他我のパラドックス
他我(他人の心)のパラドックス。
ナガスもこの事について悩んだ事が有るよ。特に幼い頃。「他人はナガスという個が脳内で作り出した舞台装置なのではないか?」というものを、感覚として抱いてた。
自分以外の我を、どう証明するか? そして……? という話。
まず、自分という存在についての確認。自分は自分としての思考を持っている。だから自我はある。我思う故に我あり。デカルトの有名な言葉。それだけで自分に対してだけは、自我を証明出来る。
では他我はどうだろう? 他人が思っている事をどう証明するか。
他人は当然、自分じゃないから、本当の意味で何を思っているのか分からない。たとえ相手が「100%隠し事なく思った事を話す」と言っても、それが嘘か本当かの証明が不可能。それは感覚についても同じで、暑い寒い痛い気持ちいいといった触覚や、感情や気分といった内面に関する事も証明出来ない。だからこそ知るため(厳密には、知った気になるため)に経験則やカテゴリー分けが必要になってくるのだが、それは他我の証明とはまた違い、他我は有るものと仮定して、自分が体験した事柄に当てはめ、他人の感情を知った気になってるだけのもの。いわゆるプロファイリング。つまり経験論に終着してしまう。うろ覚えだけど、独心論ともいったかな?
類推説、つまり「笑顔なんだから嬉しい」「泣いているから悲しい」「怒っているから声を荒げている」といったもので証明しようとした人もいるけれど、それは所詮、他人が起こしているものだし、演技かもしれない。そもそも推察でしかないのだから、それさえも経験論。本当の「他我」とは言い切れない。
だけどこの問題を解決する方法が二つあって、一つ目は「んな事知るかぁ!」というもの。こう書くと乱暴に思えてしまうが、これがなかなかいい解決方法で「結局は知りようがないんだから、良いと思った事をやるしかない」という結論になる。ホントその通りだよ。
もう一つの方法は、信じること。対話を繰り返し、お互いに自我をぶつけ合い、相手を知って自分を知ってもらい、信頼し合うという事。これには途方もない時間を要するし、もしかしたら生涯、完全な相互理解は不可能なのかも知れないけれど「この人はこう思っている」と信じる事が出来たら、少なくとも自分の中で他我を疑う事はなくなる。
日本語って、表現するのにメチャクチャ向いている言語だから、心という曖昧なものを、言語化したいなと思う。それが執筆の原動力だったりする。
エッセイ色々書いてるんだけど、とてもではないが公開できない内容のものばっかり書いちゃってるよ。性に関するものや、他人を傷つけてしまいそうなものが多いなぁ。
いくら前書きで「特定の誰かを攻撃したり、傷つける意図はありません」とか書いても、それって本来、受け取る側の問題だからね。他人が傷つくかどうかは、作者が決める事じゃないのよ。
だから公開するの躊躇っちゃうんだよね。持論は言いたいけど、傷つけたくはないし、傷ついた人の人生に責任持てない。そう考えると言えない事ばっかりになっちゃう。
鈍感力とかいう言葉が流行ったけど、ソレもある程度は必要なんだろなと思う。所詮、他我は自分の経験論でしか測れないんだから。