山出し聖女とその出逢い
まさか自分が〈聖女〉にされるだなんて、想像したことさえなかった。
羊飼いの娘で、十四の歳まで読み書きを習ったことすらないわたしがですよ。冗談でしょって。
いまは、運命に感謝してますけどね。
すてきな出逢いがありましたから。
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そもそも〈聖女〉というのは、おめでたい存在ではないのだそうです。
この世界の要は均衡。魔の勢力が地上を脅かすとき、聖女もまた見出される。裏を返せば、聖女が現れたということは、魔の力もまた高まりつつある。
ときの王たる者は、魔物が現れたならば聖女を捜し出して擁立し、聖女が確認されたさいには、きたるべき有事に備えなければならない、とかなんとか。
もっとも、わたしが聖女認定されたのは、思いっきり偶然だと思いますが。
十年に一度の大祭で、子羊の初刈りの毛をお供えものとして捧げようとしたら、足がすべって祭壇に突っ伏しちゃっただけだったり。
わたしがおでこを打ちつけたら、祭壇がぺかーっと光って、オトナたちは大騒ぎ。わたしは、この大一番でやらかした、やっべ……としか思ってなかったんですけど。
わたしが間抜けでなかったら、聖女発覚は場合によっては十年先になってたことでしょう。
ともかくとして、早期発見されたおかげで、魔物が湧き出してからあわてて聖櫃を光らせることのできる女性を捜しに、国中総ざらいにする手間は省けたのでした。
時間の猶予があるなら、ド田舎山出しの聖女の卵に常識を身につけさせようとなって、わたしは王都の学院に入ることになり――あのかたと巡り逢ったのです。
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花の都は人間より羊の数が多い山奥とはなにもかもが違って、わたしは戸惑うことばかりでした。
山では本を見たことすらなかったもので、勉強もなかなかはかどらなかったし、マナーにいたっては絶望的でした。テーブルの前でイスに座って食事にするなんて習慣、山にはないんですよ。放牧中は当然ながら、家にだってテーブルだのイスだの、そんな気の利いたモノはありません。
王都の学院に通っているのは貴族の子弟子女ばかりで、平民であっても、大商人や宮仕えのお役人の御曹司にご令嬢。わたしみたいな、牧羊犬が服着て後脚で歩いているような粗忽者は、学院内はもとより王都のどこにもいませんでした。
両親も兄姉も、わたしと似たりよったりの、狼よりも顔見知りでない人間を警戒するよそ者恐怖症だったから、だれも王都にはついてきてくれなかったし。
身許引き請け人になってくれたシスター・フランシアは面倒見のいい人だったので、休校日はずっと勉強を教えてもらって、都見物に出ることもありませんでした。
シスター・フランシアには、
「せっかく都に出てこられたのに、幸運を活かせない子だねえ」
と、あきれられましたが、わたしからすれば、聖女だといわれて慣れない勉強をするハメになったのは、最初のうちはほんとうに幸運ではなく罰ゲームみたいなものだったんです。
学院の授業は一から十まで理解できなかったので、幼児用の絵本を読み聞かせてもらうところから。
内容としては、実家で両親が聞かせてくれたむかし話とおおむね筋が同じだったので、わりあい早く、読むだけならできるようになりました。
お兄ちゃんヤギがトロールを八つ裂きにするお話は、父の声が嗄れるまでアンコールした憶えがあります。絵本だと何度読んでも内容が変わらないので、そこはちょっと残念でしたが。
おさないころに父が語ってくれたヤギ無双では、ツノとひづめでトロールをやっつけていたのが、三周めで開幕一閃で瞬殺するようになり、しまいにはガラガラ声だけでトロールは木っ端微塵になってしまったのですけど。
……あ、話がそれましたね。すみません。
どうにか文字を読むだけはできるようになって、自分の名前なら書けるようになったころ、学院の門の前で乗り合い馬車を降りたわたしに、声をかけてくる人がいたんです。
「きみが、例の〈聖女〉だね」
「はひっ?! ……お、おはよう、ございます……」
びくりと振り返ってみると、さらさらの銀髪に緑の眼をした、とてつもない美男子が立っていました。
ぜったいに偉い人だと直感して、わたしは両手を前でそろえて深々とお辞儀をしたのですが……
「なに、その礼の仕方は? それでは小間使いじゃないの。あなたは〈聖女〉なのだから、ある意味でこの国を代表する存在なのよ。そんな卑屈な態度では、この国そのものが軽んじられてしまうわ」
と、静かで落ち着いた声ながら、内容は手厳しい言葉とともに、美男子のかたのななめ後ろに控えていたお嬢さんが進み出てきました。黄金の巻き毛に青い瞳、こちらも尋常ならざる美しさです。
居並ぶおふたりは、まるでおとぎ話の妖精の王さまとお妃さまのよう。現実とは思えませんでした。学院の制服をお召しだったので、どこぞの大貴族のご令息ご令嬢だということだけはわかりましたが。
「あ……えと……も、もうしわけありませんっ!」
怒られた、ということしか理解できなかったので、わたしは直角に腰を折って平謝りしましたが、ご令嬢はきれいな柳眉をひそめました。
「だから、その卑屈な態度がいけないといっているでしょう。むやみに頭を下げては駄目。あなたは高貴な責務を背負った聖女なのです、一挙手一投足にいたるまで自覚をお持ちになってちょうだい」
「まあまあ、マティルダ。聞いた話じゃ、この子は山生まれの山育ちだっていうし、作法についてうるさくいうのはちょっと早いよ。……王都にきて、まだ――」
「三ヶ月、です」
ご令息がこっちに視線を振ってくれたので、わたしはそれだけ答えました。
マティルダさまとおっしゃるらしいご令嬢はといえば、気に入らないところがまだあると、わたしを視線でなで切りにしながら再び口を開きます。
「だいたいあなた、その野暮ったい格好はなに? どこをどうすれば、この制服をこんなにださく着られるのかしら」
……あー、たしかに。
同じ服を着ているとは、とても思えません。マティルダさまを制服が引き立てているなら、わたしはイモで制服が本体。ただのハンガーのほうがまだ気が利いてるくらい。どうしてイモが服に着られて歩いてる。
「聖女は教会預かりの身なんだ、修道女にセンスを期待するもんじゃないよ」
事情にお詳しいようで、ご令息がまたしてもわたしのフォローをしてくれましたが、マティルダさまは納得されないようで、かぶりを振ります。
「教会に聖女の身を委ねるのが間違っているのですわ。尼僧ではありませんのよ」
「聖女を見いだすのは教会が管理している聖遺物だろう?」
「聖女の霊力に反応する物品を教会が集めたというだけで、聖女の力は教会のものではありませんわ」
「声が高いよ」
苦笑するご令息に肩をすくめて見せてから、マティルダさまはわたしのほうに目を戻しました。
「あなた、天使が降臨してきて聖女の力を授けられたり、神の声が聞こえたりした?」
「いいえ。聖女の力も、ぜんぜん身に覚えがありません」
正直に首を左右に振ると、マティルダさまはにこりと微笑みました。
「そうよ、あなたは教会に隷属しているわけではない。いらっしゃい、レディにふさわしい格好を整えなければ」
「え……あの……」
わたしはマティルダさまに腕を引かれている意味がわかっていないままでしたが、ご令息はちょっとあきれているだけで、止めようとはせずにこうおっしゃいました。
「一時限めはサボりかい、マティルダ?」
「聖女エスタもね。二時限めには出ますと伝えてください、クローヴィスさま」
「わかった。またあとで」
クローヴィスさまと呼ばれたご令息は学舎のほうへと歩いていかれ、わたしはマティルダさまに引っ張られるまま学院から離れていきます。
名前を知られていたことより、おふたりの正体に気づいてわたしは顔が青くなっていました。
王太子クローヴィス殿下と、その婚約者、ラインクルスト侯爵ご令嬢マティルダさま――
羊飼いの娘が、本来口を利くことなど許されない雲上びとだったのです。
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小一時間で、わたしは大げさでなく別人に変わっていました。
ひっつめて後ろでひとまとめにされていた髪は解かれて丹念にブラッシングされ、制服は一度はぎ取られ、テイラーさんたちに全身を寄ってたかって採寸されました。
それだけといえばそれだけなんですが、ちょっとかがったり寸詰めされて戻ってきた制服に袖をとおして、鏡の前に立たされたとき――映っていたのは見覚えのない美少女だったのです。
ふわふわのピンクブロンドの髪は耳の上で左右にひとふさずつ振りわけられて軽やかに揺れ、琥珀色の眼はぱっちりとして、低くて貧相とばかり思っていた鼻までも、なんだかこぎれいで品よく見えます。
でも、髪は徹底的にお手入れしてもらいましたけど、顔は、まつげをちょっとカールさせただけで、これといってお化粧はされなかったはずなんですよね……。
そして、もっさりとしていた制服は、ほんの数ヶ所の手直しでまるで新しく仕立てたかのように見違えていました。これは、もともとデザインとしてはすばらしいものだったので、ちゃんと身体に合わせれば着る者を引き立ててくれるようになっていたのでしょうけど。
「これ……ほんとうに、わたし、ですか……?」
「思っていた以上ね。ノーメイクでこれはずるいわ。嫉妬しそう」
マティルダさまはそんなことおっしゃいましたけど、いやいや、あなたもなにもつけてませんよね? 山育ちで陽焼けしてるわたしと違ってお肌真っ白だし、むしろ修道女スタイルやめて同じステージに立ったぶん、差が明確になったと思うんですけど。
……といっても、相対的にはともかく、これが自分だとは信じられないくらい可愛くなってしまったのは事実です。もしこの状態で家族に会ったら、ぜったいわたしだなんて信じないでしょう。
ようやく花の都の一員になれたような気がして、鏡の前でくるりと回ってみるなどしていたわたしでしたが、マティルダさまはこれまでどおりの静かながらきびきびとした声でこうおっしゃりました。
「まずは格好から。身につけるべきものは多いわよ、聖女エスタ」
……そう、みてくれだけは山出しを脱したわたしを待っていたのは、マティルダさまによる淑女教育だったのです。
それまでのわたしは、せいぜい、山奥からやってきた珍獣、いちおう服着て二本足で歩いてるけど正体不詳な、妖精だか妖怪の一種みたいなものでした。〈聖女〉の看板を背負った謎の生き物が、マティルダさまによっていきなり「人間」へ姿を変えたものだから、みなさんおどろいて、なにくれと話をしようとしたのです。
そこへ、授業が終わるなり上級生のクラスを抜け出てきたマティルダさまが、人の輪に包まれかけていたわたしの腕を引っ張って連れ去ります。
連行された先は、クローヴィス殿下の婚約者としてか、侯爵家の令嬢としてか、どちらのコネなのかはわからないけれど、マティルダさまが私的に確保している空き教室で、彼女の取り巻きらしい、伯爵やら子爵やらのご令嬢たちも何名さまかいらっしゃいました。
はじまったのは、さまざまな状況を想定しての、立ち振る舞いのレッスン。ご令嬢のかたがたも、司祭役とか、大使役とか、衛兵役とか、となりのテーブルの奥さま役とか、必要に応じて手伝ってくださいました。
気おくれしたのは、たいていの場面で、聖女は場の中心や、最前列にいなければならないということ。羊の群れならともかく、王族から大臣やら将軍だの各国大使まで、お偉いひとたちに取り囲まれるのは、想像するだけで立ちくらみがします。
「いいのよ、周りの人間は羊だと思いなさい。聖女がいなければ、王だろうと大司教だろうと、狼に食べられる羊と同じことなのだから」
「……いえ、狼から羊を守ってくれるのは牧羊犬なんで……」
「あなたは羊飼いだったかもしれないけれど、人間に対しては牧羊犬の立場ということよ」
なるほど、あくまで用心棒であって、人間の群れを導いたり監督するものではない。それが聖女ということですか。そういうことならなんとなくわかります。
……わたしの覚えがよかったから、というわけではなく、マティルダさまの教えかたが適切だったのでしょう。清廉なひっつめを軽薄なゆるふわヘアーにしたことに眉を吊り上げたシスター・フランシアも、すぐに小言をいわなくなりました。
乗り合い馬車だった通学も、クローヴィス殿下が二頭立ての軽馬車を差し回してくださるようになり、なんだか、わたしはほんとうにどこかのご令嬢になったみたいでした。
だんだんと、都暮らしにも馴れて、すこし楽しくなってきたころ――
聖女として王陛下はじめ各界ご歴々にごあいさつをする儀式の日取りが決まったと、シスター・フランシアから知らされました。
それ自体は、どうにか切り抜けられるだろうと思える程度には作法を覚えることができていたのですが。
ちょっと不穏な話が耳に入るようになっていたのです……。
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「マティルダ、きみがエスタをいびり抜いているって、学院中そのうわさで持ちきりだよ」
マナーレッスンをかねての、クローヴィス殿下をお招きしての午後のお茶会で、当の殿下からくだんの「不穏な」話題が飛び出しました。
殿下の耳にまで届いていたのかと、わたしは野焼きの火のように広がるうわさ話の勢いにおどろくばかりでしたが、マティルダさまは、
「ある意味事実ですもの、いわせておくしかありませんわ」
と、笑っておっしゃいます。
クローヴィス殿下は肩をすくめられました。
「捨ておいてばかりもいられないのさ。真に受ける人間が多すぎてね。ぼくにまで『悪女マティルダは次期王妃としてふさわしくないのでは?』なんて、忠臣ヅラで進言してくるやからがいる」
「マティルダさまが悪女だなんて!? わたしがどうにかまともな〈聖女〉になれそうなのも、全部マティルダさまのおかげなのに」
作法に反するとわかっていても、憤慨せずにはいられません。マティルダさまはわたしのマナー違反をとがめる代わりに、いつもの平静な声でこう述べられます。
「わたくしがあなたに教えたのは、俗世間のくだらないしきたりだけよ。聖女の霊的な力にはなんの関係もない。これまで魔の勢力から世界とこの国を守ってきた歴代の聖女たちは、たいていは作法を習う間もなく、辺境の農村や漁村、ときには娼館から見つけ出されるなり、すぐに務めに駆り出されていたのだから」
「だからこそです。わたしは恥をかかないですむ、マティルダさまのおかげで」
「……わたくし、余計なことをしたかもしれないわね」
目を伏せたマティルダさまの言葉の意味がわからず、わたしはただまぶただけを閉じたり開いたりしました。これもマナー違反。発言すべきでないときに口を開き、会話を切らしてはいけないときに黙ってしまった。
場の沈黙を取り払ってくれたのは、クローヴィス殿下です。
「務めを果たし終えた聖女たちは、たいていの場合、もとの生活に戻ることを望んだ。民衆や貴族たち、教会関係者も、ほとんどはとくに引き留めたりもしない。例外は、育ちがよくて、外見や立ち振る舞いから、いかにも〈聖女〉らしい聖女が現れたとき。彼女たちは本来の務めがすんでからも、ありがたがられ、祭り上げられ、王妃に迎えられたり、教会のシンボルにされたりした」
「わたし、もちろん帰っていいなら山に戻りますけど、べつに、王都も嫌いじゃないです。ハリボテ聖女をやれっていうなら、やりますよ?」
そんな無責任なこといったりして、あとから思えば、けっきょく、わたしは事態を把握できていなかったのです。
――数日後に執り行われた、王都の大聖堂での聖女就任式は、マティルダさまのレッスンのおかげで、とどこおりなくすませることができました。
いつもは各地に現れた魔物を退治したり封印したり、パワー切れの結界器に霊力を充填したりしてから後づけの就任になるので、今回は異例のパターンだそうです。
裾の長い純白のドレスを着て、サファイアの輝くプラチナのティアラをかぶり、太陽を模した黄金の円盤がついた杖を掲げ……なんだかほんとうに聖女みたいですね! いや、いちおうまじで聖女なんですけど。
いまだになんというか、実感はないです。目から聖女ビームが出たりしないし、指先から聖女スパークがビリビリするわけでもないし。
王陛下をはじめとする参列者のみなさまには、きちんとごあいさつすることができました。
……こんなの、事前にみっちりレッスンしてなきゃ無理ですよね。
羊の群れの中からいきなり連れてこられていたら「お、王さま……わたす、聖女に選ばれた、エスタっす。よ、よろすくおねがいしますだ」としかいえなかったでしょう。
ようやく儀式を終えて戻った控え室で、シスター・フランシアが出迎えてくれました。
「立派でしたよ、エスタ」
「ところで、聖女をいつも余裕を持って見つけられるように、女の子が生まれるたびに聖遺物で撫でてみればいいんじゃないですか?」
すっころんでのヘッドバットをかまさなくても、祭壇にタッチすれば光っていたのだろうから、わたしはかねて疑問だったことを訊ねてみました。シスター・フランシアは、軽く笑って答えてくれます。
「覚えていないでしょうけど、あなたも生まれてから最初にご両親につれられて参拝したとき、大祭で光らせた祭壇の上で洗礼を受けているのよ、エスタ。この国に生まれていれば、男女関係なく一度は聖遺物に触れている。聖女といわれるとおり、魔の勢力に対抗できる資質を持ちうる可能性があるのは女性に限られてはいるものの、いつ力が宿るのかは謎なのよ。これまでの最年少記録は三歳で、最高齢は七十五歳」
……知らなかった。そうだったんですか。
「それなら、毎年国中の女性が聖遺物に触れるようにする制度にすればいいんじゃないですか?」
「試したことはあるのだけどねえ。でも、年に一度は聖遺物の納められている大祭壇がある教会に参拝しろといったって、全員に守ってはもらえないものよ。持ち運べる、聖櫃とか聖玉とか聖杯とかを、村ひとつ、町ひとつにいたるまで巡回させてみたりもしたようだけど、けっこう途中で盗まれてしまって」
「……物騒ですね」
「聖遺物の価値は、金銀の容れものではなく、その中身なのだけれどもね。裏を返せば、聖骨や聖石、聖薬さえおいていってくれれば、飾りの金銀なんて持ち去ってくれてもいいのですが」
シスター・フランシアは、教会の虚飾や権威主義に思うところがあるようです。単なる地味修道女育成係りではなかったんですね。
「わたしには魔物がいつ出てくるのかってわからないですけど、聖女の仕事が終わったら、山に帰るのと、教会や王家のためにお務めをするの、どっちがいいんでしょうか?」
「あなたの望むままでいいのよ、エスタ。教会は、あなたのように礼儀作法がきちんとした、見目麗しい〈聖女〉を手放したがらないでしょうけどね」
「わたしを二本足の牧羊犬から人間にしてくれたのは、シスター・フランシアと、マティルダさまです」
おふたりの教えどちらが欠けていても、わたしは聖遺物を光らせるだけの珍獣でしかなかったでしょう。いまでもマナーはつけ焼き刃で、学力は六歳児程度だけど、無に比べれば格段の進歩です。
シスター・フランシアは穏やかに微笑んでから、ちょっと話題を変えました。
「ラインクルスト侯爵のご令嬢は、どんなかたなの?」
「とても親切で、美しいひとです」
「あなたのいうことのほうが、うわさ話よりも正しいのでしょうね」
「シスター・フランシアもあのうわさを聞いたことあるんですか……」
「お気をつけなさい、教会は事実よりうわさを選ぶでしょう」
マティルダさまがわたしをいびっている、なんて虚偽のうわさが、教会にとってどんな得になるやら、さっぱり見当がつかなかったんですけど……。
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就任式以降、聖女として、魔物が現れやすい場所とか、結界を維持している聖霊器が安置されている地点なんかのレクチャーを受ける機会が増えました。
これも、たいていは魔物が湧き出してから押っ取り刀で聖女を捜し、その足で手近なところから片づけていくのが通例なので、予習の余裕があるのは運がいいということです。
さっさと結界を強化しちゃえば、魔物が湧くの待つ必要ないんじゃない? ……と思ったんですけど、事情はちょっと違ったみたいです。
結界は、魔物の侵入を防いでいるのではなく、逃げ出すのを阻止するために張られている。
魔の台頭前に聖女が確保できたからと国中の結界を最強状態にしようものなら、魔物が具現化できずに邪気が散ってしまい、世界のどこで発生するかわからなくなってしまう。
あえて王国内に魔物として現れるように仕向けるため、結界に囲まれた地域に魔導器が埋めてある――なんとまあ、この国はずいぶん貧乏くじを進んで引いたもんですね。
魔物の脅威を一手に引き受けているからこそ、王国は大きな顔をしていられる、ということでもあるようですけど。
それにしても、顔を合わせるのが教会や騎士団の偉いひとばかりで、マティルダさまやシスター・フランシアにあまり会えないのは息が詰まります。
国防の責任者でもあるので、クローヴィス殿下とはご一緒できてるんですけど。
……司教総監さまだの、騎士団長さまだのが、
「クローヴィス殿下と聖女エスタ、まるで聖王イシュトヴァーンと聖王妃アルティナの再来のようですな」
「おふたりがいらっしゃれば、王国も安泰です」
とかなんとか、殿下とわたしをセットにしようとするのが耳障りなんですが。
「……もしかして、マティルダさまの悪いうわさを流してるのって、教会関係者なんじゃないですか?」
対策会議が終わって学院へ戻る馬車の中で、クローヴィス殿下にずばりご見解を質してみました。
殿下は軽くため息をついて、口をお開きになります。
「教会にマティルダの肩を持つつもりがないのはたしかだ。魔物が現れるのが明日になるのか十年後なのかはわからない。しかしこうして、聖女は予想外の早さで見つかった。聖女は手駒だと決めつけている教会としては、最大限に活用したいのが本音だろう。とはいえ、証拠はない」
「わたしは教会の操り人形になるつもりはありません」
マティルダさまを追い落として王妃になるつもりも。
「ぼくもマティルダと別れる気はないよ。とはいえ教会の組織力はあなどりがたい。五十年に一度か、五百年に一度かも決まっていない魔物の襲来を、それでも聖霊器と魔導器である程度コントロールして、後手になっても聖女さえ見つけられれば最小限の被害で食い止められるように仕組みを整えたんだ。魔の勢力を抑え込み人の世を守っている、教会の果たしてきた役割は何人にも否定できないよ。……教会にはほんとうに誠意しかなくって、聖女を通じて王家をも勢力に組み込みたいというわけじゃなく、単にきみの労に報いたいと思っているだけなのかもしれない」
「わたしは王妃になりたいなんて思ったこともないし、一番の望みは一日でも早く山に戻ることです」
実家に帰ったら、シスター・フランシアみたいに羊飼いの子供たちを集めて勉強を教えます。
「王家や教会の都合にきみがつきあう必要はないさ、エスタ。……だが、この国――いや、この世界は、聖女であるきみの助けを必要としている。すまないが、いましばらく我慢してほしい」
と、クローヴィス殿下が頭をお下げになるので、わたしはあわてて両手を振りました。
「我慢なんてとんでもない。マティルダさまやシスター・フランシア、クローヴィス殿下と知り合うことができて、ほんとうによかったと思ってます」
この時点でのわたしは、聖女のお務めについて具体的なことはまだなにも知らなかったわけですが。
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その日は、数週間ぶりに大聖堂やら宮廷やらへ出向かずにすんで、朝からずっと学院ですごしていました。
授業が終わって、ようやくマティルダさまの「私室」で息抜きができると、わたしは心弾ませていました。
厳しいマナー教室だったのに、いつの間にやら心安らぐ場所になっているのだから、おもしろいものですね。
……ところが、マティルダさまは、わたしが顔を出すなりこうおっしゃったのです。
「もう教えることはないわよ。どんな場面でだれを相手にしても、恥ずかしいことはないわ、エスタ」
「まだまだぜんぜんですよ! たったの四ヶ月そこらで、生まれてからずっと礼儀作法を身につけてきたマティルダさまたちと、同じになれるわけないじゃないですか」
「あなたは万民が認める聖女、ささいな作法に縛られる必要はない。それどころか、聖女は生まれながらの王侯貴族ではないという、その差こそが重要なのよ。もしあなたがどんな些事にいたるまでも完璧な、大貴族の令嬢と同様の通俗儀礼を示したら、聖女の神秘性はむしろ下がるでしょう」
三秒……いえ、七秒ほど、意味がわからずわたしは目を白黒させていたと思います。
でも、しだいにこれまでのマティルダさまの発言といまのお言葉がつながって、ぴったり一本の理論が導き出されました。
「――なるほど! さっすがマティルダさま! わたしはあくまで聖女、牧羊犬同様であって役目は魔物から人々を守ること。わたしは王妃候補なんかじゃないって明確にするためにも、これ以上マナーを身につける必要はないってことですね!」
「エスタ、ちょっと待って。あなたは……」
「だいじょうぶです、クローヴィス殿下も、マティルダさまと別れるつもりなんてないっておっしゃってました。次期王妃はマティルダさま以外ありえません。おまかせください、おふたりが治めるこの国を、わたしがかならず守り抜いて見せます!」
お世話になりました! といいおいて、わたしは卒業したマナー教室をあとにしました。
生まれながらの大貴族ご令嬢がたと完璧に並ぶ必要はない、というマティルダさまの指摘は、かなり気を楽にしてくれました。そのレベルであれば、マティルダさまたちのおかげで身につけることができてます(たぶん)。
わたしは下校すべく意気揚々と階段へ向かっていましたが、なぜかマティルダさまが追いかけてきました。
「クローヴィス殿下が必要としているのはあなたなの、エスタ」
「魔物が現れたら、殿下や騎士団のみなさんと退治に行くことにはなると思いますけど、べつに三日かそこらですむことですよ」
もうどこに湧いてくるのか、事前にわかっちゃってますからね。楽勝楽勝。
どうやって魔物をやっつけるのか知らないのに、わたしは自信満々なものでしたが、追いついてきたマティルダさまは階段の二段下に回り込んで通せんぼします。
「エスタ、わたくしは、あなたに王妃を代わってもらいたいって思っているのよ。そのために、ずっとうわさが流れるままにしたり、あなたとクローヴィス殿下がいっしょに行動するように仕向けてきた」
「……なぜマティルダさまがそんなことを?」
なんか急展開すぎて話がさっぱりわかりません。とりあえず、袖引っ張るのやめてもらえませんか?
お話は部屋に戻ってゆっくり聞きますから――と階段を昇りなおそうとしたところ、ここでわたしの大一番やらかし特性が発揮されてしまいました。
足首がこきゃっと……バランスを崩して……マティルダさまが反射的に受け止めてくれたけど、わたしは平均より軽いとはいえ、彼女も細腕の乙女です。
ふたりまとめて、宙を泳ぐ……のも一瞬未満で、すぐに落下がはじまりました。
体勢は完全にわたしが上で、マティルダさまが下。この高さから階下に転落したら……。
わたしの間抜けさでマティルダさまにケガをさせるなんて、そんなのぜったいにだめ!!
――ふいに、まぶしい光が視界いっぱいに広がりました。びっくりして顔を上げると、マティルダさまと目が合います。彼女もおどろいていたようですが、なんか、わたしとは意味合いが違うような……うまくいえないけど、そんなふうに感じました。
マティルダさまは空中で体勢を立て直し、ふわりと床に降り立ちます。わたしを軽々と、お姫さま抱っこしながら。
謎の光がぺかってから、マティルダさまが急にたくましくなられたような……いや見た目はなにも変わってないんですけど。
細いままの腕でわたしを子猫より簡単に抱えてたりして……もしや、これは。
「エスタ……いまのは、まさか……」
「たぶん、聖女の力ですね」
「げ……やっぱり?」
げ――って? いや、気のせいですね。マティルダさまが、そんなはしたないことおっしゃるわけないですし。
「なんか、わかった気がします。聖女の力っていうのは、たいせつなひとを守り、強くする加護を託すことなんですね」
「問題は、聖女とその守護騎士は、一対の関係で結ばれるってことなんだけど……」
「お詳しいですね! さっすがマティルダさま」
「あなたは、わたくしを守護騎士に選んでしまったということで……」
……と、いうことは。
「じゃあ、魔物退治をするには、マティルダさまにご一緒していただかないといけないってことに……あ"あ"っ!? すみません、マティルダさまを危険に巻き込むつもりなんて、なかったんですけど……」
わたしはなんということを?!
頭を抱えるわたしへ、深くため息をおつきになってから、マティルダさまは半笑いでこうおっしゃいました。
「取り消し、利かないでしょうから。やりましょうか、聖女と守護騎士」
「……はいっ!」
・・・・・
かくして、わたし聖女エスタと、守護騎士マティルダさまは魔物の出現にそなえて今日も訓練に明け暮れています。
ちなみにマティルダさまはちゃんとクローヴィス殿下とご成婚され、いまでは王太子妃にして王国騎士団長であられます。
いつでもかかってきなさい魔物たち! マティルダさまとわたしのコンビは無敵なんだからっ!!
マティルダ「どうしてこうなった……」