悪役令嬢は破滅を愛している
「ベアトリーチェ=グラフィニード公爵令嬢!! 貴様の悪行、今こそ裁いてくれるわ!!」
王立魔法学園の長期休暇前のパーティーでのことだった。
第一王子にして婚約者でもある男からの宣言にベアトリーチェ=グラフィニード公爵令嬢は思わず笑みを浮かべてしまった。
黒を基調としたドレスに黒手袋、豊かな胸元でギラギラと赤い宝石を輝かせていて着飾っている燃えるような赤髪の令嬢は言う。
「悪行とは具体的にどれのことを言っているのですか?」
「しらばっくれるつもりか!? いいだろう、貴様がどれだけ卑劣で悪辣な女であるか言い逃れできぬよう示してやる!!」
大仰な身振りに合わせて第一王子はパーティー会場の隅まで届くように声を張り上げる。
「アイナに対して行ってきた数々の卑劣な罪をな!!」
思わず、だ。
果たしてどこまでの『悪行』が語られるのかと期待していたベアトリーチェはあまりにもわかりやすい冤罪に普段の対外的な場での彼女らしくもなく落胆を滲ませていた。
「まず初めに貴様はアイナが平民だからと高圧的に──」
何やらごちゃごちゃと喚いていたが、その全てが捏造された嫌がらせだった。
口汚く罵倒したとか物を隠したとか、捏造にしても稚拙なものだった。ベアトリーチェが本気で特定の一個人に危害を加えるつもりならそんな雑で優しい手段は選ばない。それこそ殺そうと思えばいくらでも方法はあるのだから。
ちなみにアイナといえば希少な魔法の使い手であるからと特待生として王立魔法学園に通っている平民の少女だ。というか今もなぜか婚約者であるベアトリーチェを差し置いて第一王子の隣に侍っている。
第一王子があの女に夢中なのは知っていた。
貴族社会に良くも悪くも染まっていない少女が目新しいにしてもまさかここまでのめり込んでいたとは。
……もしかしたら、とは思っていたが、ここまで見当違いな方向に突き抜けていく可能性はあるにしても低いとは考えていた。実際にズブズブにのめり込んでいるのを見ると世界には色々な人間がいるのだと思う。
「──わかるか!? これらの罪は重いぞ!!」
「はあ、そうですか」
周囲の反応を見るに大半のパーティー参加者の半数以上は『何だそれは?』と言いたげに眉を顰めていた。それだけでも冤罪の杜撰さがわかるものだが、それでも第一王子の権力でゴリ押すつもりなのか、それとも杜撰な冤罪であることすら気づいていないのか。
……アイナの口元の醜悪な笑みが隠せていないので少なくとも平民の口車に乗せられて第一王子が踊っているのだろう。
と、そこで件のアイナがこんなことを言ってきた。
「ベアトリーチェさまには確かに酷いことをされたけどお、一言でいいのお。謝ってくれたらそれでわたしは許してあげていいからあ」
「どうしてわたくしが貴女に許される必要があるので?」
素直な気持ちを口にしたら、第一王子が『貴様!!アイナが許してやると言っているのに……ッ!!』と声を荒らげた。そんな彼にそっと手をやって『わたしは大丈夫だからあ』と甘い声をあげるアイナ。随分と稚拙だが、第一王子の目には心優しき少女に見えているのだろう。
とんだ茶番だが、第一王子は感動したように表情を緩めていた。こんなにも見る目がない男が次期国王というのだからこの国の未来はろくなものにはならない。
「おおっ、アイナ、何と心優しきことか! だがあんな女に慈悲を向けてやる必要はない!! 後は俺に任せてくれ。何者であろうとも罪は罰せられなければならないのだからな!!」
馬鹿げた流れだ。
だけど、どれだけ穴だらけの茶番劇だろうが、第一王子が力を振るえば断罪を押し通すこともできる。
こんなにも稚拙な冤罪で断罪される。
『向こうの思惑』を考えればベアトリーチェは見殺しにされる可能性は高い。
自分よりも遥かに未熟な男によって殺されるかもしれない。そこまで思い至って初めてベアトリーチェは両手で自身の身体を抱き、それでも震えを抑えることはできなかった。
そして。
そして。
そして。
ベアトリーチェに胸を張って指を突きつけて、どこか自分に酔ったように第一王子はこう宣言した。
「ベアトリーチェ=グラフィニード公爵令嬢!! 貴様との婚約を今この場で破棄する!! また、貴様のような罪人はもう二度とこの国に足を踏み入れることは許さん!! 即刻国外に追放してくれるわ!!」
「……その程度で許していいのですか?」
「な、に?」
おそらくは渾身の決め台詞のつもりだったのだろう。
第一王子はあまりに重い罰に泣き崩れて許してくれるよう縋りついてくるベアトリーチェの姿でも期待していたのかもしれない。
ベアトリーチェとしては強がりでも何でもなく瞬時に冷めて本音が漏れてしまっただけなのだが。
「いえ、それが殿下の決定であれば従いましょう。残念ではありますけれど、仰せの通りに即刻この国から出ていきます」
その表情は僅かながら暗く沈んでいた。
だからこそ第一王子やアイナは言葉では何と取り繕うとも『断罪』に打ちのめされているのだと判断した。
ゆっくりと勝ち誇ったような笑みを広げる彼らにはもう視線さえ向けず、ベアトリーチェは身を翻してパーティー会場を後にした。
断罪は成功し、第一王子は望むものを手に入れた。
ゆえに勝者は第一王子……なのだろう。
その後の末路を考えれば、決して喜ばしいことではなかったにしても。
ーーー☆ーーー
「人生、うまくいかないものですわね」
生まれ育った国を追放されたというのにベアトリーチェの声音は軽かった。表情は多少暗かったが、それはあくまで多少だ。期待はずれではあったが、まあいいやと流せるものでしかない。
強がりでも何でもなく、嘘偽りないベアトリーチェの本音である。
「流石のお嬢様も国外追放は堪えたか? ん?」
と、そう言うのはベアトリーチェの護衛であるホーク。通常、公爵令嬢の護衛ともなれば実力だけでなく相応の血筋が必要なのだが、彼は両親の顔も知らないからどこの血筋なのかも不明なのだ。
一応はスーツ姿だが窮屈で着崩しているし、長く乱雑な茶髪の男からは獰猛な獣のような気配が隠しきれていない。実力がどうであれ、このように柄の悪い男をそばに置いておくのは公爵令嬢としては不適切だ。
だが、当のベアトリーチェは周囲に何を言われようとも彼をそばに置いてきた。他のどんなことでも基本に忠実で予定調和から逸れることがなかった彼女がこれだけは絶対に譲らなかったのだ。
ホークなら、と期待しているからこそ。
少なくとも第一王子なんかよりもずっと強く、だ。
「何を言い出すかと思えば、わたくしに下されたのは国外追放ですよ」
つい先程第一王子から冤罪を押しつけられて国外追放の処分を受けたベアトリーチェは本当に不思議そうに首を傾げて、
「あんなちっぽけな冤罪を押しつけなくともわたくしには国家転覆の後押しをしているなど断罪するに足る罪はいくらでもありますわ。それなのに冤罪からの国外追放だなんて半端な断罪で済ませられたのは残念なくらいです」
「そうじゃなくてだな……はぁ。ここまできてもお嬢様の悪癖は変わらないかよ」
「変える必要がありませんもの」
サラッと国家転覆などととんでもないことを口にしながら、ベアトリーチェはこう続けた。
「出し惜しみなく死力を振り絞ってそれでもなすすべなく殺されるくらいであれば、少しは刺激的な体験になると思ったのですけれど……うまくいかないものですわね」
その声音に冗談とかそんな響きは一切なかった。
頬に手をやって見た目だけは気弱な令嬢のように儚げにため息を吐くベアトリーチェ。中身は決して気弱などと評価できるものではないが。
自らが破滅するために国家転覆を後押しするような悪女、それがベアトリーチェという女だ。
だからこそもしもベアトリーチェ=グラフィニード公爵令嬢が国家転覆を裏で後押ししているという悪行を第一王子がきちんと暴いて断罪していれば婚約を破棄するだけでなく国を救ったというわかりやすい名声だって得られただろう。その手柄で立場を高めていけば平民の少女との婚約もスムーズに進められたかもしれない。
もちろん第一王子にそこまでの能力がなかったからこそ平民の少女に嫌がらせをしたなどという冤罪がまかり通ってしまったのだが。
──ベアトリーチェ=グラフィニード公爵令嬢は国家転覆を目論んでいる。
とはいえ実際に矢面に立つのは平民を主体とした革命軍や一部の貴族ではあるが。
例えば度重なる税の増加や特権階級だけを優遇する政策の数々、他にも今の王国に不満を持つ人間は多い。実際に格差が広がっていったことで路地裏では『人間』扱いさえされずに人知れず飢え死んでいる者たちもいるほどだ。
それでも王家は(今回のような杜撰な冤罪による国外追放を強行できたように)力を持っている。平民が感情のままに奮起したところでどうとでも対応できる。
国内においては誰が相手でも上から一方的に命じて押し潰すだけの権力があるし、何なら軍を使って暴力我を押し通してもいい。
そういう何があっても自身の立場は揺るがないと信じられるだけの仕組みが出来上がっているからこそ王家の支配は絶対なのだ。
だけど、もしもその力の全てに対応できれば?
現在の支配構造を内側から崩せるだけの上層部の面々が裏切ったり、軍に打ち勝てるだけの戦力が用意できれば王家の支配だって打ち破ることはできる。
ベアトリーチェは公爵令嬢だ。
彼女の身分であれば野心にしろ正義感にしろ王を裏切る可能性のある国家上層部の人間を選別して接触・交渉することができるし、数は揃っていても装備や鍛錬が足りない革命軍に資金援助や元軍人などを派遣して戦闘訓練を施すことで軍を上回る武装集団に変えることもできるだろう。
あくまで可能性の話ではあるが。
実際に裏から手を回して実現できるかどうかは別の話だ。いかに王家を裏切る野心や正義感が眠っていたとしてもそれを見抜く洞察力、リスクなどを考えて思いとどまっている国家上層部の人間を唆すだけの話術、革命軍に必要な資金や人員を集めて軍を打破できるだけの武装集団へと秘密裏に育て上げる実行能力、他にも必要なものは多く、普通は途中で破綻するからこそ国家転覆とは簡単には成し遂げられない偉業なのだ。
それでもベアトリーチェは成し遂げた。
秘密裏に国をひっくり返すことができるかもしれないだけの『力』を育てたのだ。
それも極力ベアトリーチェが関与していることはバレないようにであり、革命軍の面々は自分たちを支援している者の正体を知らない。国家転覆の根回しをしているのがベアトリーチェだというのはごく一部の国家上層部の人間くらいしか知り得ないことだ。
そうして彼女は暴力を軸にして圧政に苦しむ民を救う革命軍という武装集団を完成させた。
革命軍の大多数は平民だ。圧政に苦しむ平民たちは憎き王家や貴族に容赦はしない。彼らは決して半端なところで止まることはないのだ。
なぜなら圧政に苦しむ家族や友達のためにと正義を掲げているのだから。そんな彼らが妥協してしまったら己の中の正義が揺らいでしまう。
では、仮の話をしよう。
もしもベアトリーチェが第一王子から国外追放されなければどうなっていた?
革命軍の面々は自分たちを支援しているのがベアトリーチェだと知らない。そんな彼らにとってベアトリーチェは第一王子の婚約者というわかりやすい敵だ。これまで自分たちを苦しめてきた王家と婚約を結んでいる悪女などいくら殺しても足りないくらい憎らしい敵である。
正義の心は絶対にそんな悪女を許さない。
何が何でも、誰かが止めても、必ずやベアトリーチェという悪女を殺すだろう。
己の手で育て上げた者たちに襲われる。
ベアトリーチェがなりふり構わずに抵抗しても今の革命軍が相手では殺される可能性は高い。
それはどれだけ刺激的な体験になるだろうか。
憎悪と正義を混ぜ合わせた濁流のような殺意を叩きつけられればベアトリーチェの心を少しでも動かしてくれるかもしれない。
順調過ぎてつまらない人生に彩りを。
予想通りのことばかりな人生は富んでいても退屈で、誰もが羨むキラキラした印象とは正反対の灰色に塗れた日々の中で唯一色が溢れた──ホークと出会ったあの時のように。
そう、ベアトリーチェの予定調和が覆されたあの時は確かに胸が高鳴って世界が色鮮やかに見えたのだ。
──ベアトリーチェは幼少の頃から退屈していた。
全ては予定調和、ベアトリーチェの想像通りに全ての物事は進む。媚びへつらうような笑顔に囲まれて順調すぎる道を歩むだけ。グラフィニード公爵令嬢としてはそれで正解で、だけどベアトリーチェという一人の女の自我は恵まれ過ぎて埋没していた。
権力も財産も血筋も容姿も頭脳も才能も環境も魔法の腕前も他にもおよそ考えられるほとんど全ての項目が高水準でありながら、だからこそ決まりきった舞台の上を歩いているような空虚さが消えてくれなかった。
そんなある日のこと。
それはほんの些細な気まぐれだった。
路地裏に足を踏み入れた。
公爵令嬢として相応しい形に着飾っている女などそれこそ路地裏のゴロツキにとっては財宝の山であり欲望を発散させるのに都合のいい肉だ。何の力もない女がそんな真似をすれば即座に貪り尽くされていただろう。
だけどベアトリーチェは公爵令嬢である。
近衛騎士にも引けをとらない有能な護衛が何人もついている。路地裏のゴロツキが手を出そうとしても返り討ちにされるのが予定調和だ。
だからこれはちょっと危ない(ように見えるが、安全は確保されていると断言できる状態での)退屈しのぎ。刺激を求めてのことで、だけど予想外のことなんて何も起こらずに終わる火遊びなのは明らかだ。
そのはずだった。
その日、予定調和はひっくり返った。
『よお、お嬢ちゃん。ちっとばっか不用心じゃないか?』
獣のように獰猛な笑みを浮かべた男だった。
路地裏に転がっているその他大勢のゴロツキの中の一人のはずだった。
そんな敵になり得ないほど脆弱なはずの彼が近衛騎士に並ぶ公爵令嬢の護衛を一人残らず叩きのめして目の前に立っていた。
予定調和を容易く覆した男はベアトリーチェの首筋にナイフを突きつけていた。あと少し押し込まれればベアトリーチェは殺される。どれだけの財があろうが権力があろうが才能があろうが、その恵まれた全ては今この瞬間に呆気なく踏み潰される。
そんな男の顔をベアトリーチェは見つめる。
薄汚れたボロ布のような衣服を纏った男だった。長く荒れた茶髪が獣のそれのように広がっており、瞳は貪欲なまでに荒々しい色を帯びている。
社交界には存在しないタイプの男だった。
ベアトリーチェは有能な騎士とも顔を合わせる機会はあるが、ここまで闘争本能を剥き出しにしている人間と出会ったのは初めてだった。
心臓が激しく暴れる。
背筋に震えが走る。
何か言葉を発しようとしても唇がうまく動かせない。
予定調和を覆された末に訪れた窮地。
今すぐ殺されてもおかしくない体験はベアトリーチェのこれまでの人生の中で一度も感じたことのない激しい『何か』をもたらしていた。
灰色だった世界が途端に色づいたようだった。
こんな感情を味わえるなら今ここで死んでもいいと思えるほどに。いいや、それこそ殺されそうなだけでもこんなにも激しい感情を味わえるなら、実際に殺されたらどれだけのものが得られるだろうか。
そう考えてしまった。
だからこそ首に触れる冷たい刃にそのまま貫かれてもいいと、そこまで思い至った時に彼はこう言ったのだ。
『それじゃあ定番の台詞といこうか。金目のもんを寄越せ』
『……、わたくしを殺してから身ぐるみを剥げばよろしいのでは?』
『何でそこまでする必要がある? お嬢ちゃんが抵抗しようがしまいが力づくでどうとでもできるんだ。わざわざ殺すだけの理由はないな』
『はあ、そうですか』
『おい、何で不満げなんだ?』
これがホークとの出会い。
そこで自分の護衛として働くならより多くの金を得られると説得して今日に至る。……刃物で脅されているというのにどうして護衛として雇おうと考えられるのかとホークは呆れていたが。
何はともあれ、だ。
その出会いがベアトリーチェの人生を良くも悪くも大きく変えた。
ホークに殺されるかもしれなかったあの時があんなにも強烈だったのならば、どうしようもない破滅的な出来事があればもう一度あの色鮮やかな体験ができるはずだ。
だからベアトリーチェ=グラフィニード公爵令嬢は破滅を愛する。あの時のように最大限に備えて全力で抵抗してそれでも理不尽に殺されかねない一瞬の快楽のために。そのためなら副産物として国がひっくり返ることだって厭わないほどに。
……実際には自分の手で育て上げた革命軍にきちんと殺してもらう前に国外追放されてしまったので王家の圧政を力づくでねじ伏せて苦しむ民を救うための正義の刃がベアトリーチェに届くことはなくなったが。
だから彼女は本当の本気でこう言うのだ。
「次こそはきちんと破滅できるといいのですけれど」
第一王子に悪行を裁くのだと言われた時は国家転覆に向けて裏で行動している彼女の悪行が裁かれるのだと期待に思わず笑みがこぼれた。
それが稚拙な冤罪だったので最初は落胆したが、そんなものを押し通して断罪、第一王子の感情のままに法も何もかも無視して処刑されてしまうような理不尽であれば刺激的な体験になるかもと思い直した。
『向こうの思惑』──革命軍の面々はベアトリーチェが味方だと知らないし、彼女が裏で国家転覆に向けて暗躍しているからこそ革命軍側についている一部の国家上層部の人間もすでに王家を打倒できるほどに力をつけた今、わざわざベアトリーチェを救う必要もない。というか王家を打倒した後に彼女が革命軍の支援者だったと明かしてしまったら一新された国家上層部において重要な座を奪われかねない。ゆえに殺せるなら殺しておいたほうがいいに決まっているのだ。
後はグラフィニード公爵家があるが、典型的な貴族でしかない彼らが王家に逆らってまでベアトリーチェを助けることはない。
だから見殺しにされる可能性は高く、そこで思わず歓喜に身を震えさせたところで言い渡されたのは国外追放という甘い処分。
その完膚なきまでに期待はずれな全てにベアトリーチェはため息を吐く。
やはり彼女を破滅させてくれるのはホークなのだろう。
彼が護衛としてそばにいるだけで心臓が激しく暴れるのも、彼が近くから声をかけてきただけで背筋に震えが走るのも、そうして感情が揺り動かされた時に何か言葉を発しようとしても唇がうまく動かせないのも──世界が色づくこれまで味わってきた全てが答えだ。
革命軍のような己の手で組み上げた代用品よりも何よりも、ホークからもたらされる破滅をベアトリーチェは待ち望んでいる。
ーーー☆ーーー
ふと、パーティーのために着飾ったまま人気のない街道を歩く(つまりわざと馬車も使わず金目のものをぶら下げて歩いているわけで邪な考えを持つ者とばったり出会ったら襲われるのは確実なのが狙いの)ベアトリーチェはこんなことを言った。
「まだ動かないのですか?」
「ん?」
「わたくしは国外追放の処分を受けた身です。護衛として仕えたとしても十分な給金を支払えるかどうかは未知数です。ですから、わたくしが国外追放の処分を受けたのだと公爵家に伝わる前にうまく立ち回れば得られるものもあるかもしれませんよ。例えば、わたくしを人質に公爵家に身代金を請求するなどですね。その場合、得るものを得た段階でわたくしを殺してしまったほうが身軽になっていいでしょうが」
「……、はぁ。お嬢様は本当もうさあ」
「???」
ホークは路地裏で生まれた。
両親の顔も知らない。貴族や平民よりも下、そもそも『人間』扱いされることもない最下層として定められ、這い上がることを許されない環境ではとにかく飢えて死なないために暴力で奪うのが常識だった。
だからベアトリーチェと出会った時も金目のモノを奪うために襲ってそこで終わり……のはずが、路地裏のゴロツキでしかない彼を護衛として雇うと言い出したのだ。
罠にしても杜撰だ。
彼に復讐したいならその場は穏便に済ませて改めて金でかき集めた戦力をぶつければいい。
わざわざ己の懐にこんなゴロツキを招き入れる必要はないのだ。
金持ちの道楽なのか、自分はどんな者でも有能なら使うという器の大きさを見せびらかして背中を刺される可能性を考えない間抜けなのか、理由なんてどうでもよかった。
自分から有り金を差し出すならありがたく受け取るのみ。何か不都合があればその時は力づくで我を通せばいいだけだ。
雇われてやってもいいが、服従するつもりはない。
そのつもりだったのだが、いつからだっただろうか。
生まれながらに路地裏で虫ケラのように生きることを決定づけられているほどに身分差が広がっているこの国においてベアトリーチェがホークのことを普通の『人間』として見ていることに気づいた時?
ホークのような生まれながらに虐げられる生物が出来上がってしまうこの国のあり方をひっくり返すために集まった革命軍の面々をきちんと国に勝てるよう育て上げるとベアトリーチェが決めた時?
いいや、明確にどれがというわけでもない。
これまでベアトリーチェという女のそばにいたからこそ、結果として誰かが救われるとしても、その根幹にはあくまで己の我儘しかないことはわかっている。
望むがままに突き進む。
その歩みが偶然にも虐げられている誰かを救う方向に向かっているだけ。
だからその善性に惹かれたとかそんなことはない。本質は我儘なお嬢様であることなんて他ならぬホークが一番わかっている。
だけど。
それでも。
気がついたら惚れてしまっていた。
根っからの善人ではないとしても、人を好きになるのに綺麗なものに惹かれなければならないという決まりはない。
大体、ホーク自身が善人とは程遠いゴロツキなのだ。他人に善であれと望むような立場にはない。
ホークはベアトリーチェに惚れてしまった。
正しい理屈も何もなく、ただただ感情のままに。
だからこそ看過できないことが一つあった。
ベアトリーチェ=グラフィニード公爵令嬢には破滅を望む癖がある。己の我儘で目の前の誰かは救うくせに自分は率先して死に向かっていくのだ。
満足のいく破滅を迎えることが望みだと。
その果てにこそ彼女は幸せになれるのかもしれない。
それがどうした。
主人の望みを叶えるのが護衛の役目だとか、好きになった人の幸せを願うべきだとか、そんなお利口さんな善性なんてとっくの昔に捨てている。
ホークはゴロツキだ。
善か悪かでいえば確実に悪なのだ。
ベアトリーチェがどう考えていようとも関係ない。彼女が破滅を愛してその末に幸せになれるのだとしても、ホーク自身がそんな結末は絶対に嫌なのだ。
だから守る。
護衛だからとか関係なく、ホークという一人の男が惚れた女に死んでほしくないから。
歓喜さえ滲ませて破滅に向かう彼女を救うためならホークは王家だろうが革命軍だろうが叩き潰す覚悟を決めていた。
結果的に第一王子がドヤ顔で見当違いの断罪を行ってくれたおかげで今回は凌げたが、ベアトリーチェの破滅癖は依然としてそのままだ。
国外追放ともなれば少しは考え直すかとも思ったが、嬉々としてこの国を出て行こうとしている。
そんな彼女を見て、ホークはつくづくこう思うのだ。
「ったく。我ながら厄介な女に惚れちまったなあ」
だから。
だから。
だから。
「…………、え?」
そこにあったのはいつもどんな時でも予定調和だと邁進しているベアトリーチェが決して浮かべてこなかった表情だった。
ーーー☆ーーー
ベアトリーチェの世界は灰色に満ちている。
ただし唯一彼女の世界を変えてくれたのがホークとの出会いだった。
それから周囲に何を言われようとも彼を護衛としてそばに置いた。
ホークなら、と期待しているからこそ。
もしかしたらあの冷たい刃をまたベアトリーチェに向けてくれるかもしれない。今度はベアトリーチェの財産の全てを奪うために殺しさえも厭わずに行動するかもしれない。そうなったならば彼女にはどうしようもない。
ベアトリーチェはホークに勝てない。
勝敗はあの時に確定したのだから。
きちんと満足のいく破滅と引き換えにあの時と同じかそれ以上に色づく景色を見せてくれると期待していた。
だから、彼が護衛としてそばにいるだけで心臓が激しく暴れるのは当たり前だ。いつ殺されるのかと破滅の予感に歓喜しているからこそ。
だから、彼が近くから声をかけてきただけで背筋に震えが走るのは当たり前だ。いつ殺されるのかと破滅の予感に歓喜しているからこそ。
だから、そうして感情が揺り動かされた時に何か言葉を発しようとしても唇がうまく動かせないのも当たり前だ。いつ殺されるのかと破滅の予感に歓喜しているからこそ。
そうだと信じてきた。
だってあの時、出会った時に殺されかけてあんなにも感情が爆発して世界が色づいて今まで生きてきた中で一番の幸せを感じられたのだからそうであるはずだった。
なら、これは何だ?
『ったく。我ながら厄介な女に惚れちまったなあ』、とホークが言った。そんなの破滅とは対極だ。そんな余分な感情を抱かれてしまったら彼がベアトリーチェを殺す可能性は限りなく低くなってしまう。
だから失望するのが正解のはずだ。
今回も破滅できずに失敗したと、人生がうまくいかないことに嘆くべきなのだ。
だけど身体は真逆の反応を示していた。
心臓が激しく暴れて背筋に震えが走って言葉がうまく出てこなくて──顔が熱くて仕方がない。
出会ったあの時と同じで、だけどあの時とは比べ物にならないほど強烈だ。世界が鮮明に色づいていく。荒々しく心を揺さぶる感情が溢れて止まらない。
そう、破滅から最も遠い今この瞬間に、だ。
ということは、ホークと出会ったあの時にベアトリーチェを歓喜させたのは破滅の予感ではなかった?
それでは、だったら、つまり、ホークと出会ったあの時にも同じように感情が爆発した理由は……。
「……っっっ!?」
「ちょっ、何で逃げるんだ!?」
気づいてしまったら、もうだめだった。
予定調和な世界が退屈で仕方がなかった彼女を救った感情の原因が一目惚れだなんてそんなの直視したら恥ずかしさで死ねる。
これまで世界の裏側で散々暗躍して破滅こそ自分が幸せになる唯一の道なのだと胸を張っていたのが途端に間抜けになるではないか!!
「その反応、まさか、いけるのか? どうせ好きだと言ってもお嬢様を殺す可能性が低くなったと失望されるだけだと思っていたけど、実は両想いだった感じか!?」
「う、うあ」
「何だ何だよこんな簡単な話ならもっと早く言ってくれればよかったのによ。ベアトリーチェ! 俺はお前のことが好きだ!! 死ぬほど愛してやるから破滅したいとかもう言うんじゃないぞお!!」
「うおァァああああああああああああああ!! 恥ずかしくて死んでしまうのでもうやめてくださいっ!!」
あまりにもまっすぐな言葉を受け止めきれず、ベアトリーチェは公爵令嬢としてのガワを維持できずに絶叫していた。
幸せに殺される。
これまでの自分が破滅する。
そうだとわかっていても抗うことはできなかった。
ーーー☆ーーー
ベアトリーチェが生まれ育った国を去ってからすぐに革命は成し遂げられた。
これまで民を圧政で傷つけてきた王族の一員である第一王子はもちろん、そんな彼の婚約者になったアイナも処刑された。……第一王子はどうしようもなかったが、アイナは平民だったので余計なことを考えなければ殺される側に立つこともなかったが、彼女がそのことを後悔した時には全ては終わっていた。
新たな時代が幕を開ける。
その先がより良いものになるか、それともより悲惨なものになるかは革命を成し遂げた者たちの努力次第だ。
とはいえ、そんなことは国外追放されたベアトリーチェには関係なかったが。
別に生まれ育った国にも公爵令嬢という立場にも未練はない。なぜなら彼女は長らく欲していた破滅を手に入れたのだから。
「なあ、ベアトリーチェ。ちょっと離れすぎじゃないか?」
「何を言っているのですか!? これ以上近づいたら普通に死んでしまいますわよ!!」
「何でだよ。これまでもっと近くにいただろうが」
「うわああっ!? ちっちかっ、そんなに近づかないでくださっ、ひうあああっ!?」
「……、これって嬉しすぎてその反応なんだよな? 実は両想いだったってのは勘違いでめちゃくちゃ嫌われていたというオチじゃないよな?」
「ふっふざけないでください!!」
心臓が激しく暴れる。
背筋に震えが走る。
何か言葉を発しようとしても唇がうまく動かせない。
それでもベアトリーチェは死力を振り絞ってこう告げた。
「死んじゃいそうなくらい大好きですわよ!!」
……その後、『そうか』と呟いたホークから嬉しそうに抱きしめられてもう本当に本気で刺激が強すぎて死んでしまいそうになったが、こんな破滅なら最後まで愛していけそうだった。