最終夜 供養絵額
猩猩緋の毛氈が敷かれていた。麻の葉と有栖川錦の紋様が混じり、中央には望月と楓、揚羽蝶の刺繍が施された絢爛な一枚絹であった。滑らかな手触りの絨毯の上には膳が据えられている。強飯、蛤の羹、煮物、胸黄の白蒸、鴨の醤焼きといった数々の品は、庖丁が知恵と技巧を尽くしたものと一目で判る出来であった。漆の塗り込まれた重厚な膳の隣には大皿が並び、菊や蓮を象った仏菓子が重ねられている。その横には酒で満たされた白磁の瓶子が背を伸ばし、足許には二つの御猪口が寄り添っている。
奥の間に繋がる襖には、紅白の牡丹が描かれている。
高い天井を見上げれば、深緋の海の中、春夏秋冬の草花が踊っている。真中には翼を広げた金色の鳳凰が浮いている。宝相華を銜えた華喰鳥の美しい肉筆画である。
庭園へ続く戸は開け放たれ、正面には櫻花の大樹が鎮座している。薄紅の花弁を枝先まで纏った満開の桜である。暖かな東風に撫でられ、花吹雪が巻き起こる。はらはらと舞い散る結晶からは紅が抜け、氷雪の如し清らかな純白をしていた。華麗というにはその散り際が虚しくて、無常というにはその煌めきが嫋やかで――見る者を寂寞と陶然に惹き込む光景であった。
濡れ縁に一匹の白猫がいた。陽光に毛皮を晒し、寝息を立てている。
春風か吹き込み、板の間にある掛け軸が揺らいだ。
『誠照院慈香曄桜大姉』
戒名の書かれた掛け軸の横には花が生けられていた。
鴇色の百合に、金密陀と藍白の菊、臙脂鼠の胡蝶蘭。そして血色の曼珠沙華である。巧妙な造形美をもつ壱師の花が、手折られた花の中で異彩を放っていた。
極彩の世界の只中に一組の男女が対峙していた。男は黒一色の洋装に身を包み、女は純白の和装という恰好である。男は胡坐を組み、瞑目している。右膝に肘を置き、握った拳に頬を乗せていた。
女は微睡む男を見詰めていた。凶悪な人相の男も、瞼を閉じれば童のようになるのだ、と女は己の表情が緩むのを自覚する。折角の馳走が冷めてしまうとか、こんな処で寝ては風邪を引いてしまうとか、男を起こす口実は幾らでも思い付いたが、声を掛けるのは憚られた。
男を起こしたのは鳥の羽搏きであった。鶯の番が庭の桜に止まったのだ。身を寄せ合い、互いの羽毛を嘴で撫でつけたのち、右側の雄が鳴いた。春告鳥の喚声に目を開けたのは男だけではない。縁側の白猫もである。顎を持ち上げ頭上の小鳥を見遣る。
「お止めなさい」
猫を制したのは女である。猫は女へ振り向いたのち、何か云いたげに一鳴きしてみせる。
女は、此方に、と手招きをして、寄ってきた猫を膝に乗せた。女の柔らかな掌に背を撫でられている内に猫はまたしても寝入ってしまう。
その頃には男も覚醒していた。女と猫、豪奢な座敷と並べられた数多の膳を見て、己がどこに居るのかを悟る。此処に至るまでの記憶は曖昧であったが、己が坂ノ上一臣という人間であること、隣にいるのが最上曄夏という女であること、そして己が女を愛していたことだけは慥かに覚えていた。
「曄夏」
男は女を呼んだ。女は、男に視線を移し、「はい、何でしょう」と微笑する。
濡れたような碧髪に、色素の薄い鴇浅葱の瞳、撫子色の頬をしていた。男の恋した、生きている女の姿であった。その女が手を伸ばせば届く距離に居ることに、男は不意に泣きそうになる。嬉しさの余り口を噤む男に、女は小首を傾げ「いかがなさいましたか」と訊くが、「何でもない」と男は答える。云ってから、男は唇の震えが止まらないことに気付く。
「俺は、どれだけ眠っていた」
「さあ。半刻程でしょうか」
僅かに考えてから女は答えた。そして。
「こんな処で寝ては風邪を引いてしまいますよ。春とは雖も、まだまだ冷えますから」
と愉快そうに笑う。
女は、男が詰まらぬ意地を張ったと判ったのだ。
「春。そうか、今は春なのか」
男はそこで、外から流れ込む暖かな空気を感じる。風に乗り、噎せるような華の芳香が漂う。
風に運ばれる一枚の花弁が、毛氈を転がり、膳と瓶子の間をすり抜け――男の前で止まった。
散った花は這い蹲ったまま動かない。男はその死んだ花弁を摘み上げ、しげしげと検める。何の変哲もない、潔い桜であった。
「貴方には、桜が似合うのですね」
女は云った。怪訝な顔をした男が「何故そう思う」と訊けば、「貴方の黒が映えて見えますから」と女は返す。続けて「この世界では貴方の黒が最も眩しい」と云った。
どう答えたものかと迷う男に、女は「頂戴な」と掌を差し出す。男から花弁を受け取った女は、それを自身の膝で眠る猫の額に置く。猫は眠たげな眼で欠伸を漏らし、背筋を伸ばす。膳の魚を物欲しそうに見遣ってから、また縁側へ歩きだす。陽の当たる場所で丸くなれば、警戒した鶯の雄が鳴くが、猫は見向きもしなかった。
「猫と鶯と花見をするのも佳いものだな」
嘆息混じりに男は零す。春の陽気に瞼が重くなるのを感じた。精神が安寧に沈んでいく。
「あの子達だけですか。私が居ることを忘れてもらっては困りますわ」
拗ねたように女は目が細めれば、「失敬、言葉の綾だ」と男は肩を竦める。女はそんな男をみてまた笑う。平生、他人を寄せ付けない男が、自分の前では隙を隠そうとしないことが嬉しかったのだ。
「春だけではありません。夏は蝉の声を聞きながら暑さを愉しみましょう。秋は、月を見ながら酒を戴きましょう。冬は、火鉢に当たりながら雪見を致しましょう。春夏秋冬――いいえ、未来永劫、貴方の隣は私のものです」
女は云い切ると、傍らにあった瓶子の首を人差し指と親指で掴み「一献どうぞ」と云った。男は御猪口を取り「戴こうか」と応じる。女は瓶子を傾け、男の杯を満たす。透明で香りの良い清酒であった。男も女の御猪口に注いでやる。
男は女と視線を交わしてから御猪口を呷る。一気に飲み干した。女はそれを見届けてから唇を濡らす程度に傾ける。酒が不得手な訳ではない。あれだけ希った男と居るのに、酔ってしまっては勿体無いと思ったのだ。
「姫君から酌をされた酒は美味いな」
感慨深そうに男は漏らす。久方振りの酒であり、酒精が躰を巡る感覚が心地良かった。
「厭ですわ。今はもう姫ではありません。ただの曄夏という娘ですよ」
女は瓶子を取り、空になった男の御猪口に注いでやる。男も酌を返そうとするが、まだありますから、と女は応じない。
「ただひとりの曄夏か」
「ええ。ここに居るのは、私だけです」
男の脳裏に、黄泉比良坂で訣別した女が蘇る。
――一臣様。もう一人の私のことを、お願い致します――。
それが、屍となった女の最期の言葉であった。あの時は解らなかったが、今なら全て解った。己に課せられた役目――否、本懐というものが。
「此処は、絵額の中なのだな」
男が口にした刹那、春風が止んだ。桜花の芳香が掻き消えた。世界が不気味な静謐で塗り固められる。女は、肯定も否定もしなかった。横目で男を見たのち徐に杯を置いた。
「貴方は、此処が偽りの世だと仰ろうというのですか」
女だけではない。番の鶯に、縁側の白猫、天井の華喰鳥、庭の桜と生けられた花達までもが――座敷に在る全てのものが男を視ていた。男から発せられる宣告に懼れ慄いていたのだ。
だが、男は愕かない。泰然自若を貫いたまま。
「まさか。全てが真実だろう。俺も、君もな」
と云った。
男が清酒を口に含めば、安堵と共に、絵額の世が色と音を取り戻す――。
「それは私にも分かりません。もしかすると、私達は誰かの描いた夢なのかもしれません。でも、それを云えば黄泉比良坂の私達も夢になってしまいます。蜘蛛に呑まれ果てた私と、その化魅を殺した貴方だけが真実でしょう」
男は敢えて答えずに、杯の酒に視線を落としていた。「聞いているのですか」と語気を強める女に、「どちらでも構わんよ」と男は宥めにかかる。
「俺は、君と会えたことが何よりも嬉しい。君はどうだ」
男は女に尋ねる。
「どう、というのは」
「君は、俺と会えて嬉しいと思ってくれるか」
「それを、私に云わせるのですか」
女は抗議するように男を見遣るが、「君の口から聞かせて欲しい」と男は譲らない。
女は、返答する代わりに、残っていた酒を飲み干すと男に身を寄せた。男は、女の肩を抱く。
「私は、貴方といられて、幸せですよ」
女は云った。男の求めて止まなかった囁きであった。
男は御猪口を脇に置き、女に向き直る。鈴を張ったような円い瞳が、男を覗き込んでいた。
男は女の想いに応える。
泪が出る程に幸せな夢であった。