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第一夜 黄泉戸喫①

 最初に感じたのは足元に這い寄る寒さであった。その冷気は湿度と質量を(はら)み、埋没していた男の意識を容易に引き上げる。全身を濡らした獣に、(すね)を撫でられるに似た感覚であった。


 男は己が暗い空間に立っていることを認める。右手には西洋風の装飾が施された行燈を提げており、硝子(がらす)越しに橙色(だいだいいろ)の小さな灯が柔らかな光を放っている。闇を照らすには心許無いが、見廻せば己が平坦な橋の上にいることが分かった。男の立つ位置からは、橋がどこまで続いているか見通せない。先端は闇に溶けていた。振り返っても同じことであった。


 どうしたことか、と男は眉を(ひそ)める。此処(ここ)までの道程(みちのり)を覚えていなかった。裏店(うらだな)煎餅布団(せんべいぶとん)に伏せたのが最後の記憶である。ならばこれは夢だろうと結論付け、男は口の端を歪めた。夢と分かって安堵したのではない。発狂を重ねた末、(ようや)く死ぬことができたと期待している自分に気付いたのだ。莫迦(ばか)げた己に対する嘲りの笑みであった。


 男は歩き出す。夜かと思ったが違う。見上げたところで星も月もない。濡れた岩肌が広がっているだけである。欄干(らんかん)の向こうに行燈を掲げても同じことであった。


 視軸を下ろせば、すぐ下には水面が広がっている。何らかの鉱物が溶け出しているのか、水は深い紺碧色(こんぺきいろ)をしている。耳を澄ませば、雫が水面を叩く水音が聞こえる。


 そこで男は己が地底湖にいるのだろうと推測する。ならば、今己が立っているのは桟橋だろうとも。簡素な造りでどこに続くのかも分からないが、引き返すことは念頭になかった。恐怖はない。在るのは、自分がどうなろうとも構わないという自棄だけであった。(むし)ろ、水底から得体の知れぬ化生が現れ、己が身を八つ裂きにしてくれることすら願っていた。


 男の革靴が橋板を叩く規則的な音が木霊(こだま)する。薄ら笑みを浮かべて闊歩する男の姿は幽鬼宛らあった。事実、澄ました端正な顔立ちとは裏腹に、男の(うち)は滅茶苦茶に荒れ狂っていたのだ。


 (しばら)く歩いたのち、男は前方に光るものを見付けた。暗闇に際立つ瑠璃色(るりいろ)の光である。誘われている、と男は思った。あの光が、己に向かって手招きしているように見えたのだ。


 不意に、男は郷愁に胸を()かれた。光源に接近する程、疼きを伴う懐古が強くなる。否、懐かしいなんてものではない。男には判った。彼方(あちら)で待つ者が誰なのかを。


 曄夏(ようか)――。


 捨て鉢めいた感情が消えたことに男は気付かない。一瞬でも目を逸らせばあの灯火が消えてしまうのではないかという(おそ)れが男を駆り立てる。最早祈るような心持ちであった。


 瑠璃行燈に追いついた。鍾乳洞を照らす厳かな青い炎は、男の掲げる赤い炎とは対極の存在であった。尤も、男は青色の火が燭台に宿ることがないと知っていた。小さな灯火を包むのは数珠繋ぎの蒼玉(サファイア)であり、故に青く見えるのだ。


 行燈の上、円い把手を白い手が掴んでいた。その手は女のものであり、白い袖が見えた。


 男は更に視線を上げる。焦れる程緩慢とした動作であった。それは、男が己の取るべき態度、掛けるべき言葉を見付けられなかったことに由来する。


 男は、(こいねが)った女に相見(あいまみ)えたことを喜んだ。だが、その浮わついた心を自覚した途端、慣れ親しんだ自責が膨張した。ある種の破滅的な慚愧(ざんき)が吠えたのだ。人を殺めし外道めが、己は詫びに来たのだ。仮令(たとえ)赦しを得られずとも何度だって謝ることしかできぬのだ、と。己の正義感に貫かれ、男にはこの場に相応しい言動を見失ってしまう。ただ一言、夢だとしても逢えて良かった、と本心を伝えることが男にはどうしてもできなかった。


 葛藤を嚥下(えんげ)できずにいる男を、蒼玉の行燈を提げた女が見詰めていた。生前と変わらず、大きな瞳に白い膚、腰まで届く豊かな黒髪を持っていた。両者の持つ温度の異なる炎が、他方を食らわんと輝きを増し、緊迫を煽る。


 まだ男は口を開かない。女も、紅を差した唇を引き結んだままである。


 先に折れたのは女であった。


一臣様(かずおみさま)。お待ちしておりました」


 女の声は反響する前に消えていった。静寂を害さぬよう心遣った言葉であったことは、機微に疎い男にも感じ取れた。女がこちらを少しでも気遣ってくれたことが男には嬉しかった。用意していた謝罪の言葉は何処かに行ってしまった。


「俺を待っていたのか」


 男が云った。想像よりも喋ることは容易であった。男は渾身の勇気で女と対峙する。この機会を逸すれば、もう二度と立ち直れぬと男は分かっていたのだ。好いた者の前では良い恰好をしたいという見栄もあった。


(わたくし)は、貴方にこの首を切られてから、ずうっと、この(はて)で待っておりました」


 女は微笑む。表情とは裏腹に、酷薄な響きを忍ばせた台詞(せりふ)であり、男はそれだけで怯んでしまう。男が今まで経験したことのない類型の恐怖であった。


 苦痛を堪えるあまり男の表情に険が差す。猛禽(もうきん)の如し鋭い目を絞り、被害者である女と(いえど)も呑まれてしまう。女は男から視線を逸らすが、男はそれを拒絶と受け取り、外面からは分からぬ領域で深い自責を続ける。


「君は、俺を恨んでいるのか」


 男が訊いた。訊かずとも判り切っていることである。男の裡に潜むもう一人の己が、どこに自分を殺した奴を恨まない者がいるのか。他人様の命を奪っておいてその言い草は莫迦のすることだ、と嘲笑う。男はその詰責(きつせき)に反論できない。だが、訊かずにはいられなかった。


 己を傷付けて悦に浸ろうという自己憐憫ではない。それよりも醜く見下げ果てた願望――女の口から赦しの言葉が転がり出ることを期待していたのだ。


 女は目を見開く。何を可笑(おか)しなことを云うのだろう、という顔であった。


「何を、仰るのですか」

「莫迦なことを訊いた。忘れてくれ」


 男は撤回する。耐え難い羞恥は遅れてやってきた。

 (かぶり)を振る男を見て女は穏やかに笑う。男にとって不可解な表情のまま「忘れませんよ、決して」と女は(こぼ)す。


「貴方のお言葉は、如何なることがあろうとも忘れは致しません。貴方は、私が貴方を恨んでいると思っているのですか」


 女は、鈴を張ったような目で男を覗き込む。縋るようにも責めているようでもあり、男は戸惑いを隠せない。女が言外に秘めた、私はそんな人間ではない、信じて欲しい――という切なる訴えを男は察することができなかった。


「私が貴方を憎むなど、たとえ天地が覆ろうとも断じて有り得ません」


 女は改めて己の意思を表明する。男が欲して止まなかった恩赦の言葉である。だが、男はそれを素直に受け取る程、楽観的な性分をしていない。そんな(はず)がない、俺は責められて然るべき人間なのだ、と己を責めてしまう。自己嫌悪に浸り周囲を拒絶した方が楽であったのだ。


 だが、男の幼稚な堂々巡りも、女の瞳が泪を(たた)えたことで終わりを告げる。


 男は、信じられない、と云う代わりに「本当か」と訊いた。

 対する女は「本当です」と頷く。


 女の眼は濡れていた。男を守る理性という名の鎧が溶解していく。


「貴方をここに呼んだのは私です。私と共に、来てください」


 女は男に向かって(てのひら)を差し出す。男も、今度こそはと女の手を掴もうとするが。


 寸前で男は静止する。


 男の第六感が警鐘を鳴らしたのだ。女に寄り添うべきと叫んでいた本能が、今ここで女の手を取ることを拒んだのである。


 不審を抱いたのは女の方であった。眉根を寄せ「何故です。私の何が気に入らないのですか」と問うた。男は女の質問に答えず「俺が君を誘ったのではないのか」と訊き返す。


「慥かに、貴方の厭世の御心を、貴方が私に向けてくださる慕情を感じておりました。ですが、貴方をここに呼んだのは他ならぬ私です」


 遣り取りを交わすごとに女は饒舌になっていく。動くのは朱色(あけいろ)の唇ばかりで、躰は凍てついたように微動だにしない。得体の知れぬ魅力を放っていた。


「ここはどこだ。俺が呼んだのではないのなら、ただの夢ではないのだろう」

「嫌ですわ。もう、とっくに察しがついているのではありませんか」


 女は言の葉に思わせぶりな含みを持たせる。男は答えない。その沈黙が答えであった。

 漸く、男の数少ない長所である小賢しさが息を吹き返したのである。

 女は、男が口を閉ざしていることに満足そうに微笑んだのち。


根之堅洲国(ねのかたすくに)と云えば、貴方なら解るでしょう」


 と(うそぶ)いた。


 根之堅洲国――詰まるところ、ここが黄泉なのだ。

 そこで男は、胸に(くすぶ)る懐古と既視感の正体に思い至る。懸想していた女に相見えたからではない。男はこの場所を知っていた。無論訪れたことはない。情景として()っていたのだ。


「ここが、黄泉比良坂(よもつひらさか)なのか」


 訊くでもなく男が呟く。女は、その発言が己に向けられたものではないと知りつつも頷く。


 黄泉比良坂とは――日本神話における此岸と彼岸の境界であり、男神・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、火傷で死んだ女神・伊弉冉命(いざなみのみこと)を追って辿り着いた場所である。伊弉諾尊は亡き妻に会うことができた。そして妻を現世に連れ戻そうとしたがその願いは叶わない。日ノ本を創成した神と雖も、生と死の境界を覆すことはできなかったのだ。


 男は今一度女を見遣る。頭の天辺から脚の爪先までを(あらた)めるが、生前と変わらず美しいままである。だが、その姿が黄泉の主宰神と成り果てた女神・伊弉冉命と重なって見えた。即ち、今でこそ生者と変わらぬ躰をしているが、(たちま)ちその瑞々(みずみず)しい肉体は腐り、四肢を八雷神(やくさのいかづちがみ)に喰われてしまう光景を幻視したのだ。


 男は、そんな訳があるか、と眼前の生きた女を信じようとするが、青い灯火に照らされる女では説得力に欠けていた。


 それに――男は悟ってしまった。


 記紀に(つづ)られた神々の訣別が自分達にも訪れてしまうことを。


 男はそこまで思索を巡らせ、己が女の手を取らずにいた理由に気付く。手指を握った刹那、腐乱した女の肉がずるりと剥け、白い骨が露わになることを危惧したのだ。


「一臣様。さァ、参りましょう」


 男の焦燥を知ってか知らずか、女は再び掌を差し伸べる。しかし男は逡巡したのち「君の手を取ることはできない」と云った。


 面食らったのは女である。「何故ですか、一度死んだ女には触れたくないと貴方は仰るのですか」と語気を荒げる。対する男は「それはできない」と答え、女の双眸を見据える。吸い込まれるような錯覚こそあったが、それが生者の持つ理知の光によるものか、はたまた木乃伊(みいら)の如し凄味によるものかの判別はつけられなかった。


「何が違うのですか。違うと云うのなら、私の手をお取りください」

「断る。君の方が、こちらに来るべきだ」


 男は云った。返答に窮する女を余所に、男は一歩詰め寄る。互いの手が届く距離であるが、生前あれだけ感じた桜花の芳香はどこにもない。蛋白質(たんぱくしつ)が分解する屍人の腐敗臭もしない。幾年も秘匿された洞窟の無垢な空気に混じり、行燈から上る僅かな煤の臭いがするだけであった。


「曄夏。君を守れなくて済まなかった。今度こそ、俺と生きてくれないか」


 男は云い切り、女へ右手を突き出した。女の目に、一瞬喜色が灯ったのを男は見逃さない。


「一緒に来てくれ。俺は、君がいなければ生きていけないのだ」

「ならば、貴方こそこちらに来てくれれば良かったのに」

「それはできない。俺は君と生きたいのだ。だから来るのは君だ」


 低く落ち着き払った声が此世と彼世の狭間に響く。有無を言わさぬ威圧を秘めた音吐(おんと)である。


 女は、男の文句を浴びた瞬間から、男に逆らおうという気概は削がれていた。男の無骨で(たくま)しい掌に誘われるが――自身の手を下げた。女の最後の抵抗である。


 今度は男が(いぶか)る番であった。女の名を気遣うように呼べば、女は俯いてしまう。


「私は、そちらに行くことができません」

「なぜだ」


 女を引き込み損ねた男が問う。女は、少々の間を置いたのち。


「私はもう共食(ともへぐい)を済ませてしまったのです」


 と答えた。


「共食だと。それでは、もう」


 男は、女の云うことが解ってしまった。共食――黄泉戸喫(よもつへぐい)である。女は既に彼岸の食物を口にしてしまったのだ。故に、此岸に舞い戻ることは叶わない。女神・伊弉冉命と同じように。


 共食が何だ、黄泉戸喫が何だ、と男には云うことができなかった。男は、その意味の重さを知っていたのだ。共同体の一員として食を共にすることは、生涯そこに身を置くという相互扶助ないし共食信仰――否、そんな言葉では生温い、命を賭した盟約なのだ。


 絶望を突きつけられた男だが、諦めることこそできなかった。唇を(つぐ)んだまま女を見ていた。


 女とて、男の思いを分かっているからこそ何も云えずにいた。男の眼差しを受けていられず、目を伏せ「申し訳ありません、私が共食をしていなければ」と詫びる。


 記紀にはどう書かれていたか、と男は再び己の学識に頼る。神話において女神・伊弉冉命が夫に云うのだ。「私はもう黄泉戸喫をしてしまった。故に生者の国に戻ることはできない」と。それを聞いても尚連れ戻そうとする夫に対し、「黄泉の神々に相談してくる。必ずここで待っているように。決して、私の姿を見てはいけない」とも。だが、男神・伊弉諾尊はいつまでも戻らぬ妻に痺れを切らし、誓いを破ってしまい――。


「曄夏。黄泉の神々の許まで案内してくれ」


 勘案を纏めた男が云う。女を独りで行かせぬ為であった。だが、女に男の真意は伝わらない。


「何故ですか」

「君を連れ戻す許可を貰うためだ」

「それだけはなりません。ここが此岸と彼岸の境界なのです。貴方がこれ以上踏み入ってしまえば、二度と生者の国に帰れなくなってしまいます」


 女は既に、男と黄泉から抜け出すことを望んでいた。望んでいるからこそ、男を黄泉の神々に取り次がせたくなかった。男も、女を連れ戻そうと(はら)を決めたが、神々の赦しが無ければ黄泉戸喫の穢れを祓えず、また女を独りで行かせては神話の悲劇を辿るとなり、自身が面会することを選んだのだ。


「ですからここは」


 女が云った。


「私が参ります。私が、赦しを請うてきましょう」

「駄目だ」


 男は思わず叫んでしまう。男の豹変に目を見開いた女であったが、小首を傾げ「いかがなさいました」と尋ねる。男は答えられない。女が死穢(しえ)に呑まれてしまうとは口が裂けても云えなかった。言葉にした途端、それが真実になってしまう(おぞ)ましい予感がしたのだ。


「何をそんなに怯えているのですか。私のことなら心配いりませんよ」


 (なだ)めるような女の物云いに、男は何も云えなくなってしまう。


「私を信じて戴けませんか。必ずや、曄夏は貴方の許に戻ります。そして、貴方とふたりで今度こそ懸命に生きましょう。ですから――どうか、この場はお任せください」


 女の儚い瞳に射抜かれた男は己の敗北を悟った。否、最初から男は女を見送るしかなかったのだ。女の云う通り、男が黄泉に足を踏み入れてしまえば二人揃っての帰還は叶わず、また男が無理に女を連れ出せば、黄泉戸喫に背いた女の躰は忽ち崩れていたことだろう。男とて理解していたが、忸怩(じくじ)たる思いであった。 


 また謝る理由が増えてしまった、と男は歯噛みする。女に対する負い目は最早数え切れない。一国の姫君である女を敬いもせず、意図せぬとは雖も睨み付けてしまったことは一度や二度ではない。その癖、女の純粋な人柄に惹かれてしまった。己の恋慕に長らく気付けずにいたこともそうだ。そして何より、女を呪う蜘蛛を祓うことができなかった。どんな姿でも愛してやる、共に生きようと誓ったまではいいものの、それが無理と分かるや、女の為と理屈を捏ねて、女の首を斬り落としたのだ。負い目という表現では生温い。前科であった。(そそ)ぎようのない罪であった。その祟りとも云うべき罪悪感に苛まれていたからこそ男は今度こそ女を救いたかった。


 仮令女を現世に連れ戻したとしても、己の犯した数々の悪行が無くなりはしないことを男は分かっていた。女が赦してくれるとも思っていない。だが、女を殺したのが己なら、女を生き返らせるのも己であろうと男は信じていた。


 男の胸に使命感が燃えていた。自責に潰され、現実から目を背けていた頃とは違い、強い意志が宿る眼をしていた。その人間らしい二つの瞳で、女が提げた瑠璃行燈の光を見据えていた。女が好いた男の姿がここに蘇ったのだ。

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