闇に堕ちた商人 ~油売りの国盗り物語~
今回の登場人物。
松波庄五郎…美濃の油商人。平凡で妻想いの優しい商人だったが…
加代…庄五郎の妻。かわいい。
奈良屋又兵衛…加代の父で庄五郎に油問屋、奈良屋を譲る。
長井長弘…美濃小守護代。美濃で有数の豪族で国を動かす立場。
稲葉一鉄…庄五郎の目付け役。後の『美濃三人衆』筆頭。
日運…庄五郎の仏門時代の友人で美濃の寺の和尚。庄五郎を長弘に推薦する。
話の舞台は変わる。
次の主人公が住むのは美濃国(現在の岐阜県)。
美濃は四方を朝倉、武田、織田、今川、長尾といった強敵に囲まれた戦乱の中心地である。
時は応仁の乱から約50年の時が流れた頃。
この美濃の市には連日、多くの観客を集める一人の男がいた。
「さあお立合いだ! ここに取り出しますは何の変哲もない一文銭。この穴に見事漏斗も使わず油を通して見せましょう。俺がこぼした日には、お客さんついてるねぇ。この甕の中の油、一滴残らずただで皆さんに振舞いましょう!」
一文とは寛永通宝銭のこと。時代によって大きさが変わるが、『文』という単位は現代の単位では約2.4センチメートル。この直径は現代の5円硬貨と同等である。5円玉の穴に油を注ぎ入れるのだから、まさに神業と言える。
だがその大風呂敷を掲げた男は満場の中で見事にそれをやってのける。
「ちっ、今日も失敗せずに注いじまいやがった。ついそれを見たくて油を買っちまう」
「へへへ、いつも毎度あり!」
甕の中に入れていた今日の分の油を日没を待たずに空にした男は、銭でいっぱいになった巾着袋を懐に入れて、得意げな顔で家路につく。
「お、そうだ」
「あなた、お帰りなさい」
男が家に着くと、まだうら若い妻が満面の笑みで迎える。
「今日の売り上げは?」
「勿論完売だよ、ほら」
そう言って男は懐から銭でパンパンの巾着袋を渡した。
「それから、これも」
それから遅れて、男は綺麗に包装された小包を取り出す。
「すごいだろう、今日で今一番の干菓子だそうだぞ。たまにはお前に何か買ってこようと思ってな」
「ありがとう! あなた!」
この絵に描いたような幸せな男の名は、松波庄五郎。
元は僧侶であり、幼少時に寺で修業をしていたが、油問屋、奈良屋又兵衛の娘、加代(奈良屋又兵衛は実在の人物。彼女も実在の人物だが史実に名前は伝わっていないので名前は作者の創作)を娶り、油通しの秘技で成功した油商人である。
「婿殿、婿殿がいればこの奈良屋は安泰! いずれ堺の商人とも肩を並べような!」
加代の後ろにいる義父の奈良屋又兵衛は庄五郎をいたく気に入っていた。
順調な商売と、仲睦まじい夫婦。
庄五郎も今の自分に何も疑問を持っていなかった。
「夜分にすまぬ」
問屋の外から男の声がする。庄五郎は加代の作る夕餉を待ち侘びていたが、店に出て戸を開けた。
そこには上等の身なりをした男が二人、精悍な顔つきで立っていた。
「やや、これは土岐家の……」
一緒に店に出ていた又兵衛がぺこぺこと頭を下げる。
美濃には三つの名家がある。
一つは美濃の守護代を歴任する斎藤家、その分家である長井家。
そして美濃の頂点に立つ守護職の土岐家である。
「油を売っていただけるか?」
「はいそれはもう喜んで」
「む、そなた、噂の奈良屋の婿殿か」
土岐家の男は庄五郎を見た。
「丁度いい。よければ噂に名高い油通しの秘技、見せていただけるだろうか」
「勿論いいですよ」
そう言うと庄五郎は商売道具の一文銭を取り出し、その穴に見事油を通して見せた。
「うむむ、なんと精密な狙いだ。稀代の弓の名人でもこの穴は通せまい」
「へへへ、毎度あり」
庄五郎は土岐家の使いに油を手渡した。
「しかし惜しいな」
「は?」
「このような穴を精密に狙える貴殿なら、戦場で敵兵を弓で射貫くことなど容易かろう。もし貴殿が武門の生まれであれば、その才覚を発揮できていたのかもしれぬな」
「私が、武士に?」
「いや、そなたはこの奈良屋を堺の豪商にも負けぬ問屋にする才覚があるな」
そう言って土岐家の使いは店を去った。
「さああなた、遅くなったけど夕餉の支度が出来てるわ」
加代に袖を引かれて庄五郎は夕餉の席に着く。
「……」
だが庄五郎の心は先程の言葉につかまれかけていた。
俺が武士に……
確かに、今までも思ったことがある。
俺の力は一介の油屋で終わるものではないと。
だが……
翌日、いつものように行商を終えた庄五郎は、日も暮れぬうちに京の売り分をさばき、家路に着こうとしていた。
「よお庄五郎!」
市の入口あたりで声をかけてきたのは、顔馴染みの商人仲間達数人である。
「今度堺の町に行商に行く会合があるんだ。たまには若いかみさんとばかりいないでお前も来いよ」
誘われた庄五郎は久々に仲間達との寄合に参加し、酒を飲み、儲け話に花を咲かせた。
そして千鳥足を踏みながらまた家路に向かう。既に周りはとっぷり日も暮れており、今日は新月で真っ暗である。
「おいお前」
夜道に声をかけられた庄五郎は振り向く。
そこには甲冑と刀を持った男が五人で庄五郎を取り囲んでいたのである。
「噂の油屋だな? 随分と羽振りがいいそうじゃねぇか」
「我等武士が日夜そなたらを守護しているからこその金であろう? 貴様は上納金を収めているのか?」
応仁の乱以降、この国はどこの国も総じて貧しい。商人は商売をするためにこうして上納金――いわゆる賄賂を払うことが常態化していたのだった。
周りを囲む武士の息は酒臭い。
「お、収めて御座います……」
「本当かぁ?」
そう言って、一人が庄五郎の着物の懐に手を入れ、今日の売り上げの入った満杯の巾着袋を掠め取った。
「な、何を?」
返してもらおうと手を伸ばすと。
庄五郎は他の男達に取り押さえられ、成す術もなく踏みつぶされた。
「う、う……私は」
「奈良屋、貴様は儲け過ぎだ。貴様が今後も商いをしたいのであれば、武士に黙って従っておればいいのだ」
そう言って高笑いをする武士達。
散々に打ち据えられ、抵抗もできないどころか意識も朦朧とする庄五郎の眼には。
暗闇の陰から姿を現した見覚えのある顔をしっかりと捉えていた。
「へへへ、旦那。見ての通り奈良屋は儲けてますでしょう? 私達ももう上納できる銭はいっぱいいっぱいでさぁ。ですが奈良屋なら……」
「ふん、同業の僻みで我らに手を煩わせるとは」
「それはお互い様でしょう、へへへ……」
先程まで自分と会合に参加していた商人達が、自分への僻みと上納金逃れに自分を売ったのだと悟った。
「……」
今まで善良に生きてきた庄五郎の心にあった、どす黒い炎が目覚めた。
俺程の才覚があっても、武が無ければこの程度の連中にも銭を掠め取られよう……
俺の運命は一介の商人だけではこの乱世に握られているも同然。
ならばこの運命を、俺は変えてやる……
庄五郎は散々打ち据えられぼろぼろの姿のまま、家に帰ることもせず、空になった甕もそこらに打ち捨てて、美濃の市外にある旧友の家へと走った。
「庄五郎じゃないか。なんという顔をしているのだ。とにかく手当を」
「手当はいいのだ。今のこの新鮮な痛みが、俺の決意を揺るぎないものにしている」
「――貴様、本当にあの庄五郎か?」
友人の名は日運。庄五郎が仏門にいた頃の友人で、今は美濃の寺の和尚である。
「それで何の用だ?」
「武士に仕官をしたいのだ。顔の効くお前に渡りをつけてもらえないか」
「な、武士だと? 商人のお前が?」
「商人でも僧でも駄目なのだ。俺の才は武士になれと告げている」
「庄五郎、今がどんな時代で、美濃がどんな国か分かっているのか? 乱世の中、美濃は四方が敵だらけで戦が絶えない。お前には可愛い女房もいて商売も繁盛しているのに、死にに行くような危険を冒す必要がどこにある?」
「だからこそだ、俺の掴んだ小さな財など、戦が起こればすぐに没収されてしまう。なら俺はその奪う側に回りたいのだ」
「……」
長い付き合いであるが、善良な庄五郎がここまで強い口調で話すのはよほど腹に据えるものがあるのだと日運は悟った。
友人として止めはしたが、庄五郎の決意固く日運は折れた。
「分かった。明日長井長弘殿に謁見させてやる」
「長井――守護の土岐家の流れをくむ名家ではないか! 是非頼む」
庄五郎の目が暗闇でも光る蝮のそれのように、不気味に輝いた。
美濃小守護代長井長弘の屋敷に日運と共に向かった庄五郎は、日運の顔もあり長弘の直接の謁見を許可された。
「仕官をしたい者がいるそうだな、日運」
「松波庄五郎と申します」
「ふむ。商人だと聞いているが、なかなか賢そうな面構えをしているな」
「恐れ入ります」
「本来は商人の酔狂など止めるのだが、美濃も人材はいくらでも欲しい。だが武士に仕官したいということだが、武士は戦が仕事。お前に才能があるかは、今夜の夜回りで決めよう」
「夜回り?」
「最近美濃にも没落士族や商人が不逞や盗みを働くそうなのでな。夜回りを強化しておる。今夜お前もそれに参加しろ。その働きで審査してやる」
「は! ありがとうございます」
「初陣のようなものだ。お目付をつけてやろう」
そう言って長弘は一人家臣を呼び、庄五郎の前に出した。
「稲葉一鉄と申す。分からないことは拙者に聞くように」
庄五郎よりも年若く、酷く頑固で気難しそうな雰囲気のある男であった。
「せいぜい励めよ。それでは私は次の政務があるので……」
長弘はそう言って、一介の商人の戯言を軽く流すようにその席を立った。
「やったな庄五郎」
日運は喜んだが、この時の庄五郎はこの程度は当然だと思っていた。
庄五郎の眼は、自分をまだ相手とも見ていない長井長弘の向かう先を見ていた。
その夜、庄五郎は一鉄と共に美濃の市の夜回り組に参加していた。
「ふふふ」
「随分とご機嫌ですな」
一鉄は、貰ったばかりの太刀や槍の間合いを入念に確認しながら薄笑みを浮かべる庄五郎を訝しく思った。
「稲葉殿、私はやるからには名を上げたいのです」
「しかしまるで抜身の刀のような闘気――本当にあなたは商人だったのですか?」
「ええ、ただの油売りでした。ですがその過去も捨てる所存です」
すると町に拍子木の音が響く。近くで何かが起こった知らせである。
「松波ど……」
稲葉一鉄が庄五郎に声をかける前に、庄五郎は音の方向を瞬時に判断し、餓狼のようにそちらに駆け出していた。
現場に一番入りする庄五郎。遅れて一鉄が到着する。
現場にいたのは気弱そうな商人と五人の屈強な男。
その甲冑――今日は篝火もある中、見紛うはずもない。
昨日庄五郎を襲った士族崩れである。
「何だ? 美濃の腑抜け夜回り組か」
「貴様ら、大人しく縛につけ」
一鉄の咆哮。
「稲葉殿――功を挙げたければそんな忠告など無意味だ」
庄五郎は言った。
「静かに忍び寄り、確実に葬るのが上策――そう、毒を持つ蝮の如く」
そう言うと庄五郎はすかさず槍を握り、先頭の一人の兜の右横を抉るように突いた。
その衝撃に尻餅をついた男の間合いを詰め、次の一突きで確実に男のふくらはぎを突いた。
「ぎゃあっ!」
「ふふ、これでもう逃げられまい」
庄五郎の槍が鮮血に濡れていく。
「こ、こいつやべぇ」
あまりの速攻と庄五郎の鬼気迫る殺気に気圧された他の四人は一人を見捨てて背を向け逃げ出す。
庄五郎はそれを見て背にくくってあった弓を取り、ろくに狙いを定めぬまま一気に引いて矢を放った。
その矢は油を一文銭の穴に通すが如く、走っている人間の一人の太ももを正確に射抜いた。
射抜かれた者は倒れて悲鳴を上げる。
「俺に背を向ければ、次はまた誰かが矢の餌食」
「う……」
残る男達も逃走を諦め、大人しく縛についたのだった。
縛られた男達を塵芥でも見るように一瞥する庄五郎。
「お、お前は昨日の」
まだ昨日やられた傷が顔に残る庄五郎を見て、男達は怯えた。報復を恐れたのである。
だが。
「稲葉殿。こいつらを長井殿の下へ連れて行っていただけますか? 俺は次の賊に備えます」
「いいのか? こいつらを捕らえたのが庄五郎殿と知れば長弘殿もお喜びになるだろうに」
「そんな小物を捕らえても当然のこと。油屋の利益を捨てるだけの功には足りませぬので」
そしてまた拍子木の音がすると、庄五郎は一人夜の街に消えてしまうのであった。
「何と……」
一鉄は初めてとは思えぬ見事な庄五郎の機転に驚かされた。
その報告を聞いた長井長弘は大いに庄五郎を気に入り、明け方には皆の前で大いに褒め称えた。
「松波庄五郎、見事だ! これよりこの長井家で存分にその際を生かすがよい」
「ははっ!」
「日運に聞いたが奥方がいるようだな。すぐに迎えに行くといい」
「奥方……」
庄五郎は明け方に城下の奈良屋の前にこっそりと向かう。
そこには冷える明け方に自分がかつて誕生日祝いに買ってあげた羽織を着て、朝露の落ちるなら、加代が奈良屋の門の前に座って、庄五郎の帰りを待っているのだった。
奈良屋の門が開いて、義父の奈良屋又兵衛が顔を出す。
「加代、もう一晩中そうしていては体に毒だ。そろそろお入り」
「庄五郎さん――もう何日も帰ってこないのよ。あの人に何かあったら、私……」
「何、婿殿はそう簡単に死ぬような人ではないさ。儲け話を聞いてその算段に動いておるのじゃろう」
「ううん、お父さん。もう庄五郎さんはここには帰ってこないわ」
「加代……」
「あの人はとても優しいけれど――心の奥に野心があることは分かっていたの。私は妻だから。そのために私達が用済みになったんだと思う」
「そんな……」
「でも、庄五郎さん……」
店の前で泣き崩れる加代。
「……」
その様子を見ていた庄五郎は踵を返す。
「な、何をしているのです」
踵を返した先には、稲葉一鉄が待っていた。
「奥方様を迎え入れなければ」
「必要ない。これから俺が成り上がるためには、あんな商人の娘が正室では邪魔だ。本人もそれを弁えているようだ」
「な……」
「しかし不思議なものだな。あれだけ油屋の技を磨いたというのに、今ではその生活にこんなにも未練がないとは」
「……」
稲葉一鉄は戦慄した。
この男――今美濃にいる男とは何もかもが違う。
とんでもない怪物を我々は味方に引き入れてしまった!
その認識に、自分の首筋が寒くなる恐怖を覚えたのである。
松波庄五郎は長井長弘に仕官すると、長井家の家臣西村家の名を継ぎ、西村勘九郎正利と名乗る。
後に何度も名を変える庄五郎であるが、これが戦国一の梟雄が名乗る最初の名前であった。
前回の北条早雲もそうですが、基本名前が変わる人が多いんで戦国は面倒ですね。特に今回の主人公は確認しただけでも名前を八度も変えています。
物語的には名前は少ない方が分かりやすいと思いますので、名前の変更は必要であればしますが、できる限りしないで行う方針です。
都合で名前を変える時期を変えることもあります。前回の北条早雲も早雲と名乗ったのは小田原城攻略前ですが、変えなくても物語は変わらないのでいいや(新九郎の方がカッコいいし…)と思い、混乱を招かないように敢えてしました。
あとやはり物語なので、基本史実通りに書きますがややエピソードを物語風に描くこともあります。そこのところは歴史はいろいろな解釈があるということで目をつぶってもらえば幸いです。