引っ越し準備
部屋の外で誰かが激しく咳き込んでいるのが聞こえた。
それを耳にしたオレは忌々しげに舌打ちする。誰だか知らないが、どうせ半分はこれ見よがしの演技だろ。まったく、オーバーなリアクションをしやがって。そんなにむせるくらい臭いって分かっているのなら、オレの部屋にわざわざ近づくんじゃねえよ。
――とはいえ。
さすがにそろそろ何とかしないと、とは部屋の主であるオレも考えていた。アパートの大家からは早く部屋から出て行って欲しいと、再三再四、催促されている。それに従わなければ弁護士に相談し、裁判を起こすと脅されていた。こっちが負ければ、強制退去処分が下されるだろう。普段は誰に何を言われようと動じないオレも、これには白旗を上げるしかなかった。
オレは昔から片付けとか掃除とか、そういったことが苦手な性分だ。実家にいた頃は、母親がせっせと掃除してくれていたので問題なかったが、一人暮らしを始めた途端、狭い六畳一間の部屋はアッという間にゴミで埋もれてしまった。
――いつか時間があるときにでもまとめて片付けよう。
そう考えているうちに、一気に捨てるなんて不可能なくらいの量のゴミが山積みになった。そうなると、もう捨てる気力さえなくなる。だから、そのまま放置、という悪循環に陥っていた。
人間というのは案外、便利に出来ているもので、ゴミから出る悪臭はすぐに感じなくなった。部屋の中を徘徊するゴキブリだって、何で大の大人があんなにビビるのか理解できない。ただの昆虫だと思えばいいではないか。目障りなら足で踏み潰し、ティッシュで丸めてポイだ。ギャーギャー騒ぐほどのもんじゃない。
そのようなわけで、オレの部屋は近所でも有名なゴミ屋敷になった。住んでいるのは小汚いアパートなのに、呼称が “屋敷” とは、これ如何に。
もちろん、他のヤツらからは嫌悪の目で見られるようになり、度々、トラブルにも発展した。口うるさいジジイやババアが、ゴミを撤去しろと文句を言ってくるのだ。
そのようなときにオレは決まって、「あれはゴミじゃない! 私物だ!」とうそぶいた。当然、相手は納得しない。「臭いんだよ! とっとと処分しろ!」と怒鳴り込んでくる。オレは「そんな権利がアンタにあるのか!? 何か法律に違反しているなら、警察でも何でも呼んで来い!」と言い返した。すると相手はこれ以上、言ってもムダだと思うのか、悔しそうな顔を歪めながら帰って行く。ざまあみろ。
そんなこんなで二年近く。だが、とうとうオレは追い出されることが決定的になった。
チェッ、部屋は狭いけど、結構、住み心地のいいところだったんだけどな。それにゴミって、冬は暖房がいらないくらい暖かいんだぜ。夏は最悪だけどさ。
オレは来るべき引っ越しの日に備え、かったるくはあったけど、ノロノロと必要なものを掻き集めた。ベッドも家具もゴミに埋もれちゃいるが――唯一、見えるところへ引っ張り出してあるのはテレビとパソコンだけ――、オレは何がどこにあるのか、ちゃんと把握している。ただし、中には一年ぶりにお目にかかるものもあって、気分はほとんど考古学の発掘調査だ。
――おっと、これ懐かしいなぁ。
だが、ゴミ屋敷でひとつだけ困ることがある。それは移動がしづらいということだ。
「あいてッ!」
オレはつまずいて転んだ。しかし、ゴミがクッション代わりになってくれるので怪我の心配はない。
「ん?」
何を踏んだのかと思えば、横になっていたレイコの脚だ。爪先がこちらへ向けられている。あんなにきれいだったはずの赤いペニキュアが剥がれかけていた。
「おっ!」
転んだ拍子にオレは思わぬ発見した。この手は、ひょっとしてユミか、それともナナコだったか。あんなに苦労してバラバラにしたのに、結局、捨てに行くのが面倒になって、部屋に放置したままになってたんだよな。この部屋に連れ込んだときは気にも留めなかったけど、この指輪は高く売れそうじゃないか。引っ越しは何かと物入りだし、これからの生活費の足しにもらっておこう。
何だよ、ユキエ。そんな恨みがましい目でオレを睨むなよ。悪いけど、お前らは一緒に連れて行けないんだ。
オレは “ゴミ” と化した彼女らを捨て、新生活へ足を踏み出すのだから。