■前日譚 坂ノ上一臣と最上曄夏の事情
男は人を殺した。心から愛した女であった。
男とて躊躇が無かった訳ではない。冷血漢だと他人から後ろ指を指されてばかりの男であったが、回転の速い頭脳を恃み、何十何百と問答を重ねた上での判断であった。女を殺すしか路が無い。それが女の為になると思い至った末の、断腸の決断であった。
男の理性は女を殺すことを是とした。だが、本能と呼ぶべき部分――男が人間らしさと信じていた柔らかな心がそれを拒んだ。人間らしく在ろうとしているのに好いた者を殺すとは何事か、と己を怒鳴り付けた。今理を求めれば、俺は二度と人間とは名乗れなくなる、と情を以て必死の説得を試みたのだ。その甲斐あって、男の握った太刀は動かなくなった。
理性と本能の葛藤、本心と使命の乖離に男は苦悩する。尤も、男には自身の感情、取り分け弱点というべき悲しみや寂しさを圧し隠す悪癖があった。如何なる者もこの状況下にあれば動揺するのだろうが、この男にはそれがなかった。傍から見れば、人の心を持たぬ機械が、磨き抜かれた刀を握り締め、美しき姫君と対峙しているように映るのだろう。
なぜ男が仏頂面を崩さぬのかという問いであるが、一言で述べるなら狂わぬが為である。
男は、一度己の脆弱な精神に耳を貸せば、立っていられなくなると分かっていた。もう少々語るなら、弱音を封じて振る舞うことが男にとっての当然であった。泣き方も喚き方も、男は何一つ知らぬまま、この長くも短くもない痛苦に塗れた人生を歩んできたのだ。そして最後に、これが最もたる理由であるが、己より辛い目に遭っている物が大勢いたのだ。今、己だけが挫ける訳にはいかぬと男は自戒していたのだ。
さて、ここまで書けば、男の為人というものを、そして男の置かれた局面というものが掴めて来たことであろう。男の前には女がいた。腰から下は巨大な蜘蛛と化し、胴体から伸びた八本の脚は、男の活躍でその殆どが切断されていた。女の上半身は残っていたが――この時点で、女の腹には蜘蛛の頭部が埋め込まれ、女の内臓を鋭い牙で喰らっていた。最早いかなる処置を施そうとも女は助からない。女は、男と会った時分から、その若き艶ある躰を侵食され、消える宿命にあったのだ。
女は、死の間際に許された僅かな時間に、殺してくれ、と男に乞うた。男は答えない。女は云う。私は笑って逝きたいのです人間として死なせてくれください、と。間もなく我が身は蜘蛛に呑まれ、跡形もなく消え去ってしまうのです、と。
女の泪が男を突き動かした。人間らしさを追い求めた結果がこれだ、と男は己を嘲った。そして業物の白刃を細い頸に添え、振り被り、馘首した。
男は、転がった女の首が笑みを作っていると信じていた。否、笑ってくれることで、己のしでかした赦し難い悪行の罪悪感が薄れることを期待していた。慥かに、女の為という正義も間違いなくあったのだが、疚しい保身の情も僅かながら存在していたのだ。
慟哭を堪え、男が目を開ける。女の首は何処にも無い。濡羽色の御髪に白菫の膚をした愛らしい鞠の如し頭は、闇に溶けてしまったかのようだった。傍にいた椿という娘と、京四郎という若武者に訊けば、少し離れたところに堆く積もっている灰が女だと云う。
男は状況を把握することができなかった。否、人一倍優れた頑強な理性を練り上げた男である。理屈としては瞬時に理解した。だが肝心の心が現状を拒絶したのだ。これは俺の求めた結末ではない。こんな塵など俺は知らぬと喚き立てたのだ。故に男は娘と若武者に云った。これは灰だ、女ではない、と。二人は答えた。この灰が姫である、と。
この二言三言の問答の間にも男の胸中は荒れ狂い、半ば自我を見喪いかけていた。灰から漂う血と脂の焦げる臭いが辛うじて男の悟性を繋ぎ止めていた。目を凝らせば、人ひとりの首級を焼き払った名残のように見えぬこともない。
白い粉はそこに在るだけで何も云わなかったが、これでもかという程、男に罪というものを自覚させた。金槌で頭部を殴打されたが如し衝撃であった。この一撃で男の本能は沈黙せざるを得なかった。男が日頃大切に暖めていた柔軟な心は完全に打ち砕かれてしまったのだ。
男はこの時より狂ってしまった。罪悪感に呑まれ、立ち行かなくなったのだ。前述の悪癖により、男が気を違えたことは誰にも悟られず、また男自身も己が壊れたことなど知らずにいた。尤も、男が自身の不調を認めたところで、人殺しが苦しむのは当然の帰結であろう、とそれらしい詭弁を捏ねて何もしなかったのであろうが。
とある陰陽師が一国の姫君を呪った騒動は、人知れず狂気に落ちた男の手で片が付けられた。
事件に幕が下りてからも男の精神に復調の兆しはなかった。それどころか日を増すごとに悪化の一途を辿るばかりであった。
男は、棟割長屋の塒で伏せてばかりになった。目を瞑り、殺した女を思い描き、幾度も詫び続けた。薄情者で済まない、共に生きようという誓いを破って済まない、愚かで済まない。だが、信じて欲しい。俺は君を人として死なせようとしたのだ。この愛に誓って云う。俺は君を弔おうとしたのだ。灰になってしまうなんて夢にも思わなかったのだ。あの時はあれが最善だと思ったのだ――。
欠片を寄せ集め、修復しかけた魂の叫びであった。粉砕した破片は際限ない自己嫌悪を糊として貼り合わせた。女の首を刎ねてから幾日が経とうとも自責の念は治まることを知らず、寧ろ粘度と鮮明さを以て、男を内側から確実に毀していった。
男の心に棲む女は怒りも笑いもしなかった。温度のない眼差しを寄越して、赦さない、とだけ告げた。何度男が詫びようが女の返答は変わらなかった。その鋭利な拒絶を浴びる度、男の繋がりかけた心は砕け散る。破壊と修繕を繰り返す中で、ついに女は口を閉ざした。色素の薄い鳶色の瞳で男を見詰めるだけとなった。その眼は屍人宛らで、何の色も汲み取ることができなかった。それが男には辛かった。恨み言でもいいから女の声を聞きたかった。女への執着が、男の崩壊に拍車をかけた。
これより始まる救いようのない物語は、同じく救いようのない男の、罪悪感という穢れを発端に転がり出していく――。




