41 かわいい不審者
まだ、夜の涼しさが残っていた。
陽菜乃はベッドのなかでもぞもぞとして時計を見る。さっきからこうして時間が過ぎるのを待っていたが、寝付くこともできずに思い悩むしかできない。
時計の針は、午前五時を指していた。
寝てもいられなかったので、陽菜乃はベッドから脱出することに決めた。こんな時間に起きるのは初めてだ。窓を開けて、まだシャッターの開いてない街を眺める。
手で千切った後の紙切れみたいな形の雲が、赤く燃えていた。頬杖をつきながらそれを眺めていたが、一分も経たないうちに飽きた。
鼻を突き抜けるような澄んだ空気を吸ったら、自然とあくびがでてきた。
陽菜乃は犬のキャラクターが描かれた薄ピンクのパジャマを脱いで、白いワンピースに着替え、そしてショルダーバッグに手を掛けていた。
陽菜乃は早く叶歩のもとに行きたくてうずうずしていたのだ。今行っても、きっと叶歩は起きてないだろうけど、叶歩が起きるまで彼女の家の前をうろうろして気を紛らわせていたかった。
そんな、不審者のような妄想をして、陽菜乃は両親を起こさないよう、そっと玄関を開ける。
……その時、なにか小さい影が門の後ろで動いた。
門の横に植えてある低木が静かに振動し、そこに隠れているものの存在をハッキリとさせる。
陽菜乃は少しだけ怯みながらも、その影を追おうとする。庭の芝生を一歩一歩踏みしめながら進んでいく。塀の後ろにあるはずの影が動く気配はなく、じっとして物音ひとつも立てなかった。
(……もしかして)
陽菜乃は庭の塀から顔をひょこんと出して、気配のした場所を見下ろした。
「……なにしてるんだ、叶歩」
「へへへ。おはよ」
叶歩は、金色のボタンがついた黒いミニスカートを地面に広げ、しゃがんでいた。
小さな顔にはほんのりとメイクが施してある。
唇に塗られたピンク色のリップグロスが朝日に当たり、夏の海のようにきらきらと反射していた。
陽菜乃は門の外に出て、叶歩がしゃがんでいた場所まで歩く。
叶歩は少しだけ嬉しそうに口角をあげて、陽菜乃のスカートの裾を、まるで迷子にならないためにそうする子供みたいにつまんだ。
「いつからいたんだ?」
「うーん……明け方からずっと。寝れなくてさ、ひなのちゃんを近くに感じたかったんだよ」
陽菜乃はそれを言われて顔をより一層赤くしながら、叶歩の頭頂部にぽんと手を乗せた。
「叶歩は馬鹿だな……ちゃんと寝ないと、一緒にいれる時間が短くなっちゃうぞ?」
「そのお疲れな顔を見るに、ひなのちゃんも寝れてないみたいだけどね」
陽菜乃は視線を少し逸らす。そんな陽菜乃を見て、叶歩は大事なものを扱うような強さで手を握った。
「……ところで、ひなのちゃんはこんな時間からどこに行こうとしてたの?」
「……叶歩の家の前でうろうろする予定があった。でも今、その必要はなくなったらしい」
「なぁんだ。それじゃあボクたち、他人の家の前で怪しく待ち続ける不審者同士ってわけだね」
叶歩はそう言って、半袖から伸びた陽菜乃の柔らかな手首と自分のほっぺたとを擦り合わせる。
「それじゃ、暇人だね」
「暇人だな」
「じゃ、いっしょに朝の散歩でもどーです?」
「ん、よろこんで」
陽菜乃はちょっとだけ嬉しそうに叶歩のほっぺたを人差し指でつつく。
指先がふにゅんとマシュマロのように沈み込んで、叶歩は猫のように目を細めた。
でも、そんな幸せな叶歩の顔を近くで見て、陽菜乃は胸が苦しくなってしまった。
この愛おしい笑顔も、このなんでもない楽しい空間も、陽菜乃は一ヶ月後に全て失ってしまうのだ。
それでも、やっぱり叶歩の前で辛い所は見せたくない。
陽菜乃は、自分のできる精一杯の笑顔を送ってみせる。そして叶歩もそれに応えるようにキッと前歯を見せて笑った。
住宅街のあちこちから、シャッターの開く音が聞こえる。空に燃える朝日も、澄んだ空気も、皮肉なくらいに街を希望的に染め上げていた。
こんな綺麗な空より、とびっきり薄暗い曇天のほうが陽菜乃の心を助けてくれるのかもしれない。
でも陽菜乃は、少しだけ嫌なことを忘れてただ叶歩をかわいがるだけのこの時間も、悪くないなぁと思いながら、手を繋いで二人だけの街を歩いた。




