第二夜 黄泉平坂の泪
男は地底湖の桟橋に立っていた。いつかと同じように右手には行燈を提げている。
男は歩き出す。前と後ろのどちらに進むべきか判らなかったが最初に向いていた方を選んだ。肩で風を切りながらこれは夢かと考える。記憶が曖昧であることは如何にも夢らしいが、革靴の跫や灯火から立ち上る煤の臭い、膚を刺す冷気が、夢幻に非ずと訴えている。
不意に、男の左手が不随意に緊張する。見下ろせば、掌から肘にかけて蛇のような紋様が刻まれている。男の前腕に胴を巻き、圧し折ろうとする意匠である。
成程これが女がくれた罰なのか、と男は合点する。腕にいる蛇が、無機質な目で男を睨む。己が死に絶える時を、今か今かと待ち侘びているようであった。
女の遣いに死を望まれても、男に動揺はなかった。寧ろ、生前我儘らしい我儘を云わなかった女の秘めた心を知った気になり、喜びすら感じていた。
使命感に駆り立てられるがまま男は急いた。女の居場所は知っている。あの白と黒の世界で、月光に屍を晒したまま己を待っているのだ。
男の思惑通り、鍾乳洞を抜けた先、社殿の前に女は佇んでいた。頭上には眩いばかりの望月が照り、女の足元に暗い影法師を落としている。
行燈を置いた男は女に歩み寄る。歩数にして十歩の距離で立ち止まる。
「素敵な刺青ですね。貴方の白い膚と黒い服に、よく映えておりますわ」
女は云った。肺が機能の殆どを喪っているせいか、老婆の如し嗄れた発声であった。
「この蛇は、君が寄越したのか」
男は袖を捲った左腕を女に示す。皮膚を蛇が嬉々と泳いでいる。
「ええ。その子がいれば、貴方は私を忘れはしないでしょうから。でも」
「そうだな。もう必要が無いものだ」
男は女の言葉を継いだ。男の覚悟は女にも伝わった。狂喜した女は唇を歪ませる。生きていれば美しい筈の笑みであったが、今となっては醜悪な顔でしかなかった。だが、それでも男には愛おしく見えた。女と通じ合えたことが嬉しかった。誇らしくもあった。姫君と客人の身分、死者と生者の境界を踏み越え、漸く男は女と対等になれたのだ。
「一臣様。もう言葉はいりません。参りましょう」
女は、皺だらけの掌を差し出す。男はその手を取ろうとして、自身の腕が上がらぬことに気付く。右の手首を掴まれている。振り返れば、紅色の着物を纏った娘がいた。遥か遠くから駆けて来たのだろう。吐息を荒げ、必死の形相で女を睨んでいる。
「放してくれ。俺は、行かなければならない」
男が真先に心遣ったのは女であった。娘がなぜここにいるのか、ということではなかった。その事実が娘を激昂させた。
「莫迦ッ。目を覚ませ一臣」
娘の一喝が黄泉の瘴気を切り裂いた。男は制止しようと娘を見て――その緋の輝きに息を呑む。次いで、娘に触れられた手首が温かいことを認める。灼然たる色彩も、久しく感じたことのない体温も、今この場において異質なものであった。
娘の存在により、男の砕け散った精神は修復を始める。幾度目かも分からない修繕であり、それ故正常とは云えないまでも平静を取り戻すにも時間はかからなかった。歪ながらも蘇った男は、女の手を取ることはできなくなっていた。男にとって死ぬべき理由が女の存在であるなら、反対に生きるべき理由が娘の存在であったのだ。男は漸くそれを思い出したのだ。
「椿さん。なぜ、あなたがここにいるのですか」
唇を震わせながら女が云った。獲物を掻っ攫われた鬣犬の如し獰猛な眼差しである。
男の決意が翻ったことを女は理解したのだ。
相対する娘は、欲しかった言葉を女から与えられたことに何とも云えぬ表情をするが。
「姫様に云いたいことがあってな」
娘は男の手を握り、「故に一臣を追って夢路を渡って来たのだ」と云った。
「余計なことを。あなたは、私に何を仰ろうというのですか」
女は、男の前だからと取り繕うことはしなかった。ここで男を逃せば、もう二度と男と共にいられぬと悟ったのだ。今度こそ、愛した男と一緒に在ろうという執着に燃えていたのだ。
「そんなの、云わずとも分かるだろう」
娘も遣り返す。内心、娘は怯えていた。女と敵対することも心苦しかった。愛する男と別れるのは辛かろうと同情もする。だが、それでも娘は女を突き放すと決めていた。
「分かりますとも。けれど――お断り致します。あなたが一臣様を慕っているのと同じくらい、私も一臣様を愛しているのです」
「それはならん。そなたは屍だ。さぞかし無念であろうが、死者が生者を誘うなど、あってはならんことだ」
「私は理から外れていると。あなたはそう仰りたいのですね」
女は、あらん限りの憎悪を込めた目で娘を見下す。
「愛する殿方と死後も共に在りたいと願うことが、そんなに悪いことですか。私だって、できることなら一臣様と生きたい。仮令結ばれなくとも良いのです。同じ世に生き、同じ街の空気を吸って、時折文を交わして――それだけで良かったのです。けれど、叶わなかった。だから今こうして誘っているのです。それなのにあなたは間違っていると笑うのですか」
女の声はもう嗄れてなどいなかった。地の底から響き渡る絶叫であった。
「妾はそこまで云うておらん。いいか、姫様」
娘の言葉を、「同じことです」と女は封じる。そして男に視線を送る。
「一臣様。幻滅させてしまったでしょうか。でも、これが偽り無い私の心です。私は、死して尚貴方に焦がれているのです。ですから、どうか。私と共に――」
女は血眼に乞う。女には、男の情に訴えるしか手段が残されていなかった。
女の吐露は覿面だった。平生、その外見から夜叉の如し冷血漢と見做されている男であったが、人情には人一倍敏感だったのだ。良心の呵責に眩暈を覚えるが、それでも男は首を横に振った。その反応は女にとって意想外であった。女は、男が煩悶しながらも己を選んでくれると信じていたのだ。妄信していた分、落胆と失望は耐えがたいものであった。
「なぜですか。椿さんがいるからですか」
絞り出された女の問いに男は答えられない。男は未だに己がどうすべきかを決めあぐねていたのだ。男が優柔不断なのではない。この決断が、己に課せられた罪であることを男は承知していた。
女を選べば娘を独りにさせてしまう。今は亡き娘の父親に、娘の面倒を生涯見ると誓った経緯があるのだ。宣誓に背くことはできない。他方、娘を選べば今度は女を独りにさせてしまう。己が追い詰め、挙げ句の果てに首を刎ねた女をである。男は、どちらを取ろうとも己の罪から逃げることを知っていたのだ。
だが、女はそう受け取らなかった。男に見捨てられたと思い、眼を剥いて地踏鞴を踏む。その怨嗟に塗れた貌が、男の心を締め上げる。
「姫様、聞いてくれ。そなたの想いも解る。妾も、死んだら一臣と一緒にいたいと思うだろう。でも――お願いだ。妾から一臣を取らないでおくれ。こいつは姫様と会ってから、ずっとそなたのことばかり想うていたのだ。それが、今じゃそなたを斬ったことでまるで廃人だ。妾は、これ以上死んだように生きる一臣を見とうない。一臣をもう苦しめないでくれ」
「何を云っているのですか。私が、一臣様を苦しめている――」
女にとって娘の指摘は慮外の一撃であった。女は、男と想い合っているという自負こそあれど、男を苦しめている自覚は持ち合わせていなかったのだ。寧ろ、痛苦にあるのは己の方だという憐憫すら抱いていたのだ。
女は改めて男を見遣る。自責と後悔に苛まれた善良なる罪人の表情をしていた。今、隣に娘が居なければ、気を違えてしまいそうな危うさが男にはあった。ここに来て、女は己の異常性に思い至ったのである。
女が己の罪を自覚してから崩れるのは早かった。生来、己より他人を重んじる性分である。おろおろとした人間らしい顔で男を見る。私は居ない方が良かったのですか、とは訊けなかった。訊くまでもないことだった。
「――嗚呼、私は何ということを。一臣様。私は、決して貴方を苦しめようとは」
「分かっている。俺が勝手に苦しんでいるだけだ」
男は手を挙げて女を遮る。
「君の想いは分かっている。こんなどうしようもない俺を好いてくれてありがとう」
「止してください。これでは、今生の別れのようではありませんか」
「姫様。それでも、別れねばなるまい」
二人に割って入ったのは娘である。
「一臣のことを信じてはくれんか。こやつは、誰よりもそなたを想っておる。だから、こんなにも苦しんでおるのだ。そんな奴が、そなたを簡単に忘れたりなどするものか。一臣の生涯に、ずっとそなたの影が残るのだ。死に囚われて進めないのではない。そなたの死を乗り越えて、一臣はより強く優しい人間になれるのだ。だから、だから――」
娘はそこで息を継ぐ。娘は、自身が口下手であり、他人に云って聞かせるなど不得手と思っていた。故に、娘は懸命に喋る。男を此岸に繋ぎ止めておくために。女に、美しいまま死んでもらうために。
「一臣を縛り付けないでくれ。既に一臣の心はそなたのものだ。それなのに躰まで持って行かれたら何も残らないではないか。頼む姫様、妾だって一臣が好きなのだ」
娘は男の手を更に引く。
「お主も黙ってないで何とか云ってくれ。姫様に殉ずるのが正しいことか。違うだろ、お主が殺した姫様の分まで生きることが、本当に正しい在り方だろ。今お主まで逝ってしまったら、姫様が何のために苦しんだか――お主が狂うてまで姫様を斬った意味が無くなってしまう。理屈なんてどうでもいい。妾はお主に逝って欲しくないのだ。頼む一臣、妾では姫様の代わりになれんが、それでもお主を好いておる。もう独りになりとうないのだ。だから――」
娘の声に嗚咽が混じる。それ以上は言葉にならぬようであった。
男は娘を抱き締めた。娘の泪が、男の背を押したのだ。
娘が泣き止むまで暫くそうしていた。娘が落ち着いたのを見計らってから「少しだけでいい。曄夏とふたりきりにさせてくれ」と云った。それを聞いて、またも娘は「妾を置いて行かないでくれ」と錯乱してしまう。男は娘を撫でるが、その視線は女に向けられていた。
「曄夏。話をしよう」
男の自我が完全な形を取り戻した瞬間であった。
男に拒まれた娘は、鍾乳洞の入口まで引き下がった。月の光が届かない影に潜み、社の前に立つ男を凝然と見詰めている。
娘は、男が女を追ってしまうことを懼れていた。二人が、あの社殿の中へ揃って消えてしまう光景が幻のように浮かび上がり、その度に目を瞑り遣り過ごす。
祈るような心持ちであった。
男は月を空を見上げながら物思いに耽る。もしかすると、あれは月ではないのかもしれない。夜空を切り取った円い孔であり、極楽浄土に続いているのではないだろうか。己達を憐れんだ釈迦が救いの糸を垂らしてくれるのではないか。女を背負い、その糸を登れば、二人の幸福な未来に辿り着くのではないか――。
「何を見ているのですか」
女の声で男の逃避は遮られる。男は己の詰まらぬ考えに苦笑したのち、「月を見ていた」と答えた。そして「今宵の月は綺麗だ」と嘘を吐く。
女も誘われるように宙を見上げ、「私には些か眩し過ぎます」と答える。
男は「そうか眩しかったのか」と云い、女は「ええ太陽のよう」と頷く。
それからは、男も女も喋らなかった。
男は訣別の意志を固めようとしていたし、女も最期の月光浴を愉しんでいた。
「覚悟は、宜しいのですか」
最初に口を開いたのは女であった。その短い言葉の中に、悲嘆が秘められていることを男は悟る。見れば、空を向く女の瞳は濡れていた。泪を落とさぬよう仰いでいるのだ。その儚くもいじらしい姿に男は勇気づけられる。
この女は屍になっても己の為に泣いてくれるのだ。引導を渡してやらねば、余計に苦しませるだけだ、と男は己を叱咤する。
「たった今、肚を決めたところだ」
女が男に視線を戻したことで、両の眼から泪が流れ出る。無色透明な雫は女の輪郭を伝い、地に落ちていった。
対する男も、泪を堪えることが出来なかった。見開いた双眸から、熱いものが溢れる。
男も女も、泪を拭おうとはしなかった。互いの姿を記憶に刻む為に見詰め合っていた。
「このような身に成り果てても泪は出てくるのですね。これでは貴方の姿が霞んでしまう」
「俺もだ。生まれてこの方、こんなに悲しいことはなかった」
「私の為に泣いてくれるのですね。貴方は、決して泣かない人だと思っておりましたわ」
敢えて揶揄うように女は云った。
男も下手糞な笑みを作り「何を馬鹿な。俺だって泣く時はある」と強がる。
男と女は慥かに悲しかったが、相手を思い遣り、仮令歪でも笑うことを選んだのだ。
「曄夏。俺は、君と一緒に行くことはできない」
一呼吸置いたのち男は切り出す。
結論から述べる、この男らしい情緒に欠けた物言いであった。
「漸く云ってくれましたね。それは、なぜですか」
女も、十分過ぎる間を置いたのちに返す。最期の時間を限界まで延ばそうとしたのか、単に言葉を選ぼうとしたのかは男には判らない。
「もう気遣いは不要です。私を諦めさせてください」
「俺には、守らねばならぬ誓いがある」
男は云った。泪は気合いで止めた。男の言葉は止まらない。
「俺は、生涯かけて椿の面倒を見ると、ある人と約束したのだ。償わなければならぬ大きな借りもある。それだけじゃない。俺が、あいつと一緒にいたいのだ。あいつが俺を好きだと云ってくれたように、俺もあいつが好きだ。もしかしたら、あいつの云う好きと俺の好きは違うものなのかもしれないが――俺は、こんな黄泉路の果てまで引き留めようとしてくれた椿の心に応えたい。今だけの話じゃない。あいつが居なかったら、俺は死んでいた。何度も助けてくれた。だから――行くことはできない」
男は遂に云い切った。
云い切ってしまった。
「分かりました。この想いが届かないのは残念ですが――椿さんに譲りましょう。私は独りで逝くことに致します。椿さんのこと、頼みましたよ。私の大切な友達ですから」
「分かった。必ず、幸せにしてみせる」
「敵いませんね。貴方も幸せになるのですよ」
女は淋しそうに俯いた。
「曄夏」
堪らず男は女の名を呼んだ。
「誓わせてくれ。俺は生涯君を忘れない。君を想いながら、君の愛した国で生きていく」
男の誓言に、女は泣き笑いの顔で、ありがとうございます――と云った。
「でも、私に縛られることはありません。私は、貴方の心にずっと――ずっとおりますから」
男は頷いた。
「一臣様。私は今、笑っていますか」
男はまた頷いた。
「貴方と逢えて――想いが通じて、曄夏は幸せでした。今度こそ思い残すことは御座いません。一臣様、大好きです」
女は躰を震わせながらも云い切った。
女は男に背を向ける。社の扉が音もなく開かれ、黒い靄が地を這うように溢れ出す。
「曄夏。今までありがとう」
男は叫ぼうとしたが、声が掠れて何も云えなかった。それでも女には届いた。
女は足を止め、肩越しに振り返る。
「一臣様。もう一人の私のことを、お願い致します」
男がその言葉の意味を理解するよりも早く、女は男から目を逸らし、再び社へと歩き出す。
暗い影が女を包み、扉はゆっくりと閉ざされた。
御扉は二度と開くことはなかった。
月だけが煩い程に輝いていた。




