迷子と天使
母が死んだ。
僕を連れ帰った父は、困った顔を隠そうともしなかった。
それも当然だ。今ならわかる。
父は東京で小さな会社を経営していた。母は後妻で、父の会社の従業員の男と逃げた。駆け落ちって言うのかな。迷惑なことに、当時5才の僕を連れてだ。
2ヶ月後、母は男に殺された。
当時の記憶はあまりない。
狭い部屋の隅で、膝を抱えて震えていた気がする。ただ寒かった。
男の怒鳴り声。母の泣き声。それが突然、ゲラゲラという笑いに化ける。
僕は更に身を縮める。
父と共に帰宅した後も、僕は部屋の隅っこから出られずにいた。
どのくらいたったんたろう。
何日?何週間?それとも。
突然、ドアが開いた。眩しさに顔を背けた僕の前に、誰かが屈む気配がした。
ギュッと目を閉じ、深く項垂れた僕の鼻に、ふわっといい香りが飛び込む。
シトラスのコロン。ピリッとしたレモンライム。その時の僕には初めての匂い。
思わず顔を上げた。目が合った。
だれ?
知らないおじさんだ。だけどその見た目ときたら!僕はきっと、ボカンと口を開けた間抜けな顔をしてたんだろう。
お坊さんみたいに剃り上げた頭の真ん中を、真っ赤なタテガミが2等分している。日焼けした肌に、彫りの深いいかつい顔。両耳には冗談みたいにデカい金と赤の輪っかがぶら下がっていた。
深く屈んで背中を丸めていてさえ、格闘家みたいな大柄で筋肉質な体躯は圧倒的だ。迷彩柄のTシャツに赤いミリタリージャケット。胸ポケットにはミラーサングラス。似合ってたけど、こんなの、テレビかユー◯⚪︎ーブでしか見たことない!
だけど、不思議と怖くはなかった。
その人の目はただ静かにそこにあったから。
その目にはちゃんと僕が映っていたから。
どのくらいそうしていたんだろう。
ほとんど声にならない僕の質問に、その人は一つ頷いた。
「初めまして。俺は恭。津田恭だ。君の兄さんだよ、津田茉央君。」
それが恭兄さんとの出会いだった。
恭兄さんは僕の1番上の兄で、末っ子の僕とは年齢が30才も離れている。父とも、僕や兄、姉とも全然似ていない。母親が違う僕と似ていないのは当然かもしれないが、同母の兄妹とも似ていなかった。父や他の兄、姉は犬に例えると、豆柴みたいなイメージだ。マスチフの恭兄さんとは違う。それだと僕は、チワワかな。あんなに可愛いくはないけど、小柄で痩せっぽちで、いつもビクビクしてたから。
恭兄さんは子供の頃から何かと型破りで、それ以上に優秀だったらしい。長男だけど家を継ぐ気はなく、中学を出てすぐアメリカへ渡った。
その後アメリカ国籍を取得。あの見た目なのに、何と職業は医師。それも精神科医として、大きな病院に勤務していた。
ずっと後で聞いたけど、この時、日本に用事があってたまたま帰国した兄さんは、僕のことを知ってすぐ会いに来たそうだ。
そしてその場で、僕の「転地療養」を決めた。慢性的な栄養失調だった僕は、命が危険なくらい痩せ細っていたそうだ。
真面目で小心者の父は、僕が自分の子供かどうかという疑心暗鬼で身動きが取れなくなっていたし、他の兄姉は元々僕に関心がなく、殺人事件のスキャンダルからそれぞれの家族を守るのに必死だったから。僕はみんなにとって、目にしたくもない、不吉なお荷物だ。
渡りに船。多少強引だったかもしれないが、マスチフの決定に誰も逆らいやしなかった。むしろ厄介払いができてほっとしたんじゃないかな。細かい経緯は知らないけど、10日後僕は、産まれて初めての飛行機で海を渡った。
曇った日だった。時々雨も降っていた。空港から車で病院に向かったけど、ずっと恭兄さんと一緒で、不安はなかった。
兄さんは突拍子もない外見とは裏腹に、優しくて面白い人で、いつも僕を気遣ってくれた。
兄さんは子供のころ、ひょろひょろの痩せっぽちだったんだって。渡米したての頃は、周りの人たちのボリュームに圧倒されまくり、色々と思うところがあったらしい。やっぱ、見た目って大事かなってね。
その後、筋肉フェチが高じて始めた筋トレがすっかり日課になってからは、身長もぐんぐん伸びたそうだ。
兄さんの話は面白かったし、見回せば見るもの聞くもの初めてだらけ。このときの僕はチワワというよりプレーリードッグみたいだったんじゃないかと思う。
他に覚えているのは、言葉が分からなかったこと。空港でも色んな肌の色をした人たちが話しかけてくれたけど、何一つ聞き取れなかった。
到着した病院の、正面ロビーは巨大だった。明るい照明、大勢の患者やその家族らしいひと。いろんな制服姿の、看護師さんや、スタッフらしい人たち。
沢山の人が話す声が一体になって、ワーンという唸りが広大な空間を満たしている。叫ぶ声。せかせかした足取りで目的地へ急ぐ人、逆に突っ立ったままピクリとも動かない人。怒鳴るように話すひと。笑い声。抱き合って泣いている人。慌ただしく人混みを突っ切るストレッチャー。車椅子。包帯だらけの人。点滴スタンドの林。大きな駅や空港なんかも賑やかだけど、この病院の喧騒は、まるで熱に浮かされたお祭り騒ぎだ。或いは、戦場。
ロビーの高い天井からステンドグラスを通して射し込む光は、こんな曇った日でも色鮮やかだった。
兄さんは僕を片手で抱き上げたまま七色の光の中を通り抜けて、見たこともないほど長い長い廊下を進んで行く。
余りにも長すぎて、僕はウトウトしかけたころだ。
不意に、前方の脇の方から小柄な女の人が現れた。明るい茶色の髪をポニーテールにし、看護師の制服を着ている。
彼女は、恭兄さんを見て一瞬びっくりした表情になった次の瞬間、満面の笑顔で駆け寄って来た。
「センセイ、お帰りなさい!」日本語だけど、発音が少し変だ。
「ただいま、ジェニファー。今日は外来は回りそう?」兄さんも日本語で答える。
「ハイ、えーっと、多分、ですネ。」首をかしげたついでに、彼女は僕に笑顔を向けた。
「で?」兄さんは頷いた。「弟の茉央だ。茉央、こちらナースのジェニファー。日本のアニメが大好きで、聖地巡礼とコスプレが趣味。ジェニファー、今日は先にペントハウスに用があるが、後で病棟に回る。師長に伝言よろしく。」
「ペントハウスへ?ああ、Angelの診察日ですね。了解です。」
そう言うと、彼女は僕に笑いかけ、兄さんにおどけた敬礼を残して去って行った。
「Angelか。診察など、意味はないが…」兄さんはふっと呟き、僕に顔を向けたが、その笑顔はどこか悲しげだった。
「さあ茉央、天使に会いに行こうか。」首をかしげた僕を抱き直し、兄さんは再び歩き出した。
それからどのくらい進んだのか。
兄さんの職場であるこの病院は、ニューヨーク、マンハッタンから凡そ30マイルの位置にある。
単なる総合病院というより、巨大な複合施設、いや、最早一つの都市と言う方が正しいかもしれない。
緩やかな傾斜を持っ広大な敷地には、50棟を超える大型のビルと、数百はあるといわれる中小の建物が存在する。
最初の設立はそのときから丁度15年前。病院の名は、それを運営する財団と同じく「セントエルモ」だ。財団は多数の画期的特許を所有し、その収益を管理運営する法務部、経理部と、理事会などの関係機関を置く。
この町で働く人々やその家族のため、各種の学校やショッピングモール、住宅、グラウンドやテニスコートなんかもあった。
財団はまた、小規模な製薬会社や精密機器メーカーを実質経営して、規模に反する莫大な収益をあげていた。
収益の一定割合は更なる研究開発に投資するが、それ以外は病院の赤字補填などに充てられる。
財団の存在意義はひとえに、医療を必要とする人に届けることだ。でも医療には莫大なコストがかかる。そしていくら治療が必要でも、お金を払えるひとばかりではない。
だけど、病院に収入がなくては継続して医療を提供することは出来ない。
ならばどうするか。資力のある人から掛かった治療費を貰うのは当然だが、足りないお金は別の方法で捻出しなければいけない。
そのための財団である。
理念に賛同して、医師や看護師、薬剤師、理学療法士、栄養士、介護士、経理や投資のプロから調理師etcまで、世界中から優秀な人材が集まるのは、今も変わらない。別名をセントエルモ帝国。皇帝なきその帝国に、天使はいた。
ロビーの喧騒から遠く離れて、僕らはエレベーターに乗っていた。片側はガラス張りで、外の景色が手に取るように見える。
エレベーターの仕組みはよくわからないけと、上昇する感覚は薄いのに、地面は凄い速さで遠ざかっていった。
余りの速さに怖くなって目を上げたら、遥か遠くの山と、地平線が視界に飛び込んできた。
キラキラした帯は川か海か。まるで飛んでるみたいな不思議な感覚だ。
ビックリして兄さんにしがみついたところで、エレベーターは止まった。
エレベーターを降りたところはかなり広くて、展望台みたいなスペースになっていた。三方はガラスばりだ。窓際に寄って、20人くらいの人が景色を見ていた。観葉植物の大きな鉢が点在し、その横にコーヒースタンドや小ぶりのテーブルと椅子が置かれている。
椅子に座っている人も数人。
点滴スタンドを持ったおじいさんは入院患者だろうか。
大きなガラスまどにくっつくようにして、僕くらいの子供もいた。パジャマを着ている。横の人はお母さんかな。
双眼鏡を覗く人や、寛いでいるスタッフらしいひとたちもいた。何人かが兄さんを振り向く。顔見知りらしく、軽く挨拶して、
兄さんは奥に進んだ。
その先には薄暗い狭い廊下が伸びていた。明るい展望室から廊下に入った時は、一瞬何も見えなくなる。同時に、僕は何だか奇妙な感覚にたじろいだ。
何だろう?
テーマパークとかで、乗り物に乗って、トンネルを進むあの感じ?
似ているけど違う。
アトラクションでは、プロジェクション・マッピングやレーザー光なんかで、光や音、映像が現れる。驚かされたりドキドキしたり、感覚は、確かにそれに近いんだ。
が、何一つ目には見えない。
なのに、何かが現れては消えて行く。
ミントみたいなすうっとした感覚が、僕を通り抜けていく。
ザワザワした気配。ひんやりした何かや、硬く暖かいナニか。
サラサラした幻の砂が、首から肩を滑る。得体のしれない有象無象が何度も繰り返し、僕の身体の中や外のあちこちを、通り抜けたり掠め過ぎたり。
初めての感覚に、僕は呼吸すら忘れて固まってしまっていた。
「大丈夫だ、茉央」
不意に、兄さんが囁いた。
「少し変わった感じがするだろうが、危なくはない。」
兄さんの温かい大きな手が、背中を撫でる。僕はふっと息を吐き出した。そして出し抜けに、僕らは明るい場所に出た。
頬をなでる風。新鮮な植物と土のにおい。
緑の草や大きな木。森の中?その葉には雨の雫が光っている。
でも、僕は今まで建物の中にいたはずだ。ドアを通った覚えはない。
兄さんの肩越しに、来た方を振り返ってみたが、そこにはドアどころか、建物らしきものもなかった。木々の間に小道が続いて、木漏れ日が揺れているだけだ。僕の混乱に、兄さんは苦笑を見せた。
「だよなぁ。納得いかないよな。俺でさえいまだにどうにも慣れない。」
兄さんは、僕を下ろして、やれやれとため息をつく。
より濃密な、雨上がりの森の香りが鼻腔に満ちる。
踏みしめた足の下は、少し湿った地面の感触だ。
「ここは、たしかに、ウチの病院C5棟の屋上庭園だが、同時にどこか別の場所なのかもしれない。何せ、グー○ル・アースでは探せないからな。さあ、おいで。」
兄さんと手を繋いで、僕はゆっくり歩いた。
いくらも行かないうちに、僕らは小さな家の前に立っていた。
僕には、まるでその家が、突然目の前に現れたように見えた。
さっきまで木しかなかったはずの場所に、お伽話に出てくるような、赤い屋根の木造の建物。
塀とか柵はない。正面ドアのそばに、家とよく似た木のポストがあるだけだ。
ポストには素朴な線彫りで、小さな翼を持った天使が描かれていた。
兄さんは、ドアの前で立ち止まった。ノックするために手を上げようとしたとき、突然、ドアが開いた。
最初見えたのは、くたびれたジーンズをはいた2本の長い脚。その人は、随分背が高かった。兄さんと大体同じくらいだろうか。
「お帰り、恭。」
頭の上から降ってきたのは、低くて深く柔らかい、不思議な声だ。
あとで思い返すと、その時僕が連想したのは、霧で満たされた森の雫と、遠い角笛の木霊だった。
ひそやかで優しいが、どこか凛とした、侵しがたいもの。
僕はそれまで、角笛の音なんて聴いたこともなかったけれど。
恭兄さんは、その人に深くお辞儀をした。
「只今戻りました、ボス。」
うやうやしいとさえ言える動作、口調。
その人は、軽く頷いたようだ。背が高いのと、すぐ前に立っているのとで、顔は見えない。
ふわり、と空気が動いた。
次の瞬間、僕の目の前に、白い顔が現れた。若い男性。柔らかな微笑。
「津田茉央君、やね。初めまして。神原龍一といいます。お兄さんの同僚です。」
あの声が、僕にそう言った。
ぼうっとして、返事も忘れ、僕は見惚れていたんだろう。
ただそこにある、としか形容しようのない、完璧な面差し。後にも先にも、僕はこんな顔を見たことはない。現実と虚構を問わずだ。
ずっと後になって、兄さんが言った。
「あの顔は、反則だよな。長い付き合いの俺でも、慣れるってことがない。しかも、歳はあれで俺とタメなんだ。ズルい。チートにも程がある。」
全く同感だった。
それからどうやって家に入ったのか記憶にない。
気がつけば僕は木の椅子に座って、目の前のテーブルには湯気のたつミルクのマグが置かれていた。
兄さんと、ボスと呼ばれたあの人は、テーブルから少し離れて椅子に座っている。床も壁も、窓枠まで木で出来た部屋には天井がなくて、見上げれば屋根の裏側が見える。
少し日がさしてきたらしく、窓ごしの木漏れ日は明るい緑に染まっていた。
気持ちがスルスル解けていく感じが心地よくて、僕はウトウトしながら兄さんたちの会話を聞いていた。
「せやから、何アホなこと言うてんねん、おまえ。」
ちょっと呆れた口調は、柔らかな関西弁だ。
「帰国するなり病棟て。理事会がうるさいわ、このワーカホリックが。とっとと帰って休め。」
「仕事中毒はお互い様だ。あなたにだけは言われたくない、ボス。」
「やめい!だいたいその風体でボス呼ばわりて、気色悪いわ!俺らカラーギャングか何かか?」
「はっ!あなたがそんな可愛いもんですか!それとも、FDAもペンタゴンも強面ロビイストどもも、カラーギャングごときに完封されたと?」
「抜かしとけアホ。」
顔に似合わず口の悪い人だが、その声はどこまでも耳に心地よい。
話の内容は全然わからなかったけれど、兄さんたちがとても親しいことはよくわかった。
すっかり安心して、深い眠りに落ちかけたところで、兄さんが椅子から立ち上がる気配に目が開いた。
そこに天使がいたんだ。
天使は、女性だった。
当時はたしか17歳くらいだったはずだけど、見た目はずっと幼い感じだ。
裸足で、生成りコットンのロングシャツみたいなワンピースを着ていた。
小柄で、痩せている。柔らかそうな真っ直ぐな髪が肩の下辺りまでストンと落ちていた。頭頂部付近には、天使の輪。
とても綺麗なお姉さん。
「ボス」って人に、どこか似てるけど、あんな圧倒的なチート系美貌じゃなく、優しく柔らかな雰囲気だ。
無論、本物の天使の輪っかや、羽根なんかない。
でも、兄さんたちが言うエンジェルがこのお姉さんだってことはすぐにわかった。
僕はびっくりして彼女を見つめた。
その全身は、うっすらと光っていたから。
微かな白っぽい光。見間違いなんかじゃない。それは輪郭を包み込むように柔らかく穏やかな、優しい光。
お姉さんは、綺麗な大きな目で黙って正面を見ていた。
「見えるんか、茉央くん。」
不意に、ボスこと神原さんが言った。
「珍しいな。君のお兄さんには見えへんのや。」
笑いを含んだ、びろうどの声。
「え?ボス、それってあの例の光、とかいう?茉央、千絵ちゃんが、その…。」
兄さんは戸惑った様子だ。
僕と神原さん、お姉さんを代わりばんこに見ながら突っ立っている。
「おいで、千絵。」
神原さんはそう言うと立ち上がり、今まで座っていた椅子にお姉さんを座らせた。神原さんは長身で、筋肉質だ。
体重もそれなりにありそうだけど、不思議なほど物音を立てない。
優雅かつ密やか、無駄な動きがないところが何かに似ている。
兄さんはマスチフ犬だけど、神原さんは犬じゃない。
強いていうなら黒ヒョウだろうか。
千絵と呼ばれたお姉さんは、やっぱり一言も喋らない。
綺麗な人形みたいに、誘導されるままになっていた。
でもその動きは、外見以上に神原さんに似ている。
スッと伸びた背中。
高貴で端正としか形容出来ない動作と姿勢。
その頃の僕は、そんな難しい言葉は知らなかったけど。
ああ、このお姉さんは、天使というより、お伽話のお姫様だと、何だか妙に確信していた。
「ほな、お願いします、ドクター。」
神原さんはそう言うと、窓際から別の椅子を運んできて僕の横に座った。
恭兄さんは頷いて、彼女と斜めに向き合う位置に椅子を移動する。
僕には、兄さんが何か考えこんでいるように見えた。
懸念?躊躇い?
それとも、別の感情を無理に押さえつけてでもいるみたい。
軽くひそめた眉、眉間のしわ。
誰とも目を合わそうとしない。
小さくため息をつくと、兄さんは、お姉さんこと神原千絵さんに話しかける。
穏やかな低い声だ。
精神科医の診察を見たのはこのときが初めてだった。
千絵さんは聞いているのかいないのか、前を見たまま何の反応も示さない。兄さんは淡々と言葉を紡ぐ。
やがて兄さんは顔を上げた。
「異常なしです。」
少し苦しげに、兄さんは神原さんに言った。
神原さんは頷く。
兄さんは続けて何か言おうとしたが、神原さんが呟くように口にした言葉を聞いて項垂れた。
その両手は固く握りしめられていた。
僕には神原さんの言った言葉は聞き取れなかったけど、兄さんの様子がただ事でないのは一目瞭然だ。
兄さんは意を決したように顔をあげた。
強い視線は真っ直ぐ神原さんに向けられている。
怖いくらい厳しい表情だ。
僕は何も言えず、ただ固まって兄さんを見つめていた。
「あなたは、俺たちを見捨てるんですか、ボス。」
兄さんはそう言った。抑えに抑えた口調だが、激しい感情は隠せていない。
神原さんは、兄さんの視線を正面から受け止めていた。
その目は静かで、何の感情も浮かべてはいない。
兄さんは居住まいを正した。
「セントエルモ総合病院、精神科医長として申し上げます、院長。ボスはあなただけだ。俺だけじゃない。各診療科の医長にとっても。院長としてのあなたを知る全てのスタッフがざわついています。あなたがここを去るおつもりなのではないかと。」
一気に言って、兄さんは神原さんを見据えた。神原さんは小さく溜め息をついた。
「ガキか。お前ら。大体何でそうなる?」「とぼけるんですか。今までなら、たとえFDAだろうがペンタゴンだろうが、あなたの敵ではなかった。財団の資産は元々あなたの個人資産だ。この国の複雑怪奇な法制度を手玉に取って、不可能を可能にしたその手腕を、俺たちはずっと見てきた。まさに神業ってやつだ。何が来ても、何の心配もなかったんです。だけど、今度ばかりは事情が違う。
商業施設のはずれに巣食っているあの連中は、一体何なんですか?
訛りのない米語を話し、ドーナツとベーグルについて議論して、アメリカ人を装っちゃいるが、絶対そうじゃないでしょう。
それに、はっきりしていることもある。
あいつらの何人かは軍人だ。
ええ、俺だって精神科医の端くれです。
どこの誰だろうが、彼らが過酷な戦場から来たってことくらいわかる。
極限のストレスが人をどうしてしまうか、嫌ってほど見てきた。
そして、あいつらがあなたを、何処かへ連れて行こうとしていることも知っている!」
一気に捲し立てた兄さんは、神原さんを睨むようにして息を整えていた。
厳しい表情。強い視線。
兄さんには、僕なんか見えていないみたいだ。いつも余裕ありげな態度を崩さない人が、この時ばかりはまるで別人だった。
すくみ上がり言葉を失った僕の背中に、そっと添えられたのは、神原さんの手だった。
「よう回る口やな、恭。」
僕の背中を撫でながら、神原さんが呟く。
「俺がここを留守にすることは、これまでもあったやろ。俺が居らへんかて、病院は問題なく回ってたはずや。何か不都合があるか?」
しばしの沈黙。
「…何故です?」
少し掠れた声。兄さんは立ち上がる。
「何故何も言っていただけないのか、院長。今回に限って。せめて、何処へ、何のために、それだけでも教えて下さい。」
神原さんは、千絵さんと兄さんを交互に見て、静かに目を伏せた。
「恭。今は俺を信じろ。何があっても、必ず戻る。」
「ボス…。」
兄さんは絶句していた。
神原さんは、確かにどこか遠くの危険な場所に行こうとしている。それは僕にもわかった。それともう一つ。
この「帝国」には、実は「皇帝」が存在している。
宮殿の玉座に君臨してはいないし、豪華な衣装を纏ってもいないけれど。
「わかりました、ボス。」
少し経って、兄さんはそう言った。
「それじゃ、病棟へ行きますので、この辺で、」
さっきの緊迫したやりとりがウソだったみたいに、いつもの調子だ。
「ちょっと待て、今日は仕事はもうええやろ。千絵の診察は終わったし、お前のことやから、一旦病棟へ入ったらいつ上がれるか。それまで茉央君を…、」
何か思いついた表情で、神原さんは僕を見た。
「君、見えてたね、千絵の光。」
僕は頷いた。神原さんは微笑んで、兄さんに視線を戻す。
「仕事するなら、せめて茉央君は預かるわ。アレが見えるんなら、入院するより、ここに居る方が回復の助けになる。俺も仕事に戻るけど、シッターは手配出来るしな。来い、サルラ。」
神原さんは、パチン、と、指を鳴らした。鋭い音。見惚れてしまうほど絵になる動作だ。僕はまだ小さな子供だったけど、この人のありえないほど華麗で端正な存在感に、すっかり魅了されていた。
突然、目の端を、なにかが掠めた。
白い光の帯、エレベーターから見た水面のような煌めき。
それはすごい速さで上から降りてきて、流れるように壁を伝い床を這い、僕の足元を通り抜けた。
兄さんがぎょっとした顔で半歩下がる。
「いつの間に…」
呟いて、その目は斜め下を見ていた。
視線の先、僕の前のテーブルの、僕から見て向こう側の端に、褐色の肌をした2つの手が置かれていた。
誰かがテーブルの下に屈んで、両手でテーブルを掴んでいる?
と、両手の間に、白い頭がにゅっと突き出された。白髪だけれども、年寄りじゃない。中学生くらいの男の子だ。褐色の肌、濃い青の虹彩は白目の部分より大きい。
一見して整った容貌だが、どこか違和感があった。
まじまじと僕を見つめるその目には、瞳孔がなかったんだ。
そんな細部に気付く前に、本能は警報を鳴らしていた。
根源的な異質。僕は思わず神原さんにしがみついていた。
「サルラ、お前、も少し解剖学てやつ勉強したらどない?」
ため息交じりの声は神原さんだ。しがみついた僕の肩を軽く抱いている。それだけで僕は落ち着いた。
サルラ、そう呼ばれた少年は、立ち上がって、自分の身体を見回したが、お手上げらしく、もの問いたげな顔で神原さんを見た。
「目。」
端的に指摘してから、神原さんは恭兄さんに話しかける。
「恭は初めてやったな。ベビーシッターや。まんだ慣れてえへんけど、まあ、どうにか人間に見えんこともないやろ。」
兄さんは、目を細め、薄気味悪そうにサルラを眺めた。
兄さんは気付いたろうか?
いつのまにか青い両眼に、瞳孔が出現していることに。
「大概慣れたつもりだったんですが。彼は、えーっとその、何なのか聞くだけ無駄ですよね、ボス。」
「千絵の眷族や。」
あっさり答えて、神原さんは微笑した。
「神原の当主は俺やけど、この方面は巫女姫が専門やからなあ。昔から神原の男には何の力もないし。さて千絵、茉央君を頼むで。」
神原さんは立ち上がった。
千絵さんは相変わらず座ったまま、何の反応も示さない。
神原さんは彼女の頭をポンと一つ叩いて続ける。
「ええ子にしとりや。」
その時、彼女を見つめる神原さんの目に浮かんでいた苦しげな表情の意味は、幼い僕には知る由もなかった。
「さて、行こか、恭。俺はD棟の手術場やし。」
「途中までご一緒します。今日は執刀されるんですか?」
「さあな。厄介なケースやけど、手を出さずに済むのが理想ではある。」
もう僕のことなんか片付いたと言わんばかりに、兄さん達はさっさと家から出て行った。振り向きさえしない。
客観的に見て、初めて外国に出た小さな子供を、見知らぬ家に放置するなんて、ありえない暴挙だった。
が、僕は何故か何の不安も感じてはいなかった。
その家は、結論から言うと、世界のどこより安全な場所だったが、それは僕には知る由もなかったのに。
「行ったわね。」
突然、澄んだ声が聞こえた。びっくりして顔をあげると、千絵さんと目が合った。さっきまでどこでもない場所を見ていた目は、今は生き生きとした光を湛え、じっと僕を見ている。
高価な人形みたいに振る舞っていた時も綺麗なお姉さんだったけれど、僕は、彼女の微笑みには破壊力があるってことに気がついてしまった。
ひょっとすると、初恋ってやつだったのかもしれない。
彼女はぴょん、と、飛び降りるように椅子から立ち上がって、僕の顔を覗きこむ。
「神原千絵です、初めまして!キョーちゃん先生にはお世話になってます。ごめんね、黙ってて。」
僕はただ頷くしかできなかった。
「いつまで病気のフリを続けるんですかぁ、姫。龍一様も、主治医の先生もとっくに気付いてるっていうのに。バカなんですか。ホント、あなた方人間て度し難い。」サルラは呆れた口調だ。
見た目とは裏腹に、流暢な日本語だった。自分が人間でないことを前提とした発言だが、僕は全く違和感を覚えなかった。
「いいの!キョーちゃん先生には悪いけど、龍ちゃんがあんな煮え切らない態度なんだもん。」
「あー、まあ確かに。龍一さまともあろうお人がね。」
サルラは、他にも何か言いたい様子だったけど、ため息まじりに肩をすくめた。人間じゃなくても、すごく人間的な仕草だ。
「さて、疲れたでしょう?少し休みなさい、マオさん。」
サルラはそう言って僕の顔を覗き込んだ。僕は彼を見返す。
さっきから疑問だったことが、言葉になって口から溢れた。
「へび、なの?」
「は?」サルラは、首を傾げた。何のことか分からない様子だ。
「降りて来た。」
じれったかったが、当時の僕の語彙は限られている。
さっき、上から降りてきたのはサルラだとわかっていたし、あの煌めく白い帯みたいな形は、僕が知っていた範囲じゃ、蛇が一番近かった。
白い、巨大な蛇だ。
サルラは、人間みたいに首を傾げた。
「えっと、へび、って、あの爬虫類とかの?」
ハチュウルイ、たしか、大好きな図鑑で見た言葉だ。僕は熱心に頷いた。
サルラは、ますます困惑した様子。
反対に千絵さんは笑い出した。
「見えてたんだ!キョーちゃん先生は気付いてなかったのに。確かに、似てるよー、サルラ!」
「蛇ですか。うーん、ヘビねえ。」
僕は期待に満ちた目でサルラを見つめていたに違いない。サルラは腕組みして、居心地悪げに僕と千絵さんをチラチラ見ていた。やがて諦めたみたいにため息を一つ、その瞬間、そこにいたのは、巨大な白蛇だった。
「!!」
ホワイトオパールの、虹色の輝きを持つ鱗は、大人の手のひらより大きい。頭部は屋根を突き破りそうな高みにあった。そこから発光する琥珀いろの目が僕を見下ろしている。驚きと興奮で、呼吸すら忘れていた。
「凄ーい!キレイよ、サルラ。でも、ちょっと大き過ぎ。」
千絵さんの声に応えるように、化け物サイズの大蛇はしゅるしゅると縮んで、最後は動物園サイズで落ち着いた。
それでも、10メートル近い。
オパールのウロコの輝きはそのままだ。
今なら質量保存の法則とか、熱力学的にはどう解釈したらいいかとか、つまらないことで混乱してしまっただろうけれど、そのときの僕はただ純粋に目の前の光景に魅せられていた。
「さ、さわっていい?」
そう聞くだけの分別はあったが、返事を待つなんて出来なかった。
気がつくと、僕は大蛇の首(?)の部分を抱きしめていた。
手のひらと頬にはひんやりした感触。鱗は硬いけど、その下には柔らかい生き物の血肉が息づいているのが感じられた。
皮膚、脂肪、骨格筋、血管、内臓などの軟組織と、それを支える骨格。サルラにとってはただの擬態というか、アバター又はアイコン的な物にすぎないんだろうが、生体組織の再現度はハンパない。
その為に必要な能力のとんでもなさなんて、当時の僕には知る由もなかった。
「あらあら。好きなんだ、蛇。」千絵さんの声に、僕は頷いた。
とても幸せな気分だった。
そんなふうに、僕の「転地療養」初日は過ぎていったんだ。