■白昼夢 椿姫
男は、自身を呼ぶ娘の声を聞いた。瞼を持ち上げれば、明瞭としない視界の中、赤い着物の少女がこちらを覗き込んでいる。共に暮らしている椿という名の娘である
上体を起こした男が戸口を見れば、障子越しに淡い光が差している。明け方であるらしい。どうやら己は現世に舞い戻ったようだ、と考えてから、あの色彩を欠いた世界が夢であることに思い至る。
己は曄夏を斬っただけでは飽き足らず夢でも圧し殺したのか、と男は頭を抱える。女の躰を潰した嫌悪もさることながら、同じ女を二度も殺めた自責が勝っていた。しかも二度目は屍を砕いたのだ。己は一体どれだけ女を冒瀆すれば気が済むのだ、と男は自身に毒吐く。
「一臣、しっかりせい。大丈夫か」
枕元に座した娘が男の背を撫でつける。こうすれば男の気が紛れることを娘は知っていた。男が魘された時、甲斐甲斐しく寄り添うと娘は決めていた。自分がしてやれることなどこれくらいだと思っていたのだ。
「椿。もう、いい。落ち着いた」
憔悴した男は答えるが、娘は藍染めの着流しを摩る手を止めない。
「気にするでない。妾が撫でたいからこうしているのだ」
「済まない。俺は今日も煩かったか」
男の質問を娘は黙殺する。代わりに「夢見が悪かったのか」と訊き返す。男も娘も、互いに答えが分かり切っている問答であった。だが、それしか言葉を見付けられなかったのだ。
「今迄で一番悪い夢だった」
呟くように男が云った。これ以上踏み込んでいいものかと娘は迷ったが、男が淋しげに目を伏せているを認め、「どのようなものだったのだ」と尋ねた。
「長くなる。聞いてくれるか」
「構わん。話してくれ」
男は暫し口を閉ざしたのち、「黄泉の国で曄夏と会った」と云った。そして胸に溜まった泥を吐き出すが如く静かに語り始めた。暗い鍾乳洞にいたこと。瑠璃色の灯を追った先に女がいたこと。黄泉の神々に伺いを立てるという女を行かせてしまったこと。女を追ってしまったこと。月の照る社殿の前で女が死んでいたこと。そしてもう一度女を抱き殺したこと――。
男の語り口は理路整然として簡潔でもあった。故に、娘は男が見たという悪夢の光景も、男の筆舌し難い慟哭も手に取るように悟ってしまった。理解できたからこそ、娘は男に掛ける慰めの言葉を失ってしまう。何を云ったところで月並みの文句にしかならず、男には届かないと思ったのだ。何も云わぬ代わりに娘は男の手を包むように握った。
男に触れながら娘は思う。男の目に映るのは女のみである。将来を誓った相手を殺したのだ。それを考えれば男の苦悶も当然だろう。だが、娘には羨ましく思えた。死して尚、男の心に居座る女に微かな苛立ちを覚える。もし男が自分を殺したなら、男は今のように――否、今以上に苦しんでくれるのだろうかと娘は夢想する。そうあってくれたら嬉しいとも。
娘は、男のことは勿論女のことも好いていた。二人が一緒になるのを心から喜んでいた。故に、怒りに似た熱が治まらないの己の心が不思議でならなかった。今迄、嫉妬という言葉を知っていても、それを抱いたことがないが故の、純真無垢なる困惑であった。
娘の思索は、男が身を引き攣らせたことで遮断される。見れば、男は痛みを堪えるように歯を食い縛っていた。その顔には痣が浮き出ている。否、あれは痣ではない。鮮明な藍鉄色をした刺青である。蛇とも龍ともつかぬ鱗をもった化生が男の頬を泳ぎ――消えていった。
「一臣。今のは、一体」
娘は息を荒げる男に問う。訊いてから、自分の顔など見ようがないことに気付く。何があったのかを知りたいのは男の方であろう。だが、男は「曄夏の仕業だ」と答えた。
「姫の仕業だと」
「曄夏は、俺に忘れて欲しくないのだ」
だからこれは、曄夏がいたという徽なのだろうな――と男は自虐めいた笑みを浮かべて嘆息する。久々に見せる男の表情であったが、その痛々しい顔が娘の心を更に疼かせる。
漸く、娘は女の思惑を理解する。愛する男に生涯己だけを見て欲しい。その証を刻み付けてやりたい――そう女は考えたのだろう。己の存在が過去となり、その上男が他の女と一緒になるなど辛く淋しいことであろう。腹も立つだろう。だが、それは死んだ者の都合だ。生きている男には何ら関わりも無いことである。
「椿。君からはどう見える」
「どう、とは」
男は娘の手を握り返した。だが、その心に己が居ないことを娘は判っていた。
「俺の顔に、痕のようなものがあるだろう」
娘は、そんなもの見えやしないよ、と云ってやりたかったが「蛇に似た刺青が見えたが消えてしまった」と答える。それを聞いて男は落胆する。その態度が娘をまたしても刺激する。
「狡いなぁ、姫様は」
娘の弱音を男は聞き逃さない。「何が狡いのだ」と男が訊けば、「お主をこうも縛り付けている」と娘は返す。
「今日も、姫と会うのか」
「分からない。そうあって欲しいが」
「ならば、今宵の夢路は妾も付き合おう。姫に云いたいことができたのだ」
娘は考えを巡らせる。生憎、自分は頭が回る方ではない。男と違って煌めく知恵や学識も無い。それに恃むことにも慣れていない。だが、女の死に囚われ、己を呪う男の在り様は間違っていることだけは娘にも判った。
では、死せる者への正しい向き合い方とは如何なるものか――。
男に訊こうとして、止めた。今の男には答えられまい。それに、これは自分が見出さなければならぬ問いである。男と黄泉路を歩むまでには見付けておかなければならない。
娘は男の肩に額を乗せる。今は、もう少しだけ男の傍にいたかった。
娘が布団を抜け出し、裏店の釣瓶井戸に出てきたのは、陽が完全に昇ってからであった。
井戸の周りには長屋の女達が集い、無患子の実を入れた盥で襦袢や褌を洗ったり、棒手振から買ったばかりであろう大根や里芋の泥を落としたり、愚痴や噂話に興じたりと忙しない。
少し離れた稲荷様の祠の前では、年端もいかぬ童達が賑やかに駆け比べをしている。
顔を洗わせてもらおうと娘が釣瓶を手にした時、背後から呼び止められる。振り向けば、若い侍が立っていた。京四郎という、かつて姫の護衛を務めた武芸者である。
周囲の女達が一斉に色めきだつのは、世間を騒がせた事件の関係者が現れたためか、或いは若武者の面構えが眉目秀麗だったためか。傍らにいる童女など、大根を浸した桶に手を突っ込んだまま、口を半開きにして侍に見蕩れている。娘は、一臣の方が余程佳い男じゃないか、趣味の悪い餓鬼どもめ、と密かに憎まれ口を叩いてから「何の用だ」と侍に尋ねる。
「一臣殿に見せたい物があってな。今、一臣殿は屋内にいるのか」
「いるにはいるが、まだ伏せておる。何を持ってきたのだ」
娘が、男と会わせたくないと含みを持たせれば、侍は考える素振りを見せたのち「姫を描いた絵額を持ってきたのだ」と答えた。
「絵額、とな」
「然様。供養絵額だ」
娘にとって聞き慣れぬ言葉であった。侍は、退紅色の風呂敷で包んだ板のようなものを小脇に抱えている。どうやらそれが供養絵額なるものらしい。
「本来であれば本家の者にしか見せられぬのだが一臣殿は特別だ。それに、姫に所縁ある物でも持ってくれば一臣殿も踏ん切りが付くだろうと思ってな」
「なるほど。そう云われては門前払いにする訳にはいかんな。致し方ない、ついて参れ」
娘は釣瓶から手を放し、長屋へ引き返す。様子を窺っていた女達は事情を聞きたい様子であったが、二人の空気に妙な緊張があったのを察して、結局遠巻きに眺めるだけであった。
娘が塒に戻ると、男はいなかった。煎餅布団が枕屏風の裏に畳まれ、吊られていた黒尽くめの一張羅が着流しに替わっていることから、男はどこかに出て行ったらしい。
近頃、男が行き先を告げずに姿を晦ますことが間々あるのだ。大抵は裏通りを彷徨っていたり、酒屋で独り静かに杯を呷っていたりなど、暮六ツには帰ってくるのだが、娘は気が気でなかった。男が、二度と帰ってこないのではないかという不安をどうしても拭えなかったのだ。
「生憎だが一臣は出ていったようだ。おそらく、夜まで戻らんよ」
「折角、受け取ったその足で来たのだが」
「御苦労なことだ。まあ座らぬか」
娘は侍を床の間に上がらせ、卓袱台を挟んで座る。
侍は風呂敷の結び目を解くと、「今朝方、絵師の外川先生が描き上げたものだ」と云って、絵額を卓袱台に丁重に載せる。娘は絵額を覗き込み――感嘆の息を吐く。
縦二尺三寸、横三尺の額縁の中に、女がいた。桜色の着物で着飾った女は煌びやかな座敷に座り、穏やかな笑みを浮かべている。背後の掛け軸には、女の没年月日と戒名と思わしき文字が並んでいる。左下の空白には、『施主、菊池京四郎』とあった。
繊細緻密な筆遣いで、此世でも彼世でもないひとつの世界が描かれていた。出来上がったばかり故か顔料の色彩はどこまでも鮮明で、今にも女が動き出しそうな迫力さえ放っていた。
「これは巧いものだな。言葉が見付からぬよ。だが、惜しいな」
顔を上げた娘は何とも云えぬ表情をする。この死絵が優れた出来であるのは慥かだが、描かれた女の気持ちを思えば手放しで褒め称える気にはなれなかった。
「これでは、姫様が可哀想だ」
「可哀想、だと」
侍が、形の良い眉を怪訝そうに上げる。
「姫様はずっとこの絵額に囚われておるのだろう。こんなただっ広い部屋にたったひとりでな。それではあまりにも不憫じゃないか。見ろ、姫様の隣が空いておるではないか」
娘の云わんとしていることを察した侍は、腕を組んで「つまり描き足せと」と訊いた。
「姫様を思えばの話だ。無論そなたにも都合があるのは知っておるが――同じ男を好いた女として云わせてもらえば、妾が姫様だったら嬉しく思うぞ」
暫くの間、絵額に視線を落としていた侍は意を固めたように頷いた。絵額を包むと即座に立ち上がる。「もう行くのか」と娘が訊けば、「善は急げだ」と侍が答える。
「絵額は瑞応院に奉納することになっている。一臣殿にも宜しく伝えてくれ」
云うや否や、侍は足早に去っていった。その足取りから覇気が滲み出ているのは、女の為にできることを見付けたからだろう。
羨ましい奴め、と裏通りを闊歩する色男を見送りながら娘は思う。あの侍にとって、これもひとつの弔いなのだ。残された者は、銘々が死者を偲び、自分にしかできぬことを為して――そこで初めて故人の死を受け容れるのだ。謂わば、己の心に居座る生きた女を、再び己の手で葬ることに他ならない。
残酷なことだ、と娘は歯噛みする。だが、それでも男にはもう一度、女を殺して貰わねばならぬ。いつまでも女の死に目を背けていては、男まで死んでしまう。果たして、それで男が喜ぶのか。男にとって、女の死に殉ずることこそ本望ではないのか。
娘は、己の為すべき行動を考える。だが、どれだけ思い悩んでも、答えは終ぞ出なかった。