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ベリルの瞳   作者: 斎田なおみ
12/21

天秤宮

 それから一週間がすぎた。季節はもう冬に移り変わっていった。フレデリクは前ほどではないが、時々シャッカスの元を訪れる用になった。

 シャッカスも彼を快く受け入れ数学の疑問に答えたり本について議論したりした。

 ある日部屋を訪れるとシャッカスはまたひどく疲れていた様子で眉間にしわを寄せてコーヒーを飲んでいた。

「ああ、フレッド。すまないね」

「いえ、出直します」

「大丈夫だよ。ちょうど終わったところだからね」

 シャッカスは疲れたようにため息をついて窓を開けた。秋の乾いた風が室内に吹き込んでいた。部屋の中が一段と涼しくなった。

「もうずいぶんと寒さも深まったね」

「そうですね。最近は街路樹の葉も落ちてしまったし」

「今年の冬も寒くなるかな。私は寒いのは苦手なんだけどね」

 あまりにシャッカスが大げさに身をすくめるため、フレデリクはくすくすと笑い声を立てた。

「それにしても新入生のレポートを読むのは一苦労だね。肩が凝ってしまうよ」

 シャッカスはジャケットを脱いで肩をぐるぐると回す。ぽきぽきと音を立ててなっていた。

「学校を抜け出してマッサージ屋にでも行ってこようか」

 いたずらっ子のようにそう言ってシャッカスは笑って椅子に座った。

「肩のマッサージなら確かこうするはずです」

 フレデリクがシャッカスの肩をつかんだ瞬間、お互いの体に静電気とはちがう電流が走ったようだった。

 無邪気にフレデリクはシャッカスの肩を掴んでマッサージを始めた。

 小さい掌で力を込めて肩を懸命に押すと確かに肩の筋肉が不健康に硬いような感触がした。

「先生の肩すごく、凝ってますね」

「根を詰めて採点していたからね。それにしてもマッサージとてもうまいね」

「エクトルがいつもマッサージしてくれとうるさいんです」

「それにしたって、すごく上手だよ」

 しばらくフレデリクがマッサージをしているとふとシャッカスの項に目がいった。

 普段はきれいに垂らしている黒髪を無造作に低めにまとめてあるため、普段見られない項が露になっていた。黒い髪と対照的に日に焼けていない真っ白で滑らかな肌が見えた。なんとなくそこから甘いような香りが漂っているような気がした。

 フレデリクはその香りにうっとりとしながらマッサージを終えた。

「だいぶ肩が楽になったな。またお願いしようかな」

 シャッカスはそう言ってフレデリクのほうへと向き直った。

「さあ、こちらへ腰かけてよく見せて。僕の愛おしい憂鬱君の今日の課題でしょうかな?」

「数学の復習をしていて、どうしてもわからないことができたんです……」

 フレデリクは素直にシャッカスの横に腰を下ろし、教科書を開いた。そういって緑色の瞳を教科書へ落とす。金色のまつ毛に縁どられた瞳がじっと教科書を見つめる。真一

 文字に結ばれた唇がほんのりと赤く染まっていて愛らしい。シャッカスはじっと彼の姿を見ているとふと彼の問いかけが遠くで聞こえた。

「先生、ここでどうしても式の代入ができなくなって」

 我に返ったシャッカスはさっとフレデリクの手を取って必要な式を代入する。少し冷えていたシャッカスの掌と温かいフレデリクの掌が重なる。あまりに自然なことなのでフレデリクも特に疑問も覚えずしばらくノートに記入される式を見ていた。耳元ではシャッカスの優しく甘い声が響き、思わず赤面してしまう。

「ここは確かに応用が難しいね……明日の授業で補足をしようか」

 シャッカスは説明を終えると、フレデリクの顔が赤く染まりふるふると子犬のように震えているのが分かった。そして、自分の掌をあわててフレッドから話すと申し訳なさそうに謝った。

「本当に申し訳ない。疲れていたんだ」

「いえ、大丈夫です。難しくて頭がついていかなくて」

 二人は言い訳しながら体と体の距離を置いていた。顔は二人とも真っ赤に染まっていた。今まではあまり意識してこなかった距離感が余計に近くに感じられ、フレデリクは思わず目線を横へとずらした。

 ふと、その目線の先には数学とは関係のないような文学的なハードカバーが無造作に積まれていた。

「先生、この本はいったい何ですか?」

 フレデリクは照れ隠しなのか、話題をそちらへとむける。

「これ?これは図書室にもまだ新刊として入っていない本だよ。特権として借りてきたんだ」

 シャッカスはふっと腕を伸ばして一番上の青地に銀糸の入った装丁の本を取り上げた。題名には同じく銀の箔押しで「La Mer de la Fertilité」と書かれていた。

「豊穣の海?」

「ああ。日本の作家の本さ。私たちとはずいぶんと違う宗教感でとても面白いからつい読んでみたくなってね。夢と永劫回帰のようなお話さ。」

「そうなんですね。図書館に新刊で並ぶのが楽しみです」

 フレデリクは少年らしい無邪気な笑いを浮かべた。シャッカスもそれにつられて微笑む。

「彼が語るには人間というのは死んでもまた人間へと生まれ変わるそうだよ」

「僕たちが考えている終末観とかだいぶ様子が違いますね」

「そうだね。それもまた面白い考えだとは思うけど」

 本という話題を媒介にして穏やかなひと時が流れていた。

「宿命論のひとつとして考えられるかもしれませんね」

「確かに。私たちも前世で何か因縁があったからこそこうやって出会い、また来世でも出会うという運命なのかもしれないね」

 ふいにフレデリクはシャッカスの最初の授業の一言を思い出した。

『「恋人ならちょうど探しているところだよ。運命を共にできる素敵な人を待ってるのさ」』

「先生の運命の人は幸せなんでしょうね」

 ふとフレデリクがそう漏らすと、シャッカスは少し寂しそうな微笑みを浮かべた。

「そうだったらいいんだけどね」

 ほんの少しの間沈黙が流れた。フレデリクが時計を見るともうすぐ夕食の時間であった。

「そろそろ部屋に戻ります!夕飯を食べそびれたくないですし」

 フレデリクはそういうと部屋を後にしようとした。

「ああ、ついつい話し込んでいてすまない。それじゃあ、また明日の授業を楽しみにしているよ憂鬱君」

 シャッカスは彼を見送るとドアを後ろ手に閉めた。

「運命の人・・・ね・・・」

 そうつぶやくシャッカスの瞳はどこか遠くを見ているようだった。



 ある寒い夕暮れの日だった。図書室から帰る途中のフレデリクはダミアンとすれ違った。ダミアンの目元は赤く腫れ先ほどまで泣いていたのが一目瞭然であった。

 フレデリクは少し心配になったもののプライドの高い彼を刺激するのもよくないと思いそっと目線を外してその場を後にしようとした。

 しかし、ダミアンから鼻声で話しかけられてきた。

「最近もグランデ先生と仲が良いようですね」

「先生と生徒だ。それ以上のことはないだろ?」

 フレデリクは半ば呆れたように応えた。なおもダミアンの追及はすすむ。

「フレッドは、一体先生の何なんですか……」

 その声には凄味があり、思わずフレデリクは後ずさりしてしまった。

「あなたにはわからないんだ。この恋の痛みが。夜も眠れないほどに胸を引き裂くようなそんな激しい恋の熱情が」

 そういってダミアンはフレデリクに掴みかかろうとした。また一段フレデリクは後ろに下がろうとして、足を踏み外してしまった。

 反転する世界の中でフレデリクは意識を手放した。

 フレデリクが目を覚ますと目に映ったのは見慣れぬ白い天井であった。心配そうに顔を覗き込んでくるのはエクトルであった。

「あ!!!!!目を覚ました!!!」

 泣きそうな顔をしている彼に思わず笑みがこぼれる。すると背中と頭がひどく痛んだ。

「君、階段の下で倒れたんだよ。それをダミアンが見つけたんだって。噓でしょう?きっとあいつに突き落とされたんだろ?」

 彼に突き落とされてはいない。ただ雰囲気にのまれて足を滑らせただけだ。

 エクトルの言っていることを否定しなければダミアンにどんな誹謗中傷が寄せられるかはわからない。

「図書室に行こうとして階段を踏み外したんだよ。ダミアンの言っていることが正しいよ」

 エクトルはまだ納得していないような表情であったが、とりあえずフレデリクが目を覚ましたことを喜んでいた。

「でも本当に良かった。打ち身だけで済んでよかったね。これもあとでこっそり治しちゃえば?」

「階段から落ちて打ち身で済んだだけでラッキーなのにそれ以上にラッキー重ねたら怪しまれちゃうだろ」

 二人がくすくす笑っていると間もなく白衣に身を包んだ医師がやってきた。慣れた手つきで一通りの診察を済ませた。

「吐き気がするとか眩暈がひどいといったことはないね?」

「はい。背中と頭が痛い以外は何もないです」

「ふーむ。それじゃあ明日の朝帰ってよろしい」

 医者はそういうと忙しそうに部屋を出て行った。

 エクトルもほどなくして帰る時間となった。名残惜しそうにきゅっとフレデリクの手を握る。

「また明日ね」

「うん。また明日」

 フレデリクはまたベッドに横になった。背中を刺激しないよう横向きに寝る。

 そしてダミアンの言葉を思い返す。

 一体自分はシャッカスの何なのだろうと。いや、答えは明白でただの一生徒に過ぎない。たまたま本の趣味が合致し、孤児だから優しくされている。それだけだろう。

 日々の生活の中で彼は誰に対しても笑顔で誠実に答えている。自分一人だけではない。自惚れてはいけない。

 自分が抱いている感情もきっと自分にはない大人の余裕を見せる彼への憧れだろう。恋心なんてありえない。

 そんな自分の心を否定したが、なぜか緑色の瞳からは涙が溢れて止まらなかった。

 大部屋に入院患者が自分一人でよかったと心の底から思った。


 痛み止めの副作用かいつの間にかまたフレデリクは眠っていたようだった。病室は暗くなっており、今が夜中だと分かった。

 ふと、その陰に紛れて人の気配があった。フレデリクは驚いて小さな悲鳴をあげた。

「驚かなくていい、私だ」

 その声は今一番聞きたかったシャッカスの声であった。

「シャッカス……!?」

 さらにフレデリクは驚いて身体を起こすとスーツを着たシャッカスがベッドの隣の椅子に腰かけていた。

「久しぶりに名前を呼んでくれたね」

 シャッカスの声は心なしか嬉しそうに弾んでいた。ランプに灯をともすと暗闇から彼の姿が浮かび上がった。ランプの光は何割か彼に吸い込まれているようだった。天井の影がゆらゆらと怪しく動いている。

 傍らにおかれていたパンと牛乳を差し出す。夕飯を食べていなかったため、それを流し込むように食べる。シャッカスは安堵のため息をついた。瞳も心なしか潤んでいた。

「フレッドが無事で本当によかった」

「大袈裟ですよ。ちょっと階段から落ちただけなのに」

 牛乳を飲み終えたフレデリクはまだ足りないようであった。すかさず、シャッカスは市販のチョコチップクッキーを差し出す。どうやら足りないことを見越して買ってあったらしい。

「僕は君なしでは生きていけないんだよ。本当に大切なんだ。僕の大切な天使」

 そんな甘い言葉にフレデリクは思わず胸が高鳴った。先ほど自分の言葉を否定をしていたがどうしても断ち切れない。

「どうしてそんなに優しいんですか?そんなこと言われたら勘違いしてしまいますよ」

 自分が放った言葉は思ったより冷たかった。シャッカスのこっそりチョコチップクッキーをつまんでいた手が止まった。

「急にどうしたんだい?」

 普段の落ち着きある低い声はほんの少し上ずっていた。黒い瞳も動揺を隠せずに泳いでいる。

「だって、先生は誰にでも優しいから勘違いしちゃうんです。僕だってダミアンだって」

 自分の錯覚の恋心を告白するフレデリクは羞恥で顔が赤くなる。目からは涙があふれ出る。シャッカスは沈黙したままじっとフレデリクを見つめる。

「ダミアンには悪いことをした。私は教師として彼を導く責任があるのに」

「夕方何があったんですか?」

「ダミアンに告白されたよ。本当に情熱的にね」

「彼は美しいから先生も嬉しいでしょう?」

 フレデリクはしゃくり上げながら言葉を続ける。シャッカスはじっと目を伏せた。

「私の運命の人は君だけだよ。だから泣き止んでくれ、私の天使」

 そういってシャッカスはフレデリクの涙をそっとぬぐう。

「私の愛は君だけのものだ。私は君を世界中の誰よりも愛している」

 シャッカスはそういうとフレデリクを優しく抱きしめた。フレデリクは突然の告白に泣き止むのをやめた。

「そんな嘘つくと地獄を見ますよ」

 フレデリクはしゃっくりをしながらそう言った。

「嘘じゃない。あの月に誓ってこの言葉は本当だ。優しさが君を傷つけるのならすぐにでも氷のように振舞おうとも」

「そんな、信じられない。僕、本当に」

「君に愛を強いることはしないが、僕の愛が本当だということだけは知ってほしい」

 耳元でそっとそう囁かれてフレデリクは背中の痛みを忘れるほどに舞い上がった。

「君が大人になったら答えを聞かせてほしい」

 シャッカスはそういってそっとフレデリクの額にキスをした。

「僕も先生が好きです。出会った時から」

 フレデリクはやっとの思いでそう呟いてシャッカスの腕をそっと抱き寄せた。

「ありがとう。今は生徒と教師だからお互いの胸の内を知っているだけに留めよう。卒業が待ち遠しいよ」

「ええ、でも冬休みはまたバカンスに連れて行ってくださいね」

「もちろん。楽しいクリスマスを過ごそうじゃないか」

 二人はそう言って笑いあい、触れるだけの優しいキスをした。


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