そうにしている。

千絵さんは、一度深呼吸すると、口を開いた。

「生まれてすぐ両親をなくした私を、龍ちゃんが引き取った理由はわかってる。

おじいちゃんは、ほんとは私達のひいおじいちゃんだから高齢だったし、ヘンなモノとか人を引き寄せる私の体質に対処する力はなかった。龍ちゃんは、まだ18歳だったけど、私を守るだけの力があった。他には親戚はいなかった。そういうことよね。」

神原さんが頷くのを見て、千絵さんは続けた。

「でも。龍ちゃんは知ってた。将来何が起きるのか。ほんっとにズルくて強欲で冷酷で腹黒いけど、まあ、立場上それも仕方ないかな。全て見越して私を教育したんだよね。

地球と連邦の政治や経済、地理、歴史、自然科学、法学。古めかしくてめんどくさいリマノ社交界の作法、貴族家系図、ダンスや音楽、その他沢山。お陰で普通の学校なんか行ったこともなかった。社会生活と言えば、たまに蘇芳監督の映画に出るくらいで。」

後から思い当たった。

だから、水無月れいなの身元を突き止めるのが困難だったんだ。

義務教育期間もアメリカと日本を行き来しつつ、両国の学校に書類上は在籍してても、実際は登校することなく卒業したんだろう。

だから、クラスメイトはいない。

その上SNSはやらず、友人と出歩くこともなかったなら、追跡は難しい。

神原さんは千絵さんを見つめて一言も発しないまま、優雅な手振りで続きを促した。「龍ちゃんは、誰にも優しいけど、誰のことも好きになったりしなかったよね。知らない誰かを助けるために、命さえかけるのに、女の人と付き合っても、その人だけを見つめることはないでしょ。だから、みんな去っていく。誰も愛せないんなら、誤解させなきゃいいのに。」

「それは、俺が恋愛とやらに向かへんだけの話やろ。」

神原さんはゆったり微笑んだ。サルラが首をすくめる。

うん、わかるよ。この笑顔って、虎とかヒョウみたい。

夜のジャングルで、お腹を空かせたでっかい黒豹に逢ったら、こんな感じかも。

視線は、千絵さんをロックオンしている。

「恋愛の駆け引きなんて、時間の無駄と違うか。行き着くところ寝るか寝んか、それだけやろ。」

言ってることはよく分からないけど、この人って、外見に似合わず、恋愛向きじゃなさそうだ。

「鬼畜ね。そう言うと思った。だから、責任とって。」

彼女は一歩も引かない。

「お前、自分が何言うてるか、わかっとんのか?」

千絵さんは頷く。

真っ直ぐな視線、少し紅潮した頬。

はっとするほど綺麗だ。

神原さんが立ち上がった。

獰猛な肉食獣の笑顔。

危険な香りがサイレンみたいにあたりを満たすが、目が離せない。

この人って、なんでこんなにゴージャスなんだろう?

「そういうとこやで、魔性の女扱いされる理由は。まあ、挑発は嫌いやないけどな。来い、千絵。」

あのシナリオを手に取って、神原さんは奥へ向かい、千絵さんが後を追う。

裸足の足は、少し、そう、ほんの少し震えているように見えた。

神原さんは振り向かない。

「サルラ。」

とだけ、言い置いて、主寝室のドアに続く廊下へと消えた。

千絵さんが続く。

「了解です。」

と、サルラが呟いた直後、ドアが開閉する音がした。

サルラはため息をついて立ち上がった。

「やれやれ。えーと、遮音と物理障壁を、あ、いっそ次元隔離の方かな。うーん。これで完璧。」

訳のわからないことを呟き、一つ頷くと、彼は椅子に戻った。

「サルラ、神原さんたち、どうしたの?」サルラは、遠くを見る目になる。

「まだ知らなくていいです。でもマオ、あんなズルい大人にならないで下さいね。姫が自分からついてくるように仕向けるとか、卑怯にも程がある。」

何を言ってるかは分からなかった。でも。「きれいだったね、千絵さん。」

僕の言葉に、サルラはちょっと驚いたらしい。

有性生殖種族の行動原理はこんな子供にまで、なんて、更に分からないことをぶつぶつ呟いていた。


夕食後、恭兄さんが来たけど、忙しいとかで、僕の顔を見てすぐ帰って行った。

その後来訪者もなく、僕はすぐに眠りについた。

色々あって、疲れる一日だったから。


翌朝。朝食に千絵さんの姿はなかった。

神原さんは、食事に出てきたけど、またすぐ寝室へ戻って行った。

今朝の神原さん、何だかゾッとさせられる雰囲気を纏いつつ、上機嫌だ。

今にして思えば、あれは、色気、だったんだろう。

全身から醸し出される破壊力が凄まじかったっけ。

サルラが、

「あなたカナリア食べた猫ですか。この鬼畜が。」

なんて暴言を吐いたけど、神原さんは動じない。

「最高に美味なカナリアや。良い声で鳴く。俺に禁欲生活なんぞ土台無理やろ。」

鼻歌まじりに、千絵さんの朝食を運んで行った。

「何とまあ。身も蓋もないですね。」

呆れ顔のサルラ。

僕は何だか心配になる。

「大丈夫なの?」

「大丈夫です。あれで名医ってことになってますから、事故があっても、姫の命は無事です。ただ、龍一さまの性格からして、こうなっては姫が逃げるのは不可能でしょうねぇ。我慢に我慢を重ねた挙げ句ですから、絶対手放すはずがない。」

事故?

逃げられない?

意味ははっきりしないが、どう聞いても不穏なコメントだ。

でも、生け贄とかよりは絶対マシだろう。あの神原さんが千絵さんに酷いことをするとは考えられないんだけれど。

そう思ってた。

あの時まではね。


昼食後、神原さんと千絵さんが部屋から出て来た時のこと。

僕は驚きに、思わず声をあげた。

だって、神原さんに抱かれた千絵さんは目を閉じぐったりしている。

意識がないみたい。

剥き出しの肩や鎖骨、首などには赤くなっている部分が点在していて、ダランとした腕や、細い足首には、打ち身みたいな紫の変色部分がある。

その形は、指のあとのように見えた。

まるで、大きな手で強く掴まれていたみたいな。

胸から太ももまではシーツで覆われていたけど、白いシーツのあちこちについたあの赤いシミは一体何だろうか。

ざわり、と、鳥肌がたつ。

「見ちゃダメですマオ。」

サルラが僕を抱きしめて、視界を遮った。2人の姿がバスルームに消えても、心臓のドキドキが止まらない。

僕はどうしたらいいか分からなくて、サルラを見ていた。

言葉が出ない。

「大丈夫。ただちょっと、龍一さまは力が強すぎるんです。素手でワニを締め殺せる方なので。あ、北極熊とかライオンも。」訳がわからない。

サルラって、時々どこかズレてるよね。

「ねえサルラ、それ、サルラも出来るんじゃない?」

「え?ええ、出来ますが。」

「でも、僕にそんなことしないでしょ。神原さんは、何で千絵さんにあんなことするの?」

サルラは無表情で固まってしまった。

フリーズしたみたいだ。

うん、5歳児には説明のしようがなかったよね。

知らなかったとはいえ、サルラにちょっと悪いことしたかな。

今更だけど、本当にごめんなさい。


そんなこんなで、その日も終わり、事態が動いたのは、翌日の夜だった。


「確かか、カレッラ?」

神原さんは、報告を聞き終えると、そう確認した。

頷いたのは、あの白髪の女の人だ。

僕の横にはサルラ。

カレッラの後ろに控えているのは、5体の蛇もどきだ。

ソファに座った神原さんの膝には千絵さん。

疲れた表情だが意識はある。

ただ、自力で歩くのは難しそうだ。

横向きに座って神原さんの肩にぐったりと頭を預けていた。

しばし沈黙が落ちる。

神原さんは千絵さんの顔にかかった後れ毛をかき上げた。

注意深く優しい仕草だが、千絵さんはぴくりと身を震わせる。

「どうしても?」

と、千絵さん。神原さんは静かに目を伏せる。

「俺は、お前を傷つけた者を許すつもりはない。それが誰だろうと。」

冷たくひそやかなビロードの声に、関西訛りはなかった。

神原さんがこんな風に話すのを聞いたのは初めてだ。

「見たくないなら、明日は部屋にいろ。今は、それが誰か知らせるつもりはない。」千絵さんは首を横に振る。

「見届けるわ。それが私の義務。でも。」

声が震えた。

神原さんは彼女の額に唇を寄せる。

千絵さんは目を閉じた。

悲しげな表情の意味は、その時の僕にはわからなかった。

「優しすぎるな、お前は。」

神原さんは彼女を抱いて立ち上がり、命じた。

「手筈通りに。」

サルラが、カレッラが、5体の蛇たちが一斉に頭を下げる中、2人は部屋へ引き上げた。全ては、明日。


「茉央、どうなってるんだ、その…」

翌日の夕方。姿を見せた恭兄さんは、声をひそめて僕に尋ねた。

でも僕としては、何を訊かれているかが全くわからない。

わかっているのは、兄さんが神原さんに呼ばれて来たことくらいだ。

何の用かも知らないし、これから起こることも知らなかった。

ただ、何かが起きるという予感めいた認識があったに過ぎない。

「千絵ちゃん、いったいいつから話してる?」

あ、そのこと。

僕はようやく何を訊かれたか理解した。

兄さんは千絵さんの主治医だ。

昨日は忙しくてペントハウスに来なかったし、その前の日は5分もいなかった。

さっき千絵さんが、兄さんに普通に挨拶したから、びっくりしたんだろう。

千絵さんは千絵さんで、何だか赤くなって、すぐにお茶を用意しに行ってしまった。

照れて逃げたってこと、今ならわかるけどね。

「まあ、いつからでもいいが。元々どこも悪くなかったんだから。」

と、兄さん。

そこへ茶器を持って来たのは神原さんだった。

兄さんの顔を見るなり、挨拶抜きで話し始める。

「行くことにした。いつになるかはわからないが、必ず戻る。」

兄さんはハッとした表情で、腰を浮かせかけたが、座り直し、居住まいをただした。「お聞きします。」

神原さんは頷いて経緯を説明した。

出発前に別件で一度帰国することも含め、理由や目的を省いた要点のみの説明だったが、兄さんは頷いた。

推測していたことも幾分あったんだろう。引き留めても無駄だと分かってたみたいだ。

「さて、雲をつかむみたいな話やろ。

全て説明するんは難しいけど、知りたいんならもう少し付き合うてくれるか。お前には、ほんまのところを知っといて欲しい。ただし、何があっても静観すると、約束できたらな。」

「心配無用です。あなたがとんでもないのは、今にはじまったことじゃない。」

即答した兄さんに、神原さんは頷いた。

「サルラ、客を迎える準備だ。庭園の結界を一部解除。マスキングは継続。お前は、恭と茉央を守れ。ナーガよ、守備位置へ。では、決着をつけよう。」

「御意。」

そうして、忘れられない夜が始まった。


最初に現れたのは、3人の男性だった。 前の2人は、アラブ系の顔立ちに、濃い髭。背はそんなに高くない。

ガッシリした体つきは、どこもかしこも四角いブロックで組み上げたみたいだった。彼らの後ろには、長身の男性。

尊大な態度。

もの珍しげに周りを見回している。

金髪で、髭は生やしていなかった。

整った顔立ち。

物腰は柔らかいが、僕は一目で反感を覚えた。

理由は分からないけど、この人何だか嫌いだ。

今夜、ペントハウスの前の広場には、何組かのテーブルと椅子が置かれている。

広場なんて元々なかったはずなのに。

不思議なことに、ここの森は自由に形が変わるんだ。

ナーガたちはみんな蛇をやめて、人間のフリをしていた。

初めて見る顔ばかりだけど、サルラに慣れていたせいか、人間との区別は簡単だ。

彼らは、客の案内や飲み物の給仕をしていた。

新しい客が次々と到着しては席についていく。

最初の人みたいに護衛を連れている人もいた。

護衛は座ることなく、主人の後方で警戒しているからすぐわかる。

秘書らしい人を連れた人もいる。

一人で来る人、何人か固まって来る人。

服も肌色も年齢も性別も色々だけど、子供は1人もいない。何人かは物珍しそうに、あるいは薄気味悪そうに周りを見回していた。

「ここは、特殊な術式で構成された空間なんです。」

と、サルラ。兄さんの質問に対する答えだ。

「魔術師や魔導士なら、その違和感に反応するでしょう。しかし魔法ではないので、彼らに解析や干渉はできません。怯えているのはかなりの能力者ですが、所詮無力です。」

空席は段々埋まってきた。

僕は、サルラと兄さんに挟まれて、広場からちょっと離れたベンチに座っている。

兄さんはさっきからサルラを質問ぜめにしてるけど、聞けばきくほど混乱してるみたいだった。

「千絵ちゃんをおエラいさんのお妃にしようって勢力がある、と。そいつらが、ボスと千絵ちゃんを遠くへ呼び出そうとしてるわけだよな。しかし、そんなバカな話、ボスが容認するはずないだろう。第一、千絵ちゃんは、セントエルモ病院長、神原龍一の妻じゃないか。例え法律上だけの夫婦にしても。」

え?何いってるの、恭兄さん?妻、って、奥さんってこと?

サルラは首肯した。

「確かに。神原家先代の強い希望で、姫は16歳になってすぐ龍一さまに嫁がれたと聞いてます。あの鬼畜にね。」

不穏当な一言を吐き捨て、サルラは続けた。

「津田先生、一つ訂正させていただきますが、今は名実共にお二人はご夫婦です。」「…!」

一瞬の沈黙。

兄さんはなぜか青ざめている。

「あんのクソ野郎…俺が水無月れいなちゃんのファンと知りながら…」

サルラはうんうんと頷く。

「17歳の処女を丸2日以上監禁した上で、したい放題にあーんなことやこーんなことをですね。」

「ゆ、許せん。まさしく犯罪だ!」

「僕は嵐に翻弄された可憐な花の風情に涙を禁じ得ず。」

サルラは、出てもいない涙を拭う真似をした。

ん?なんか楽しんでないか、サルラ。

煽られてる兄さんも兄さんだけどさ。

「楽しそうやなぁ、お前ら。」

あの声が僕の頭の上から降ってきた。

見上げると、神原さんと目が合った。

両腕で兄さんとサルラをガッチリ抱えこんでいる。

2人は全く身動きが取れないようだ。

そういえば、この人素手でワニを締め殺せるって言ってたよね、サルラ。

「ボ、ボス、本当なんですか、ち、千絵ちゃんを、あんなこととか、こんなこととか、過激すぎるプレーを、グエ!」

兄さんがヘンな声をあげて沈黙した。

神原さんがちょっとだけ力を入れたらしい。 

「よう回る口やなあ、恭。だから、俺かて我慢に我慢を重ねてたわけやないの?入籍してからは、浮気してへんし。禁欲やなんて、柄にもない無理したさかい、歯止めが効かんかってん。そこは反省やなぁ。」

兄さんがオチる寸前、神原さんはパッと腕を外した。

「大体お前、彼女のファンやろ。俺の女房ネタにどんな妄想してたか、ここで吐くか?」

と、咳き込む兄さんを見下ろして笑顔の神原さん。

スーツ姿だ。

初めて見たけど、グラビアのモデルさんよりずっと決まってる。

ただ容姿が整っているだけじゃなくて、立ち姿や些細な動きの逐一が完璧だ。

「龍一さまって、見かけだけはムダにいいんだからなあ。」

サルラがわざとらしくため息をついて畳み掛ける。

「中身鬼畜なのに。」

そこへ。

「龍ちゃん。」

千絵さんだ。

着替えて来たらしく、ドレスを着ている。すごく綺麗だった。

ふんわりした白い生地が全身を覆っているが、半ば透けた部分があちこちにあって、豊かな胸の谷間がその存在を誇示していた。細すぎるウエストは、神原さんの片手で掴めそうだ。

だけど何なんだろう、千絵さんの笑顔って、普段はもっと透明感があるような。

彼女を引き寄せ、頬にキスして、少し心配そうに神原さんがたずねた。

「歩けそうか?」

「あ、うん、何とか。でも、ヒールが。」「いっそ脱ぐか。無理はせんとき。」

「大丈夫、役を降りるまでは、この靴は脱がないよ。でも、今日はまだちょっと不安だから、転びそうなら支えて。そもそも、全部龍ちゃんのせいだよね。」

千絵さんの笑顔が何だか怖い。

うん、何となくわかってた。

千絵さん、かなり怒ってる。

神原さんが千絵さんに何か酷いことをしたから、仕方ないとは思うけど。

「じゃ、行こう、龍ちゃん。」

千絵さんはサバサバした顔で僕らに向き直り、綺麗なお辞儀をした。

外国の時代劇で見るような、堂々とした気品溢れる仕草だ。

呆気に取られた僕らを後に、彼女は舞台中央へ向かう。

すぐ後ろに神原さんを従えて。


テーブル席の辺りは、複数の謎の光源によって、舞台照明のように明るく照らされていた。

僕らは薄暗い客席みたいなベンチに座り、2人を目で追う。

「やれやれ。どっちがどっちを嵌めたんだか。ミイラ取りがミイラってことですかね。」

とサルラ。

「いや、あれでボスは根っから腹黒い、じゃなくて、懐が深いよ。翻弄されるのを楽しんでいる。でも、ショックだ。うらやまし、じゃなくて、惨すぎる。俺のれいなちゃんを。」

恭兄さん、そこは嘘でも俺の患者を、くらい言っとくべきだって。

今の僕はそう思うけどね。

さて、サルラの解説は続いた。


「本日は、次代の正妃が初めて人前でお披露目されるというイベントです。だから、有力者が集まってます。

姫の存在は既に周知の事実でしたので、形式的な顔合わせですが、何が何でもこの席に来たい者は多いでしょう。

貴族や、元老院の議員がメインで、マスコミ関係はシャットアウト。

ですが、紛れ込んでる可能性はありますね。」

会場には、優に100人をこえる人々がいる。

飲み物のほかオードブルなんかも準備されていて、ちょっとした立食パーティ会場みたいだ。

千絵さんは各テーブルを回って、挨拶をしている。

その気品に溢れて堂々とした佇まいは、生まれながらにこのような世界で生きてきたかのようだ。

神原さんは、こうしたことも想定して、盟主正妃として相応しい教育を徹底してきたんだろうか。

今は彼女を見守りつつ、一歩下がって付属品に徹していた。

「マオくんや僕らを襲ったもの達は、ある組織の構成員でした。某有力者の子飼いで組織の下部組織です。この有力者は事件には直接関係してはいません。ただ、下請け従業員の生命を、本人が知らないうちに第三者に売り渡すなど、ブラック企業にも程がありますが。で、毒が効かないと即座に別の手段で口封じが図られたわけです。そこから別の組織が浮かび上がりました。リマノに本拠を置く老舗ですが、数年前から地球にも拠点を置いていた形跡があった。ニューヨークと、なぜか日本の、神原本家に比較的近い場所です。組織は、元軍人、それも情報部絡みの人材を多く抱えていました。洗脳の専門家とかね。」

それは、昨夜、カレッラが報告していた内容のおさらいだった。

洗脳と暗示を得意とするその組織は、リマノの某有力貴族につながり、そして、その貴族が極秘裏にNYで設立したペーパーカンパニーの取引企業が所有していたのが、例の凄惨な事件現場となったブロンクスの貸し倉庫だ。

「それじゃ、千絵ちゃんの事件は、まさか?!」

サルラは頷く。証拠は他にもあったが、全てが指し示すのは、水無月れいな殺害未遂事件の犯人が、強い暗示と洗脳を受けていたことと、彼女を拉致したのは、犯人とは別の複数人だった事実だ。

「君らは突き止めたんだな、黒幕を。くそっ!ボスはそれを?」

「ご存知です、無論。これは其奴を引き摺り出すためのお披露目ですから。」

そうなんだ。

その時の僕はサッパリ分かっていなかったけど。兄さんが、ハッとした顔で会場を見回した。

「じゃあ、あの中に!?」

言い終わると同時に、会場で何かが光った。

「君は見ないで、マオ」

サルラか僕を胸に押し付ける。兄さんが、低くうめいた。一瞬遅れて、会場から悲鳴と怒号が巻き起こる。

「ボス、ああ何てことを!」

兄さんは立ち上がったが、すぐに座り直した。

僕は体を捩って振り向いた。

ほとんどの人が椅子から立ち上がり、会場中央を取り巻くように円形になっている。

彼らは一様に円の中心を見ていた。僕には彼らが見ているものは見えなかった。

聞こえるのは、驚愕と恐怖に満ちたざわめき。


『静まりなさい!』

突然、凛とした声が響いた。

千絵さんだ。

でも、頭の中にダイレクトに響くこれは、多分僕の知ってる言葉じゃない。

ラズベリー摘みのとき、神原さんとサルラが話してたあれだろう。

兄さんは聞こえているが、さっぱりわけがわからないって顔だ。

ざわめきが収まると、再度千絵さんの声が響いた。

『神皇家、第一親王殿下、紫の宮様にご挨拶申し上げます。』

僕には意味不明の言葉だったけど、その効果は絶大だった。

驚愕の気配が衝撃波のように人々をわたる。

同時に、彼らはその場に跪いた。

中央には、お辞儀をする白いドレス姿の千絵さん。そしてその正面に立つ長身の端正な姿は、神原さんだった。

手にしているのは、あの剣だ。


『顔をあげよ。』

神原さんの言葉に、千絵さんはすっと背筋を伸ばす。

他の人は跪いたままだ。

『カヌア公爵、これへ。』人垣の一隅が揺れ、1人の男が進み出た。金髪が明るく映える。あれは確か最初に来た、あの嫌な感じの人じゃないかな。でも、尊大な態度はカケラもなかった。

『ご、御前に。』

語尾は、震えていた。


それから、マネージャーさん、じゃなくて、ケルベロス・グラデエルファイラ将軍が兵士を連れて現れ、何人かを連行したり、元老院議長って人がみんなを代表して神原さんに挨拶したり、緊張で気絶する人がいたり、神原さんの姿を一心不乱に見つめたり、拝み出したりする人が複数いたりと、まあとにかく色々あった。

兄さんはすっかり開き直ってた。

「ボスが規格外なのは今に始まった事じゃない。」

だそうだ。

それって、現実逃避だと思うけどね。


神原さんは、半分人間だけど、お父さんはあの初代盟主、翠の宮なんだって。

15代盟主就任は、とっくに決まってたらしい。

神族には階級があり、頂点は神皇、つまり、神原さんのお父さん。

その弟、神原さんの叔父に当たるのが、伝説の不良神族、黒の宮だ。

神原さん以外の神族は純血で、恒星系をまるまる消滅させることも容易いらしい。

無限に近い寿命、四肢や頭が消し飛んでも死なない体。

「あのな、大層な名前がついとるか知らんけど、あいつら別の世界から来た難民で、ちっさい部族やねん。俺は族長の息子に過ぎんやろ。

紫の宮て、何やのそれ。

千絵が思いつきで勝手にネーミングしただけやのに。それが公式の呼称になるやなんて。」

と神原さんが後で恭兄さんにぼやいてたけど。

でも、あの時。

閃いたのは、剣の光。

同時に、1人の女性の首が飛んだ。

高位貴族の当主だったという。

千絵さんをあんな目にあわせ、罪なき人たちの人生まで狂わせたのは、家門の名誉と栄達のためだった。

その人にとって、地位と名誉以上に大事なものはなかったのかな。

家族がいたはずだけどね。

それはそれとして、僕には確信があった。

もしあのとき、千絵さんが神原さんの正体を明かさなかったら、あの場にいた半数の人の命はなかったろう。

千絵さんはそれを知ってたから、すぐに行動に出たんだ。

神原さんがそれ以上殺さないように。

神原さんはついでに邪魔な人たちを粛清しようとしていた。

裁判とかの司法手続きが面倒だったのかもしれない。

神原さんは以前から、腹心の情報将校を首都リマノに送り込んで、内偵を続けていたらしい。

サルラが言う通り、周到で冷酷な側面が、当然あっただろう。

だから、証拠固めは既に終わっていた。

粛清を一気に行うなんて、乱暴この上ないけど、神原さんがそう決めたなら、誰も止められはしない。

相手が反抗するなら、かえって殺しやすかっただろう。

でも千絵さんは、それを望まなかった。

最初に殺された人だけは間に合わなかったけれど、正直言ってその人が千絵さんにしたことを思うと、僕だって許せない。

でも、千絵さんは、その人の命さえ何とか救おうとしただろう。

だから、神原さんは、その人が誰なのか千絵さんには知らせなかったんだ。

そいつだけは、確実に仕留めるために。


神原さんは、本当に優しい人だ。しかし同時に、苛烈なまでに厳しい人でもある。

冷酷にして、冷徹。いつかサルラがいってた通り。多くを救うため少数を犠牲にするしかなかったら、躊躇いなく実行できる人だ。恐ろしい独裁者と感じる人も多いだろう。だけど、神原さんのラズベリーパイは

今まで食べたどれより美味しかった。


神原さんを産むために、巫女だったお母さんは亡くなった。

神原の巫女の強い再生能力を持ってしても、神族との子を産むのは負担が大き過ぎたから。

彼女は、それを知りながら自らの命と引き換えに出産を望んだ。

神原さんは、神族の基準に照らしても桁外れに強大な力を持って生まれた。

反面、肉体的には純血の神族より脆弱だたから、その養育は簡単ではなかった。

神皇は、異世界から伴った、腹心の軍人に息子を託した。

それが連邦宇宙軍永世提督、グラデエルファイラ将軍だ。

彼は神族ではないが、ほぼ無限の寿命を持つ生命体で、その破壊の力は並の神族を凌駕するという。

今は千絵さん、というか、水無月れいなのマネージャーだけど…。


さて。あの映画の話。「蛇神」だ。

全編ハードなレイプシーン満載という、とんでもなく過激な映画だけど、なぜかこれがとてつもなく美しい。

ストーリーは単純だ。

平安時代、土地神として崇められていた蛇神は、美しい巫女と恋に落ちる。

子供も生まれて平穏に暮らしていたある日、蛇神の留守中、野盗によって巫女と子は惨殺される。

蛇神はタタリ神に堕し、野盗を殺して何処かへ去った。

そして、現代。  

巫女の転生した姿である葵という少女のもとへ、夜毎通う蛇神。

しかし葵には前世の記憶はなく、タタリ神として孤独に彷徨う年月は蛇神を変質させてしまった。

結果、葵は夜毎異形の存在に犯され、訳も分からないまま精神的、肉体的に追い詰められていく。

彼女の異変に気付いた家族も友人も、次々と命を落としていく中、最後は葵と蛇神も死ぬ。全く救いようのないストーリー。

が、千絵さんと神原さんは、この物語を芸術の域に昇華した。

あんなにエロくて、あんなに美しいラブシーンは、後にも先にも見たことがない。

正直言って、神原さんのあれは人間技じゃない。

普通の人は、ワニや白熊を締め殺すなんて不可能だけど、そのあり得ない身体能力と、完璧なバランスで千絵さんの身体を自在に操って見せる。アクロバティックな体位は芸術的だ。

カメラの角度と位置関係を瞬時に把握して演技を変える演算能力。

ほんと、チート級だ。

だから、あの映画は、男優はいないってことになってる。

全部実写なんだけど、映像としてありえないから。

生成AI画像との合成、で押し通した蘇芳監督は確信犯だよね。

サルラたち、蛇バージョンでエキストラやってたし、ロケ地は神原さんち所有の祟り物件だから、なんか色々映り込んでるし。

実写なんて言ったって、信じる人は絶対いないだろう。

神原さんは、生成AIのデータモデルってことかな。

でもエンドロールにクレジットはない。

契約では、最初から、神原さんは名前出さないことになってたから。

あと、セリフもあった。それがまた、名演技だったんだ。

狂った蛇神の孤独とか、命の意味とか、死んだ者への慕情。

叶わぬ恋の切なさ。

聞くだけで、胸が苦しくなった。

霧の森の角笛、初めてあの人の声を聞いた時の僕の思いが一気に思い出された。


僕は今18歳。

ハドソン川を渡る船から、水面を見ている。見上げる空は曇りだ。

あれから僕はずっとこっちに住んでる。

パスポートなんかの関係で、たまに帰国しているけど。

兄さんは相変わらずセントエルモにいる。

神原さん夫妻は、言葉通り帰って来た。久しぶりのペントハウスで、寛いでる千絵さんを覚えている。

髪は伸びたけど、相変わらず少女のまま、時が止まったみたいだ。

それは今も全然変わってない。

裸足の足は、ダンスのステップのように軽く楽しげに動く。

盟主正妃として、数多の離宮の中、最高の格式を誇る月の宮の女主人として、連邦数兆の人々のファーストレディとして、彼女はどんな世界を見てきたんだろう。想像を絶する体験だったはずだけど、裸足の天使は、初めて会った日と同じ透明な笑顔で僕を迎えてくれた。

役割を終えて靴を脱いで。


屋根の上の小さな家を離れる時、天使はまた靴を履くんだろうな。

彼女の役割を演じ切るために。


               ー了ー




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