新たな時代の礎 ~二人の英雄~
今回の登場人物。
織田信秀…尾張国、清洲三奉行弾正忠織田家当主。文武両道の明君。
織田信定…前弾正忠織田家当主。その治世で政治、経済的な発展を弾正織田家にもたらした。
織田達勝…尾張守護代、清須織田家当主。守護の斯波家といさかいが絶えない。
斯波義統…現尾張守護、斯波家当主。だが幼年で担ぎ上げられたため力がない。
織田吉法師…信秀の嫡男。後の織田信長。
平手政秀…織田家筆頭家臣。政治、文化、教養に優れ吉法師の教育係に任命される。
今川氏豊…今川の尾張攻略の前線基地、那古野城城主。
松平清康…若干十九歳で三河を統一した、彗星の如く現れた稀代の英雄。
家督を継ぐ前の織田信長と帰蝶が夫婦となり結ばれた尾張と美濃の同盟。
織田信長の名が歴史に初めて登場した瞬間である。
これは先の話で斎藤道三が言っていたように、彼が美濃を獲ろうとしていた間に、東の国で織田は今川と交戦しており、その頃この地域は激動の時代を迎え始めていた。
その中心にいた人物が二人。
織田は尾張(現在の愛知県東部)、今川は駿河、遠江(現在の静岡県東部と愛知県西部)の二国を支配していた。
そしてそんな尾張と遠江――そのふたつに国境を面したひとつの国。
三河(現在の愛知県中部)――言わずと知れた徳川家康の出身地である。
次の物語の舞台はこの四国――戦国の英雄、織田信長と徳川家康のルーツを紹介する。
舞台は尾張――
正確な時期は不明だが、大永6年(1526年)頃、後に『尾張の虎』と呼ばれる男、織田信秀は家督を継ぎ、当主になったと言われている。この時、およそ十八歳前後だった。
父の織田信定がこの頃に隠居を決めたからである。
「父上、何故だ?」
父の隠居を知らされると、信秀は信定の城である勝幡城に馳せ参じ、抗議した。
「父上はこの弾正忠家を発展させた。津島を制圧して、これからという時なのに」
父、信定――信長にとって祖父に当たる彼は、政治的に家中の織田家の勢力を高めた人物である。
この頃の信長に受け継がれる家名の織田家は、尾張では決して高い地位にはいなかった。
応仁の乱以前、尾張の守護は足利幕府の守護大名の中で三本の指に入る名家、斯波家の血脈が台頭していた。
その下にいる守護代が、清洲城を本拠に尾張の8郡のうち、北部4郡を治める清洲織田家、もう半分を岩倉城を本拠とする岩倉織田家が統治するという状況である。
その中の清洲織田家には、その下に清洲三奉行と呼ばれる三つの織田家の分家がある。
因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家――
信定、信秀、信長の家はこの三奉行のひとつ、弾正忠家に属していた。信長の書状で自らを『弾正忠信長』と称しているものがあるのはここに由来する。
『弾正忠』とは幕府より与えられる官職名であるが、この時代になると有名無実化しており、武田の三弾正等自称でこれを名乗る者も多かったので、ただの異名のようなものと思えばいい。
つまり、先の斎藤道三の美濃を比較例にとれば、守護の斯波家は美濃で言う土岐家、守護代の清洲織田家は斎藤家と長井家に当たる。
信長の家とはその更に下にあり、国中に号令をかけられる立場ではなかったのである。
「父上は主家が斯波と争っている間に弾正忠家を発展させた。父上程の名君がどうして」
信定の代になった頃、守護の斯波家は以前より応仁の乱でお家騒動が続き、細川勝元、山名宗全の介入も許し、急速に衰退の一途を辿った。足利幕府と同じくお家騒動で次々守護が交代し、幼年の当主が相次いだのである。
それに乗じて清洲織田家は守護の斯波家と対立し、武力衝突で守護の座を奪おうとしていた。現守護の斯波義統は、前守護である父親が今川との戦で捕縛され捕虜になり、剃髪されて尾張に送り返されるという屈辱的な仕打ちを受けたことで求心力を失い失脚。僅か三歳でその跡目を継いだ人物である。
その間に信定は行動を起こす。
尾張の南部の地域に出兵し、商業の要所である港町、津島を獲得したのである。
勝幡城は津島の商館の程近くにあり、弾正忠織田家はこの津島からもたらされる経済力を基礎に力を付け始めたのだった。
「私が南部を切り取ったことで、南部を統治していた岩倉織田家は今後衰退するだろう――これから我が弾正忠家は主家に反旗を振りかざす立場だ。それは私よりお前に適している。私は政治的な判断は出来るが、戦の才はお前に遠く及ばない……この乱世、弾正忠家が尾張を獲るためには、信秀、お前でなくてはいかんのだ」
信定は今後当家が戦に勝たなければいけないと踏んで、隠居を決意したのだった。
「そうか――では力を蓄えた後、親父のその期待に応えようか」
家督を継いでしばらく後の天文元年(1532年)、信秀は大きな動きに出る。
信秀の主君格の清洲織田家に向け、軍を発進したのである。
この出兵の理由は、直前に清須織田家の当主、織田達勝が、まだ幼年の守護、斯波義統に代わり上洛し将軍と謁見したのだが、上洛して天下に号令をかける気概も見せずのこのこ帰った消極的姿勢を糾弾してのものと言われている。
当然お家騒動に尾張は揺れた。
だが、この戦の終結は意外に早かった。
信秀が早々に達勝側に講和を申し込んだからである。
信定が地盤を固め、経済力を基盤に強力になった弾正忠家。
その力をまず国内に喧伝することが信秀の目的であった。
その顛末の後、父、織田信定が信秀を尋ねた。
「無茶をしたものだ。だが主家と戦い弾正の武に賛同する者が味方に集まり、逆に警戒する人間も炙り出すことが出来たのは意味があるが――お前にはまだ子がない。あまり無茶をするなよ」
「もし私に嫡男が生まれましたら、教育は平手政秀に任せたいと思っています」
「うむ、平手か――彼は忠臣であり、織田随一の文化人じゃ。申し分なかろう。しかし気をつけろ。お前はどんな理由があれ主家に刃を向けた。お前が守護についてもお前の号令で織田が一枚岩になるにはまだ時間がかかるじゃろう」
「それは長い時間をかけてやるしかない――だがここで俺はもう一つ動いてみようと思う。これまでは身内同士だからこそ疑念も生まれたが――ここらで清洲織田家――尾張にとっても益のあることをしてみようと思うんだ」
「成程、しかし何をする?」
「那古野城を奪う」
那古野城は北条早雲と協力して領土を広げていた、今川義元の父、今川氏親の代で清洲織田家が奪われた拠点である。いわば今川の尾張侵攻の前線基地であり、この城がある限り尾張は常に今川の侵攻に頭を痛めねばならなかった。
天文元年(1532年)――この頃の今川は、応仁の乱の頃に公家を多く保護したことと、今川家自身が清和源氏の出自を自称する由緒ある血統であることと相まって、公家文化が奨励されていた。
那古野城城主今川氏豊もそんな公家文化に触れた今川一族の一人である。
敵国の人間だというのに呑気なもので、自分の城主宰の歌合せ会に信秀を度々招待していた。
元々今川は家格を重んじる風潮がある。豊臣秀吉はそのために今川では出世できず、信長のいる尾張に出奔したという例もある。信秀の出自の弾正忠家も同じく、まだ現時点では今川には大した家柄だと認識されていなかったのである。
「やあ信秀殿、今日は京の冷泉殿が歌の講師に来ているからね」
今川氏豊は場内の庭で信秀を出迎えた。出自は分からないが今川義元の弟とも言われ、まだあどけない顔の少年である。
「隅で大人しくしていますよ。私は歌はちっとも上達しませんので」
信秀も尾張にいながらそのような文化的な交流を京の公家などと共に行っている。蹴鞠や連歌の会などに参加していた記録も多く、戦や政治だけでなく学識も広い傑物である点は、さすが信長の父と言える。
信秀は京の公家とも蹴鞠などで交流しており、信秀の作ったパイプが後に信長が上洛する際に足利義昭を将軍として奉戴する時、京の人間が信長をすぐに受け入れたことに貢献したと言われている。
「そんな、信秀殿の歌は荒々しいが味があって趣があるのに」
「はは、そんな……うっ!」
談笑中に胸を押さえうずくまる信秀。
「ど、どうしたんだい?」
「む、胸が急に……」
「た、大変だ! 医者をここに……」
「だ、大丈夫、少し休ませてもらえれば……」
「城内に床の用意を!」
――侍女に連れられ、信秀は那古野城の一室に連れられ、床についた。
歌合せの会が落ち着くと、城主氏豊は信秀の加減を見に来た。
「か、かたじけない――私のせいで折角の歌合せに水を差してしまって」
「そんな、気にしなくていいんだよ」
「氏豊殿……どうやら私はここまでのようです……」
「そ、そんな!」
「いえ、分かるのです――私は先日尾張で主家と戦い恐れられています……誰かに毒を盛られたのでしょう……」
「信秀殿! 気を確かに!」
「あぁ――しかし氏豊殿。私には子がない――このまま私が死ねば我が弾正家の家臣達は混乱いたしましょう……城の外に平手政秀という迎えがいるはずです……その者達をここへ通していただけませんか……」
「う、うん、わかったよ!」
氏豊は使者に城下の信秀の家臣を迎えに行くように伝えた。
城下に重臣の平手政秀を見つけると、使者は一度那古野城へと戻り、氏豊にそれを伝えた。
信秀は氏豊の家来に肩を貸され、城門の前まで来る。もう夜も更けていた。
「信秀殿、ご家来が来たからもう大丈夫だ」
氏豊は開門を命じ、那古野城の正門が開く。
だがその瞬間、信秀は場外に脱兎のごとく駆け出し、目の前に平手政秀の乗っていた馬と並行して走ってくる馬車の後ろの荷台に飛び乗り、すぐに離脱する。
そして政秀と信秀の向かう方向には、既に武装した織田の兵達がずらりと城門の前を埋め尽くしていたのである。
「城門が開いたぞ! 一気になだれ込め!」
信秀の号令で織田の兵は一気呵成に城門に突撃する。
「な、何てことだ……僕は信秀に騙されていたの?」
歌合せをし、武装の準備をしていない那古野城の守りはザル同然――成す術がなかった。
「ま、まさか当主が内部に潜入して囮になるなんてありえない!」
そう、本来ならありえない作戦である。だからこそ氏豊も信じてしまった。
だが、これを部下がやっても茶番であろう。当主の信秀がやるからこそ、まさか当主が囮となって門を開けるとは思わず、猿芝居も信憑性を増す。
氏豊は信じられないと嘆いたが、これが信秀の特徴である。
基本文武両道の人物であるが、行動力がずば抜けて高く、自身が率先して動き家臣を鼓舞する。
そのカリスマ性の高さがこの那古野城占領を経て、信秀の名の影響力を家中で更に高めたのである。
そして、その血を継ぐ者は、すぐに現れる……
翌々年の天文3年(1534年)――
「おぉ、生まれたか!」
「信秀様、おめでとうございます! 男の子です!」
――正室の土田御前に嫡男が誕生。
織田吉法師――後の織田信長の誕生である。
信長は二歳で那古野城の城主となり、信秀は平手政秀を教育係に任命する。
こうして信秀の前半生は順調な船出を迎えるが。
この頃東の隣国三河に、戦国でも稀有の若き英雄が誕生していたのである。
元々三河は豪族の集合体であり、統一形態がバラバラであったが。
この三河を弱小領主が大永3年(1523年)僅か十三歳で家督を相続し、たった六年で一国を統一した。
それを成し遂げた人物の名は、松平清康。
後の天下人、徳川家康の祖父である。
その途上、三河国岡崎城を本拠に定め、戦によって三河全土を統一した、まさに清康は彗星の如く現れた三河の英雄であった。
当然まだ歳若い英雄は、享禄2年(1529年)、三河統一後に他国への侵攻を目論む。
その標的となったのは、まだ信秀が家督を継いで間もない、守護と織田一族の結束の取れていない尾張であった。
それから数年、清康の尾張侵攻は断続的に続き、尾張の東部は次第に三河領に侵食され始めていく。
そして天文4年(1535年)……
「殿! 一大事でございます!」
信秀のいる那古野城に次々と伝令が到着する。
「三河領主松平清康、尾張領に侵攻! 兵力は約一万!」
「申し上げます! 美濃から尾張へ向けて出兵する兵が!」
「松平清康、岩崎城、品野城を落とし、まっすぐ守山城を目指しております!」
松平清康は織田の北側の国境を面する美濃(まだこの頃は土岐頼芸が守護の時代)に織田の挟撃策を提案し、二方面作戦での対応を余儀なくされたのである。
守山城は信秀の弟、信光の守る城――日の出の勢いの戦上手、清康と事を構えたくはなかったが、一門を見捨てるわけにはいかず、信秀は守山城へと出兵する。
ここで兵を減らせば国内の反信秀派が兵を挙げ、背後を突く事も考えられ、信秀は最大のピンチを迎えることとなった。
信秀が守山城へ着いた頃には、もう城壁がボロボロに崩れ、守山城は落城寸前になっていた。信秀は弟を守るために一万の兵に突撃し、その日の攻め手を何とか食い止めた。
だが。
次の日、松平軍は蜂の巣を突いたように離散。
信秀は戦上手の清康の何かの策を警戒し、物見を放つ。
すると、返ってきた報は信じられないものであった。
「何っ! 松平清康が暗殺されただと!」
「はっ! 陣立ての際に家臣に背中から襲われたとのこと!」
彗星の如く現れた稀代の英雄、松平清康は、天下にその名を轟かせる才覚を持ちながら、部下の暗殺という形でその短い生涯に幕を閉じた。
享年二十五歳――
実行犯はすぐに殺されたため、この事件が起きた原因や黒幕の有無などははっきりしていない。清康に恨みを持つ者がいた、織田と通じている者がいたなど様々な説がある。
だが結果として、三河は彼の死で唐突な混乱が訪れる。
この事件は『守山崩れ』と呼ばれ、松平家は強力な指導者を失い、まだ若かった清康の嫡男松平広忠も当然若年のため、一介の弱小大名へと一瞬で転落し、その後の家康の人生に影を落とすことになる。
「……」
信秀は戦場の三河兵を見る。
当然信秀にとっては予想外の出来事。清康が自分を誘い出すために巻いた流言の可能性もある。しかし三河兵のこの慌て振り……
「殿! 守山城の負傷者の保護に向かいましょう!」
平手政秀はそう進言する。
「いや、追撃だ! 最低限の救護をここに残し、松平に奪われた領地を取り戻し、三河領にこのまま侵攻する!」
信秀の判断は果断即決であった。
元々土着の豪族を清康のリーダーシップにより固めていた三河は、清康の死により領地が空白地帯と化した。これから三河の豪族達も空白地帯を奪うために争う。
そこに参戦して、むしれるだけ領地をむしる……
信秀はそれを即決した。
当然清康の死はすぐに三河の隣国、駿河、遠江の支配者、今川義元にも伝わる。
ここに三河は内部の小領主の争いに織田、今川も参戦しての乱戦状態――無法地帯と化したのである。
徳川家康の幼少期の苦難が、ここに始まる……
これからしばらく、東海四国を中心に信長と家康の生まれた頃のこのあたりの状況をマルチ視点でやっていこうかと思います。
次回はまた別視点になります。
複雑というのもあるのか、意外と信長の桶狭間前と、尾張統一まで。そして家康の人質になった経緯ってこれだけメジャーな人物の割に認知度が低い感じですよね。
そして信長、家康の親とかも。信秀なんて「信長に灰を投げられた人」認識の人も結構いるのかな。
まあこの作品はそういう隙間を突きながら細々やっていきます…改変しない王道を往きつつ隙間産業ということで…
信秀の那古野城攻めの猿芝居は、実際にこうして奪ったという記録があるんですよ。現代で見ると漫画みたいで「んなアホな」って感じですけど。
しかし松平清康カッコいいですね。この人が長生きしていたら、歴史はどのように変わっていたんでしょうか。