暴力
最初の記事で「サンドバッグと肉では殴った感触が違う」と書いて、ハッとしたので暴力について書いてみる。
若い頃から暴力というものに触れていると、例えそれがれっきとした格闘技だとしても、多分おかしくなる、という話。あくまで私見です。
コレは経験則でしか語れない部分であるから鵜呑みにしないで欲しいのだけれど、ナガスはちっさい頃から成人直前まで格闘技を習ってた。特に憧れの選手がいた訳でもないけど、なんとなくやっていた。
だけどね、この経験は非常に危険だよ。格闘技は心を鍛えるとか、礼儀を学ぶとか言うじゃん? アレ、半分以上は嘘だと思ったほうがいい。「礼で始まり礼で終わる」とかいうけど、それは特定の人だけに向けられた礼だから。先輩とか師範とか。その他の人達、たとえば弱い同級生や後輩達には横暴な態度をとる人の多いこと。ナガスは割と落ち着いてたけど、それでも年に一度はブチ切れて喧嘩……というより、一方的で圧倒的な暴力を奮っていたし、先輩方は大抵頭おかしかった。今の時代では一発アウトのような事件は多かったよ。昔はそういう所、良し悪しは別にして寛容な時代だった。
最初こそね、正義のためのチカラだと思ってたよ。理不尽に対して主義主張を貫く事こそが正義であり、そのための手段として暴力があるってね。事実として、ナガスから喧嘩をふっかけた事は一度もない。必ず外部からの敵意に対しての反撃能力。そうやって暴力の肯定をしてた。
だけど違うんだわ。暴力は麻薬みたいなもんで「暴力への渇望」が産まれ、肉を殴りたくて仕方なくなってしまうのだなと、十代後半くらいに悟ったよ。小説でも一部書いてるけど「相手がこう来たらこう受けて、こう反撃する」という事を無意識に考えてる自分がいるの。
この感覚は、なまじ強くなり、それを自分で肯定して、他人から肯定されてきたから起こっているのだな……と思う。肯定するのはなんと、学校の先生や大学生の時にやっていたバイト先の店長だった。そういう立場の人達がナガスの正義という暴力を認めるんだよ。これは多分、普段穏やかで社交的なナガスだから言われてたんだと思う。それと動機かな……こう言ったらまた暴力の肯定になるかもだけど、弱い立場の人を守るための行動だった。いじめられっこがトイレでチ○コ丸出しにされて、アレをしごかされてる現場を目撃して加害者をぶん殴ったり、酔っ払いに絡まれて泣いてるレジ打ちのオバちゃんを助けるために酔っ払い取り押さえてアルソックに突き出したり。というかバイトの面接の時に「体格いいね。いざと言う時はお願いね」とか言われたしね。今ほど治安よくないし、地方だったし、そういう時代だった……って、クソ迷惑で高慢な酔っ払いは今でもいるか。
ちょっと余談。コレは今でもそうなんだけど、自分の体や命を軽く扱う癖がある。最悪刺されて死んでもいいやって、どこか思ってる。だからなんか、不条理に立ち向かえていたんだなと思うよ。コレも多分、格闘技の影響。時代もあるだろうけど、先輩からの圧が半端ないなら、自分を大切にするという感覚の一部を削ぎ落とされたんだろうなぁと思う。価値が無いと思ってしまうというか、悪くいうと奴隷化。
なんなんだろうなぁこれ。時代錯誤も甚だしい。
さて、暴力の良し悪しだけど、ハッキリ悪いと思う。現代の価値観として人を殴っていい訳がないし、暴力による成功体験は害悪以外のなにものでも無いね。チカラの強い者が正義だと、勘違いしちゃう。
そう、勘違い。個人の暴力は多くの場面で間違いで、この国には法というものがあるのだから、そちらに任せたほうが絶対にいい。法が正常に機能しているなら。だけど。
なのにね、そこまで解っていて、暴力から離れて十数年が経過したというのに、今でもどこか、暴力を忘れられない自分がいる。これは格闘技経験と、強さに自信を持っちゃった過去があるからだと思う。
呪うね、自分の過去を。爆弾みたいな感覚を自分で植え付けちゃったよ。そしてなかなか共感を得られるような感覚でもないし、大人になっても苦しむ事になる。「殴りたい」とは思わないけど、人を殴った感触は覚えてる。なんだこれ。
子供の頃から、興味を知識の探求や文章の構成に向けられていればなぁと、マジで思う。
人道、道徳、倫理、法学、場合によっては宗教でもいい。そういった先人の知恵をシッカリと教えてくれる指導者とめぐり逢い、若者が暴力とは無縁の、正しい道を歩めますようにと、願っています。
ただしカトリック、テメーは駄目だ。免罪符ってなんだ。罪を金で帳消しとか、何考えてんだ。