獅子宮 3
久しぶりにシャッカスの数学研究室を訪ねる。ノックをする前にほんの少しだけ耳を澄ませて話し声が聞こえないことを確認する。静かにノックをしてドアを開けるとシャッカスが何か本を読んでいる最中だった。
「やあ、フレッド。なんだかここで会うのは久しぶりな気がするよ。今日はいったい何をお望みかね?」
シャッカスは読んでいた本を閉じてフレデリクのほうに向き合った。
「今日はまた、音読をお願いしたくて」
そういって、サロメの本を差し出した。シャッカスは一瞬驚いたような表情をしたがすぐに微笑んでその本を受け取った。
「サロメか、いい選択だね。でも君悲劇は嫌いじゃないのかい?」
「たまたま手に取っただけです」
「その偶然の出会いが思いがけないことを運んでくることもあるのさ」
シャッカスは髪の毛を後ろでゆるくまとめると、いつもの美声で朗々とサロメを読み上げ始めた。時に優しく、時に切なそうに物語が進んでいく。ただの朗読ではなくまるで劇を見ているかのような気持ちになってうっとりと物語に没頭していた。
二人っきりの穏やかな時間が流れている。
サロメがヘロデ王に殺され、その物語に幕が下りた。
「サロメは、悲しい女ですね」
フレデリクはぽつりとそういった。シャッカスは微笑んでフレデリクの頭を撫でる。
「きっとそうかもしれない。でも彼を手に入れられた喜びの中で死ねたならそれは幸福なのだと私は思っているよ」
「そうですか…」
「きっとね」
シャッカスはそういうと笑った。
「先生は、そんな恋をしたことがありますか」
「あるよ。恋の炎に身を焦がして彼のすべてを手に入れられるなら死んでもいいと思ったことは」
そういうとシャッカスはじっとフレデリクをじっと見つめていた。漆黒の瞳にはキラキラと秋の光をうけて輝いているフレデリクがうつっていた。なぜか顔が熱くなるのを感じたフレッドは少しの間無言でいた。
「そうですか」
ようやくその言葉を絞り出して、フレデリクはそのあと何か言葉を交わしたような気もするがあまり覚えていなかった。適当にお茶を濁し、研究室を後にした。
研究室に一人取り残されたシャッカスは手に持ったままのサロメの表紙を見やった。
「ヨカナーン、今だって恋焦がれている。お前の身体に飢えている。洪水も大海の水も私の渇きを癒してはくれないのだよ。どうしたらいいのだい、ヨカナーン」
その一説が切ない響きを伴って空中へと吸い込まれていった。
廊下に出ると空気が冷たく、目頭が熱くなっていたことを実感した。どうやら涙をこらえていたようだった。駆け足で寮の自室に戻ってベッドに突っ伏した。
何とも言えない心苦しさや、悲しいようなそんな複雑な気持ちに駆られどうすればいいのかわからなかった。とめどなくあふれる涙は枕を濡らしていた。
そこに丁度居残り補習を終えたエクトルが帰ってきた。普段感情を表に出さないフレデリクが涙を流しているのに驚いて持っていた教科書やプリントを床に落としてしまった。
「どうしたの!??どこか具合でも悪い?」
「違うんだ、ただなぜか涙が止まらなくて」
エクトルはフレデリクの背中をさすって彼が落ち着くのを待った。そして、根気よく彼の話を聞きだしていくとその涙の原因はシャッカスであるという結論に至った。
「フレッド、君はシャッカスに恋しているんだい」
「そんなことない。僕が男に先生に恋することなんか」
「恋に落ちるなら何もかもが関係ないんだ」
「そんな……」
フレデリクは信じられないといった表情でエクトルをじっと見つめる。エクトルもじっとフレデリクを見つめ返す。
「そして君は失恋したと思い込んでしまったんだ」
「仮に僕がシャッカス先生に恋していたとして、あんなこと言われたらそう思うにきまっているよ」
「もしかしたら、その相手は君かもしれないんだよ」
「そんなわけないよ」
そんな堂々巡りの議論をしていると、夕食を告げる鐘が鳴った。フレデリクの目は真っ赤で今の今まで泣いていましたといったのを表している。
エクトルはその堂々巡りの議論を打ち切ると、立ちあがてこう言った。
「このことは誰にも言わないから安心して。口の堅さには定評があるんだ」
「信頼してるよ、エクトル」
「皆には体調不良だって言っとくからご飯はここで食べるといいよ。後で持ってくるから」
エクトルはそういうとにっこりと笑った。フレデリクはその言葉に安心したかのように泣きはらした目を細めて笑う。
秋の太陽はすでにほとんど沈み、青い夜が部屋の中に入ってきていた。
再び部屋の中で一人になったフレデリクはうとうととまどろみ始めた。
舞台は古代ユダヤの王宮で、華やかな宴会場は血にまみれていた。その中で自分は薄いヴェールを身にまとってシャッカスの首を抱えて笑っている夢を見た。幸せの中で死んでいくようなそんな気持ちで目を覚ました。