獅子宮 2
「最近イライラしてない?」
図書委員会としてカウンターの中で本を読んでいると急にジャソンから声を掛けられた。
「別にそんなことないですけど」
フレデリクは本を閉じるとカウンターの上に肘をついてジャソンを見上げた。ジャソンは少し笑いながら借りたい本を差し出してくる。そしてされに声を潜めて話始めた。
「最近ダミアンの様子がおかしいんだよ。やけにシャッカス先生に付きまとっててさ」
「数学が苦手なだけなんでしょう」
「それにしたって、あまりにべったりすぎるさ」
ジャソンは面白そうに体を揺らして笑っている。噂話好きな彼にとってどうやらこの状況を面白いようだ。
「彼らの好きにすればいいじゃないですか」
フレデリクはそういって興味なさそうにため息をついた。別にシャッカスが誰に付きまとわれようと自身の学業に関係ない。そう思う思い込んでいたが、心の中の違和感がぬぐえない。まるで細い針が胸をつついているようなそんな不快感が日に日に大きくなっている。
「そんなこと言いながら気になってんだろ?」
「気になってないですってば」
ジャソンの誘導尋問のような話し方のせいだと決めつけてその話題を強引に打ち切った。
その日の夜、偶々手に取ったオスカーワイルドの『サロメ』を読みながらずっと頭には海で一緒に泳いだり、レストランで楽しく話をしていたシャッカスの姿が思い浮かんでいた。サロメが預言者ヨハネの首を抱えて独白するシーンの言葉が目についた。
『お前の身体は銀の台座に据えた象牙の塔。この世にお前の躰ほど白いものはなかった。お前の神ほど黒いものはなかった。この世のどこにもお前の口ほど赤いものはなかった。お前の声は不思議な香りをふりまく香炉、そしてお前を見つめていると不思議な楽の音が聞こえてきたのに』
まるでシャッカスのようだと半笑いで読んでいると、エクトルがベットから声を掛けてて来た。
「口付けは苦い味がした?それは恋の味だよ」
エクトルはサロメの最後のセリフを引用して話しかけてきた。
「血の味だよそれはきっと」
フレデリクは本を閉じて椅子ごと後ろを向く。
「急にサロメなんて読んでどうしたの?珍しいね」
「別に。たまたま返却図書の中に入っていたからね」
「ふーん。誰かに恋しているのかと思った」
エクトルは面白そうにくすくすと笑った。エクトルはそのまま言葉を続けた。
「恋なんて病気のように自覚もなしに進むからね。それに気付いたころにはもう手遅れ。それこそ首を欲しがる王女のように狂気を孕んでいるのかもしれないよ」
そういいながら寝っ転がったエクトルの顔は暗がりでよく見えなかった。そのあとにほんの数秒の沈黙が流れた。
「エクトル、君はサロメのように激しい恋に落ちたことはあるのかい?」
「さあね。僕らはまだ若いから落ちやすいのかもしれないよ」
それよりさ、とエクトルは言葉を続けた。
「もうそろそろ消灯時間じゃないかい?優等生さんとあろうお方が夜更かしは感心しませんぞ」
そういいながらシーツをかぶって寝る体制になってしまった。フレデリクも見回りが来る前に寝てしまおうとランプを消して床に就いた。
その夜も夢を見た。やはり綺麗な花畑の中を歩いていた。そして見慣れた岩場には見慣れた漆黒の翼を持った背中を見かけた。その翼の名前の持ち主に声を掛けると彼は振り向いて笑顔を見せた。その笑顔の主はシャッカスにそっくりで、彼らは手に手を取り合って空へと飛び立った。空は真っ青でどこまでも無限に続いているようだった。
幸せな気分で目を覚ましたフレデリクはさっさと朝の支度を済ませて食堂へと向かった。そこにはすでにダミアンが席についており、いつもの可愛らしい笑みはきえ空中を見つめていた。
そして、フレデリクの姿を認めるとつかつかと歩み寄ってきた。
「おはよう、ダミアン…」
「フレデリク先輩、貴方はシャッカス先生のなんなんですか」
「えっ…」
急な言葉にフレデリクは思わず返事に詰まっていた。それに構わずダミアンは言葉を続けた。
「いつもシャッカス先生はあなたのことばかり話します。貴方は彼の心の大半を占めている。でも僕は負けません。絶対に彼に振り向いてもらいますからね」
その形相は普段のダミアンからは想像できないほど鬼気迫っていており、圧倒されるほどであった。昔東洋の文化について読んだ本に出てきた修羅という鬼にそっくりだと思うほどに。
フレデリクはさらに言葉に詰まっていると食堂の扉が開き、他の学生ががやがやと入ってきた。
「おー!おはよー!」
そういって声を掛けられたダミアンの顔はすでにいつもの可愛らしい笑顔になっており、先ほどの雰囲気はどこかへ行ってしまった。
フレデリクは落ち着かない気持ちを抱えたまま朝食の席に着いた。
この週は何事もなく終わった。読書クラブでもそれぞれが1984年に対して意見を述べ終わったのだった。
「次はまた最近自分が読んだ本で良かったものの紹介をしようと思うんだ」
シャッカスはそういってクラブを閉めた。
フレデリクはサロメを紹介しようと決めた。たまたま仏英対訳のサロメを見つけたのでシャッカスに音読してもらおうとフレデリクはほんの少し気分が晴れて心のとげが抜けたような気がした。