第一夜 黄泉戸喫②
祓いの灯火は、洞窟の右から左、左から右へと、ゆっくりと彷徨していたが、やがて動かなくなった。静止したまま近付きも遠ざかりもしなかった。それを見て狂乱したのは男である。何度女の許へ走り出そうとしたことか。その度、信じてくれと云った女の姿を思い出して、その場に踏み止まる。男は、女を信じ続けることが、女への忠義だと思っていた。
だが男の忍耐が保ったのも灯火が在る間だけであった。光が消えた刹那、男は不安に支配された。今まで、孤独を苦と感じたことのなかった――寧ろ、安堵を見出せる種類の人間だと自覚していた男であったが、この時ばかりは違った。云いようのない恐慌に駆られたのだ。
女は窮地にあるのだ。もしかすれば、件の神から生者の国へ抜け出す背信者として責め苦を与えられているのかもしれない。ならば、女を護れるのは己だけだ、と男に正義が宿る。
男は駆け出していた。桟橋を疾走する。急ぐあまり、足を滑らせ右足を挫いてしまうが男は止まらない。男は、救いを求める女の絶叫を聞いたのだ。それは天井から落ちた雫が水面を叩く音でしかなかったが、男は、慥かに女の声なき声を聞いたのだ。
この時だけは、女が腐り果てた姿でいることへの恐怖も、自身が黄泉へ踏み込むことへの禁忌も忘れていた。ただただ女に会いたいという嬰児の如し庇護を求める心と、女を救える唯一の存在が己だという湾曲した自尊心だけがあった。男は、駆け付けた己に対して、助けに来てくれてありがとうございます、と女が笑ってくれるものと決めつけていたのだ。
男は脚を止める。この辺りで行燈が消えた筈だ、と周囲を見回す。前にも後ろにも、水底を覗いても女はいない。
女の行方を辿っているうちに男は鍾乳洞から抜け出していた。外に出たと判ったのは、革靴越しに柔らかな土を踏む感触を覚えたからである。次いで頭上から降り注ぐ真白な光に気付く。宙を仰げば、墨を垂らしたが如く昏い空に望月が煌々(こうこう)と輝いていた。朝日と見紛う程に眩い光であった。
前方には小さな社があった。瓦葺きの錣屋根は濡れたような光沢を纏い、途方もない威圧と拒絶を男に与えた。社殿の前には苔生した鳥居が鎮座して、神域の周囲には断崖が聳え立っている。踏み入れた者を決して逃さぬ牢獄の如し景色であった。
切り取られた空を睨みながら男は思う。ここは井戸の底だ。黄泉とは地底に在るものではない。天から降るものなのだ。帰らなくては。己と女の居場所は、こんなところではない。早く、色のある世界に帰らなくては、と。
歩き出そうとした男は、鳥居の足元に瑠璃行燈があるのを認める。灯は消えていない。洞窟からは影となり見えなかったのだ。男は進もうとして――行燈の脇に、何かが横たえられている。人の形をしていた。四肢を投げ出し、宙を向いた姿勢である。
男は自身の行燈を掲げるが、灯は既に消えていた。男を守護していた暖かい炎は力尽き、世界から完全に色彩が失せた。男は満月を頼りに目を凝らして――。
「一臣様」
横臥する人形が云った。低く籠もってこそいたが、男のよく知る声であった。
「曄夏」
動揺を抑え、男は呼び掛ける。鈍々(のろのろ)と身を起こす女に、冷ややかな月光が突き刺さる。太陽の熱い光ではない。月面の岩肌に濾過された、生物にとって不要な死んだ光である。
男は悟る。女は黄泉に呑まれてしまった、と。その証拠に、肌理細やかな膚は荒れ、透けるような艶は失せていた。煤竹色をした朽木の如し手脚が伸びるだけである。柔らかな肉は削がれ皮と骨しか残されていない。黒髪も殆どが抜け、側頭部に至っては頭皮すらなく、砥粉色をした頭蓋が露出している。どう見ても屍人であるのに目玉だけが炯々(けいけい)と光っている。
女が何か云おうとした時、口内から米粒のようなものが溢れ、地面にさらさらと零れていく。蟲であった。女の臓腑を貪り丸々と肥えた蛆である。死臭を撒き散らし、女の足元を跳ねるように這いずり廻っている。
死臭が鼻を劈き、男は堪らず呻く。女は、己の死に直面する男の様子を見詰めていた。
女は再び口を開く。もう蛆は出なかった。
「なぜ、来てしまったのですか」
舌と唇の動きは緩慢で、世辞にも滑舌が良いとは云えない。それでも男は察して頷いた。女が己を責めていることも判った。故に「済まなかった」と詫びることしかできなかった。
今この時、男は女に気圧されていた。男にとって自身が圧倒されたことこそ衝撃であった。男は、女が如何なる姿になろうとも愛を貫くつもりであった。だが、己の信義に男は背いてしまった。女を殺めた己にしかできない最高の贖いの方法であったにも関わらず。
「嗚呼、あァ――。またしても貴方に斯様な姿を見せてしまうなんて」
怯えの混じる視線に晒されることに耐えられず女は背を向ける。死装束の背は一面黒い染みで濡れていた。腐った体液と膿であり、燦然たる月明かりが惨憺を煽る。
「貴方は、そんなにも私がお嫌いなのですか」
女は男を詰る。慥かに男は口を閉ざし、また戦慄いてもいたが、この緘黙は恐怖したが故ではない。女の脚に、黒い靄が纏わり付くのを認めたからである。
「曄夏。君の周りにあるものは何だ」
漸く男が喋った。女が望んで已まぬ声であった。
女は先刻よりも更に低い声で笑いながら「恨みと穢れですわ」と答えた。
「恨みと穢れ」
「そう。貴方への恨み」
向き直った女の眼光に貫かれ男は大いに狼狽える。愛した女の詰責に平然としていられる程、男は鈍くはなかった。寧ろ、頑強な理性と同等以上に繊細な性質であった。それ故――女の苦悩が解るからこそ男は沈黙を選んだ。女が己を責めたいなら好きにさせてやろう。女にはその権利が十分過ぎる程あるのだ、と男は己を納得させる。
女は男に歩み寄る。男の決意が女にも伝わったのだ。ならば、私の胸に沈む醜い澱を吐き棄ててやりましょう、と女は応えることにした。男も女も、互いに想い合っていたからこその応酬である。余計な言葉など存在しない、二人にしか解らぬ意思の疎通であった。
だが、それが却って二人を苦しめた。生と死の境界を隔てようとも相手の心が分かるのだ。嬉しいと思う反面、また共に幸せな未来を享受できるのではないか、とありもしない期待を抱いてしまうのが虚しかった。
未練を振り捨てんが為、女は男を拒もうと意を決する。否、決めようとして――その意志は男の表情で鈍ってしまう。男は沈痛な顔をしていた。女が初めて見る顔だった。
「見ての通り私は黄泉の存在です。けれど、貴方は違う。貴方はまだ境界を越えてはいない」
一言一言、紡ぐような言葉であった。
「私は、貴方と共に行くことはできません。それがなぜか分かりますか」
女は問うた。男は答えられない。
「共食を済ませたからではありません。貴方が、私を穢いと思ったからです。醜い化生だと思ったからです。鬼魅の悪い化物だと思ったでしょう」
女は問いを重ねる。やはり男は答えられない。
「骸となった身とは雖も、女の矜持は心得ております。自分を見下している者と、どうして生涯を歩めましょうか。私は、私を救ってくれる御方になら喜んで従ったのでしょうが――。貴方では無理です。それとも、貴方は私と死んでくれますか」
女は嗜虐を好む残忍な微笑を浮かべていた。それが女の本心でないと知りつつも、男は背筋が凍る思いであった。男は、女に返せる言葉を何一つ持ち合わせてはいなかった。
「貴方は生者、私は死者。貴方はいずれ私を忘れてしまうでしょう。でも」
女の語りが途絶えた。怪訝に思ったのは男である。忘れるのは仕方ない、それが摂理である――などといった忘却を是とする文句が突き立てられると覚悟していたが、いつまで経っても女は訣別の台詞を寄越さなかった。見れば、女の躰を黒い靄が包んでいた。
「そんなこと、赦せるものですか」
怨嗟に抱かれた屍姫は云った。その貌は喜々として、歯を剥き出す様は凄惨に満ちていた。
「貴方の心はいつまでも私のもの。忘れていいはずがない。だって――貴方に忘れられたら、私はどうしたらいいのですか。最早、天に昇ることも地に還ることも叶わない。ずうっとここで独り。それなのに、貴方はいつか私を過去へ追いやって、別の女と一緒になるのでしょう。そして子を生し、暖かい家で老いて死ぬことができる。今際の際を看取られながら。そんなの――赦せる訳がない。私は、ここまで自分を虚仮にされて黙っていられるほど慎ましい女じゃない。貴方の前では取り繕っていたけれど、私は綺麗な御姫様なんかじゃない。浅ましい女です。ですから――」
女は男の眼前に迫っていた。愛情と執着、そして極限の憎悪を綯い交ぜにした哀しい眸をしていた。
女は男の顔に手を伸ばす。黒死病に罹ったが如し爛れた腕である。女に頬を撫でられながら、男は湧き上がる恐怖と戦っていた。できることなら不気味な二本の腕を振り払い、今すぐにでも遁走したかった。だが、自責と贖罪に縋り、男は寸前のところで踏み止まっていた。
「私がいたという証、刻み付けて差し上げましょう」
もう逃がさぬと云わんばかりの、恍惚とした表情であった。
男は、腐った女の手を傷付けぬよう、そっと掌を掴んで下ろしてやる。それを見て「やはり貴方は私を嫌っているのですね」と女は喚くが、男は「聞いてくれ」と制止する。
男は女を抱き寄せる。これ以上力を込めれば、皮と骨が滑ってしまうところで止める。無骨と繊細を併せ持つ男にしかできぬ抱擁であった。
「曄夏。俺は、君を忘れない」
「何を今更。口では何とでも云えましょう」
男の胸板に頬を付けたまま、女は呟く。女が喜んでいるのか怒っているのか、泣いているのか笑っているのか、やはり男には判らない。
「ねえ。もっと強く抱き締めてくださいな」
女はねだる。女の手が、男の背に回される。
「いいのか」
男が訊いた。加減を超えれば間違いなく女は毀れてしまう。俺はまた君を殺すことになる。それで本当に良いのか――と言外に込めれば、女は「構いやしませんよ」と促す。
女は顔を上げ、男と視線を合わせて笑った。半開きの口からは黴だらけの歯が覗き、滑稽極まりない光景であった。だが、それでも男には綺麗に見えた。世界に二人しかいない今、男には腕の腐乱死体が、他のどの女よりも魅力的に思えた。先刻までの恐怖は消えていた。
「私を毀してください。愛しい男の胸でもう一度死ぬことができるのなら、他には何もいりません。遠慮はいりませんよ」
さあ、どうぞ――と女は男を求める。男が意志を固めるまで時間は掛からなかった。
男は徐に女の躰を締め上げる。髪に添えた右手で女の頭を圧し潰す。背に回した左手は、死装束越しに、女の膚と血肉を割け入り、肋骨を次々と砕いていく。
「――嗚呼」
熱に浮かされたように女は喘ぐ。
「私のこと、忘れなんてさせるものですか――」
女の咆哮に後押しされ、男は女を圧し殺した。手を放せば、女だったものは崩れ落ちた。
女を擂り潰した厭な感触はいつまでも消えなかった。