■白昼夢 絵額の夢
棟割長屋の一室で、男は胡坐を組み、ひとつしかない戸口を見るともなしに眺めていた。狭い部屋には男だけである。共に暮らす娘は出払っていたし、隣に住む世話好きの姉妹も今日は居ないようである。仕事仲間である恰幅の良い浪人も、ここ数日顔を合わせていない。
いつの間にか男は孤独になっていた。それでも男の求める静寂は訪れない。九尺二間の安普請では店子達の井戸端会議や童達の遊び声が漏れ聞こえる。男の馴染めぬ日常の音であった。
永訣の夢は確りと覚えていた。女の姿を、あの泪を覚えている。社殿の御扉が閉ざされ、飛び起きた時には、隣で寝ていた娘は既にいなかった。娘が用意してくれた朝餉は土間の鍋にあったが、食欲が無いため手を付けていない。娘が戻ったら、朝餉を放置していたことへの謝罪と、夢路を渡り引き留めてくれたことへの謝辞を述べようと男は思う。
戸口の障子に人影が伸びた。男は、明瞭としない頭で影を見遣る。戸口が開かれた。建てつけの悪い戸も、この時ばかりは蝋を塗ったように音もなく滑った。
白の狩衣を纏い、後三年烏帽子を被った痩躯の陰陽師が立っていた。男は、この来客を知っていた。先の騒動の首謀者であり、国司によって誅殺された連政実という男である。男の愛した女を蜘蛛に堕とした張本人でもあった。
「坂ノ上殿、少々ばかり時間を戴きましょう」
陰陽師は敷居を跨ぐと、戸を閉め、沓を脱いで男の前に座った。
両者の間には卓袱台も文机も無い。埃の混じった空気が漂うだけであった。
「随分と遅かったな」
男が云った。口を殆ど開かず、億劫そうな態度であった。その言葉通り、今日この時、陰陽師が訪うことを男は予感していたのだ。
「調子はいかがです」
陰陽師が尋ねる。口許に薄い笑みを忍ばせ、飄々とした雰囲気を纏っていた。この問いが男を気遣ったものではなく、単なる会話の切り口であることは男にも伝わった。「見ての通りだ」と男も軽く返す。続けて「何の用だ」と問うた。
「少しばかり、お伝えしたいことがありまして、ね」
勿体振るように陰陽師は笑みを深める。男は「それは良い報せか」と訊くが、陰陽師は答えずに、「坂ノ上殿。供養絵額というものをご存知でしょうか」と訊き返す。
「供養絵額」
鸚鵡返しに男は云う。首を捻り、記憶を辿ってから「ああ、知っているとも」と頷いた。
「故人を絵額に収めて奉るあれのことだな。それがどうした」
「曄夏様の絵額が、瑞応院に奉納されました」
私はそれを伝えるために彼岸から蘇ったのですよ、と陰陽師は嘯く。
「曄夏の供養絵額か」
男は、女が丁重に供養されたことに安堵した。どんな絵額になったのかと興味を抱く。
男の記憶が慥かであれば、供養絵額というものは、故人と近しい者が施主となり寺院に奉納する色彩豊かな死絵のことである。その多くにおいて、故人は美しい着物や軍服に身を包み、酒や馳走の置かれた座敷に座り、生前に好んだ趣味や長けた仕事をする姿が描かれる。謂わば、故人の冥福を祈って行われる追善供養なのだ。
故に、男は気になった。
女がどのように描かれているのかを。
どれだけ篤く思われていたのかを。
「連殿。それはいつのことだ」
「私が蘇ったことがですか」
「惚けるな。絵額の方だ」
「昨晩です。早い内に行った方がいいでしょう。曄夏様も貴方を御待ちでしょうからね」
男は褪せた畳に視線を落とす。女に会う資格が自分にあるのかと疑ったのである。
暫く、男も陰陽師も喋らなかった。居室の沈黙など露知らず、外では童達の騒ぎ声がする。
「坂ノ上殿。供養絵額だけに限った話ではありませんが、法要が何の為にあるか御存知ですか」
不意に陰陽師が問うた。男はそこで己が目を伏せていたことに気付き、陰陽師の三白眼を見返す。人を食ったような微笑に阻まれ、その真意は汲み取れない。
「死者を弔うためだろう」
「では、その死者を弔うのは誰の役目ですか」
陰陽師はまた問うた。男は「親類縁者だろう」と殆ど考えずに返す。「この場合はどなたになりますか」と陰陽師。「家臣や最上家の人間だろうな」と男。
「おや、そこに坂ノ上殿は含まれないと」
さも不思議そうに陰陽師は首を傾げる。演技染みた所作である。
「連殿。この問答には何の意味がある」
「儀式をすることで曄夏様はどう思われるでしょうか。否、これでは伝わり悪いな。此度の葬儀で、曄夏様の何が変わりますか。生者である貴方に、その変化を知る術がありますか」
陰陽師は口の端を歪める。涼しい表情の下に、残忍な色が見え隠れするのを男は見逃さない。
「曄夏の葬儀をする意味が無いと云うつもりか。曄夏の侮辱は許さんぞ」
男は射殺さんばかりに陰陽師を睨むが、当の優男は意に介した様子も無く、「違います。そのようなつもりは毛頭御座いません」と男を宥める。「では何だ」と男が問えば。
「貴方の考えは誤っている。死者を弔うのは故人の為ではありません。儀式はいつだって残された者達のためだけにあるのですよ」
と陰陽師は嘲笑う。その云い分は、男も知らずにいた訳ではなかった。男の理性が、疲弊した身体と精神を置き去りにして回転する――。
死を物理的現象として捉えた場合、如何なる手段を用いても解決することはできない。だが、儀式を伴うことで文化的秩序に挿げ替えることができる。通過儀礼のひとつと換言してもいいかもしれない。即ち――死を越えられない絶対的なものとしてではなく、人間の理解が及ぶ社会的ないし文化的事象と見做し――生者から死者への『範疇の移行』として扱うのだ。
生者は、故人が死んだと実感するために儀式を執り行わねばならぬ。そのように陰陽師は説きたいのだろう、と男は瞬時に考えを纏めてしまう。
「それは知っているよ。葬儀に参列でも何でもして、気持ちに区切りを付けろ。さもなくば一生後悔をする。そう云いたいのだろう」
「ええ。何せ、そのための儀式なのですからね」
陰陽師は徐に頷くが、男は「奇麗事だな」と吐き棄てた。
理屈は通っている。この上ない正論でもある。だからこそ納得できなかった。どれ程丁重に女を弔ったところで、己の悲しみを嚥下できるとは思えなかった。否、してはいけないと思ったのだ。己は、女の首を落とし、結果灰も残らなかった。黄泉比良坂に至っては、期待させるだけさせて、共に逝くこともできなかった。斯様な悪逆非道の人間が、女の葬儀に関わるべきではないとすら思っていた。
「ではどうされますか。ここで朽ち果てると云うつもりですか」
「まさか。俺は、俺にしかできぬことを果たすさ」
鼻で笑った男は「瑞応院だったな」と云い、「詳しい場所は住職にでも訊けば分かるかと」と陰陽師は補足しながら答える。
男は目を瞑り女を思い描く。別れ際、女は心の中にいると云ってくれたのだ。
傷だらけの掌を胸に当てれば、熱い勇気と活力が沁み出すのを男は感じた。
「役目とは何です。曄夏様と何か約束でも交わしたのですか」
「ああ。どこにでもあるような月並みの言葉だがな」
男は曖昧に答えた。陰陽師もそれ以上訊こうとはしなかった。また部屋に沈黙が訪う。
暫く淀んだ温い空気を漂ったのち、男は思い付いたように口を開いた。
「時に、連殿。訊きたいことが二つある」
「何でしょう」
「なぜ教えてくれたのだ」
別段、男と陰陽師は親しくもなければ恩義がある訳でもない。寧ろ、憎しみ合わなければならぬ関係ですらあった。陰陽師は顎に手を遣り、考える仕草をしたのち。
「私の蜘蛛を破った貴方が、たかが自責で狂っていくのが厭だったからですよ」
と云った。
「成程。塩を送ってくれたという訳か」
「腐っても陰陽師ですからね。沽券に関わるのですよ」
さも愉快そうに陰陽師は云った。
そして「もう一つは何です」と尋ねる。
「なぜ生きているのだ。お前はあの時死んだはずだ」
「何を訊くかと思えばそんなことですか。術と式神でごまかしただけですよ」
「すると、今俺が向き合っている連殿は本物なのか」
「まさか。これも影ですよ」
「そうか。それは残念だ」
男の手が、背後に隠していた刀を掴む。陰陽師が何か云うよりも早く抜刀し、返す刀で陰陽師の脳天から顎までを斬り落とす。血飛沫は無かった。
「やはり、式を遣わせて良かった」
顔面を縦に裂かれた陰陽師は呻き――その裂傷から青い炎が溢れ出す。夢で見たものと似た、清らかな炎であった。炎は忽ち陰陽師の躰を包み――最後に残ったのは、黒焦げになった女郎蜘蛛の死骸であった。
男は刀を降り抜いた姿勢のまま、蜘蛛を睨んでいた。長すぎる残心であった。
その時、戸口が音を立てて開かれた。娘が帰って来たのだ。
娘は、刀を握った男を見て目を丸くする。
「一臣。一体どうしたのだ」
心配そうに娘が云う。男に寄ろうとして、部屋に立ち込める異臭と、畳の上で一匹の蜘蛛が死んでいることに気付く。聡明過ぎる娘である。男の身に、あの騒動に関する何か良からぬことが起きてしまったとすぐに悟る。
「何があった。云え」
「蜘蛛が来ただけだ」
「お主は無事なのか」
「心配するな。その蜘蛛は良い報せをくれただけだ」
「良い報せ。それなのに斬ったのか」
要領を得ない遣り取りである。娘は、男に質したいことは山程あったが今は呑み込むことにした。己の境遇について語りたがらない男のことだ。無理に訊いても口を割らないことは、今迄の付き合いで知っていた。故に、男の言葉を信じて追求しないことにした。
「俺は蟲が好きじゃない。油蝉も蜻蛉も触れない。蟋蟀も駄目だ。だから退治したまでだ」
男は諧謔混じりに云い、刀を鞘に納める。曖昧な言葉に、娘はやはり追求したくなる。
「男のくせに何を云っておるのだ。こいつを捨ててくるぞ」
「待ってくれ」
蜘蛛を摘まみ上げようとした娘が顔を上げれば、男と視線が交差する。娘が目にしたことのない、優しさの込められた瞳をしていた。
「椿、ありがとう。君の御蔭で目が覚めた。俺は、君を幸せにするよ」
刀を置いた男は立ち上がる。
「少し出てくる。夕刻までには戻る」
呆けている娘の脇を抜け、男はするりと部屋から脱け出す。
我に返った娘が慌てて男を追うが、既に男との距離は離れていた。暫くの間、娘は真黒な背を見詰めていたが、蟲の死骸と手つかずの朝餉が待つ塒に戻ることにした。あの憎らしくも愛おしい男の為に、掃除をして美味い夕餉を作ってやろうと娘は意気込む。どうせなら隣室のやかましい姉妹も、狸のような浪人も呼びつけてやろう――と娘は袖を捲り襷を掛ける。
「覚えておけ、一臣。妾は、お主が好きだ。大好きだ」
娘はひとり呟いた。笑ってはいたが、泪が出そうであった。
なぜ自分が泣きそうになっているのか、娘には判らなかった。