牛乳を買いに行こう!
ミルクインサイドアバッグオブミルクインサイドアバッグオブミルク……邦題「牛乳を買いに行こう!」というゲーム。考察サイトもあるけど、それらは読まない。なんだか思考に雑念が混ざるような気がするから。
このゲームもちょい前にプレイしたものだから忘れてる部分もあるけど、いうなればアドベンチャーゲームなのかな。主人公の脳みそが加速し過ぎて、俯瞰的視点を持ち、いつしかベクトルさえ定まらなくなって、自身の理性では追いきれなくなり、錯乱するというもの。
主人公に手を差し伸べられないから無責任な言葉になってしまうけれど、自分に劣等感を抱いてしまうのなら、その底まで潜ってしまうのがいい。無理に健常者ぶらなくてもいい。ただ事実として、それが出来るのは頭がいいからだという事は知って欲しい。
それと、考えれば考えるほど思考が深まり、眠りにつけなくなる事はナガスも経験しているからわかる。いわゆる脳の暴走。若い頃はよくあった。そんな時は思考の終点までいきつこう。結果、自分が狂おうが別にいいじゃない。そんなもの所詮、相対的なもの。狂ったような人間を見た人が抱く、ただの無責任な感想でしかない。それに「自分が狂う」と思っているうちはまだ正常という見方も出来る。
感情の理由付けは本来、好ましい事ではないらしいけど「何故そう感じるのか」をとにかく噛み砕いて考えてみてほしい。泣き叫びながらでも繰り返し繰り返し。ザワつく感情の正体を見つけてきてほしい。薬なんか飲むな。そんなもの飲んだら個性消されるぞ。
そして、苦しんでいる反面、貴方は、そんな自分の事が好きなんだろ? 狂う寸前の境界線が一番気持ちいい。狂気と正常の狭間、両方を垣間見る事ができる。そこを聡明な貴方に見てきて貰って、是非とも感想や意見を聞いてみたい。
この作品には続編があって、それはミルクアウトサイドアバッグオブ……という題名なんだけど、こちらはあまり重要視しない。これは惰性で作ったんだろうなと、プレイしながらなんとなく思う。それこそゲーム内で主人公が言っていたように「話しているうちに、いつの間にか逆のことを言っている」という状態のゲームなんだろうなと思う。
その現象、物書きをしてたらよくある。具体性のない漠然としたものを言葉にしようとしたら、矛盾した事を書いていたという経験は一度や二度じゃない。百や二百は超えるのかも。コレを無くすためには経験と学びが必要。まずは書いてみる事が大事で、その後に見返してみよう。それしか改善方法は無いんじゃないかなと思う。いわゆる「自己批判する自分の声を聞く」というもの。それに、脳内で考えられるものなんて限界があり、言葉にして初めて具体性が生まれる事だってある。怖がらずにどんどんと言語化しよう。いずれ一筋の光が通った感覚を抱くよ。
と、いう事をプレイしながら考えていた。とはいえ、このゲームを作った人はナガスより遥かに優秀であるから、ナガスの言っている事なんか全て経験済みで乗り越えてきたのだろうとも思う。
さて……コレを鬱ゲーと言う人にナガスは疑問を呈したい。
「何故そう思う?」
たった一人、もしくは数人の深部を覗き込んだだけだよ。
そして同じゲームという媒体では、大勢の人間を殺すゲームだってある。そのゲームでは無感情に人を殺せるが、それを鬱ゲーとは呼ばないのに、このゲームの何が鬱なのか、教えてくれないか? そして、そういった人が一定数、現実に存在している事に目を向けないのは、何故なんだ?
コレは鬱ゲーじゃない。鬱ゲー呼ばわりしたら作者はきっとガッカリする。鬱ゲーってのはDODとか、サイレンとか、やばたにえんの事をいうと思う。根本的な違いを知ってほしい。
救われたくて、答えが欲しくて、今現在も苦しみ涙を流している人がいる事に、せめて思いを巡らせるくらいの事はして欲しいと、ナガスは思うのです。そしておそらく、ミルクインサイドアバッグオブ……の作者もそう思ってるんじゃないかな。




