49 最後の夏休み③
朝七時ごろ、陽菜乃は紙袋を提げて、自然公園の長い階段を登っていた。
階段の中腹の溝から、外側に出た場所。鬱蒼と茂るその奥に、彼女はいつも通り、いた。
「……なんの用ですか?もう、話は済んでるはずです」
叶歩を誑かし、契約を交わした神様。
ここは神社のちょうど裏側。
目の前の苔むした塀垣の上には、例の神様が寝っ転がりながら、陽菜乃を見下ろしていた。
少女の姿の神様は青白くじらじらと燃え続ける着物の帯を垂らして、けだるそうに陽菜乃のほうをみつめる。
陽菜乃は神様を一瞥してから、右手に持っていた紙袋を差し出し、地べたに向かって首を垂れた。
「……あの!叶歩のこと、どうか見逃してくださいっ!」
神様はひょいと塀を飛び降りると、茂みの上で無様に頭を下げる陽菜乃の手首から紙袋をつまみ上げて、その中を確認する。中には果物の詰め合わせが入っていた。
神様は白い桃を掴み上げると、ほのかに匂いを嗅ぐ。
「……お供え物のつもり、ですか?」
「はっ、はい……」
「こんな物を渡されても君の言うことを聞き入れることはできません。前にも言ったでしょう?私はあの子を気に入ったんです」
陽菜乃はその言葉を聞いた瞬間、我慢が解けたかのようにびくびく震え出し、消え入るような声で呟く。
「叶歩のこと気に入ったなら……なんで命を奪うんだよ……」
敵意を含んだ言葉に敬語のメッキをつける余裕は、なくなっていた。
神様はそれを聞いてまた、ため息をつく。
「君は前提を勘違いしてますよ。私はハルくんの命を奪うとは限りません。……私が奪うのはあくまで、あの子にとって“一番大切な物”ですから」
それを聞いた瞬間、陽菜乃は瞳孔を全開にする。そして雷に打たれたかのように身を乗り出す。
「命を奪うとは限らないって……それってつまり、叶歩を殺さないでくれるってことか!?」
「……君はいちいち、早とちりしすぎです。一番大切なものっていうのは、あの子の精神に最も強く紐づいていたものがなにか、それ次第、ってことです。わたし自身も、それが何なのかは“最終日“までわかりませんので」
「……なんだよ、それ」
陽菜乃は悪態を垂れながらも、叶歩が生き残る可能性が僅かに残っている、と言う意の言葉を示されたことに、内心震えが止まらなかった。
「なぁ、叶歩を生き残らさせるには何をすればいい?お供え物もわたしたんだし、教えてくれよ」
「そう言うけど……このフルーツ、どこからもってきたんです?用意するのにも時間がかかったでしょう」
「家にあったのを詰めてきただけ、だが……?」
「じゃ、一度それ取りに帰ったんですか?」
「……?そういうことになるな」
なんで自分のことに興味を持たれているのかわからないが、とにかく陽菜乃は「叶歩の命を救う方法、教えてよ」と聞く。
「……知りません。あの子のことは、あなたのほうが詳しいでしょう?自分で考えるべきです」
神様は桃を丸かじりしながら、石垣の上で足を組む。
「ちぇっ。神様って、もっと優しいもんだと思ってたよ」
「わからずやの子供と対話してあげるだけ優しいですがねぇ」
陽菜乃はそれを聞いて、へそを曲げたようにむっとしながら、石垣に登って、神様の隣で寝っ転がる。
「……なにしてるんですか?」
「あんたが色々情報吐くまで、ずっとここに居座るから」
「……熱中症になりますよ?今日は猛暑でしょう」
「……」
その通りだった。まだ朝だけれど、今日は異様な暑さだ。
粘っこい空気の立ち込める垣の上。陽菜乃の首筋には滝のような汗が滴り落ち、既に視界はぼやけていた。
「あんたも暑さとか、感じるのか」
「……いいえ。私は温度を感じることはできません。でもわかりますよ。いま、夏ですし、……君の汗、すごいですし……まったく、君はバカですね。」
神様は頬杖をついて、また、ため息を履く。いままで便器を見るような視線を陽菜乃に送っていた神様の目が、途端に温かみを帯びたように感じた。
「私、暑いのは嫌いでした」
「てことは……あんたも、人間だったのか?」
陽菜乃がそう言うと、神様はハッとしたように、ぷいっとそっぽを向いた。
「……キミには関係ないでしょう。ともかく、今日は帰って涼みなさい。お気に入りの場所で人間が倒れて騒ぎが起きたりとか、御免ですからね」
「ふん!……情報を全部吐かせるまで、毎日ここに来るからな!」
「……キミが一緒にいるべき相手は私じゃないでしょうに」
陽菜乃の去り際、神様はそんなことを言っていた。
──わかってる、わかってるよ。ほんとは今も叶歩の隣にいるべきなんだ。叶歩と一緒にいる時間なんて、ほとんど残されてないかもしれないんだ。
──でも、たぶんあの神様も昔は人間で、なんかいろいろ事情があってああなったんだろう。結局、あまり踏み込んだことは分からないけれど、それにしてもあいつには何か事情があって、叶歩を狙ってるような、そんな気がする。
──根拠はないけど……なんか放っておけない。ああやって話してるうちに感じたけど、あの神様は事情なしに叶歩を誑かすほど薄情じゃないような、そんな気がするんだ。
──しかし、あいつを差すための言葉が『神様』しかないなんて。なんか、気持ち悪いな。名前、聞いておくんだった。
陽菜乃はそう思いながら茂みを掻き分ける。やがて公園の蛇口をみつけると、ぬるい水道水にがぶがぶとかじりついた。




